中国的なるものを考える(電子版第79回・通算第121回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第85号 2018.08.02
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

1930年代左翼のアジア的生産様式論 その三 
野呂栄太郎とアジア的生産様式論争(下)

 七月初旬、同僚の石井知章教授、そして猪俣津南雄研究家龍井葉二氏の、お二人のお供をして、長野県伊那市にある古書店蟻屋書房を訪ねた(写真参照)。店主今井眞氏が入手したという猪俣津南雄関連の資料を見に行くためであった。松本駅で待ち合わせ、石井教授の運転(レンタカー)で国道152号線を南下、伊那谷に向った。おかげで盆地愛好家でもある筆者は、松本盆地、伊那盆地の景観を楽しむことができた。






 蟻屋書房は、上伊那の高遠にある。数年前、東京都下から高遠へ引っ越したというから、ネット通販(日本の古本屋)を中心に営業しているのであろう。店は民家をそのまま利用したものであり、中に入ると、書籍の山に囲まれることになる。普通の民家に、廊下にまでびっしりと本を並べているので、照明が届かないところが多く、懐中電灯を片手に一つ一つ書籍を見つけ出す作業は、まるで子供時代の探検ごっこのような雰囲気である。日本・東アジア(満州、台湾、朝鮮などを含む)近現代史が中心であるが、戦前の左翼運動を含む社会運動、社会事業など、我々が日頃関心の深いフィールドの史資料も多数書庫に埋まっている。
 書籍に埋もれながら、探検のようにして本を探すというのは、中国研究者になじみの代々木の東豊書店に入った時のようだと思う。東豊書店を訪ねるのは、二年に一度ぐらいであるが、いつ訪ねても、何かしら思わぬ資料に出くわす。
 このように、思いがけない資料に出会うのは、店主の日頃の書籍収集(経営努力)のおかげである。だが、東豊書店の店主簡文桂氏が90歳で、大家である代々木会館の解体工事のこともあり、そろそろ店じまいかと噂されている。古書店の経営は、それぞれ店主の頑張りに依存しているので、年齢とともに終わりがやってくる。蟻屋書房の店主今井さんは、筆者より三歳上、70歳代前半である。まだ大丈夫、お元気だと思う反面、戦前戦後の左翼書や左翼文献を買う人間が次第に減っており、いずれ、店主の努力に見合わなくなる日が来るのではないかと、気をもまざるをえない。
 今、筆者ができるのは、何とか戦前日本の左翼の実践や思想が、今もなお興味深く、研究に値することを示すことだと考えている。
 
 さて、前号の続きである。
 野呂栄太郎『日本資本主義発達史』第四編(第四論文)「日本における土地所有関係の特質」における、著名な「国家=最高地主」説が、マルクスの地代論の著名な一節「地代と租税の一致」に依拠していること、「地代と租税の一致」は、アジア的生産様式論者にとって、アジア的生産様式の収取システムを基礎づけるものと考えられていることは、前回述べたとおりである。
 では、野呂はその着想をどこから得たのであろうか。
 野呂『発達史』の白眉ともいうべき「日本における土地所有関係の特質」は1929年、三回に分けて、雑誌『思想』に掲載された。同年、野呂が主宰する産業労働調査所から、『支那に於ける最近の農民運動と農業問題』(叢文閣 1929)が出版された。編者の名前は記されていないが、編者序文の末尾に、「此の叢書発行に際しては編輯者が責任を以て校閲統一した積りであるが、短時日の間に、而も四月一六日の被害の後、山積する其の他の要件に追われながら、或者は病気に倒れ、或者は予定の力を充分に割き得なかった等々の事情のため、此の仕事のみ没頭して力を注ぐ訳には行かなかった。」とあり、編者の一人が野呂自身であることを匂わせている。野呂は1929年「四・一六」共産党大弾圧事件に際し検挙され、約一か月余りの留置の後、釈放されたが、6月には喀血し、しばらく療養せざるをえなかった(「野呂栄太郎年譜」『野呂栄太郎全集 下』新日本出版社 1967)。この序文(1929年6月)からは、短いながらも、穏やかな筆致のなかに静かな闘志を感じさせる野呂独特の文体を印象づけており、野呂自身が書いたものであると思われる。同書の目次は以下のとおりである。
 
 『支那に於ける最近の農民運動と農業問題』
 ベ・フライエル 支那に於ける農民運動の最新段階
 リン・ホ―・ヤン 支那革命と農業問題
 エル・マギヤール 支那農民経営の経済とその発展の諸傾向
 ミフ 『アジア的生産方法』について
 立三 支那革命に於ける農民問題
 ヴァルガ 支那革命の諸根本問題
 資料
 中国土地調査(資料第一)
 民族革命と農民運動(資料第二)
 支那国民革命と農業政策(資料第三)
 支那に於ける農業問題と農民運動(資料第四)
 一 中国の土地関係
 二 高利貸借資本と商業資本 
 三 支那の土地問題と土地闘争




 上記論文のなかで、アジア的生産様式論に関するものは、ミフとヴァルガの両論文である。マジャール論文は、字義通り農民経営を分析したもので、アジア的生産様式を論じたものではない。ただ、ヴァルガは出版間近であったマジャール『中国農村経済研究』を読んだと注記しており、それを参考にして議論をしているのだと思われる。
 1927年11月中国共産党「土地問題党綱草案」(中共農業綱領草案)において突然挿入された感のあるアジア的生産様式規定、そしてその半年後の、中共六全大会「土地問題に関する決議」における半植民地半封建規定(アジア的生産様式の否定)、これらから、農業問題・土地問題の理解が中国革命の現状分析にとって極めて重要であり、その農業問題および土地問題の理解のために、この書は出版されたのである。上記の諸論文の原文は、いずれもコミンテルンおよびソ連誌に掲載されたものである。ただ、ヴァルガ論文は、経済批判会の『世界経済年報』第三号に一度収められたものだが、特に本書のために分載を許されたとある(注1)
 ヴァルガ論文の骨子は、資本主義の到来以前の中国社会が封建制度であることを否定することにある。封建制度でなければ何か、それはマルクスが言ったように、アジア的生産様式である。
 ヨーロッパ封建制の経済的基礎は土地支配性と農奴制であったが、それらはともに中国にない、と述べる。土地支配制とは聞きなれない言葉だが、前後の文脈から、それは荘園制や領主制に関連しており、おそらくはグルントヘルシャフト(Grundherrschaft)のことであろう。土地支配制という訳語はGrund(土地)+Herrschaft(支配)からの着想であろう。実際にはヨーロッパ中世史においてGrundherrとは荘園領主のことであり、ここは前近代の中国は荘園(領主)制と農奴制が欠けている、それゆえ封建制ではない、としなければならない。
 ヴァルガ(1879-1964)はすでに1920年代中葉―アジア的生産様式論争が始まる前―から、中国の近代以前の土地制度は、ヨーロッパのそれとは異なると主張していた。帝国主義侵入以前の中国の社会構成における地主制度はヨーロッパにおける封建的土地所有制とは異なり、その剰余収取(地代)も、領主の権利に基づく封建的地代ではないと述べていた(ヴァルガ「支那革命の見透し」、マジャール『支那問題概論』所収)。ヴァルガ論文(「支那革命の諸根本問題」)はそれを踏まえて、前近代の中国社会が封建制のもとではなく、アジア的生産様式のもとにあったことを明確に述べたものであった。「我々はこの封建制度という表現を『前資本主義的』と同意味のものとして応用する限りに於いてのみ、支那の社会的構造を封建制度と呼び得るのである」とも述べている。但し、この場合には、封建制は資本主義の形成に繋がらないこともある、とほのめかすことも忘れない。
 ヴァルガは読者に、前近代の社会構成がアジア的生産様式に基づくものである場合、資本主義への転換は容易ではないことを想起させる。諸家が言うように中国の前近代が封建制であるとするならば、帝国主義の侵入以後、中国国内において資本主義(ブルジョア制度)が封建制に続くに違いないと誤解するであろう。だが、マルクスがインドなどについて、アジア的生産様式のもとでは、同じ水準において同じ技術において生産過程が限りなく反復されると、何度も言及したごとく、新しい生産様式(資本)が農業や手工業など旧来の諸産業の生産過程を捉えることの難しさを忘れてはならない、と警告する。また、旧来の生産様式に巣くっていた商業資本や高利貸資本では、そのような生産様式の革新に役立たないことも強調している。
 ヴァルガは、中国の旧社会がヨーロッパ封建制と大きく異なる要因として、中国の灌漑農耕に対するヨーロッパの乾燥農耕を挙げている。乾燥農耕においては、土地支配は「隣接地から鋭く区別され独立することを可能ならしめる」。灌漑農耕においては、耕地は極細分化され、それゆえ水利は組織化されなければならない。ヨーロッパ封建制のもとでは国家はあれども、「国は分割され個々の土地支配制となっており、国家機関なるものは元来なかったのである」。だが、中国においては、国家は全領域に亙る重大な機能を持つ。即ち全領域に於ける米の配給の組織化、最重要なことは地域に於ける水利経済の組織化と監督等。これに応じて国家官吏という特殊の階級があ」る、云々。米の配給の組織化とは、おそらく漕運のことを言っているであろう。
 さらに、ヴァルガは水利に関して、灌漑だけではなく、大河の洪水対策、つまり治水の重要性も看過していない。中国の大河の河床は平地より高く、堤防の決壊は数百万を養っている地域がすっかり泥沼に変ってしまうことを意味する。それゆえ、治水灌漑などの水利経済の管理は、以前は中央国家権力の任務であったが、民国期においてはそんな中央権力はもはやないと述べる。
 帝国主義の到来と浸透、それに従属する国内経済、資本主義と古い経済システムとの接合癒着、そしてそれぞれ帝国主義列強と結びついた軍閥の混戦のなか―すなわち半植民地化のなか―、中国農村の危機は深まる。このような現状の認識において、ヴァルガ等の認識も他と異なるわけではない。ただ、その中核にアジア的生産様式論がある。
 そのアジア的生産様式論を批判したのがミフ論文である。ミフは(1901-1939)は中共党史のなかで、とくにコミンテルン代表として王明らを党中枢に据え、1931年以後の第三次極左路線を後押しした人物として、悪名を馳せた人物である。
  ミフの主張は、アジア的生産様式は資本主義到来時の中国には存在せず、たとえ存在したとしてもはるか以前のことなので、1920年代中葉の中国に影響を与えるはずはない。また、もし仮に存在したとしても、その「地代と租税の一致」の規定から、土地所有を介して地主である国家が直接生産者(農民)から剰余(生産物や労働の形で)を搾取するという点において、なんら封建制と変わるところがない。封建制との違いは土地所有者が国家であるか、私人であるかだけであり、搾取様式の本質において異なることなく、それゆえ、アジア的生産様式とは封建制の一段階だと見なすべきだ、というものであった。すなわち、中共農業綱領草案(1927年11月)におけるアジア的生産様式規定を何が何でも否定し、中共六全大会(1927年夏)における「土地問題決議」の半植民地半封建規定を擁護しようとするものであり、当然、コミンテルン主流の意を体したものであった。
 この『支那に於ける最近の農民運動と農業問題』のなかに、ミフ論文とヴァルガ論文が掲載されている意義は明かである。革命運動のための現状分析には理論的な問題を避けて通ることはできない。そして、主流派の見解を代表するミフ論文のほかに、ヴァルガ論文をも収録した野呂のバランス感覚、公平さも認めなければならない。
 以上から、野呂がアジア的生産様式論に強い関心を払っていたことは十分に理解していただけるであろう。つまり、野呂は『日本資本主義発達史』の中核ともいうべき第四論文において、「地代と租税の一致」のパラグラフを、アジア的生産様式論争と無関係に、偶然に引用したものでは決してない。アジア的生産様式論争との関わりを強く意識しつつ引用し、且つ「国家=最高地主」説の理論的支えにしたのである。
 野呂がアジア的生産様式論争を意識していたことは、野呂とともに上記論文集を編集した平田良衛が、その同じ年『思想』7月号(注2)に掲載した「支那革命と農業問題」からも明らかである。平田は、中国の土地所有とアジア的生産様式を論じ、まずマルクスが中国の社会制度をアジア的生産様式と呼んでいたこと、中国の前近代には土地支配制と農奴制が存在しないがゆえにヨーロッパ封建制とは異なることを述べており、ここまではヴァルガ論文を踏まえて議論している。だが、続いて、中国社会をアジア的生産様式に基づくものとするアジア的生産様式規定は、中国共産党第六回党大会によって否定され、半植民地半封建規定が決議されたことを述べ、いわゆるアジア的生産様式の搾取制度である「地代と租税の一致」は、地主である国家が、農民から租税の形で地代を取り上げていることにすぎず、私的地主が農民から地代を取り上げている封建的搾取制度と変わるところはないとして、アジア的生産様式は封建制の一種であると、ミフに依拠した議論を行っている。
 平田良衛は1901年生まれで、野呂の一つ年下であり、且つ、産労調査所への入所も、1928年であった。学生時代より産労調査所を手伝い、28年「三一五」事件以後は同所の責任を負う立場であった野呂と平田との関係は、同僚というよりもむしろ、野呂が指導する立場に立っていたと考えた方があたっていよう。それゆえ、平田の『思想』論文は当時の野呂の考えに非常に近かったと考えるべきであろう。すなわち、ヴァルガやマジャールのアジア的生産様式論に強い関心を持ちながらも、コミンテルン主流の見解であるミフの議論にそりを合わせなければならない、との立場である。野呂が『発達史』第四論文で日本の封建制をして「所謂アジア的生産様式に特徴づけられたわが国の封建制」と遠慮がちに言わなければならなかったのも、そのためであった。
 ただ、それにもかかわらず、野呂『発達史』はアジア的生産様式を論じたものとして読まれた可能性が高い。プロ科(プロレタリア科学研究所)の指導者であった寺島一夫は「マルクス・エンゲルスに於ける『アジア的生産方法』の意義」(『プロレタリア科学』第二年第五号 1930年)の冒頭において、以下のように述べている。

 野呂君が昨年度に掲載された諸論文(『思想』83号、84号、88号、論文集『日本資本主義発達史』に収録)で日本国家の本質ならびに農業生産全般の特殊性の基底として、マルクスが『アジア的生産方法』と呼んだところのものを強調され、また服部之総氏の画時代的研究である『明治維新史』が、この『アジア的生産方法』を徳川時代における農村の支配的生産方法と規定したため、今日迄殆んど研究者の注意を引かなかったこの問題が、日本資本主義の真摯なる研究者のすべてによって関心されるに至ったように思われる。

 以上から、1929年『思想』に掲載された『発達史』第四論文は、その翌年には、少なくとも、共産党系のインテリたちの間では、アジア的生産様式に関する先駆的業績と見なされるようになった、と解しても大過ないと思われる。(以下、続く)



注1 国会図書館デジタルコレクションにおいて「経済批判会」で検索すると、幾つもヴァルガ論文が出てくる。吉田健二「東京政治経済研究所の設立と事業」(『大原社会問題研究所雑誌』№479 1998年10月)に、ヴァルガ著・経済批判会訳の『世界経済年報』(叢文閣・年四回発行。コミンテルンの機関誌『インプレコール』の翻訳で、第一輯は1927年上半期)とある。
注2 『思想』1930年7月号は、特輯支那号と題されており、巻頭の和辻哲郎「支那人の特性」以下、小川琢治「歴史地理学上から見た東亜文化の源流」、長谷川如是閑「支那大陸に於ける「外国」の運命」、岡田次郎「革命支那の一断面」、藤野啓二「支那革命史概論」、平田良衛「支那革命と農業問題」、藤枝丈夫「支那最近の思想運動」と続く。さらに、資料の部には、石田幹之助「最近に於ける支那学の展望」、経済批判会「支那革命に関するロシア書」など、或いは青木正児「支那の絵本」、清水安三「支那学雑記」などのエッセイ等々、中国関連記事満載である。