中華点点(第8回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第8号 2005.9.15   
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孟子(もうし)の話(1)
   
写真:孟子

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 こおろぎの話から女性の革命家・秋瑾(しゅうきん)というひとに話題がうつった。
 秋瑾について、語るべきことはまだあるが、ここで話題をかえたい。
 「政冷経熱」といわれる。
 しかし日中間では政治が白熱して、小泉首相の参拝が8月15日におこなわれるかどうか、ずいぶんと気をもんだむきもある。解散前の国会でも、野党から質問がで、小泉首相はむしろ挑発的に答えていた。
 いっぽう、もしこの日、小泉首相が参拝するなら、中国はどのように対應するだろうかと、わたしは、考えていた。中国のカードは、もはや残っていないようにおもわれた。
 そのようなとき、かつて奉職した立命館大学から、「孟子(もうし)の像を受贈することになり、式典をおこなうから参加するように」という誘いがあった。
 式典は7月22日。
 石像は石は山東省産で、良質のものだということだった。親しみの持てる感じだった。
 もう少し戦闘的な容貌かと、わたしは想像していた。
 この石像が、わざわざ山東省からはこばれてきたのは、それなりに因縁があって、なにかの会議のさい、立命館大学の川本八郎理事長が、大学の名称の「立命」は孟子に由来すると語ったところ、それを耳にした中国国務院新聞弁公室の蔡名照(さい・めいしょう)副主任が趙啓生(ちょう・けいせい)主任に提案し、実現したのだという。
 石像とともに、副主任は立命館大学を訪れたのだった。中国の胡錦涛(こ・きんとう)新体制の若手の官僚らしく、明快で紳士的な態度だった。
 ただし、この日は孟子の石像の贈呈だけでなく、立命館大学に孔子学院が設置されたこともあわせて披露された。
 孔子学院というのは中国政府が海外に設置する文化機関で、講師は中国から派遣される。ただし、院長・副院長は立命館大学の教授が就任した。
 十月から語学の講習がはじめられる。
 中国のニュースというと、政治色が濃厚だった。そこへ孟子、孔子の魅力が語られる、この話題がとびこんできたので、わたしとしては喜ばしくおもわれた。
 自国の文化を普及するのに、ようやく中国が着手したという感じだった。東京には、お茶の水に、フランス政府の設立運営による「日仏学院」があり、京都にも「日仏会館」がある。かねてから中国政府がこの方面にまるで無頓着(むとんじゃく)なのに、わたしは歯がゆくおもっていたのである。

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 せっかく式典に参加するので、拙著を持参し、蔡副主任に贈呈した。『中国 欲望の経済学』蒼蒼社2004年10月刊。
 これに孟子の有名なくだり「浩然(こうぜん)の気」が引用してある。98ページ。
 わたしとしては、いくらかは鼻が高かったが、わたしの趣旨が伝わったかどうか、わからない。多忙な国務院の弁公室副主任に本書を閲覧してもらうのは気の毒におもわれた。

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 「立命」というのは、四字熟語としては「修身立命」ともいわれるが、『孟子』にはつぎのようにみえる。

 孟子いわく、「その心を尽(つく)すものは、性(せい)を知るべし。
 性を知らば天を知るべし。
 心をもち、性を養(やしな)うは天につかうるゆえんなり。
 殀寿(ようじゅ)たがわず、身(み)を修(おさ)めて、これを俟(ま)つは命を立つるゆえんなり」
                                               『孟子』尽心章句 上 一

 「心を尽くす」というのは、是非善悪にたいしきちんとけじめをつけ、敏感に反應することである。「性」は本性(ほんしょう)で、しぜんにそなわるものをいう。外界に敏感に反應すれば、自分の本質的な箇所がみえてくる。そうすると、絶対的ではあるが、モノをいわない、天の意志がわかるようになるというのである。
 そこで、そのような心を維持し、正しい方向に向けると、天に奉仕することができるようになる。
 「殀寿」はわかくして死ぬことと、長生きすること。「たがわず」は天からあたえられた寿命(じゅみょう)をまっとうすること。
 「立」は確立する、完成する、明示する。寿命をまっとうし、修身につとめて、天から与えられた使命を完成させるのが、たいせつである。
 使命というのは天からさずかった任務である。したがって「命を立つ」というのは、使命感にめざめる、ということでもある。
 原文「孟子曰、尽其心者、知其性也。知其性則知天也。有其心、尽其心、養其性、所以事天也。殀寿不貮、修身以俟之、所以立命也」。
 漢文訓読は、其(その)や則(すなわち)を訳すが、かえってわずらわしい。わたしは省略することにしている。日本語の文章は、これらがなくてもつうじる。

                          ◇      ◇     ◇

 わたしは孟子という人物はなかなかのものだとおもうのである。
 孔子につぐ、二番目の「聖人」(せいじん)だというので「亜聖「(あせい)と称されるが、孔子のおだやかな儒教を戦闘的なおしえにつくりなおした。キリスト教でいうと、マルチン・ルッターのような人物である。
 孔子は春秋末期、孟子は戦国時代。生きる時代がちがうから、どちらが正しいともいえないが、君主の地位を絶対的なものとした孔子にたいし、孟子は、君主といえども道にはずれたなら、これを討伐してよいといったのである。

 斉(せい)の宣王(せんのう)問(と)いていわく、「湯(とう)、桀(けつ)を放(はな)ち、武王(ぶおう)、紂(ちゅう)を伐(う)てること、これありや」。 
 孟子、こたえていわく、「伝(でん)においてこれあり」。 
 いわく、「臣にしてその君(きみ)を弑(しい)す。可ならんや」 
 いわく、「仁をそこなうもの、これを賊(ぞく)といい、義をそこなうもの、これを残(ざん)という。残賊(ざんぞく)のひとはこれを一夫(いっぷ)という。一夫の紂を誅(ちゅう)せるを聞(き)くも、いまだ君を弑(しい)せるを聞かず」
                                             『孟子』梁恵王章句 下 八

よく知られているように、古代の王朝は、夏(か)―商(殷)―周と交代した。
 夏の最後の桀王(けつおう)は暴君だった。それで湯王がこれを討伐し、商王朝をたてた。殷(いん。商は殷にみやこをおき、殷と称した)の最後の紂王(ちゅうおう)がこれまた暴君だった。それで、武王がこれを討伐し、周の王朝をたてた。
 君主は絶対的な存在であり、これを討(う)つことはゆるされない、というのが儒教のおしえである。
 それで斉の国の宣王が、孟子に質問したのだった。桀を追放し、紂を討伐したが、ふたりとも君主ではないか。
 すると孟子は、このふたりは仁や義を守らなかった、残酷で、賊のような人物である。「一夫」、ただの一人の男にすぎない。したがって、これを殺したのは天誅(てんちゅう)をあたえたのであって、君主を弑[君主を殺すことをいう]したのではない、とこたえたのだった。
 これによって、王朝の交代、すなわち「革命」は正しいとみとめられるにいたったのである。
 日本では天皇は万世一系で、「革命」はゆるされない。それで中国から日本にくる船が『孟子』をのせていると、途中で沈没したという話もつたえられるようになった。
 徳川幕府のとき、吉田松陰が獄中で『孟子』を講義したが、これは徳川という君主を打討しようという志を松陰がもっていたからである。その講義が『講孟箚記(こうもう・さっき)』として残されている。

                          ◇      ◇     ◇

 吉田松陰は安政六年(1859年)十月二十七日、処刑された。29歳だった。
 かれはこの前年、桂小五郎(かつらこごろう)宛の書簡で、こうのべている。
 「天下無事ならば幕府の一利、事あらば遠略の下手はわが藩よりは朝鮮満洲に臨むに若(し)くはなし。朝鮮満洲に臨まんとならば竹島は第一の足溜(あしだまり)なり。遠く思い近く謀るに、これ今日の一奇策とおぼえそうろう」
 やはり同じ年の久坂玄瑞(くさかげんずい)宛の書簡でもこうのべている。
 「竹島、英夷の有(ゆう)となること信じ難く候。……黒竜、蝦夷は本藩よりは迂遠(うえん。距離が遠い)、それよりは竹島、朝鮮、北京あたりことこそ、本藩の急に候」
 上記二通の書簡にみえる「竹島」はいまモンダイの竹島ではなく、鬱陵島(うつりょうとう)のことである。
 これよりさき、安政二年には兄の杉梅太郎に宛てて、こうしるしている。
「魯墨講和ひとたび定まり(ロシアとの通商条約をむすんだことをいう)、決然としてわれよりこれを破り信を戎荻(じゅうてき)に失うべからず。ただ章程(しょうてい。条約)を厳にし信義を厚うし、その間、もって国力をやしない、とりやすき朝鮮満洲、支那を切したがえ、交易(こうえき)にて魯国に失うところは、また土地にて鮮満にて償(つぐな)うべし」
 つまりロシアとの貿易で赤字がでれば、朝鮮、満洲の土地でとればよい、といっているのである。 
                                                    (この項つづく)