中国的なるものを考える(電子版第82回・通算第124回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第89号 2019.07.29
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

1930年代左翼のアジア的生産様式論 その六
佐久達雄『東洋古代社会史』
 今回は佐久達雄のアジア的社会論である。佐久の本名は黒田善治(1907-1997)であり、戦後は本名で活動していたと思われる。そして、戦時中は中国の国民党支配地区(大後方)において青山和夫として抗日反戦活動をしていたことでも知られている。
 佐久(黒田)は、日本中学を卒業後、明治大学に入学したが中退している。日本中学は国粋主義者であった杉浦重剛が設立した学校で、岩波書店の創業者岩波茂雄も日本中学で学んでおり(安倍能成『岩波茂雄伝』)、当時よく知られた中学であった。歴史哲学や古代史を独学研究していた佐久は、赤松啓介と知り合い、その縁で戦闘的無神論者同盟に参加したといわれる(赤松啓介「和島誠一氏との四十年」『赤松啓介民俗学選集』第5巻)。次いで唯物論研究会に参加している。赤松とは意気投合したらしく、弾圧の下、左翼文化組織すら維持し得なくなった時期においても、なおも進歩的な文化運動の継続をはかろうといろいろと相談していた。1937年、赤松らが創刊した『兵庫県郷土研究』にも寄稿している。また、当時市川に住んでいた郭沫若と知り合い、懇意にしていたらしい。


 唯研の指導者戸坂潤の手記によれば、唯研には、その一部門として史的唯物論研究会、歴史研究会が置かれたとある(戸坂潤手記「唯物論研究会に就て」)。また、渡部義通の回想(『思想と学問の自伝』河出書房新社 1974)では、彼らが参加した組織は、唯研歴史部門となっており、多分、上記の歴史研究会のことであろう。唯研歴史部門では、1933年5月、服部之総、相川春喜などにより、アジア的生産様式に関する討論が行われ、21人が出席したとある。そして、同年11月に、佐久、渡部、三浦恒夫を中心に「氏族制度の解体過程」をテーマに研究会が行われ、佐久による、古代史研究資料の紹介・批判が行われたとある(渡部)。そして、佐久は33年11月に『日本古代社会史』を、34年2月に『東洋古代社会史』をともに白揚社から出版している(写真参照)。アジア的生産様式論が述べられているのは後者においてである。
 筆者が十数年前、「アジア的生産様式論争:戦前日本編」(『アジア的生産様式論争史』所収)を書いた時、佐久『東洋古代社会史』について言及することはなかった。正直に云うと、理論的な面において、とても水準に達しているとは思えなかったからである。もっと露骨に云えば、滅茶苦茶、という印象であった。相川春喜『歴史科学の方法論』(白揚社 1935)は、佐久について、「…佐久達雄氏『東洋古代史』に於ける若干逸脱的な論鋒。」とだけ寸評している。「逸脱」とは、相川にしてみれば、随分遠慮した表現だと思う。相川は、権威やライバルだと思った相手に対しては猛然と批判を仕掛けていたので、この寸評ですますというのは、多分、それ以上評するには値しないという意味でもあろう。1930年代のアジア的生産様式論争について、どの著作から読めばよいかと聞かれたら、相川の『歴史科学の方法論』が一番良いと思う。彼のアジア的生産様式論が正しいとは思わないが、論敵に対する公平な距離感が見られ、十分参考になる。当時、彼が25歳だったことを考えれば、相川(1935)は秀逸だったと思う。
 昨年、もう少し理解できればと思い、再度『東洋古代社会史』を読んでみた。ノートはいつもより丁寧にとった。今回、それを見ながら書いているが、ノートは意味があると思われるところだけを丁寧に抜粋したので、かなりわかるようになってきた、という印象である。
 こういう場合は、結論から言う方が良いと思う。まず、佐久は、郭沫若を支持している。郭沫若のアジア的生産様式=原始社会説を支持している。マルクス主義東洋史研究における郭沫若の位置について、佐久は次のように述べる。
 
 東洋に於けるマルクシズム運動が展開されはじめるや、その進展の程度において、東洋の歴史的研究は東洋人にとっても、またマルクス主義者にとって意義をもって来た。そして終に東洋の歴史の東洋人による研究が展開された。この歴史的意義は中国古代社会の研究として郭沫若氏によって第一歩をふみ出された。ここに初めてマルクス、エンゲルス以来の最初の東洋人による東洋の過去の解明が出発された(佐久 1934  p.4)。
 
 郭沫若の著作とは『中国古代社会研究』(1929)である。また、アジア的生産様式をめぐる議論における郭沫若の位置については、
 
 この困難なる培いによって数多くの東洋史の認識が生まれた。中国に於いても、日本に於いても、またソヴェートに於けるアジア的生産様式の討論に於いても、郭氏の研究以後、問題ははじめて具体的に展開された。郭氏以後、唯物史観による東洋研究はこれ等の諸研究を直観すると、共通した一つの大きな欠陥がある。それは所謂世界史の一環としての「東洋的」なるものの研究が殆ど抹殺されていることである(佐久 pp.4-5)。
 
と問題を提起する。これでは、まるで、郭沫若の研究が、アジア的生産様式論争に新紀元をもたらしたかのような言い方である。一体、どの辺において、そうなるのであろうか。
 
 然るに現代の日本に於けるマルクス主義東洋研究家の大部分は、マルクスが『資本論』の中で述べた本来の・原生的の・厳密なる意味の一つの経済的関係、及びそれに付帯して分析した「東洋的」なるものを、そのまま直接一つの社会構成を意味するものと解釈してしまった。それぞれの社会構成にあるそれぞれの経済的関係を、マルクスとは反対に、東洋的経済関係、即ちそれ等は何等かの単一の社会構成を指す特徴として捉えたのである。即ち問題は明らかである。マルクスを逆立せしめ、そして世界史の一環としての「東洋」なるものを捉えずして、無理に東洋的なるものを発見し様とした事となる(佐久 p.6)。
 
  おそらく、このパラグラフを理解できるのは、戦前のマルクス主義文献を読みなれた人々だけであろう。筆者も最初、判断に苦しんだ覚えがある。ただ、長年、このような文献を読みつけているので、理解の糸口はある。上記のパラグラフにおける、マルクスの、とくに『資本論』のなかでアジア的社会に関して述べられているものを、それを一つにまとめ、東洋に独自な社会構成を意味するものと解釈する、という意味は、東洋には独自な社会構成があると主張する人々の見解を指している。東洋に独自な社会構成とはアジア的生産様式(に基づく社会構成)のことであり、それを主張する人々とは、マジャールなどアジア派と呼ばれた人たちであった。
 マジャールなどアジア派が、歴史上における「東洋に独自な社会構成」を認め、それが中国の現状に強く影響していることを強調していたのに対し、ソ連史学の主流は、マジャールなどアジア派を批判し、アジア的生産様式が独自の社会構成であることを否定し、アジア的生産様式とは封建制の一種である、と主張していた。つまり、アジアの歴史発展も、ヨーロッパの歴史発展とは異なることがないのだ、ただ、同じ封建制のなかの、異なったタイプにすぎない、ということになる。
 なぜ、そのようなことが問題になるかといえば、もし、アジア的生産様式が独自の社会構成をなすものと認めるとすれば、アジア(とくに中国)の歴史は、ヨーロッパとは異なった歴史を歩んできたということになる。人類の歴史発展人類の歴史発展は、ヨーロッパの歴史をもとに構想されており、且つ、ロシア革命の成功はその普遍的な歴史発展の法則を証明するものと考えられていたので、もし、中国社会がアジア的生産様式に基づくものであったり、あるいは古代アジア的生産様式の遺制が強く残っているとすれば、ロシア革命の勝利をもたらしたソ連共産党の戦略・戦術が、中国革命において有効かどうか、疑問となる。つまり、ソ連(コミンテルン)が中国革命を指導しうるかどうか、問われることになる。これは、ソ連指導部にとって許しがたい問題であった。それゆえ、その意を体したソ連の理論家たちがマジャールなどアジア派に対し批判の十字砲火を浴びせたのは当然であった。
 だが、先ほどのパラグラフでは、郭氏以後の唯物史観による東洋研究の欠陥として「所謂世界史の一環としての「東洋的」なるものの研究が殆ど抹殺されている」ことを挙げていた。普通に考えれば、「東洋的」なるものの研究だから、東洋の独自な歴史にこだわればよいのではないか、ということになるが、そうではない。世界史の一環、とあるところが曲者なのである。つまり、世界史を貫く普遍的な法則が東洋の歴史にも貫いており、それを前提として、その枠組みにおいて、「東洋的」なるものの研究が存在するのである。だから、マジャールなどアジア派の「東洋的」なるものは、世界史の一環としてではなく、それとは別の独自なものの探求であり、誤っているということになる。因みに、エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』およびレーニン「国家について」などに示された、世界史の一環という枠組みのなかに、アジア的生産様式は存在しえず、それは奴隷制か、封建制の一種ということになる。
 
 「世界史の一環としての東洋的なるもの」これこそ唯物史観によってのみ正しく解釈され、また唯物弁証法の法則に最も則したところの現れでなければならない(佐久 p.9)。
 
 そう考えれば、先ほどの二番目のパラグラフの
 
 マルクスを逆立せしめ、そして世界史の一環としての「東洋」なるものを捉えずして、無理に東洋的なるものを発見し様とした事となる(佐久 p.6)。
 
の意味が理解できるであろう。だが、佐久が批判しているのは、実はアジア的生産様式論者マジャール等だけではない。そのことは、次のパラグラフに示されている。
 
 「アジア的生産様式」に対して積極的に議論に参加した殆ど大多数の研究家は、プレハノフ、ラデック、ヴァルガ、ヴィットホーゲル、マジャール、ゴーデスを通じて「東洋」の社会的経済構成としてではなく、「東洋的」な、自然的結合の普遍性として、「東洋的特徴」を観めているにも拘らず、これを「東洋的特徴をもつ社会構成」と誤認している(佐久 pp.6-7)。
 
 文中の「観める」は「ながめる」であろう。これもまた、難解な文章である。ここに名を挙げているプレハノフ、ラデック、ヴァルガ、ウィットフォーゲル、マジャール、ゴーデスは、確かにアジア的生産様式論争の参加者ではあるが、実はその理解はみな異なっており、普通、一緒くたにまとめて論じうるような顔ぶれではない。また、「東洋的」な、自然的結合の普遍性として、のくだりは、乾燥地帯とか湿潤地帯といった自然的条件、またはそれらと農業の関連について言っているのであろうか。つまり、水との関わりであり、「東洋的特徴」を形づくるものと考えられているものである。たぶん、全体の文意は、
 
 研究家たちは、アジア的生産様式を、「東洋」の社会的経済構成としてではなく、「東洋的特徴をもつ社会構成」と誤認している。
 
ということになるであろう。ただ、これが意味を持つためには、前段の、「東洋」の社会的経済構成が、世界史の一環としての「東洋」の社会経済的構成、であり、かつ後段の「東洋的特徴をもつ社会構成」が、世界史の一環としてではない独自な「東洋的特徴をもつ社会構成」でなければならない。そうすれば、
 
 研究家たちは、アジア的生産様式を、世界史の一環としての「東洋」の社会的経済構成としてではなく、それとは独自の「東洋的特徴をもつ社会構成」と誤認している。
 
となり、ようやく意味が通じてくる。
 問題は、この諸家のなかにマジャールとマジャール批判の急先鋒であるゴーデスが同じ列に並んでいる、ということである。アジア的生産様式論争の最後の局面である1931年2月のレニングラードのコム・アカデミー主催の討論会において、マジャール学派を痛烈に批判し、一躍、ソ連史学の主流に躍り出たのがゴーデスであった。佐久は当然それを知りつつマジャールとゴーデスを一列に並べたのである。このようにマジャールとゴーデスを並べる例は文中に他に3例ほどある。さらに、マジャール、ヨールク、ゴーデスを並べたものが1例である。
 もちろん、佐久はゴーデスがマジャールを否定した人物であることを知っている。だが、ゴーデスはマジャールを指弾したにもかかわらず、マジャールと大差ないと考えている。
 
 マジャールに反対するゴーデス学派にあっては、その「水びたし批判」にも拘らず、問題の対象はマジャールの場合と大差はない。ここでは、『資本論』中に述べている「封建社会」における場合の諸例もその限定に於いて捉えず、あらゆる種々なる適応の現象の形態をことごとく封建的関係と認めている。この為にゴーデス及その支持者はマジャールの提供した井田制を、アジア的特徴をなしアジア的生産様式たる封建制のものと理解している(佐久 p.50)。
 
 水びたし批判とは、ソ連におけるマジャール批判において、マジャールなどの水の理論を「水浸しの理論」と揶揄したことを指す。
 
 マジャールにあっては、「アジア的生産様式」を独自なギリシャ、ローマに対立する東洋の社会的構成と規定する為にすべてを人工的灌漑によって解決しなければならないのである。一方ゴーデスに於いては、頭から封建社会と規定するがために、結局彼のマジャール批判に自己矛盾しなければならないのである。即ち東洋社会のこれらの特徴を、マジャールにあっては中国の井田制を通して農業共同体、人工灌漑、専制政治を見るのであるが、ゴーデスにおいても同じものを単に封建的諸関係で捉え様とする(佐久 pp.51-52)。
 
 この二つのパラグラフにおいて、佐久は、井田制にこだわっている。そして、その井田制をマジャール学派はアジア的生産様式の諸特徴と見なし、ゴーデス等はアジア的特徴を持つ封建制的諸関係と見る、と批判している。佐久は井田制が歴史上存在したとみなしていたようであるが、ここではその是非を問題にしない。では、井田制に代表される土地制度は、いずれの社会構成、あるいはいずれの時期区分に属するのであろうか。佐久が、井田制に現れるような社会を、家父長制で理解しようとしているところをみると、原始社会ということになろう。
 佐久はその理論的根拠として、『ドイツ・イデオロギー』の所有形態論と、『経済学批判』「序言」の定式における各生産様式の継起性を比較し、アジア的生産様式=家父長制社会、を導き出す。佐久の主旨は以下のとおりである。
 
 『ドイツ・イデオロギー』における各所有形態(佐久 p.21)
 1. 父家長制=種族財産          =農耕労働
 2. 奴隷制=古代的な公共団体及び国家財産 =農耕労働
 3. 身分=封建的若しくは身分的財産    =産業労働
 4. 階級=(資本制)            =産業労働
 
 『経済学批判』「序言」における定式(佐久 p.22)
 1. 父家長制=種族財産=大づかみにはアジア的生産
 2. 奴隷制=古代的な公共団体及国家財産=古代(ギリシヤ、ローマ)的生産
 3. 身分=封建的若しくは身分的財産=封建的生産
 4. 階級=(資本制)=近代資本家的生産
 
 即ち、『経済学批判』「序言」定式におけるアジア的生産様式は、『ドイデ』所有形態論における種族財産(最近の訳語では部族所有)に相当する。つまり、原始社会の所有形態なのだ、ということになる。アジア的生産様式=原始社会説は、郭沫若説である。佐久のわかりにくい説明を、ここまで我慢して追ってきたのは、佐久のマジャール、ゴーデスを一緒に並べて批判する論法が、もともとは郭沫若に由来するのではないか、という筆者の推測からである。
 1950年代後半から1960年代前半にかけての中国において、郭沫若、田昌五等はアジア的生産様式=原始社会説を唱えた。彼らは、中国の歴史の特殊性を強調するアジア的生産様式論に対し、敵対的であった。だが、アジア的生産様式論を批判するゴーデス説やストルーヴェ説に対しても対立的であった。とくに、後者、ストルーヴェの古代東方型奴隷制説は、1950年代にはソ連史学主流を代表する学説として中国でも支持者が多かったが、郭沫若はそれに対しても反対であった。というのも、古代東方型奴隷制説は、初期奴隷制説、未完成の奴隷制説とも言われているように、中国史における最初の階級社会は奴隷制であることを認める点においては、世界史の普遍性が貫いているとしながらも、共同体諸関係などが強く残っており、それゆえ、奴隷制の初期の段階であり、古典古代の奴隷制に比べ、未完成の段階に止まるものとみなしていた。決して成熟した奴隷制にはならないと規定していた。
 じつは、ゴーデスのアジア的封建制論も、ストルーヴェ等の古代東方型奴隷制論も、アジア的社会における灌漑農耕を重視する観点をもっていた。極端にいえば、アジアの歴史に奴隷制とか、封建制(農奴制)とかを認めさえすれば、ストルーヴェ等はそれと古典古代奴隷制や西洋中世封建制との違いを強調するため、アジアにおける灌漑農耕、治水・灌漑など水利事業の重要性を持ち出すことに躊躇しなかった。
 ということは、中国がたとえ、原始社会→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義へと、世界史の普遍的な法則に則って発展したとしても、それはヨーロッパの歴史発展の最高段階にある社会主義の祖国ソ連に比べ、特殊なもの、劣ったものを意味することになる。郭沫若、田昌五などはその意図を察し、ソ連史学主流の受け売りとは距離を置くと同時に、そのようなアジア、ヨーロッパの枠組みに捉われない発展図式(シェーマ)を構想していた。つまり、アジアの奴隷制も古典古代の奴隷制も、さらにアジアの封建制も西欧中世の封建制も、それぞれ類型は異なるが、奴隷制として、封建制として、発展段階としては同じであると規定したのである。
 筆者は以前、このような郭沫若や田昌五の発想、考え方を、1950年代後半以降の、中ソ論争の進行との関連において考えていた。だが、今回、佐久論文の理解から、そのような郭沫若の発想は1930年代にはすでに萌芽的に存在したのではないかと考えるようになった。それが懇意にしていた佐久との議論を通して、佐久の著作に反映したのではないか、と。郭沫若は、1930年代前後のアジア的生産様式論争における、アジア派および反アジア派の議論から、その表向きの議論とは別に、中国の歴史を普遍的な歴史発展法則を具現したものではなく、特殊なものとして規定する強い意図を感じたのである。そして、歴史家として自らが置かれた状態を、また研究および実践の対象としての中国自身を、なにか身動きのとれない状態に置かれているものとして、感じるようになったのではないか。
 多分、佐久は率直な、物怖じしない人物であったと思われる。それゆえ、郭沫若とも腹蔵なく何でも話すことができたのではないだろうか。郭沫若もそれにこたえて、まだ公には書いたことのないものまで語ってしまったのではないか、そして佐久もそれに共鳴したのではないか。
 因みに、『日本古代社会史』(1933年11月26日発行)には、アジア的生産様式に対する言及はない。また、奴隷制や封建制など経済的社会構成についての論及もわずかである。郭沫若に関する記述も「この東亜に於ける最大、最古の驚嘆すべき中国文化の発展は、その起源と古代社会の研究が郭沫若氏によってブルジョア史家の足下にも及ばない研究が進められている」と述べつつも、その研究内容について触れてはいない。日本古代史に関する著作なので、郭沫若の中国古代史研究への言及がなくとも、不思議なことではないが、アジア的生産様式への言及がないことは奇妙である。そして、『日本古代社会史』発行の3ケ月後、『東洋古代社会史』(1934年2月25日発行)が出版されている。
 佐久は、おそらく、二つの著作の執筆時の間において、郭沫若のアジア的生産様式に対する考えに触れる機会を持ったのではないか。そう推測している。