中国的なるものを考える(電子版第76回・通算第118回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第78号 2017.11.05.
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

封建制雑考 その六 日中分岐論
 前回よりまた四ヶ月がすぎてしまった。夏休み中に、野呂栄太郎とアジア的生産様式の関わりを何とか論文にしようと粘っているうちに、あっという間に秋になってしまった。以前のように、幾つかの論文やエッセーを同時に書くということができなくなってきており、その点、諒解していただければと思う。
 論文の方は何とか書き上げ、ホッとしている。自分としては、野呂の新しい顔、野呂『日本資本主義発達史』が持つ新しい側面を見つけたつもりになっている。近いうちに、それもこのエッセーの話題にしたいと思っている。
 さて、今回は日中分岐論である。日中分岐論というのは、読んで字のごとく、日本と中国の歴史が、古(いにしえ)においては律令制や均田制(班田制)といったものを共通にしながら、その後なぜ異なった歴史を歩んできたのか、との問題に関する議論である。
 このような問題意識は、日本の中国学が始まって以来ずっと存在していたのではないかと考えられる。だが、筆者の関心は現在でもほぼマルクス主義歴史学に偏っているので、やはり対象は、日本のマルクス史学が始まった1930年代以降にならざるをえない。とくに、ここでは、石母田正の日中分岐論に拘ってみたいと考える。なぜなら、前々回、前回と紹介してきた、1964年北京シンポジウムに提出された河音能平等の封建制理論は、アジア的封建制論として提出されたこと、そしてそれは石母田流の日中分岐論に対する批判を含んでいたからである。
 石母田は日中の歴史コースの分岐について何度も発言している。最初は、石母田を世に知らしめた名著『中世的世界の形成』(伊藤書店 1946)においてである。同書第三章第二節「武士団の成立」において、石母田は、中国の宗族と日本の氏族には多くの類似点があったことを指摘し、そのような共通点を持つ社会であったにもかかわらず、中国においては日本のような領主制や武士団のような中世的なものが何故成立しなかったのかと問う。(日本古代・中世移行期における封建制形成に関するマルクス史家の議論については、本エッセーの前々回・前回を参照していただければ幸いである)
 本稿は当初、筆者が青年時代より親しんでいる1957年東大出版会発行『中世的世界の形成』に依り書いていたが、図書館より1946年伊藤書店『中世的世界の形成』を借り点検したところ、日中分岐論に関して、少しく、だが無視できない、変更が加えられていることがわかり、慌てて伊藤書店版に依拠して書き改めざるをえず、このこともまた原稿の完成を遅らせる原因となっている。テキストとしては以下のようになる。①1946年伊藤書店版 pp.149-159、 ②1957年東京大学出版会版 pp.146-156、③1988年岩波書店発行『石母田正著作集第五巻 中世的世界の形成』pp.149 -159、である。なお、中国という呼称については、①は支那、②は中国、③はシナである。本稿では②で書き始めたため、ひとまず中国で統一している。
 上記の設問について、石母田が注目したのは領主の族 的結合であった。族的団結を鎌倉武士の特質とする見解に対し、石母田は、むしろ鎌倉武士団が族的結合を揚棄しつつあったことに中世への胎動を認めている。そこから、中国農村社会の族的結合(同族組織)のあり方と鎌倉武士のそれを比較し、中国史(具体的には唐宋期)における中世への転換の検証を試みている。
 
 まずは族的結合と領主制の関わりについて:
1) 「中国の同族村落内に於いても階級の分化は進行していたのであって、その内部には地主と小作人、富農と貧農との対立が明らかに認められるのであるが、かかる地主または領主層が同族村落内において如何なる地位と機能を持っていたかが問題の中心点である」。
2) 歴史的な族的結合のあり方において、中国と日本には根本的な相違があり、そのような「結合形態の相違そのものは中国の土豪と我国のそれとの歴史的発展の方向を規定した重要な基礎となっている」。「中国に於いては家長及び長老が家族全体の支配者であって、他の成員は…個人としての独立性が極めて低かったのに対して、我国の族的結合を構成する家々の家長は族的結合の主体として高度の独立性をもったという相違が、前者の停滞性と後者の活動性を特質づける基礎をなすものであった」。
3) 中国の歴史を通じて宗族関係は絶対的であったので、階級の分化が生じたとしても、領主層(土豪層)は「村落の小作人との伝統的な同族関係を離れることはできず、領主対小作人ではなく、族長対族人または同族の関係がそれを曖昧なものにしてしまうのである」。宗族内の扶助や義倉による救済に見られるように、「領主と作人階級との対立は両者が同一共同体の成員であるという関係の前にはその意義を喪ってしまう傾向が明らかにみられる」。
4) 土地所有関係から見るならば、族人の間の関係は土地所有者と農奴に分かれていたと思われる。「中世の資料に於いて富農層と貧農層の差別が明白にみられることは土地所有関係の基礎として考えねばならないし、小作関係も成立していたのであるから、現実は複雑ではあっても基本的には領主制が成立していたのであり、したがって封建的生産関係が成立していたことに疑いないのであるが、問題はかかる生産関係に対応すべき政治形態が宗族的関係のために制約されて成立することができなかったことにある」。
5) 「問題は土地所有者、小作人、地代という抽象的な関係にあるのではなく、土地所有者が直接具体的に小作と結ぶ社会関係にあるが、この関係は多様な歴史的事情によって制約されるのであるから、日中の中世を比較する場合にはこの多様な歴史的事情の分析が中心とならねばならない。しかし少なくとも共同体的社会関係がその主要な事情の一つに数えられるべきことは疑いない」。
6) 我国(日本)の「中世武士は多く開発領主の余裔であるといわれ、…開発は村落内の優勢な家族による入会地の分割であり、それによって村落内で鬱積せる階級分化が明瞭に飛躍的に発現するのであるから、領主が村落民としての立場から独立し、村落を支配する立場にのぼり得るには入会地の分割私有によるのがもっとも典型的である。それは共同体諸関係の破壊である点で封建制成立のための基礎的な歴史的条件をなすが、中国における入会地の状態については審らかにしないが、少なくとも奈良時代平安時代の我国の如き開発による広汎な入会地分割が進行せず、したがって開発領主及び田堵名主的階級の成立による村落社会の再編成が行われなかったことは事実と認めなければならない」。
7) 「村落の共同所有地たる義荘祭田が富裕層によって掌握され、その収益が階級的目的に使用されるという事実は中国的な特質を示すと思う。しかし開発領主が広汎に成立してくるためには村落自体の内部における階級分化を前提として、その結果としてのみ現れるのであるから、問題はやはり村落秩序の特殊性による階級分化の具体的な形態を研究することにあると思う」。
 
 石母田は「以上中国との簡単な比較のみによっても、我国の武士的領主の機能と成立を、同族や村落の共同的集団との結合に結びつける如き見解が如何に誤ったものであるかが知られると思う」(1946年版p.154)と述べているので、日本においては同族や村落の共同的集団との結合を破壊して領主制が成立し、中国においてはそれらを破壊しえなかった(それほど共同的集団の結合が強かった)ので、地方に威を張る土豪層は存在したとしても、領主制の成立に結果しなかったと解しているのだと考えられる。
 
 次に武士団発生についてである。
1) 中国社会において族的結合といえば宗族が挙げられ、それが武闘と関わりを持つとすれば、やはり宗族相互の戦いである械闘を挙げなければならない。華南の同族村落間における「所謂械闘に於いては『闘魁』と称する総指揮官と『闘徒』と称する兵士から成り立っていたが、闘徒は子弟、小作人、外部からの雇兵等の複雑な要素から成り立っていた」。「問題は闘徒の統率者としての闘魁が軍事的指導者として如何なる独立の権限をもち得たかということにあり、ここに武士団が成立するか否かの第一の分岐点があると思う」。
2) 「武士団成立のための前提は、族長が本来の機能の外に、軍事指導者としての機能を固有なものとしてもつことである」が、「特定の個人または家にかかる機能と権利が固定することなく、したがって戦乱の時代にあっても統率者が村落を自己の権力の下に従属せしめることのなかった中国においては、武士団成立のための前提条件を欠いていたといわねばならぬ」。それゆえ、「指揮者と兵士の間に恒常的な私的関係が成立することができず、族長対族人以外の独自の組織が同族内部に発生することはできないと思う」。
3) 「傭兵関係が恒常的なものであったとしても、戦闘の費用が共同体の財産から支出されるような状態及び指揮者が独立の機能をもたない状態においては、傭兵との関係が恒常的私的な結合に転化することは困難であろう」。
4) 「土豪が私兵を養う如き場合には若干事情が異なってくる」、「そこに土豪と私兵の間に恒常的私的な結合が生じえる」のだけれども、「土豪が族長または村長として一族や村落民とつながっている普通の形態においては、土豪の私兵といっても、事実上は宗族または村落の共同防衛のための兵士の面が強いであろうし、また土豪自体が何等軍事的統率者でない場合には、土豪と私兵の間に傭兵的関係は発生しても緊密な主従関係が成立する筈はないと思う」。それゆえ土豪と私兵の関係は「我国の郎党の如き主従の緊密な関係に達することのできなかった」とする。
5) 「我国の武士団は…在地領主の族的結合の軍事組織として発生したが、この場合規定的意味合いをもつのはそれが領主階級の独自の軍事組織であったことにある」。「主従関係が歴史的意義をもったのは、それが領主層内における関係として成立した場合であって、そこでは領主がその所領を家子郎党に宛給することによって土地を媒介とした封建的関係が成立してくるからに外ならない」。
6) 「したがって中国において土豪が私兵を養うことがあっても、土豪が領主として存在する具体的な形態が、族長として村落の同族組織と不可分の関係にあるとか、または村落共同体の一員であるが如き場合においては、それは封建的な武士団へ転化することはできないといわねばならない」。というのもこのような場合「領主の所有地は、共同体的な秩序によって保証されており、領主と作人との対立は、同族的関係や村落民的関係のために明瞭さを欠くから、領主は共同体的秩序とは別個に政治形態を完成しようとする中世的なものへの要求は持ち得ないのは当然である」。
7) それゆえ中国社会において、私兵は「単に外部に対するものであって、彼らが盗賊に備えて飼っていたという数多くの番犬以上の意味は持ち得ないのである」。
 
 以上から、日中両国の歴史における領主制や武士団の成立・未成立について、次のような結論(前掲書 p.158)が得られる。
1) 「中国における武士団の欠如は、領主制の独立的発展を阻害していた共同体的秩序の制約であることがほぼ推察されるのである」。
2) 日本においては「奈良時代に成長していた古代家族は、入会地を分割私有し、共同体的秩序を破って急速に成長するとともに、平安時代においては領主制への転化を明白にし、古い同族組織から分離して独自の族的結合をなすにいたった。すなわち中国において武士団の成立を阻害していた諸条件を脱却することによってはじめて中世への道を切り開いてきたのである。この過程は東洋的世界の一環であった日本が、自己の努力によって分離を完成する過程であり、近代日本の礎石がここに据えられたといっても過言ではない」。
 
 すなわち、中国史においてなぜ武士団や領主制が成立しなかったのかという問題提起への、石母田の答えは、中国社会の共同体的秩序の強さゆえに、私的主従関係が十分に伸長しなかった、というものであった。長々と引用したのは、筆者が石母田の諸説を簡潔にまとめるほど日本古代・中世史を理解していないためであるが、石母田の日中の歴史(古代・中世)に対する理解がどの程度のものであるか知って欲しいがためでもある。
 現在の時点から見れば、以上の見解において示された石母田の中国の共同体および共同体的諸関係に対する見方は、筆者には受け入れがたいものがある。石母田が対象とする中国史がどの時代であるかが問題となるが、おそらく唐宋交替期であろう。この時期も、あるいはそれ以降も、中国農村に村落共同体は存在しない。やや時期を広くとって秦漢隋唐期まで含めても事態は変らない。専制国家の下において、村落は共同体としては存在しえない、というのが筆者の基本的な考え方である。また、村落が共同体ではないということがどういうことかを知ろうとすれば、戦時下で満鉄が行った『華北農村慣行調査』を読めば、十分に理解しえるはずである。
 上記に示された、中国社会における共同体的諸関係の強さゆえに階級分化が阻止され、奴隷制や封建制(農奴制)への移行が遅れた、といった観点に本来無理があったと思う。ただ、石母田の名誉のために言えば、彼の中国の共同体に対する見方は、石母田固有のものというより、当時の中国通あるいは中国研究者に共通するものであった。『詩経』や『論語』などに見られる儒教倫理を範とする農村生活および農村秩序、社倉や義倉など共同備蓄施設が存在し、同姓村に代表される宗族組織や、族田・大公田・学田など今風にいえば「集団所有」が存在する中国農村において、村落が共同体ではないなどということは、当時、誰もが想像しえなかったに違いない。
 おそらく石母田は、中国経済史・法制史に関する加藤繁・仁井田陞などの著書を読み、さらには歴史学研究会の活動を通して前田直典や西島定生など中国史研究者と議論をする機会をもったであろう。それゆえ、彼の中国社会に対する見方が当時としてはそれほどトッピであるはずもないのである。「慣行調査」のデータにより、村落が共同体であるかないかを巡り、平野義太郎と論争した戒能通孝のような中国「村落=共同体」否定論は、当時はまだ支持を集めるほどではなかったのであろう。
 もう一つ石母田において注目すべきは―前稿(第75回)でも指摘したが―土地私有や私的主従制における「私」へのこだわりである。石母田『中世世界の形成』の主要部分は戦時下で書かれた。それは思想統制と統制経済の時代であった。当時、総動員体制を徹底するため、それを阻害するような社会的な格差の是正が図られていた。とくに地主と小作の問題に関しては、地主の利益を削ってまで小作保護が試みられるようになる。また、労働者保護も同じ観点から行われている。出征兵士の多くが農民と労働者出身であることを考えれば当然の措置であった。また、銃後を固めるために、女性の役割を重視し、女性の地位向上も、同じく図られている。これらは、戦争のための統制経済が、戦争目的に合致するものを公益となし、それらに反するものを私利私益に基づくものとみなし、総じてそれらを抑制する必要があったから行われたものであり、最近の論調のように、それを「社会主義」とか「民主主義」に結びつけるのは早計であろう。もし「社会主義」とか「民主主義」という言葉を使うならば、「臣民の社会主義」であり、「臣民の民主主義」であることを肝に命ずべきであると思う。ともあれ、ここまで徹底して行った総動員による戦争は、個人主義の国アメリカの、圧倒的物量の投入による戦争遂行の前に、完膚なきまでに敗れ去る。
 いうまでもなく統制は思想統制であり、「ファッショ」的思想の強制であった。「公」を建前とする「私」や「個」の抑圧であった(滅私奉公)。その抑圧下にあった石母田たちが、公益に対する私利、公有に対する私有、公に対する私を強調し、私人の結合による共同体的秩序の克服を進歩とみなし、古代から中世への歴史発展の動力とみなしたのは象徴的であると考える。そして、それがなかったがゆえに、中国の中世(封建制)は本格化しえなかったと考えたのである。
 
 石母田日中分岐論は「中世成立史の二三の問題」(1946)において継続される。だが、「なぜ中国において純粋の中世が成立せず、日本において典型的な中世が成立したか」と問題を立て、理論的には領主制の構造の差は、結局は農業における生産力の発展の違いが根本にあるのではないかと切り出したものの、この論文においては結論をえないままで終っている。というのも、生産力発展の歴史傾向の比較、あるいは農村の社会構造の変化における日中の差異など興味深いテーマを提起しつつも、日本における奴隷制から農奴制への農民の成長を辺境変革論—関東の地という辺境だからこそ頼朝による古代国家の変革がなしえた—で解こうとしたため、中国に適切な比較例を求めえず(例として挙げられているのは、中原の王朝に対する秦国の興起である) 、「奴隷から農奴への農民の成長」(中国コース)について言及されないまま終っているからである。
 それゆえ「中世史研究法の起点」(1948)において、再び日中分岐論が展開されることになる。1948年といえば、日本においても、国共内戦が中国共産党に有利に運んでいることが明確になり、そこから日中の歴史分岐に対する見方も変化がもたらされることになる。すなわち、石母田はまず『中世的世界の形成』で示した考察(日中分岐論)に対する反省を述べる。すなわち、
 
 「右の考察が、その問題を解決する方向において誤っているとは現在でも考えていない。しかし解決の仕方が、この時代に対応する中国の歴史的資料によって裏づけられていていないことは勿論、その解決の仕方も十分に考え抜かれたものでなかったといわなければならない。そのもっとも大きな欠陥は、領主と農民との間に存在する伝統的な共同体的諸関係を強調した点は正しかったにもかかわらず、領主対農民の直接的階級的関係の歴史的性質が明らかにされていないことである」(1957年版 pp.399-400)。
 
 と述べている。この時点においても、石母田は伝統中国における共同体的諸関係の強さを疑ってはいない。かつ、問題はそこにはなく、依然として中国史における領主対農民の階級関係の特質にあるとこだわりを見せる。
 
 「村落的或いは同族的諸関係は、さまざまの階級関係や生産関係と共存し得るものであり、階級社会においては、共同体的諸関係のもつ具体的意義は、その基礎をなす階級関係の歴史的特質によりさまざまに規定されるのであるが、それが十分究明されていなかった点が欠陥をなしていたのである。勿論そこでは小作関係の存在する事実から封建的領主制の成立を前提していたのであるが、もしそうだとするならば、何故中国の領主制は日本のように農村における古代的および共同体的社会を変革して中世的封建的な政治構造を創出し得なかったのだろうか、という疑問が残るはずであるが、それについては何等考察するところがなかったのである」(前掲書 p.400)。
 
 『中世的世界の形成』において提示された、何故中国史において純粋の中世が成立せず、日本において典型的中世が成立したのか、といった設問は、ここではひとまず撤回されている。純粋であるとかないとか、典型と非典型といった問題設定では、来るべき革命中国と向き合うことができないと考えたのであろう。
 
 「問題をかくつきつめてくれば、…中国中世の領主制の構造に問題の核心があることはたしかであろう。それは果たして普通に考えられているように、地主=小作人の封建的領主関係と考えてよいのであろうか」(p.400)。
 
 ここから、なぜ日本のような領主制が成立しなかったのかを問うことを断念し、石母田は加藤繁や周藤吉之に依りつつ、佃戸制の検討に移る。佃戸=農奴の検出の試み、すなわち地主・小作関係の検討から唐末から宋元期にかけての佃戸が、公民でありかつ独立経営を営むことを認めながらも、地主に対する重い負担と厳しい隷属関係にあることを指摘する。石母田は、きわめて慎重に、農民の地主への隷属関係が種々であり、奴婢的奴隷、佃戸的奴隷、佃戸など多様な形態をもつこと、それらが奴隷制から農奴制への移行を意味することを示唆しつつ、一応の結論として、社会構成上からみて、コロナート制に酷似すると述べる(p.411)。また、この推論の過程において、アジア的社会における奴隷および奴隷制の役割を過小評価したウィットフォーゲルに対する批判を挟むのを忘れていない。
 この時期の佃戸制がコロナート制に類似しているということは、奴隷制的な構造から脱却はしているが、中世的生産関係には到達していない過渡的構造であるとして、それ以前の奴隷制に対する優越と進歩性を強調している。すなわち、中国において「十世紀を画期として古代的なものから中世社会への発展を示す」にいたったと評価している。これは、日本と同じ発展段階にあること、「中国と日本の二つの農業社会が、その基礎をなす農村土豪の生産関係において本質的な差異は認められないこと、いずれもコロナート制的関係を基礎としている事実をほぼ確認していいようにおもう」(p.417)と石母田は述べる。
 つまり、問題は、日本と中国の封建制が、純粋かそうでないか、典型か非典型かといった対称的構造を問う形から、奴隷から農奴への農民の成長に伴う、社会構成における「奴隷制から封建制(農奴制)への移行」へと移ることになる。農奴制が成立しているならば封建制が成立することになるし、古代から中世への転換は成就したことになる。それは、石母田等歴研グループが構想した「世界史の基本法則」の、中国史における成就でもあると同時に、前田直典が構想し石母田や西嶋定生らが支持した、東アジア世界(中国・日本・朝鮮)における古代→中世→近代への並行的な発展の具現でもあった。 
 とはいえ、どのように問題をずらしても、分析の視角を変えても、違いは違いとして残る。たとえば、佃戸制のもう片方である地主の在り方、その経営の実際を問えば、違いはすぐに出てくる。大土地所有や荘園制といった用語では似ているようにみえても、その経営を問えば、違いは大きいからである。
  石母田は、古代・中世移行期における日本および中国の大土地所有制や荘園制を比較しつつ、中国の荘園には領主直営地が存在せず、荘園は小作地の集合にすぎないこと、奴隷など隷属形態においては債務関係が主要なものであることなどから、領主制への傾斜をもたず、むしろ古代的、奴隷制的な性格を持ち、日本の初期荘園制に近いことを指摘する。
 「中国の領主は独立的農民を支配するために封建的な組織を建設し創造するというよりはむしろ農民の再生産過程を債務関係によって多く支配していたのであって、それだけ寄生的、頽廃的で、また停滞的であったといわねばならぬ」(p.421)と述べ、このような頽廃へと傾斜せしめたものとして、奴隷制の広汎な存在と、それと相互規定的に存在する専制的国家の存在を挙げる。さらに、領主は自衛武装していない以上、佃戸の拘束においては、国家(専制国家)の関与が強いことを認めている。正直、ここまでくると、石母田が中国封建制の成立について、以前とは異なった展望を持っているとは思えないといわざるをえない。ただ、従来、領主制形成の制約として捉えられていた共同体的諸関係について考え方に変化があったのかが気になるところである。石母田は、「直接生産者の再生産過程まで支配するような、佃戸・客戸と田主=領主の既述のような生産関係=階級関係は、一方において小作制度をいちじるしく奴隷制度的にするとともに、他方においてその奴隷制的な小作制度において家父長制的関係を強める結果になることに注意しなければならぬ」とし、「地主と小作人との対立と分離の反面にあるつよい経済的依存関係は、小作人を家父長制的関係において地主に結びつけざるを得ないのであって、農村社会において家父長制的奴隷制の関係が広汎に支配することもそこに根拠があるように考えられる」(p.422)と述べ、「したがって、佃戸制はたえず家父長制的社会関係を農村に再生産し強めさえするのであって、そのことが中国における共同体的遺制の支柱をなしているのではないかと予想されるのである」(p.423)と、議論を展開しており、共同体的関係は共同体的遺制として、家父長制的関係に重点がおかれているように思われる。
 以上から、1948年時点での結論は、以下のようなものとなる。
 「中国と日本はその根本の体制は十世紀前後において本質的相違がなかったのであるが、中国において唐末五代の乱離の時期から、封建制のための十分な生産力的基礎と、封建的諸関係の成立があったにもかかわらず、典型的な封建国家を成立せしめることができず、かえって君主独裁的な官僚国家が確立され、日本では封建制が上部構造の面まで貫徹された。」(p.425)。結局、典型非典型といった捉え方を自己批判して再出発したものの、議論は結局典型的な封建国家の成立させた日本と、それが成立しえず専制国家(中国)を成立させた中国の対照となり、歴史コースの典型非典型が再生産されるに至る。問題は、振り出しに戻ったといわざるをえない。
 前々回・前回と紹介してきた河音能兵らのP・S論文(1964年北京シンポジウム論文)は、このような日本=典型、中国=非典型と特徴づける石母田中世封建制論に対する批判として書かれたのであった。たしかに、P・S論文のように封建的土地所有の枠組を広げておけば、アジア的社会における封建制を容易に規定できる。だが、封建制概念のインフレーションによってアジア諸国の歴史に封建制を見つけたとしても、それは内容を薄められた封建制にすぎず、かえってまた彼我の差を感じることになるだけであったろう。宋元期における専制国家を封建制に基づくものと規定したとしても、このような封建制概念に意味があるとは到底思えず、「世界を貫く歴史法則」がすべて国の歴史を貫くとの確信が失われるや否や、封建制を見つけ出す作業自体が徒労視されるのは必然であった。
 話を1949年前後に戻すと、「封建制の起点」執筆後ほどなく石母田は「封建制成立の特質について」(1948)において、旧稿における日中分岐論の誤りに言及し、そこで用いた「共同体的遺制」、「中世社会の停滞性」、「支配階級の頽廃化」などの指摘は、伝統史学およびマルクス主義歴史学における「アジア的停滞性」に関する理論に拠るものであったと自己批判している。
 自分(石母田)の中国に対する偏見は、「「アジア的生産様式」の論争過程においても見られたようにマルクス主義歴史家にとっても支配的であった「アジア的停滞性」の理論が根本をなしていた」(前掲書 p.462)と自己批判しているが、あたかもアジア的生産様式論こそがアジア的停滞性という誤謬を広めた元凶であり、戦前のアジア的生産様式論争自体が誤っていたかのような印象を与える記述となっている。
  この石母田のアジア的生産様式論批判は、1949年共産中国の成立後の二年後に書かれた「危機における歴史学の課題―郭沫若氏のアピールによせて」(『歴史と民族の発見』岩波書店 1952 )において頂点に達する。同書での石母田の戦前の論争への批判はこれまで二度ほど紹介してきているので、ここで引用を繰返すことはしないが、短く要約すれば、論争は「アジア的停滞性」という呪文にしばりつけられたものであり、「「アジアの停滞性」をうちやぶる使命をもった理論がいつかアジア的停滞性を基礎づける理論―帝国主義のアジア支配の理論―にひきずられた」(『石母田正著作集』第14巻 岩波書店 p.164)とするものであった。
 この石母田の批判は、平野義太郎らの転向後の著作『大アジア主義の歴史的基礎』(河出書房1945)を念頭におけば、ある程度当っているといえよう。だが、問題は石母田がアジア的生産様式論争を「スコラ的な論議」とみなし、アジア的生産様式論とその論客たちを痛罵していることである(第35回参照)。
 石母田の戦前アジア的生産様式論争への侮蔑について筆者は、偏見に満ちた行き過ぎたものであったと考えているが、これ以上述べない。ここで強調したいのは、文中、誤りに満ちた戦前のアジア的生産様式論とは対照的に、石母田が戦前のマルクス主義の成果であると讃えた『日本資本主義発達史講座』の編者および主要執筆者であった野呂栄太郎、平野義太郎(転向前)ら講座派主流の面々がいずれもアジア的生産様式論者であったという事実である。かつ、『講座』の理論的枠組となった野呂『日本資本主義発達史』(鉄塔書院 1930)における、もっとも野呂的な部分である第四論文「日本における土地所有関係の特質」―(国家=最高地主説)―の理解には、アジア的生産様式論の理解が不可欠であることを強調しておきたい。講座派は、遅れた農業を抱える日本資本主義の特質を半封建制として捉えた。だが、この封建遺制のもっとも基本的な部分、すなわち土地所有制は、「アジア的生産様式によって特徴づけられた封建制」の遺制であった。戦後の講座派の後継者たちは、この「アジア的生産様式によって特徴づけられた封建制」から、アジア的生産様式を削除してしまう。干からびた「封建遺制」が戦後もなおしばらく漂うことになる。
 もし、石母田たちが講座派主流のアジア的生産様式論を継承していたならば、或いは、少なくともアジア的生産様式に留意していたならば、唐宋期の社会構成への理解は、戦後歴研系の研究者の見解とは、かなり異なったものになったはずである。佃戸が公民であることを知りながら、それらを無理に奴隷や農奴に見立て、奴隷制から農奴制への展開をはかるといったことに力こぶを入れるなどはしないですんだはずである。鈴江言一『中国革命の階級対立』(1930)のような、アジア的生産様式であるとも封建的生産様式であるともいえるような両義的な規定に落ちつくこともありえたと思われる。また、石母田たちの、1947年に到来したマルクス『資本制生産に先行する諸形態』の読み方も、もっと柔軟なものになったと考えられる。(了)