中華点点(第6回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第6号 2005.3.15   
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こおろぎの話(4)

秋瑾というひと(1)
   
 秋 瑾
 ( 武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す』 筑摩書房
 1968年3月/1969年5月三刷 )

                          ◇      ◇     ◇

 秋瑾(しゅうきん)という革命家が、清朝末期、いた。
 いまのことばでいえば、テロリスト。
 当時の‘革命’は暗殺が主たる手段で、これに集団をつくって武装蜂起するという行動がともなっていた。
 各地にある清王朝の行政機関を襲撃するのである。行政機関といっても、(警察と裁判所をかねていたから、)司法機関でもあった。
 秋瑾は武器を準備、蜂起を決行しようとしていて、逮捕、処刑された。
 紹興酒で有名な浙江省(せっこう・しょう)紹興(しょうこう)のひとだった。ざっと、のべると、

 秋瑾 清朝末期の女性革命家。本名、閨瑾(けいきん)。のち、閨を削って瑾とした。字(あざな)は璿卿(せんけい(きょう))、号は競雄。紹興のひと。1875-1907。幼いときから文才があったが、富裕な商家に生まれた夫と話があわず、ついに婚家を出て日本に留学。革命運動に共鳴、加入、帰国して光復軍(こうふくぐん)を組織したが発覚、逮捕、紹興市内の軒亭口の刑場で刑死。
 辞世の句は「秋風秋雨 人を愁殺(しゅうさつ(さい))す」。(秋風秋雨愁殺人)。
 ただし当時の新聞はすべてはじめの四字を「秋雨秋風」とし、彼女もこのようにしるしているという。

 ここにかかげた写真はスラリと担当をひきぬいて、いわば誇示している。
 この短刀が、じつは魯迅のもちもので、彼女は写真を撮るさい、魯迅からこれを借りたのだというのが、わたしの推定である。
 魯迅と秋瑾は、’革命’について、あつく語りあったのだとおもう。
 この短刀は両者に共通する’革命’へのおもいをしめしているとおもう。

                          ◇      ◇     ◇

 秋瑾のおもいは、つぎの自作の詩、七言律詩にうかがわれよう。まず、訓読(くんどく)、ついで原文をかかげる。

儼然(げんぜん) 望みてあるは これ 何人(なんびと(ぴと))ぞ
俠骨(きょうこつ)の前生(ぜんせい) 身(み)を寄せしをくやむ
すぎたる世の からだ もと これ まぼろしなり
未来の境界(きょうかい) むしろ うたがう 真(まこと)ならん
逢(あ)うが おそきをうらみ 情(じょう) あつまる べし
仰いで なげき 気 ますます ふるう
いつの日か あわん わが むかしの友に
いまや いわん うき世の塵(ちり) 掃きすてたりと


儼 然 在 望 此 何 人
俠 骨 前 生 悔 寄 身
過 世 形 骸 原 是 幻
未 來 境 界 却 疑 眞
相 逢 恨 晩 情 應 集
仰 屋 嗟 時 気 益 振
他 日 見 余 舊 時 友
為 言 今 己 掃 浮 塵


 詩の題は「みずから小照に題す」。
 小照の小は自分のことを謙遜していった。照は写真。中国語で写真は「照像」という。像は肖像。むかしはスナップ写真ではなく、もっぱら記念写真をとった。
 これは冒頭の写真にピッタリであるから、この写真をとったときの作かとおもわれやすい。しかし留学に出発する以前に男装の写真をとり、この詩をつくったのである。1904年(光緒30年、明治37年、)4月ごろだったろう。そのあと、6月22日、天津・塘沽(タンクー)港で乗船し、日本にむけて出航した。
 服部宇之吉夫人の繁子について渡日した。
 清朝政府は教育改革に着手し(1902年9月)、服部宇之吉はその顧問として招聘されたのだった。
 清国に出発するにさきだち、服部は東京偕楽園に宴会をひらき、たまたま来日していた呉汝綸(ごじょりん)を招待した。呉汝綸は学者で、かつ当時文壇を風靡した桐城派のかしらとして有名だった。席上、呉は服部夫人にむかって、めいの呉芝瑛(ごしえい)のことを語り、北京で友人にしてもらいたいとのべた。
 その呉芝瑛が秋瑾の友人だった。
 これよりさき、秋瑾の夫・王子芳は金で工部主事の職を買い北京に赴いた。秋瑾も同行(1899年、光緒25年)。しばらくして紹興に帰った。
 そのご、北京に滞在したことがあり、そのさい、近隣の呉汝綸とそのめいの呉芝瑛としりあった。
 呉芝瑛は戸部郎中の官職にあった廉泉の夫人で、詩をつくり、画家でもあった。社会活動も活発におこなっていた。
 秋瑾の夫・王子芳は、このとき工部の官吏だったから、廉泉と同僚ということになり、両家は親密に交際するようになったのである。
 呉芝瑛に話をきくうち、秋瑾が日本留学を志すようになったことは疑いえない。彼女はアメリカに渡り法律を学ぶことも考えたことがあった。
 夫の王子芳も、呉家と交際している関係上、妻の留学をみとめざるを得なかったのだろう。

                          ◇      ◇     ◇

 秋瑾は東京で魯迅、当時の周樹人としりあった。同郷のこともあって、よく語りあった。そのとしの秋、魯迅は仙台へいった。仙台医学専門学校に入学を許可されたからである。
 冒頭にかかげた秋瑾の服装は冬のものである。周樹人は休暇中は東京に帰っているから、そのとき、短刀を秋瑾に貸したのだろう。そして、わたしの推定では魯迅の短刀は仙台の下宿のあるじからもらったものである。
 おそらく仙台のくらしを秋瑾に語り、短刀もみせた。話をきいているうちに秋瑾はしだいに興味をもち、写真をとる気になったのだろう。

                          ◇      ◇     ◇

 本稿をしたためながら、じつはわたしは日中関係についての文献をよみ、これの解説を書いていたのである。「政冷経熱」といわれるように、日中関係は冷え込んでいるので、文献をよみながら、気が晴れなかった。
 おもいは、しぜんと、日本の現代史、近代史へとむかい、明治いらいの日本の歩みはアジアにたいしては解放と侵略の両側面があり、ぜんたいとしては侵略だったと考えざるをえなかった。
 解放という側面もたしかにあり、イギリスやロシアやフランスやドイツやアメリカがつねに正義の味方、あるいは正義そのものだったとは、とうていいえない。おくれてきた資本主義国の日本は、イギリスやアメリカなどのまねをして、かえって、アジアのうらみをかった。資源にとぼしいから、アジアを解放してやったといいながら、物資をとりあげざるをえなかったのが、いいのがれできない事実なのだ。
 つまり、侵略したことをみとめよ、というのが、いまの中国や韓国の要求なのである。
 田中角栄首相が北京まででむいて、「共同声明」をだし、国交正常化を実現したのはよいことなのであるが、謝罪のことばとしては、「ご迷惑をかけました」の一言しかなかった。これをきいて、北京の市民が怒ったのは当然といえば当然であるが、謝罪の言葉としては、日本語ではこの表現しかない。
 かりに殺人犯がいて、殺害したひとの家族に詫びるとすれば、やはり「ご迷惑をかけました」というだろうとおもう。
 しかし、こんにちの日中関係からみれば、田中首相は「わが国はかつて貴国を侵略しました」というべきだったとおもう。ぜんぜんアタマに思いうかばなかったのだろうか。ギモンである。しかし「侵略」ということばを使いたくなかった。自分の口からいえなかった。それで、「ご迷惑をかけました」という日常生活のなかでのあいさつ用語をいったのだとおもう。
 なぜ、口にだしていえなかったのかといえば、きわめて日本的な感覚で、そのような表現が口にだせなかったのだとおもう。日本的な感覚というのは、つきつめていえば、羞恥心である。たとえば、病名のようなものでも、ズバリ、自分の病名をいわない、そういう羞恥心である。
 さいきんでは、「侵略」だったとみとめたのは細川護熙首相である。インテリはそういった羞恥心からかなり脱皮しているとおもう。
 細川首相からはなれて、一般論としていうと、インテリは客観的にものをいう術をこころえているから、「侵略だった」とみとめたとしても、それを正面からうけとめ自分の羞恥心と対決させているかどうか、わからないところがある。 しかし、外国人にはわかりやすいのである。
 それで「侵略だった」とみとめると、さらに相手は謝罪せよ、というだろう。その謝罪がまた、日本的感覚ではむずかしいのである。
 映画がカラーになるまえ、日本映画の演出方法に、泣く場面では、ハンカチを手にもち、その手をわなわなとふるわせながら、しかし顔では泣かないという演出があった。この演出で有名な監督がいたというのである。
 これも外国人には伝わらない表現だろう。
 ということで、日本の近代史、現代史は、オモテに出して結着つけるべきことをさきおくりしてきたという感じがする。

                          ◇      ◇     ◇

 秋瑾が考えたカクメイはテロだった。
 思想と行動のあいだにすきま風が吹いていない。
 ただし、テロが革命なのかどうか、わたしには疑わしい。『共産党宣言』では「暴力革命」をみとめているから、「暴力」とはなにかというモンダイはあるにせよ、テロも含むことは否定できないだろう。
 東京にきて、秋瑾は革命的な言論にふれた。
 そのころの東京は革命家のたまり場だった。
 革命は愛国で(この「国」は清朝という国ではないが)、愛民族で(この「民族」は漢民族を指し、清朝をたてた満州人は排斥する)、あった。つまり「種族革命」だった。「種族」というのは当時のいいかたで、いまでいう「民族」である。
 排斥するというのは駆逐(くちく)することで、中華の大地から追いはらうこと、そのためには、清朝の官吏(満州族もいたが漢族もいた)を暗殺しなければならない、という考えだった。
 秋瑾の短刀は革命、民族革命の思想そのものだったのである。
 ところで、わたしは秋瑾についてあらためて考えるようになり、資料を読むうち、纏足(てんそく)をしていたことを知った。
 纏足をしていたので 、秋瑾は西洋式の靴をはいていたというのである。
 纏足というのは女性の足さきをしばって、ちょうどたけのこのようなかたちにする。これは幼いときでなければできない。秋瑾は7歳のときに、纏足にされた。
 秋瑾の嫁入りさきは、紹興でも名だたる資産家だったというが、もし纏足していなければ、この縁談は成立しなかっただろう。
 彼女は東京では編(あみ)あげ靴(ぐつ)をはいていたという。纏足特有の、かかとで歩くヨチヨチあるきが、たまらなくいやだったのだろう。
 短刀をひきぬいた写真が上半身だけのものであるのもわかるような気がする。

                          ◇      ◇     ◇

 いまわたしの机上には加藤千洋氏の執筆した「秋風秋雨、人を愁殺(しゅうさつ)す」『朝日新聞』2003年(平成15年)6月21日(土曜日)の「be」がおかれている。
 これの2面に、わたしを訪問したというくだりがあるが、訪問をうけたのはついこのあいだのような気がする。
 そのとき加藤氏から、ここにかかげたのと同じ写真を頂戴した。浙江省博物館の製作で、細部がわかったが、だいじにしまったおかげで、そして去年、ひっこしたさい荷物をあずけたりして、みつからない。
 秋瑾といっしょに留学した女性たちのたちい、ふるまいについて、加藤氏は当時の資料にもとづき紹介している。
 「(上流階級出身だから)本国ではお掃除ひとつ自ら手を下すことはなかったらしいが、よく校則を守り、毎朝五時半の鈴の音で眼をさまし、纏足の危うげな身体を動かし、室内、廊下、厠(かわや)などのお掃除をするようになった」。
 東京の実践女学校の記録である。
 このなかに秋瑾はいたのだろうか。