中華点点(第1回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第1号 2004.5.15   
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武 昌 魚   ウーチャンユイ

 

 しばらくまえ、武漢にいった。同乗のガイドさんに、なにかの話のついでに教えられ、「武昌魚」(ウーチャンユイ)というさかながいると、はじめて知った。
     いましがた 飲みしは 長沙の水 なるに
     はや くらう 武昌の魚
 毛沢東の詩のあたまである。わたしはこれを「武昌の魚(うお)」と訓んでいた。原文は「纔飲長沙水 又食武昌魚」。
 うえに詩としるしたが、これは詞(ツー)の句で、詞の型は「水調歌頭(すいちょうかとう)」、題は「遊泳」、一九五六年六月の作。
 たしか、バスで荊城(けいじょう)を出発し、武漢に到着して昼食ということになった。とくべつに「武昌魚」を注文したところ、なかなかでてこない。テーブルの料理はあらかた食べつくしたので、めったにしないのだが、催促した。すぐです、だったか、もうしばらくお待ちをだったか、いちおう返事はあったが、それからけっこう待たされた。
 ようやく、はこばれてきた。ひらめ、かれいのような、ひらべったい魚である。
 口にいれて、おどろいた。美味なのである。蒸しかげんもよかった。
 この魚はエラをめくると、小さな骨があって、その骨が「武昌魚」のあかしなのだという。時間がかかったのも当然とおもわせるような、おいしさだった。
 毛沢東の、この詞(ツー)は九十五字で、この詞型は二段、前段と後段が同じ型である。
 引用したつづきは、こうである。
     万里の長江 よこぎって およぎわたれば
     目(まなこ)のかぎり 楚天(そてん) ひろがる
     風ふくとも 浪うつとも かまわじ
     しずけき庭を すずろあるきするより まさりたり
     きょうは くつろぐ ひまを えぬ
     子(し) 川の上(ほとり)にありて いえり
     「ゆくものはかくのごときか」と
 原文は省略しよう。後段は、三峡(さんきょう)にダムをつくる構想がうたわれている。二句だけ引用しよう。
     巫山(ふざん)の雲雨(うんう) たちきりて
     高き たにに たいらなる湖(うみ) を いだせ
 武昌魚をたんに武昌の魚ととったむかしの拙訳のあやまりをここに訂正しておきたい。(旧訳は『毛沢東 その詩と人生』文芸春秋1965年4月。武田泰淳と共著)
 長沙の水も、ただものではない。
 長沙の城門、南門の外に白沙水という井戸があって飲用に適することで有名だったし、岳麓山の山中にある白鶴水という泉の水は、むかしは北京に送って皇帝の飲用に供されたし、また市内に残る賈誼(か・ぎ、漢代の文学者)の旧宅にも井戸があって賈傅井(かふせい)とよばれていた、という水にかんする逸話が少なくない。
 長沙の水を飲んだのだから、毛沢東はまず長沙をたずねたのだろう。かつてまなんだ師範学校をのぞいたかもしれない。それからさらに武昌、漢口、漢陽、いわゆる武漢三鎮をたずねたのだ。長江で泳ぎをたのしんでいる。
 毛沢東の泳ぎはよく知られている。師範学校の学生時代にも、長沙にながれる湘江(しょうこう)で泳いでいる。
 われわれは国技館で演じられる相撲(すもう)をみても、べつになんともおもわないが、儒教のおしえをうけたひとたちは、裸体になって相手(その相手も裸だ)ととりくむというのは異様であり、考えられないことである。
 泳ぎは裸になる。水泳というスポーツは近代になって中国にはいったので、外来のものという観念から、それまでの壁を突破したのだろう。
 そして、毛沢東個人は、自分の肌でこの大陸の風土に接し、そこから行動する術を会得(えとく)したのだろうか。
 会得したとすれば、それはどんな“中国”だったのだろう。
 かれがこの詞(ツー)を詠じた三カ月まえの二月、ソ連ではソ連共産党の二十回党大会でフルシチョフがスターリンにかんする秘密報告をおこない、スターリンがおかした誤りのかずかずを暴露し、やがて『ニューヨーク・タイムズ』がこの報告全文を掲載(六月四日)、世界が震撼したのだった。そして、四月には共産党の国際的な組織、コミンフォルムが解散されている。
 世界中の共産党員が顔面蒼白となったといっても、いいすぎではない。
 フルシチョフはこの秘密報告を国内はもとより、国外の共産党にあらかじめしらせなかった。中国共産党も例外ではなく、「寝耳に水」だった。
 しかし対応ははやかった。この年の二月十四日から毛沢東は国務院の各部の情況のききとりをはじめ、四月二十四日までに三十四の部門の報告をきいていて、その結果を「十大関係を論ず」と題してまとめ、報告をおこなっていたのである。これにさきだつ一月にはこれまで冷遇されていた「知識分子」(大学教授、研究者、芸術家、作家など)にたいする政策の転換もはじめていた。
 二月二十五日に重工業部の報告会の席上、周恩来総理は、資本主義諸国にも人を派遣して技術を学ばせるべきだと発言し、毛沢東はこれに賛成している。情況報告を各部門から聴取するのは、建国いらいのソ連一辺倒(いっぺんとう)政策をみなおす必要があると、毛沢東が気づきつつあったからだろう。
 二月には学術、芸術、技術分野での自由化をみとめる方針を中央宣伝部長・陸定一(ルー・ティンイ)が発表している。こうして「百家争鳴、百花斉放」(ひゃっかそうめい、ひゃっかせいほう)がスローガンとして新しくいわれるようになった。
 三月にはソ連共産党大会に出席した代表団(団長はケ小平)が帰国し、その報告をきいて討論がおこなわれ、スターリン問題について中国共産党としての意見を表明した「プロレタリア独裁の歴史的経験にかんして」という論文が発表された。『人民日報』四月五日。
 さいきん、中国で出版されたばかりの『毛沢東伝 一九四九−一九七六』は「『十大関係論』から第八回党大会まで・上」という章(十三章)でこのあたりの経緯についてのべている。(中共中央文献研究室編 主編 先知 金冲及 中央文献出版社 2003年12月)
 毛沢東が武漢で武昌魚を食べたときは、スターリン批判にからむ中国共産党の措置は、いちおうの落着をみていたのだった。
 しかし、批判の余波はかたちをかえてつづき、十年の動乱といわれる文化大革命の発動も、けっきょくは、ここからはじまっていたのである。
 以上の拙文をしるした二、三日あと、なにげなく書架の一冊をとり、ひらいた。文化大革命の起点を、やはり一九五六年においている。ロデリック・マックファーカーの論文である。
 この論文を収めた論文集を編著者の国分良成教授から頂いていながら、念をいれて拝読したのは、このときだった。失礼をしたが、武昌魚のいんねんで、あらためて一九五六年の意味を考えたのだった。論文集は『中国文化大革命再論』(慶應義塾大学出版会 2003年3月)。

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