中華点点(第7回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第7号 2005.7.15   
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こおろぎの話(5)

秋瑾というひと(2)
   

                          ◇      ◇     ◇

 秋瑾(しゅうきん)という女性革命家について、前回、のべた。
 今回も、そのつづきを語るわけであるが、そのまえに、しばらく、こおろぎの話に、もどりたい。
 こおろぎのあそびかたは、いたって簡単で、ようするに、二匹のこおろぎを、たたかわせるだけのことである。すもうをとる、あるいはケンカをする、そのようすをみて、たのしむ。
 その光景が、うえにかかげた絵に、えがかれている。
 もっとも単純なのが、子どものあそびで、こおろぎが逃げないよう、壺(つぼ)とか、ありあわせの底の深い容器にいれてやって、たのしむ(絵・下)。
 つぎは、子どもの親たちで、友人どうしこおろぎをもちよって、こおろぎ用の壺のなかにいれてやる。こおろぎ専用の筆のようなものがあり、これでかるくつついて、戦意昂揚(せんい・こうよう)をはかる。
 まあ、商店のだんなとか、学校の教師とか、引退した老人とかがあつまってたのしむ(絵・中)。
 さて、いよいよ、こおろぎ狂(きょう)というか、これを趣味としてうちこんでいるひとたちである。
 肉まんを蒸(む)す蒸籠(せいろう)のようないれものがあって、これを四つかさねたものを天秤棒(てんびんぼう)のまえとうしろにさげて、はこんでくる。
 蒸籠の一段に壺が六つはいるから、天秤棒ではこんでくると、前に二十四、後に二十四、あわせて四十八壺ということになる。
 壺のことを「罐」(かん、クワン)というので、天秤棒一回分、四十八罐が一桌(いったく)というかぞえかたである。一桌か、半桌、はこんでくるのが慣例である。つまり四十八回はとりくみ、あるいは試合をたのしむわけだ。
 いよいよ、試合(しあい)開始となり、すもう、あるいは、ケンカがはじまるが、こおろぎの飼い主(ぬし)は、じぶんでは手をださない。
 専門の男がいて、こおろぎを壺にいれたり、だしたり、挑発(ちょうはつ)してたたかわせたり、いっさいやってくれるのである。こういう男を「蚰蚰把式」(チュイチュイ・バァシー)という。
 会場は臨時にしつらえたものであるが、こおろぎの体重をはかる秤(はかり)、象牙(ぞうげ)の筒、点数の計算につかう象牙の小さな棒(これはマージャンに使うのと同じものかもしれない)、こおろぎをつついてやるネズミのひげ(まえにのべた筆のようなもの)、といったものが準備されている。
 赤いじゅうたんでおおわれたテーブルがあって、ここに壺をおく。そして、壺のなかで、こおろぎのすもうがおこなわれるのである(絵・上)。
 さて、以上、わたしは実況放送のようにのべたが、じつは自分のノートにむかしコピーしたものが貼付してあり、それを紹介したにすぎない。しかも、ざんねんなことに、コピーした原本についてメモしておかなかったから、原本がわからない。
 挿絵の人物の服装や子どもの髪型(かみがた)からすると、これは民国(みんこく)、すなわち中華民国時代の話である。いまとなっては昔噺(むかしばなし)のようなものである。
 こおろぎのすもうに、ひとがなぜ熱中したかというと、賭(か)けたからである。
 こどもはせいぜいビー玉ていど、おとなは一元とか、だったが、旦那衆(だんなしゅう)になると大金を賭けた。それで、強いこおろぎをさがし、高い値段で買いあつめ、ひとを雇(やと)って飼ったのである。
 いま、たいていの街にはパチンコ店がある。ただし日本の話である。
 賭博(とばく)は法律でとりしまられているはずであるが、パチンコはいちおう合法的というのだろう。競艇、競輪、競馬、どれも賭博がらみである。
 したがって、民国時代、あるいは民国時代までの古い社会が、賭博熱にかかっていたとしても、とがめられない。

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 こおろぎのすもうの起源は、唐王朝、玄宗(げんそう)のころにはじまるといわれる。この話は、すでにしるした。中華点点(第4回)こおろぎの話(2)。昨年11月15日号。
 それからめんめんとつづいて、たえることがなかった。民国のころに、ブームがあった。わたしがコピーした本も、そのブームにのって出版されたのだろう。それが戦争によって、中断され、新中国によって復活したのである。
 じっさいに体験したひとがいて、中国滞在の見聞のなかにしるしている。
 それによると、1988年秋からブームがおこり、上海では一つの通りにずらっと、地面にビニールをしいた露店がならんだようである。西蔵路の南、老西門のあたりということで、タクシーの運転手につれていってもらった--1990年10月(平成2年)。室木穰『北京市朝陽区建国門外』文芸春秋 1991年10月刊。
 作家の水上勉(みずかみ・つとむ)さんも、こおろぎについては知っていて、訪中したとき、中国の作家、老舎(ろうしゃ)に、いまもやっているかと質問し、ひとしきり話がはずんだことをしるしている。水上勉「こほろぎの壺と柿」『北京の柿』所収。潮出版社 1981年(昭56)3月刊。
 上海では2001年に、コオロギ用の道具の展覧会がひらかれた。上海首屆虫具展、9月20日-10月10日。
 どういうわけか、この展覧会のチラシが手もとにあるが、そこに示されている虫かごは精巧なものである。
 また、これは北京の友人が送ってくれたのであるが、『晨報』(チェンパオ)という新聞の特集ページに、呉継伝(ご・けいでん)という教授が紹介されている。子どものころからこおろぎが好きで、いまや多数の著書のある昆虫教授になったというのである。そういえば、わたしの書架にも呉教授の著書がある。教授のような方は別にして、ふつうはこんなに熱中しないようである(趣味の世界のつねであろう)。
 こおろぎにすもうをとらせるためには、じぶんで飼う必要がある。ペット市場があるときいて、わたしはでかけていったが、北京でも杭州でも時期がおそく入手できなかった。
 そのかわり、北京では螟虫(めいちゅう)をすすめられた。メイチュウ、ズイムシ、という名で、害虫とされているが、鳴くことはたしかである。
 小型の筆箱のような、ひきだし式のハコにいれて飼う。そのハコが気にいって買った。店をだしていたのは、しばらくまえ工場を退職したという婦人だった。

虫かご

自分でつかまえてくるのでなく、どこかに卸(おろ)し元があるようで、螟虫は白いマッチ箱のような小さなハコにはいっていた。
 「ニン・クェシン」(おまえは?)とたずねると、「ピーシン○」というこたえがかえってきた。“卑姓○”というのである。こちらが「您貴姓?」とたずねたのにたいし、へりくだって答える表現が、いまもつかわれている。わたしは感動した。
 ようするにこおろぎのおかげで、市井(しせい)のひとと会話をたのしむことができるのである。

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 本稿では、魯迅先生にも登場をねがっている。このあたりで、こおろぎと魯迅の関係にふれたい。
 子どものころの回想を魯迅はしるしている。『朝花夕拾』(ちょうか・せきしゅう)1927年刊。
 そのなかには、こおろぎの話はでてこない。また、雑文のなかにも、こおろぎであそんだこと、こおろぎのすもうのことはでてこない。とはいえ、だからといって、こおろぎであそばなかったとは考えられない。
 紹興の屋敷の裏庭は「百草園」と名づけられたほど雑草が生いしげり、魯迅はここでよくあそんでいる。こおろぎがいなかったとは考えられない。あまりにありふれたあそびだから、わざわざとりあげなかったのであろう。

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 古代の民謡や歌をあつめた『詩経』のなかに、こおろぎをうたったものがある。いかにも、いかにも、といった光景をうたい、よく引用される。

六月 莎雞(さけい・こおろぎ) 羽 ふるわす
七月 野にあり
八月 宇(のきさき)にあり
九月 戸(と)にあり
十月 蟋蟀(しっしゅつ。こおろぎ) わが 牀(しょう。ベッド)の下に いる。

 寒くなるにつれ、家の外(原野)にいたこおろぎが、少しずつ家のなかにはいってくるさまが、みごとにえがかれている。
 冬がちかづき、余命いくばくもない、こおろぎが寝床の下でないているのである。この詩をよむたびにあわれな、いのちの声をきくおもいがする。
 詩の題は「七月」。『詩経』の国風(風は民謡)。豳(ひん)の地方で採集された。いまの陝西省西部である。


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 さて、そろそろこのあたりで、こおろぎ-魯迅-秋瑾という三題噺(さんだい・ばなし)にしめくくりの〈おち〉をつけなければならないが、柾木恭介著の『猫ばやしが聞こえる』の贈呈をうけ、言及しないわけにはいかなくなった。同書におさめられている「首が飛んでも動いてみせるわ」が、わたしと同じように武田泰淳の『秋風秋雨、人を愁殺(しゅうさつ)す』に出発して秋瑾を論じているからである。績文堂出版株式会社 〒162-0801東京都新宿区山吹町36番地 TEL:03-3260-2431。小沢信男のエッセイ「老いてこそパソコン 柾木恭介さんに会いにいく」がついている。本年4月刊。

「猫ばやしが聞こえる」-表紙

 すでに掲載の拙文でのべたように(あるいはのべようとしたように)、秋瑾はいちずに革命の実行にはしったが、これにたいし、魯迅は賛成でなく、実行しないことをこころがけた。『阿Q正伝』や、散文詩「復讐」によって、魯迅がこのようにこころがけたことは、立証できる。
 わたしはこの趣旨のことを、「魯迅の短刀について」という題でまとめ、『吉川〔幸次郎〕博士退休記念論文集』1968年、によせた。
 ただし、表題が示すように、論じたのは、魯迅が短刀を二ふりもっていたこと、その一ふりが秋瑾の写真でみる短刀だったのであったろう、ということを、許広平や、周建人の回想から立証したもので、これにはまだ『阿Q正伝』に言及していない。
 また「復讐」の詩についても、もっぱら魯迅の復讐心について論じ、男と女が裸体で対峙(たいじ)する情景については、これも論じていない。

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 「魯迅の短刀について」はさいきんある雑誌に再掲載した。『藍 BLUE』第18・19合併号(本年5月刊) 〒553-0001 大阪市福島区海老江2-8-32 生和パレス801号 藍・BLUE文学会 TEL:FAX 06-6450-1423。
 これは、いまから40年ちかくまえの論文である。
 この論文のぬきずりを柾木恭介に謹呈したかどうかおぼえていない。ようするに考証の論文だから、たとえ謹呈したとしても柾木の興味をひかなかっただろう。「首がとんでも-----」には、参考にした形跡はない。

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 しかし、拙文はわたしとしては捨てがたいものがあって、武田泰淳が『展望』だったとおもうが、筑摩書房の雑誌に『秋風--------』の連載をはじめたとき、わたしはすでに拙文を吉川先生の記念論文集の編集に采配(さいはい)をふっておられた小川環樹先生に送っていたから、武田さんが、この「短刀」について言及されるのではないか、ひやひやしていたのである。
 本屋さんの店頭で『展望』をひらいて、ほっと安心したことをおぼえている。
 もう一つ、わたしには虚栄心のようなものがあって、みなさん魯迅について、書かれていますが、こういう角度からみることもできるのですよ、と示したかったということもある。
 吉川先生の記念論文集がでると、中野重治と武田泰淳からハガキがきて、中野さんは「おもしろかった」というような趣旨だったとおもう。棄てたはずはないから、どこかにあるとおもう。武田さんからは、辛亥革命の研究会をつくってやらないかという助言ととれるお誘いだった。そのご、なにかにとりまぎれ、研究会は発足しなかった。(つづく)
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 〔追記〕上海でひらかれたこおろぎ用のこまごました品の展覧会について文中にふれた。そのチラシを紹介し、どなたに頂戴したかわからないとしるしたが、じつは蒼蒼社主・中村公省氏からだった。文中の呉教授の著書もあわせていただいたもののようである。わたしはすっかり忘れていたが、中村社主の好意にたいし、ここであらためて感謝をしたい。
 あわせて、本稿の校正とともにこのチラシをお送りし、拙稿をか飾らせていただこうとおもう。


 〔追記2〕追記の原稿を送ってまもなく、文中にふれた『藍 BLUE』編集部の劉燕子さんから電話があった。中国の雑誌『□□□』の○○○さんが、「魯迅の短刀について」を翻訳掲載したいと連絡したきた。よろしいか。
 わたしがよろこんで承諾したことはいうまでもない。ただし、雑誌名や編集者のお名前は電話でははっきりしなかったので、ここでは□□□、○○○とする。あながちに、古い文章だからと卑下することもなかったのだ。