中国的なるものを考える(電子版第80回・通算第122回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第87号 2018.11.15
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

1930年代左翼のアジア的生産様式論 その四 
野呂栄太郎を継ぐ者―羽仁五郎・服部之総・平野義太郎

 野呂栄太郎『日本資本主義発達史』―特にその第四篇「日本における土地所有関係の特質」―における国家=最高地主説あるいは「アジア的生産様式に特徴づけられた封建制」論に見られるような、アジア的生産様式論への関心は、その後、どのように受け継がれたのであろうか。
 前回紹介した寺島一夫「マルクス・エンゲルスに於ける『アジア的生産方法』の意義」が発表されたのは1930年5月号であった。ところが、その後しばらく、アジア的生産様式に関する論文、著作は出て来なかった。発表(出版)されたのはみな、マジャールなどの翻訳であった。ようやく1931年末になって羽仁五郎「「アジア的生産様式」の問題に寄せて」が『帝国大学新聞』に掲載される。アジア的生産様式への関心がまだ続いているとの短いメッセージであった。
 その直後の『史学雑誌』1932年1月号に、羽仁五郎講演開催についての史学会の会告が載る。

『史学雑誌』1932年1月号


 この羽仁の講演は「東洋に於ける資本主義の形成」のタイトルで行われ、参加者は百余名であった(『史学雑誌』3月号「彙報」)。
 そして『史学雑誌』翌2月号には、羽仁「東洋に於ける資本主義の形成」(一)が掲載される。同論文は、その後、3月、6月、8月と4回にわたり掲載されている。この論文の登場は、1930年代のアジア的生産様式論にとっても、重要なステップであった。
 羽仁五郎(1901-1983)は東大法学部に入学したものの、数か月で休学しドイツに留学した。専攻は歴史哲学であった。帰国後、文学部史学科に転じ、卒業後は一時史料編纂所に勤務していたものの離職を余儀なくされ、28年日大教授となる。彼の叙述におけるいかつさや、大上段に振りかぶったもの言いが、歴史哲学風なのは、その経歴から理解できるように思える。
 1928年、羽仁は三木清、小林勇(岩波茂雄の娘婿、鉄塔書院社主)とともに、『新興科学の旗の下に』を創刊、翌年には、やはり三木とともに、プロレタリア科学研究所の創設に参加している。
 羽仁は一貫して非党員であった。それにもかかわらず、1932年の野呂監修の『日本資本主義発達史講座』(岩波書店) の刊行に際には、その主要な執筆者となった。野呂が羽仁を高く評価していたからだと言われている。それまでの羽仁の著作としては『転形期の歴史学』(1929) のほか『佐藤信淵に関する基礎的研究』(1929)があるが、後者は思想史研究、前者はブルジョア諸学に対する唯物史観の優位を説いたものであった。いずれも、社会経済史的研究とはいえないものであった。それゆえ、筆者は、野呂は、羽仁の「東洋に於ける資本主義の形成」を評価し、『発達史講座』の執筆陣に加えたのだと考えた。が、これは誤りであった。というのも、野呂が『発達史講座』の企画を岩波に提出したのは1931年夏であり(大石嘉一郎『日本資本主義史論』東京大学出版会 1999)、羽仁論文の登場以前であったからである。
 では、野呂はいつ、社会経済史研究における羽仁の力量を認めたのであろうか。犬丸義一『羽仁五郎歴史論著作集』第一巻(青木書店 1967)「解説」によれば、羽仁の、従来の明治維新史研究を批判的に総括した「清算明治維新史研究」(『新興科学の旗の下に』1928年10月号)を読んだ野呂が、井波卓一を通じて羽仁に面会を求め、それに答えて羽仁が病床の野呂を訪ね、野呂との終生変らぬ友情が生まれたとある。
 渡部義通『思想と学問の自伝』(河出書房新社 1974)に、1930年秋から冬にかけて、党指導部のメンバーであった岩田義道を中心に『日本通史』の企画が持ち上がる。野呂栄太郎、渡部義通、羽仁五郎が編集委員となり、鉄塔書院から出版する予定であった。岩田が地下活動に転じた後、次第に編集委員のまとめ役となったのが野呂であった。31年春から刊行する予定であったこの企画は、執筆陣が集まらず挫折してしまう。当時、左翼陣営において日本通史の執筆陣に加わることが可能なメンバーが、もともと少なかったという事情があった。特に古代史・中世史研究者が少なかった。
 渡部によれば、『通史』の範囲を明治以降の歴史に絞れば、野呂、服部、羽仁など執筆者が揃うところから、野呂はできるところから実現するという方針に切り替え、『日本資本主義発達史講座』を構想するようになった、と述べている。それらから、羽仁を『日本通史』編集委員とすることについても、『発達史講座』執筆陣に加えることについても、おそらく最初から予定されていたと推測される。
 話を「東洋に於ける資本主義の形成」に戻すと、同論文の(二)(『史学雑誌』3月号)は「アジア的生産様式と支那社会」と題されており、同論文(三)(6月号)は、その章の続きであった。つまり羽仁論文の半分は中国論であった。
 因みに羽仁論文の章立ては、当初次のように構想されていた。
 一 序 世界経済の形成     
 二 印度社会とイギリス資本主義 (以上2月号掲載)
 三 支那社会と資本主義列強    (3月号、6月号掲載)
 四 明治維新は如何なる世界史的発展段階に於いて行われたか (8月号掲載)
 ところが、3月号表紙には「東洋に於ける資本主義の形成(二) アジア的生産と支那社会」と印刷されている。実際の論文は「アジア的生産様式と支那社会」と題されいるので、表紙の「アジア的生産」はおそらくミスプリであろう。それにしても、当初は「支那社会と資本主義列強」となっていたものを、「アジア的生産様式と支那社会」と変更したところに、羽仁の意気込みがうかがわれよう。
 戦後、三一書房から出版された『東洋における資本主義の形成』(1948)の第三章は「中国社会と資本主義列強」と最初の構想に戻っている。また、同論文は『明治維新史研究』(岩波書店 1956)にも収録され、その巻頭を飾ることになるが、第三章のタイトルは、三一書房版に同じである。おそらくアジア的停滞論との関連を懼れたのであろう。1940-50年代におけるアジア的生産様式(概念)の人気のなさを象徴していると思われる。
 「東洋に於ける資本主義の形成」は、西欧列強のアジア進出(ウエスタン・インパクト)以後、世界経済(資本主義的な世界市場)に組み込まれていくアジア諸国、とくにインド、中国、日本の、政治経済の従属化の進行と、それに対する抵抗を論じたものであり、とくにインド、中国、日本の、それぞれの国家の古い社会システムが、帝国主義列強への従属と抵抗のあり方に大きく関わっていることに力点をおいて叙述している。従属とは植民地化の危機であり、抵抗とは民族の独立を維持し、かつ世界経済に組み込まれつつ資本主義形成がはかられることを意味した。
 この東洋社会(アジア的社会)の古いシステムの根幹にあるのは、「個々人が未だその種族または共同体の臍緒から断ち切れざること」(『資本論』第一巻第四篇第十一章)であり、具体的には氏族的諸関係の崩壊が不徹底であり、それゆえカスト制度や共同体が長期にわたり残存し、階級関係の深化を妨げ、奴隷制や農奴制(封建制)が充分に発達しえなかった。羽仁はそれをアジア的構造(インド社会)あるいはアジア的生産様式(中国社会)と呼んでいる。
 氏族的諸関係の持続に代表されるアジア的構造あるいはアジア的生産様式は、階級形成および階級分裂の深化を押しとどめるばかりでなく、ようやく成立した階級関係と癒着し、それに巣くう形で存続した。この場合のアジア的生産様式とは、理論的には、当時、マジャール批判の急先鋒であったヨールクのアジア的生産様式理解―アジア的生産様式をマニュファクチュア的生産様式や小経営的生産様式と同じように、奴隷制や封建制に比べればより小さな概念であり、かつ技術的労働様式であるとする観点―に依拠するものであった。
 羽仁は、この氏族的諸関係の保存の基礎が、マルクスがいう「アジアにおける土地所有の国家的規模に集中された形態」に、そしてアジア的生産様式の搾取様式である「地代と租税の一致」に求めなければならないことを認める。だが、それを単純に「土地国有」や「国家=最高地主」と解するのではなく、「土地私有の欠如」に見えるものは「土地私有への発展の特殊な形態」を意味し、「最高の土地所有者としての国家」とは「土地所有の国家的規模への集中」を意味すると主張する。それゆえ、アジア的社会の奴隷制や農奴制は、奴隷制や農奴制ではあるけれども、このようなアジア的構造(アジア的生産様式)を抱合するがゆえに、なおいっそう複雑なもの、矛盾に満ちたものになるのだと力説する。当然、その影響は近代以降においてもアジア的社会を色濃く染め上げ、かつ帝国主義と結びつき、アジア的社会における資本主義の形成を阻んでいた。これは、1970年代から80年代に流行した「接合論」的な視角から読み込むと、よく理解できる。接合論の先駆けと言ってもよいものである。
 羽仁は、この時期の講座派の論客と同様に、マジャールやウィットフォーゲルの「水の理論」を強く批判していた。だが、「水の理論」と一線を画していたとはいえ、とにもかくにも、羽仁論文は正面からのアジア的生産様式論であった。「アジア的生産様式に特徴づけられた封建制」の基本原則は維持しつつ、アジア的生産様式を基軸概念として、インド、中国、日本などのアジア的社会のそれぞれの特徴を論じており、日本で初めての本格的なアジア的生産様式論といってよかった。また、その後、講座派系論客による様々なアジア的生産様式論が書かれる切っ掛けとなったともいえる。
 羽仁論文の半分を占めた中国論について言えば、前半は(3月号)は主として理論的な課題を追究したものであり、帝国主義侵略を前にした中国経済の停滞とその要因を論じており、その構造的な要因としてアジア的生産様式が登場する。後半(6月号)は欧米列強の中国への圧力と、不平等な国際貿易を通じた中国の列強への従属化及びそれに起因する中国内部における社会変容についてより具体的に述べている。ただ、今日的視点でみれば、伝統中国の生産システムには具体的な言及がないなど不充分なものであるにしても、アカデミズムにおける中国を対象とした社会経済史研究(マルクス主義)の開始を告げるものであった。
 中国近代史研究に対する羽仁の寄与などすでに忘れ去られているようであるが、少なくとも1970年代まではそうではなかった。1970年代、中嶌太一『中国官僚資本主義研究序説』(滋賀大学経済学部 1970)の出版を機に、中嶌太一批判が起った。当時の中国研究者たちは、中嶌が国民党官僚資本を産業資本=民族資本とみなし、国民党の客観的進歩性を認めたこと、帝国主義の資本輸出を現地における資本主義形成へ積極的役割を果したと評価したことなどを容認することができなかった。古厩忠夫「戦後におけるアジア史研究総括のために」(『歴史評論』№250 1976)は、「これは羽仁以来の歴史学における蓄積とは全く相容れない近代主義である」と批判したが、この羽仁以来とは、もちろん「東洋に於ける資本主義の形成」(1932)以来ということであろう。
 次に服部之総である。『明治維新史』(1929)において、アジア的生産様式について服部は、「農業と手工業の結合」以上のことは言っていない。ただ、『明治維新史』は、「世界市場の形成過程から維新史分析を出発」させ、幕末維新期における日本をめぐる諸外国勢力の均衡状態が、外国の統一的武力干渉という不幸を招致しないで済むことになったなど、ブハーリン的な観点に立っていたことなど、服部自身にとっても不十分なものであった。つまり、国際的契機すなわち外因であり、変革は内的矛盾の展開に求めなければならない。発奮した服部は幕末から明治維新への移行を内因論により解き明かそうと幕末期における「マニュファクチャーの発展」を評価すべきだと問題提起する。
 服部が本格的にアジア的生産様式に言及したのは、1933年「維新史方法上の諸問題」(『歴史科学』5月号)においてであった。「維新史方法上の諸問題」は1933年『歴史科学』誌上に4回掲載されたが、その2回目(5月号)に、「厳密な意味でのマニュファクチュア時代」と「アジア的生産様式」の問題、とサブタイトルを付されて掲載されたものである。前半で「厳マニュ」(本格的な意味におけるマニュファクチャー時代)を、後半において「アジア的生産様式」を論じている。
 服部は、後半部の冒頭で、羽仁「東洋に於ける資本主義の形成」を取り上げ、羽仁論文におけるアジア的生産様式論を高く評価すると同時に、羽仁の日本近世から近代への過渡期(具体的には幕末)の歴史分析を、方法論および分析力を欠いたものと批判する。幕末を本格的なマニュファクチャー時代であると規定し、そこに幕末の動乱から明治維新への動因を見ていた服部にとって、羽仁は近世封建制を貫くアジア的構造(アジア的生産様式)を重視し、停滞的側面を強調しすぎていた。通俗的な見方から脱することができず、手工業的な小規模生産がマニュファクチャーへと発展しつつあることを正しく認識していなかった、と批判している。
 だが、服部には野呂『発達史』で示された理論的枠組―「アジア的生産様式に特徴づけられた封建制」―を崩すつもりはなかった。それゆえ、服部は「幕末維新の日本に於ける「アジア的生産様式」の存在については何人も否定することができない」と述べる。アジア的生産様式の第一規定は「封建的土地所有が国家的に集中されていること」であり、そこから「地代と租税の一致」が生じる。アジア的生産様式の第二規定は「小農業と手工業との強固な結合」である。そう書いた直後、服部は、実際には、幕末日本において、このアジア的生産様式の二つの基本的特徴はすでに失われつつある、と強調する。手工業と農業の結合は、家内工業やマニュファクチャーなどの商品生産の発展によって、消滅しつつあり、幕末にかけての土地私有(私的地主)の急激な増大によって、土地の国家的集中も、地代と租税の一致も破綻しつつある、と。
 服部は、幕末日本におけるアジア的生産様式の諸特徴はすでに自己を喪失しつつあったとしながら、「厳密な意味でのマニュファクチュア時代」の規定は、封建制一般従ってまたそのアジア的形態を、決して簡単には排除しない、と逡巡してみせる。一体、服部自身の見解はどっちなんだ、と言いたくなるが、本音は前者、つまりアジア的生産様式の消失、であったと思われる。
 「厳マニュ論」が示すように、服部は元来、幕末における経済発展の契機を重視していた。また、近代以降においても、発展の視点を失うことはなかったという意味では、講座派のなかでは少数派であった。その意味でも、アジア的生産様式の影響を古代についてならばともかく、近世から近代にまで深く及ぼすことには抵抗があったと思われる。
 戦後、服部は「野呂と私」(1951)において、野呂の国家最高地主説については当初より批判的であったこと、かつ「野呂がいわゆる国家最高地主説を完全に放棄したのは三二年テーゼに接したときいらいであるということを、私は聞いているがそれについては他日、書くことがあるだろう」と述べている。服部が国家最高地主説を批判したという『明治維新史』第二版(1930)「序文」は、戦後出版されたペリカン社版『明治維新史』(1967)に収録されているが、そこにそれらしい記述は見当たらないように思う。多分、幕末から維新への、土地所有の変化に関して、野呂との微妙な見解の違いを表出したつもりなのであろうが、それを国家最高地主説批判と呼ぶのは正直無理がある。
 それよりも、野呂が国家最高地主説を放棄した云々という記述の方が重要である。上述のように、羽仁が「国家=最高地主」を「土地所有の国家的規模の集中」と言い換え、服部が「封建的土地所有が国家的に集中されていること」と書いているところから、それを読み取るべきであろうか。むしろ逆であろう。「地代と租税の一致」に変更がない以上、野呂「国家=最高地主」説は、表現は変っても、維持されていると考える。
 服部の回想からは、むしろエッセー執筆当時の事情こそ注意されるべきであろう。筆者は、服部の「国家最高地主説」の放棄云々といった記述は、おそらく1950年代初頭の、党のイデオローグの誰かが言っていたことを反映しているのだろうと推測している。そうすれば、なぜ、岩波文庫版『資本主義発達史』(1954)から第四篇「日本における土地所有関係の特質」が「割愛」(削除)されたのかが理解できるからである。講座派理論の創始者野呂がアジア的生産様式論―すなわちアジア的停滞論―に肩入れしていたかのように映ることは、何としても避けたかったに違いない。因みに1954年版岩波文庫『発達史』の解説を書いたのは宇佐美誠次郎であるが、彼は1930年代中葉、浅海士郎の名前で『歴史学研究』に、アジア的生産様式に関して「文献目録」および論争の「紹介」を書いている。
 話を1933年当時に戻せば、もし野呂がすでに国家最高地主説を放棄していたとしたら、服部の羽仁批判は、もっと辛らつなものになったであろう。服部の羽仁批判、アジア的生産様式論批判が、極めて慎重に行われているのは、おそらく服部が、理論家としてもっとも信頼していた野呂が、そうではなかった、つまり、「アジア的生産様式に特徴づけられた封建制」「国家最高地主説」をいまだ堅持していたことを、逆に証明しているように思われる。さらに言えば、その羽仁は、すでに野呂と連絡をとりあう関係にあった。もし、野呂が「アジア的生産様式に特徴づけられた封建制」「国家最高地主説」に疑いを持つようになっていたら、羽仁の「東洋に於ける資本主義の形成」も、アジア的生産様式論として書かれることはなかったであろう。
 最後に、平野義太郎である。この時期における平野のアジア的生産様式への言及は、意外に少ない。『日本資本主義社会の機構』(1934)において、アジア的生産様式および国家的封建主義(アジア的生産様式の別名)に関する、二つの長い注がある。その一つは、徳川期の社会構成を古代アジア的生産様式に基づくものではなく、あくまで封建制であるとしながらも、徳川封建制の搾取状況を「アジア的搾取様式の遺制」によって特徴づけられているものであると述べる(平野 246頁)。もう一つでは、徳川封建制の性格がそれ以前の封建制に比較し統一への傾向が強いことを挙げると同時に、各藩は藩主を国王とした農奴制国家であるとし、年貢は地代と租税とが合一せる貢租であると述べている(平野 255頁)。
 この二つの長い注以外は、何といってもウィットフォーゲル『支那の経済と社会』(中央公論社 1934)掲載の監訳者「跋」が知られている。「跋」は、冷静に、同書が、科学的な中国研究の最初の書であることを強調し、とくに農業生産様式の具体的論述に類書にない特色があることを指摘し、ゴーデスに代表されるソ連学界のアジア的生産様式論批判によりこの大著の意義が減ぜられることのないように配慮している。また水の理論が地理的唯物論(地理的環境決定論)であるとの批判に対しては、自然的諸要因(すなわち水)は「生産力の水準の高さに依存してのみ、はじめて各種の役割を演ずる」ものであるが、資本制以前のアジア的社会のごとき、社会発展の低い段階においては、自然的諸条件が営む役割が大きいのだと説明している。
 平野は、アジア的生産様式の歴史的存在を認め、アジア的社会においては、古代アジア的生産様式から封建制へ移行するが、その後もアジア的生産様式の遺制が強く残るとして、野呂の「アジア的生産様式に特徴づけられた封建制」に(理論的に)整合させている。(続く)