中国的なるものを考える(電子版第81回・通算第123回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第88号 2019.02.15
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1930年代左翼のアジア的生産様式論 その五 
赤松啓介『東洋古代史講話』(東洋古代民族史)について

 前回では、野呂栄太郎の、アジア的生産様式に関する問題意識を継ぐものとして、羽仁五郎、服部之総、平野義太郎を取り上げた。今回は、主に古代史研究の分野において、アジア的生産様式を論じた理論家たちを取り上げみたい。
 とはいえ、早川二郎、秋沢修二、渡部義通、森谷克己などについては、この連載エッセーのなかで、すでに二、三度言及して来た。それらの言及が十分なものだったとはいえないし、また、その後、彼らの著作を何度か読み込むうちに、やや印象が変わってきたところもあるが、それを詳細に論じても、読者にとっては退屈であろうから、ここでは、これまでまったく言及したことのない人物をとりあげたい。
 まず、赤松啓介(本名栗山一夫 1909-2000)である。戦後、とくに1980年代以降「性の民俗学」の大家としてすっかり有名になった赤松は、戦前、マルクス史家として出発した。すでに『歴史科学』1935年1月号に「郷土研究状勢の展望」を、8月号に「東播の古代社会状勢概観」発表しており、特に後者は当時のマルクス史家としては貴重な考古学的手法によるものであった。赤松は、小学校高等科卒業後、大阪に丁稚奉公に出ている。その後、苦学、病による帰郷、大阪における就業を繰り返す。その間、社会主義活動に加わるとともに、考古学や民俗調査への造詣を深めている。1933年大阪での検挙後、郷里(現在の兵庫県加西市)に帰り、自転車による行商(「社会主義行商」)で生計をたてながら、郷里周辺の民俗学や考古学調査を進めていた。それ以前も、以後も、ずっと関西で活動してきた赤松の著作が、どのようにして中央(東京)の左翼誌に掲載されるようになったのかその経緯に興味をもっていたのだが、赤松の「回想」(『赤松啓介民俗学選集』第5巻「民俗学批評・同時代編」第三部)によれば、早川二郎や伊豆公夫の紹介であったらしい。同じ唯物史観に基づく考古学を志向した和島誠一との交流も長きにわたっている。そして意外なのは、佐久達雄(青山和夫、黒田善次)との関わりである。佐久達雄とは、戦闘的無神論者同盟(プロレタリア文化連盟傘下)以来の付き合いだという。そして佐久の紹介で、唯物論研究会に入会している。佐久については後述する。
 そして翌年(1936年)、赤松は最初の著書『東洋古代史講話』(白揚社)を発表する。
 目次は以下のようになっている。
 
 序
 第一章 東亜洪積世社会史
 第二章 東亜種族構成史
 第三章 東亜古代文化史
 第四章 東亜古代社会史
 第五章 東亜古代社会の特質
 
 アジア的生産様式を理論的な側面から扱っているのは、第五章であり、(1)アジア的生産様式の問題、(2)東亜古代社会の特質、(3)東亜古代社会の展望、の三節からなる。第一章では人類の発生から、旧石器時代までの概論を、第二章では、東アジア諸民族の形成を扱い、第三章は新石器から青銅器時代にかけての、第四章は階級と国家の発生をめぐる原始時代の歴史である。第三章以降は、日本・朝鮮・中国の農耕社会と北方アジアの遊牧民族を分けて論じている。農耕社会に関しては、とくに灌漑を重視している。たとえば、
 
 共同体はまだ小さかったから洪水の襲来があれば耕地を放棄して逃げたであろう。しかし年々歳々川床を高めて氾濫する黄河の流域を確定することが、やがて発達し初めた原始農耕にとって不可避的な要求となって現われる。かくて灌漑が大きな意義を獲得して登場した。初めは相隣する二、三の農業共同体が共同して堤を築く程度を出なかっただろうが、そうした小規模な協業が何らの役に立たぬことが判ったとき、より大きな協業の期待と実施が彼等に顕著な変化をもたらせる。氏族の聯合としての部族へ、部族の同盟としての種族へ、かくて種族同盟が形成され古代国家成立の前提条件が成熟した(赤松啓介民俗学選集第6巻 p.439)(注1)
 
 だが、だからといって赤松がマジャールやウィットフォーゲルのようなアジア的生産様式論を唱えているわけではない。赤松は、当時日本のマルクス史家がおしなべてそうであったように、ソ連の史学理論を尊重しており、とくにソ連における主流派であったゴーデスからコヴァレフへの流れに従っていた。
 赤松が『歴史科学』に登場した1935年は、ちょうど正統学説の、ゴーデス説からコヴァレフ説への転換期にあたっていた。ゴーデス説もコヴァレフ説も、そのからくりは同じであった。アジアの歴史は、①ヨーロッパと同じ歴史の普遍的な法則が貫かれており、且つ②アジアにおける奴隷制(古代)、封建制(中世)は、普遍性を体現している古典古代的な奴隷制や西欧中世封建制とは異なり、それぞれアジア的な特殊性を有する。
 このような歴史理論の問題は、現実の革命実践に直接結びついていた。たとえば①について、もし、アジア(特に中国)の歴史がヨーロッパとは本質的に異なった特殊性を持つものだとすると、人類の歴史発展の普遍性を体現したロシア革命から生まれた革命理論は、アジア(中国)には適用できない、ということになるからである。ソ連指導部に後押しされた理論家たちが、マジャールやウィットフォーゲルのアジア的生産様式論をやっきになって否定したのもそのためであった。また、②も重要な意味を持っていた。アジアの歴史においても普遍的な歴史法則が貫かれているとしても、それはアジア的特殊性を帯びており、非典型的である。それゆえ、アジア諸国においてたとえ革命が成功したとしても、その革命の質は、歴史の普遍性を体現したロシア革命には及びない、ということになるからである。
 アジア的生産様式を理論的に扱っている『東洋古代史講話』第五章において、例のマルクス『経済学批判』「序言」の著名な一節「極く大づかみには、アジア的、古代的、封建的及び近代ブルジョア的生産様式が社会経済的構成の進歩の段階であるということができる」(p.480)におけるアジア的生産様式に関して、赤松は、この叙述に関する限り、マルクスが独自の社会構成をつくるものとみなしていたことは否定できないと考える。しかも、古代的生産様式の前に置かれた、敵対的な生産関係に基づく以上、階級社会である。そこから、マルクスはアジア的生産様式に、「階級社会の原初的形態を見ようとした」との結論が出てくる。この辺は、正直な議論を続けている。
 この『経済学批判』「序言」の、アジア的→古代的→封建的→近代ブルジョア的、に発展するとのシェーマ(発展図式)をマルクスの「定式」と呼ぶことが多いが、実は当時、そのほかにも従わなければならない「定式」が存在した。レーニンの「国家について」(1919)における、奴隷制→農奴制→資本主義、であり、それはエンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』(1884)の社会発展論によって支持されていると考えられており、また後続のスターリンの歴史発展の五段階論(1938)におけるシェーマ、原始社会→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義、と一致するものであった。つまり、当時のマルクス史家は、マルクスの「定式」の理解だけでは、歴史発展の理論を考究することはできなかったのである。当然、赤松も同様であり、先のアジア的生産様式=階級社会の原初的形態説を維持することは難しかった。
 日本のマルクス史家にとって、ソ連歴史学界主流におけるアジア的生産様式に関する公式見解こそ従うべきものであった。1920年代末であるならば、マジャール『中国農村経済研究』に附された中国問題研究所(モスクワ)編輯局の「序文」が、当時の公式見解を代表していたと考えられた。1931年レニングラード討論においては、ゴーデスがそれを代表していた。そして、1930年代中葉以降は、コヴァレフ及びストルーヴェがそれを代表していたと考えられる。そして、それらすべてが独自の社会構成としてのアジア的生産様式を否定していた。中国問題研究所編輯局「序文」はアジア的生産様式を国家的封建主義であると規定し、ゴーデスはアジアに特有な封建主義だとした。それに対しコヴァレフは、アジア的生産様式は古代においてはアジアに特有な奴隷制であり、中世にあってはアジアに特有な封建制であると規定し、古代東方史専門家であったストルーヴェはアジアに特有な未発達の奴隷制、初期奴隷制であるとした。
 日本のマルクス史家は、これらソ連史学主流の見解の変遷に、その都度、振り回されながら、理論的研鑽を積み、試行錯誤のなかから何とか自己の理論的ポジションを構築しようとしていた。赤松は、その点において、早川二郎、相川春喜、森谷克己、秋沢修二といった先駆者の成果を吸収し、自らの理論的立場を固めていったと思われる。
 マルクスの「定式」中のアジア的生産様式を階級社会の原初的形態とする赤松の見解は、今日的視点からみれば、穏当なものであるが、当時はそうではなかった。たとえば、もし、人類の最初の階級社会は奴隷制であるとのエンゲルスやレーニンの言説に、合わせようとすると、アジア的生産様式は奴隷制とする以外になく、また、それに従わないとすれば、原始社会の最終段階とする以外になかった。その場合、『経済学批判』「序言」にある「定式」の各生産様式は「敵対的形態」であるとの記述と矛盾することになった。
 当時、おそらく、誰もレーニンやスターリンを疑うことはできなかったのであろう。皆、レーニンやスターリンの「定式」に基づいて、マルクスの「定式」を理解しようとしたのである。何よりも、1857-8年のマルクスはモルガン『古代社会』を読んでおらず、氏族社会の存在を知らなかった、それゆえマルクスの定式よりも、モルガンを摂取したエンゲルス『起源』以降の方がより正しいマルクス主義だとするゴーデス以来の便法(マルクスへの論難)が利いていたように思われる。
 それに赤松も従う以外になかった。あれこれ議論を重ねつつ、アジア的生産様式=東洋に特殊な奴隷制説に収束していく。だが、赤松の本音は、この、あれこれ議論するなかにおける、相川春喜、森谷克己、早川二郎などの所説の検討と、彼等の原初的な階級社会説(相川)および原始社会の最終段階説(森谷、早川)に対する共感なのであろう。相川への評価については、次のような一節がある。
 
 これ[コヴァレフ説]に対して相川氏は家内的及び国有奴隷制と古典古代的奴隷制の平面的な把握を批判し、両者を継起性に於て把握し前者の父家長制的奴隷としての追求によって前「奴隷制」社会を定立し、所謂アジア的生産様式を構造的特質として与えている。吾々は最も相川氏と一致するものだが、唯相川氏の如く父家長制を基礎とする先「奴隷制」社会を定立することに於て、決定的に対立するだろう(p.517)。
 
 このパラグラフだけではその意味合いを把握するのは難しいであろうが、赤松の真意は、相川とは立場は異なるが、共通した理解に立っていると言っているのだと思われる。相川は、原始社会以後の家父長制的奴隷制の下における社会を、古典的奴隷制に先行するアジア的生産様式にもとづく社会と考えていた。原始社会から階級社会への過渡期、原初的な階級社会をアジア的生産様式と呼んだのである。つまり、古代的生産様式に先行する原初的な階級社会の生産様式であった。家族形態としては家父長制家族であり、社会構成としては家父長制的奴隷制であった。所有形態としては、共同体財産の族長による占取が進行する共同体的私有とした。だが、この共同体的私有は、『ドイツ・イデオロギー』における古典古代的所有について述べられたものであり、それをアジア的生産様式の特質の一つとするのは、理論的に無理があり、相川説の弱点となった。ただ、渡部義通も、共有から私有への過渡期の所有形態として共同体的私有財産を挙げており、相川だけの発想ではなかった。が、渡部はこの共同体的私有(財産)を『ド・イデ』と関連づけずに使用しており、それゆえ理論的整合性を云々されることはなかった(注2)
 アジア的生産様式のマルクス本来の意味を階級社会の原初的形態であると解していた赤松が何故、相川の所説に共感したか理解できるであろう。それに対し、森谷克己は農業共同体説であり、早川二郎は貢納制説であった。だが、原始社会の最終段階である農業共同体においては宅地・園地を基礎に私有が拡大し、その私有と共有の二重性の矛盾が深まっていく。つまり、階級社会の萌芽が次第に成長していくプロセスのもとにある。
 
 吾々はマルクスのアジア的なる表象が『経済学批判』に関する限り独自の社会構成であることを認める。しかし、それはマルクスがまだ氏族制社会の存在を明瞭に知らなかったため、階級社会発生の原初的形態として当時の印度・支那等に特徴的に見られた村落共同体に、その萌芽を見出して一応アジア的生産様式として把握したのである(p.505)。
 
 この、階級発生の原初的形態としての村落共同体、という発想は、森谷説への接近を思わせる。また、早川が重視する貢納制においては、未だ階級社会であるとはいえないとしても、共同体による共同体の支配のもと、貢納を通じて上位の共同体による下位の共同体の収取が行われる。そのようなプロセスのもと次第に階級支配へ転化していくと考えられている。階級社会の原初的形態と原始社会の最終段階とは、切れ目なくつながっている以上、極めて接近した内容をもつことが理解できるはずである。それゆえ、森谷および早川が、農業共同体や貢納制における奴隷制的な要素を過小評価していることを批判しつつも、赤松は両説を丁寧に分析し、かつ、相川説も含め、各説の差異を明らかにしている。
 赤松のアジア的生産様式論において重要なのは、その停滞性に関する議論である。赤松は、相川と異なり、アジア的生産様式に代表される東洋的特質として「停滞性」の問題があると考えており、彼のアジア的生産様式に関する議論は、その停滞性の解明の議論でもあった。それゆえ、アジア的生産様式が、ソ連史学主流に否定されたとしても(そして赤松自身それに従ったとしても)、問題は少しも解決しない。なぜなら、マルクスがアジア的生産様式によって示そうとしたものこそ、アジアにおける停滞性だからである。
 マルクスが、奴隷制(古典古代世界)に先行する社会構成としてアジア的生産様式を挙げた時、そこで示されたものは何か、それが問題であった。それとは、
 
 即ち収取形態としての国家的土地所有、従って地代と租税の一致、農業にとって必須条件たる人工灌漑、支配形態としての東洋的専制政治、支配階級としての官僚、農村共同体の残存、不易性をもって反復される停滞性、農業と家内工業との合一結合、従って都市の永遠の未発達、これである(p.506)。
 
 このような停滞性への言及は、繰り返しなされている。
 
 即ち、ここに東洋の、アジア的停滞的特質が検出されている。これを要約すれば、農業に決定的な重要性を持つ人工灌漑に特徴づけられる自然的制約によって共同体が崩壊しないのみならず一層強化され、農業と農村家内工業の結合による殆んど完全な自足的性質の獲得は商業の未発達をもたらし、共同体の公僕であった官僚が治者階級に押し上り土地の国有を宣言し地代を租税として収取する所謂東洋的専制政治を強行し、それらは東洋に於ける静止的、停滞的性質を特徴づけた(p.508)。
 
 赤松は「水の理論」との批判を被らないように、灌漑農耕を停滞の主要因として挙げることはない。また、問題を、階級社会や国家の発生に限るならば、停滞性の要因として、家父長制、灌漑農耕、種族国家、種族奴隷もしくは国有奴隷など幾つもあげているが、それらはまず、氏族制の崩壊過程、奴隷制社会の成立に、大きく影響したとしている。すなわち、羽仁五郎や平野義太郎など1930年代の左翼知識人と同じく、基本的には氏族制や共同体諸関係の強い残存が、奴隷制もしくは階級社会の成立を遅らせた、と考えていたのであろう。
 『東洋古代史講話』はその三年後、『東洋古代民族史』(1939)として再版される。本文に変更はないものの、『講話』の「序」は、「はしがき」に書き改められ、また、『講話』にはなかった「あとがき」がつけ加えられている。ただ、本文にも、秋沢修二『支那社会構成』(1939)への補注にあたるものが、二カ所追加されている。その一つは、以下のようである。
 
 なお、秋沢修二氏は、近著「支那社会構成」に於て、アジア的生産様式の抹消を提言しておられる。私もアジア的生産様式がマルクスによって、一応把握されていたことは認めるが、その存在を確認し難いものと考えているのは明かにしてきた如くである。即ち、マルクスがアジア的生産様式として把握したのは氏族制社会が崩壊して奴隷制社会が成立するに至る過程であって、その崩壊と成立過程がアジアでは極めて徐々に進行したため、特殊の社会的構成であるものの如く誤認されたのであろうと思う。私達はそこにアジア的停滞的な特質の発生を見るので、そうした特質は奴隷制封建制を経て現代に至るまで発展を制約するものとなって存続していると考えられる(東亜古代民族史 p.242)。
 
 また、「あとがき」にも、以下のような記述がある。
 
 理論的にも日支事変前及び現在の情態に促進されて幾多の発展があり、特に秋沢修二氏の業績は最も注目されるべく、氏はアジア的生産様式の廃棄を主張され、また支那社会の継起的発展に関しては殷代末―周代初を種族奴隷制の時代とし、戦国・秦を経て前漢までを基本的奴隷所有者的構成の時代とし、後漢以後隋・唐に至る間を封建的社会構成への転化の時代とし、その確立を唐・宋時代に置かれているが、もちろん多くの異論があるべきは当然ながら、これが極めて示唆に富んだ卓見であることは明かであり、最近の東洋的特質解明を一歩前進せしめたものといってよかろう。
 
 秋沢『支那社会構成』もまた、アジア的社会の停滞性に関わる論稿であった。その「序文」は、アジア的停滞性の克服を、「七・七」(盧溝橋事変)以後の中国における「皇軍」による軍閥の一掃と占領統治に帰する一文があり、戦後、長く同書が指弾される原因なった。実は、『東洋古代民族史』「はしがき」にも似た記述が存在する。
 
 …かかる停滞性の故こそ一歩進んだ社会的発展への欲求が強烈であり、日本の積極的な意欲と支那の対抗が、かかる特質を解明するための実践的な回答として具象化された。歴史は今や東洋社会の停滞的特質を払拭すべき段階へ発展したのであり、かかる段階に於ける日本の世界的な使命と寄与は、全く歴史的な意味を持つものといえようし、そこにこそ私たちの大いなる希望と期待がある。
 
 『赤松啓介民俗学選集』(明石書店)の編者岩田重則もこの問題をどう評してよいのか、戸惑っているようである(選集第6巻「解題」)。また筆者も何か定見があるわけではない。だが、秋沢の「序文」にせよ、赤松の「はしがき」にせよ、当時の出版物、たとえば日本史研究などでは、どのような「序」が附されていたのか、それらを含め全体的に考察すべきであろう(阿部猛『太平洋戦争と歴史学』吉川弘文館 1999 参照)。さらにもう一つ、マルクスなど19世紀から20世紀前半にかけて西欧知識人が度々問題にしてきた「アジア的停滞性」とは一体何であったのか、再度検証されるべきであると考えている。
 従来、「停滞」とは低開発のことであった。だが、アジア諸国の経済発展が現実のものになるにつれ、見えてきた「停滞」も存在する。それは、マルクスなどが指摘した「アジア的停滞」と同じものであったのかどうか、検証すべき時期に来ている。
 次回は、今回言及するつもりであった佐久達雄(青山和夫、黒田善次)、そして鈴江言一と猪俣津南雄にまで、言及してみたい。
 
注1 筆者の手元には『東洋古代民族史』(白揚社 1939)しかないので、『赤松啓介民俗学選集』第6巻「東洋古代史講話」の頁数を付している。
注2 では、相川がなぜ、アジア的生産様式の規定的エレメント(共同体的私有)を、わざわざ古典古代に関連させたのであろうか。渡部のように、そうしない手もあったはずである。おそらく、相川は、そうすることによってアジア的生産様式の「アジア」とは、特定の地域を示す言葉ではなく、洋の東西を問わないものであることを示したかったに違いない。というのも、相川は、諸家のアジア的生産様式論が地域としてのアジアを指すがために、停滞論に傾きがちであることを厳しく批判していたからである。