中華点点(第2回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第2号 2004.7.15   
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沈黙の塔
 

AERA '02.10.28
 北京のとあるホテルの図書室で、この写真にであった。
 写真の表題は「沈黙の塔」。森鷗外に同名の短編があり、魯迅が訳していて、気になっていた。
 この写真ではじめて現地の光景を見たのだ。
 鷗外の短編は明治43年、1910年、執筆、11月1日発行の雑誌『三田文学』に掲載。さらに翌年1月3日発行の単行本『ツァラトゥストラ』に序文として掲載。原著者はいうまでもなくニィチェで、訳者は生田長江(いくた・ちょうこう)、新潮社発行。ほんやくはベストセラーになり、ニィチェは一躍して日本の読者界にしられた。
 鷗外が執筆したとし、大逆事件が発生している。事件が発生したというより、天皇暗殺をくわだてた(それで「大逆」という)とする口実で、大量検挙がはじまり、6月1日、首謀者として幸徳秋水が逮捕された。
 裁判は異例ともいうべきスピードですすみ、翌年1月18日には24名に死刑の判決が下り、24日、幸徳ら11名、翌25日、菅野きんの死刑が執行された(12名は無期に減刑)。
 写真は小説とちがう。鷗外はつぎのように描写している。(引用にあたってひらがなをふやし現代かなづかいとした)
    高い塔が夕の空にそびえている。
    塔の上に集っている鴉が、立ちそうにしてはまた止まる。そして啼きさわいでいる。
    鴉の群れをはなれて、鴉のふるまいを憎んでいるのかと思われるように、が二三羽、きれ
   ぎれのなき声をして、塔に近くなったり遠くなったりして飛んでいる。
    疲れたような馬が車を重げに挽いて、塔の下に来る。何物かが車からおろされて、塔のな
   かに運びいれられる。
    一台の車が去れば、次の一台の車がくる。塔のなかに運びいれられる品物はなかなか多
   いのである。
 塔のなかに運びいれられる品物がなんであるか、?外は示していないが、つまりは死刑に処せられた無政府主義者、社会主義者のなきがらなのである。
 逮捕されたひとが「無政府主義」「社会主義」というおそろしい主義をもっていたのは事実だったろう。しかし、思想を信じることと、それを実行することは別個のはずで、そもそも実行の計画は幸徳秋水にはなかったのである。
 無政府主義、社会主義の思想の信奉者を逮捕するにあたって、政府高官や官憲はまず自分たちが、これらの思想についてまるで知らないのにうろたえたようである。
 実力者の山県有朋は陸軍軍医総監である森鷗外をよび、知識を仕入れたという。このへんの経緯については、すでにくわしい研究があろう。
 わたしは想像するのであるが、森鷗外は山県有朋の思想弾圧を察知し、内心では賛成ではなかったとおもわれる。しかし、知識は知識として山県にたいし講義をせざるをえなかった。それで山県に知識を伝授したあと、「沈黙の塔」というこの短編を執筆、そのなかに自分の無政府主義、社会主義にたいする理解を婉曲にしるしたのだとおもう。
 この、いわゆる「大逆事件」は当時の知識人に重い衝撃をあたえた。永井荷風は日本の将来をみかぎったし、石川啄木もまた閉塞する社会というものをひしひしと感じた。
 これはこれで、論じなければならないが、わたしの疑問は魯迅が、よくもこの鷗外の短編を発見し、中国語に訳したな、しかも『現代日本小説集』に収録したな、ということである。  
 ただし、いまここで考えを改めなければならないのは、単行本としての『現代日本小説集』を編集出版したさい、魯迅はこの短編を収録しなかったのである。これもなぜ省略したかという新しい疑問になるが、『魯迅全集』第十一巻所収の『現代日本小説集』には収録されたかたちではいっているので、わたしは誤解していた。
 それにしても、この鷗外の短編に着眼した魯迅の眼力はすごい。
 魯迅は訳文を『晨報』副刊、1921年4月21〜24日に、「訳者附記」をやはり24日に掲載している。訳出した底本は、生田長江訳『ツァラトゥストラ』序文としての「沈黙の塔」で、かれはニィチェに関心をもっていたので、この訳書を入手したのだろう。
 1911年は辛亥革命のとしで、魯迅はすでに帰国していた。大逆事件の検挙やその死刑執行にたいする日本社会の反応を肌で感じることはなかったとしても、危機をはらむ中国の社会的空気とむすびつけて考えるところはあったろう。
 沈黙の塔は火葬をしなかったゾロアスター教の墓地で、ここになきがらを葬って鳥についばませるのである。
 ゾロアスター教は日本語訳、中国語訳とも拝火教と訳される。この火は太陽のことでもあると、「訳者附記」で魯迅はいっている。ゾロアスター教を日本の天皇崇拝とむすびつけているのだ。
 写真は『アエラ AERA』2002年10月28日号、朝日新聞社、コラム<世界の遺産>、写真と文=須田郡司。雑誌入手については堀内正範氏にお世話になった。
 現地はイランのほぼ中央、ヤズド市郊外−、サーファーイーイエ地区のはずれ。
 ここに何十人となく死者のなきがらが運びこまれると鷗外はしるしている。