中華点点(第10回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第10号 2006.1.15   
蒼蒼 目次へ >>

「禹域との対話」
   
◇      ◇     ◇

画像:保昌山(ほうしょうやま)の見送(みおくり)

保昌山(ほうしょうやま)の見送(みおくり)(巡行までのあいだ町内の家の座敷にかざる)

 まいとし7月、夏のあついさかりに京都では祇園祭(ぎおんまつり)がおこなわれ、鉾(ほこ)、山(やま)が巡行する。鉾9基、山23基、それぞれをひいて、町すじをねりあるくのである。巡行は祭のなかのいちにちだけで、ことしは7月17日だった。
 ふつう神社のまつりは、神輿(みこし)を肩にかつぎ、ワッショイ、ワッショイのかけごえもいさましく、つきすすむが、山鉾(やまほこ)の巡行はピーヒョロロといった祇園ばやしの演奏でしずしずとすすむ。
 貞観十一年(869年)に疫病退散(えきびょうたいさん)を祈ってはじまり、明應九年(1500年)にこんにちのようなかたちになったという。足利将軍の時代で、十一年まえに銀閣寺が完成している。

 鉾は大きな車輪のついた楼閣のようなもので、屋根のうえに長刀(なぎなた)などを立て、高さ20メートルにたっする。40人から50人でひく。
 山は本体のうえに芝居の舞台のような飾りつけがあって、それが日本の伝説にちなむ場面だったり、中国の故事(こじ)の場合だったりする。
 さらに、本体の前後左右にはタピストリー(壁掛け)をたらす。タピストリーはかつて輸入されたリオン製だったり、うごく美術館でもある。後からみえるタピストリーを見送(みおくり)というが、保昌山(ほうしょうやま)の見送は「陰陽図」(いんようず)をのぞきこむ福禄寿(ふくろくじゅ)三人の仙人の図である。
 陰陽について考えているので、わたしは巡行の前々日に、この保昌山をひく町内をたずねたのだった。ところが、じっさいに、山に飾られているところがみたくなり、山鉾巡行の当日に再度でかけたのだった。
 それから半月ほどして神戸大学国際文化学部の王柯(おうか)先生から来信があり、杭州で〈東アジアの教養人と共同知〉というシンポジゥムをひらくから参加せよという。トヨタ財団の援助によるとのことだった(トヨタ財団常務理事蟹江宣雄、プログラムオフィサー本多史朗の両氏もシンポに出席された)。
 そこで、祇園祭の鉾や山にみられる中国文化との交流を論じてみようという気になった。だだし、もっぱら論じたのは螳螂山(とうろうやま)についてだった。
画像:鉾と山の解説

                          ◇      ◇     ◇
画像:螳螂山のかまきり
螳螂山のかまきり

 巡行の当日、とくに印象が深かったのが螳螂山で、写真にみられるように屋根のうえに螳螂、すなわち〈かまきり〉がのっていて、山が前進すると車輪のうごきに連動するしかけがあって、うごく。まさに「螳螂の斧」そのものである。
 町内に在住した武士四条隆資(しじょう・たかすけ)が、足利将軍義詮(よしあきら)と劣勢なのに勇気をふるって戦い、敗北したのを慰めるためはじまったという。
 むかし斉(せい)の莊公(そうこう)が狩獵にでかけようとした。途中一匹のかまきりが足をあげて、馬車の車輪をうとうとした。
 莊公は勇敢だ、人間なら勇士だといって、馬車のむきを変えた。
 それが、自分の力が弱いのに強敵たちむかうという愚行を笑う諺「螳螂の斧」として伝えられるようになったが、そもそもは、弱者の勇気を賞める意味もあった。
 祇園祭にひく山であるから、やはりこれはご神体なのだろうが、中国の故事をもってきたところに、京都の町衆(まちしゅう)の心意気(こころいき)がうかがわれよう。
 しかし、祇園祭の山でこれをひくとき、町衆は自嘲(じちょう)しているのだ。室町将軍や徳川幕府や京都のお公卿(くげ)さんに痛めつけられながら、しかし内心では卑下(ひげ)をしていない。
 この自嘲は中国の文人の意識にもつうじる。というのが、わたしの論文の趣旨だった。(論文の題は「共同知と教養主義」11月4日発表)

                          ◇      ◇     ◇

 さて、そのあと、北京で小さなシンポがひらかれた。
 福岡市が主催するもので、〈21世紀華僑街構想〉というプロジェクトの推進をはかる。
 この中華街は中国の企業の進出を歓迎し、とりわけ商業や貿易のセンターとしての町づくりをめざしている。
 人民元による投資を誘致しようというわけであるが、目先きの利益だけでなく、東アジアの未来をみとおして、日本と中国の文化交流の歴史を継承し発展させたいというのが、福岡市の念願で、日本側、中国側からしかるべき人材がえらばれて合同委員会が成立している。
 そこでの討論のきっかけとして、基調報告をおこなってほしい、ということで依頼をうけた。直接には福岡市経済振興局 投資・交流推進部長 進藤千尋氏からであるが、山崎広太郎市長、中元弘利副市長もなみなみならぬ肩入れで、中元副市長は北京にも出張された。

                          ◇      ◇     ◇

 シンポジゥムの会場は友誼賓館貴賓楼の大ホールで、関係者のほか50人ぐらいの来賓・聴衆で盛会だった。
 時間の関係もあり、通訳をつけず、中国語でのべた。あがっていたらしく、日本語で要約するのを忘れた。帰国後、記憶をたどりながら復元したのが、つぎの原稿である。
 ただし、日本の江戸時代の藩のしくみや漢字、漢文の概念など、補足した部分もある。

                          ◇      ◇     ◇

原稿1の表示
原稿1
原稿2の表示
原稿2
原稿3の表示
原稿3
原稿4の表示
原稿4
原稿5の表示
原稿5
原稿6の表示
原稿6
原稿7の表示
原稿7
原稿8の表示
原稿8
原稿9の表示
原稿9
原稿10の表示
原稿10
原稿11の表示
原稿11
原稿12の表示
原稿12
原稿13の表示
原稿13
原稿14の表示
原稿14
原稿15の表示
原稿15
原稿16の表示
原稿16
(クリックすると、新しいウィンドウが開いて大きな画像が表示されます。)

                          ◇      ◇     ◇

 原稿がほぼ復元できた翌日、北京から雑誌がとどいた。《博覧群書》9、10、11月号。書評を主とし、時局も論じて、レベルは高い。
 雑誌をパラパラとみながら、なにかものたりない。袋のなかをのぞくと、主編の常大林先生からわたし宛のお手紙があった。毛筆で、じつにみごとな鄭重な書体である。
 内容は、当日の印象にはじまり、ご自分の信条をのべられている。わたしにたいする過褒はあたらないが、わたしひとり秘蔵するにはもったいないので、ご本人の承諾もえず、ここに掲載させていただくことにする。どのように紙面におさめるかは、《蒼蒼》編集部に一任する。

                          ◇      ◇     ◇

手紙1を表示
手紙1
手紙2を表示
手紙2
手紙3を表示
手紙3
(クリックすると、新しいウィンドウが開いて大きな画像が表示されます。)

                          ◇      ◇     ◇

 自分でいうのもヘンな話であるが、わたしの拙(つたない)講演は意外なほど反応があって、おわるとさっそく名刺交換やツーショットの記念写真を求められた。常大林先生からのお手紙にも、そのときの雰囲気がうかがえよう。
 いま考えると、当日、参加の中国側人士は、やはりいまの時局を心配してみておられたのだ。それにたいし、日本側の平凡な一介(いっかい)の研究者が、本音(ほんね)をぶつけた。それが、心の琴線(きんせん)にふれたということではないか。
画像:名刺に印刷してある金印
(私の名刺に印刷してある金印)
 わたしはいつも解釈に困ると、本音をぶつけることにしている。
 すでにかかげた当日の原稿は、日中関係について論じてはいるが、全面的ではなく、すべての疑問に答えてはいない。しかし、ここ二、三年、わたしが考えてきたことのエキス(煮つまったもの)をのべたつもりである。
原稿は中国語なので、日本語でまとめると、つぎのようになろう。
1. 福岡市の博多湾の小島、志賀島から金印が出土している。これは西暦57年、後漢初代の光武帝が奴国(なのくに)の使者に授与したもので、福岡(博多)と中国の交流は歴史がながい。
ここに中華街をつくることは歴史的な意義がある。
2. 日本文化の基底には中国文化があり、日本文化の先生(教師)は中国文化である。両者はいまでは混合して存在している。この基底のうえに文化交流をすすめたい。
3. 日本文化は「甘(あま)えの文化」であると指摘される。中国文化に期待するところが大きいだけに、期待が満たされないと反撥する。いまある日中間の現象について、わたしは心配しないわけではないが、しかしさほど心配はしない。
4. 日本文化と中国文化は、交流によって混合し融合している。若い世代の人生観、世界観については参考までに、孟子のいう「浩然(こうぜん)の気」、「良知良能(りょうち・りょうのう)」をつたえるべきである。
孔子、孟子は中国の思想家であるが、漢字をわれわれはとくに中国の文字と意識しないように、わけへだてしない。よいものはこだわりなくとりいれるのが日本文化のよい面である。

 はたして、これをこのとおり完璧(かんぺき)に語ったかどうか、心もとないが、「你折伏了(我們)」と、名前もしらない婦人が別れぎわにいってくれたのだった。「折伏(しゃくぶく)」がいまの口語にあるとは知らなかったが、わたしは説得しようとしたのではない。だだ、じぶんの(とりわけここ一、二年)おもいつめてきた結論をのべたにすぎないのである。
 それで、わたしは、この発言原稿と常大林先生の過分なおほめ(むしろ激励と指正だとおもうが)あわせて掲載し、あえて「禹域と対話」と題した。シンポジゥムのさいの題目は〈二一世纪中华街的构思――从日中交流史来看的一ケ考察〉だった。

                          ◇      ◇     ◇

 この北京シンポジゥムのかげに、じつはわたしにとって画期的な事件があった。それは拙文集の第6册(第6巻というべきか)《文化大革命观(観)察》がとうとう書物のかたちとして陽(ひ)のめをみた、すなわち出版されたことである。
 ほんらいなら2年前に出版されるべきだった。北村稔・立命館大学教授は、「いちばん最後の巻にしておけばよかった」と、いつものかるい調子で同情(?)してくれたけれども、そして出版されるまでの経緯についてはべつの機会にのべることにして、とにかくあいだにたった程麻君(中国社会科学院文学研究所)の苦労はたいへんだったろう。なんどもなんども、ちかく出版されると、かれは予告してきたが、ついぞ実現しなかった。それで“書物のかたちとして”と上にもしるしたしだいである。
 ただしわたしは、いちども程麻君に催促しなかった。出版予定についても問いあわせなかった。
 いま、巻をあけると、最初の論文は郭沫若の自己批判についての論評である。郭沫若の自己批判は文化大革命のそもそもの開幕のドラとなって、なりひびいた問題作である。
 拙論を掲載したのが、知るひとぞ知る、『現代の眼』という雑誌の1966年7月号なのだ。
 巻末の一文は『産経新聞』1999年7月28日で、文革についての連載をはじめるにあたって、一文を求められたのだった。
 とにかく、文革中、わたしは孤独だった。
画像:竹内実文集(文化大革命)观察の表紙
竹内実文集(文化大革命)观察の表紙

                          ◇      ◇     ◇

吉越弘泰著『威風と頽唐―中国文化大革命の政治言語』の表紙  その文化大革命について、じつに丹念にまとめた大著があらわれたのは、おどろきであり、たのもしくもあり、そして不思議だった。
 吉越弘泰著『威風と頽唐――中国文化大革命の政治言語』(大田出版 〒160-8571 東京都新宿区荒本町22 エプコットビル1階 (03)3359-6262 定価:本体4700円+税)

 まえにのべた、杭州のシンポジゥムに出発する三日まえに頂戴し、出発ぎりぎりに読みおえた。「巻をおくあたわず」というとおり、やめられなかった。
 途中まで読み、なにか聞いたことのある名前がでてきた、とおもったら、わたしのことだった。不足を指摘してもらっている箇所もあって、緊張しながら読んだが、だいたい賛成してもらっていて、安心した。
 文革について、わたしの関心は事実のつながりを追うところにあるが、著者は「政治的言語」という概念を提出し、その範囲で文革を追っている。
吉越弘泰著『威風と頽唐――
中国文化大革命の政治言語』の表紙
 なつかしくもあって、一気に(しかし二日がかりで)読んだ。中村公省社主は読みにくかったという。これから文革を研究しようというひとにとって、必読の文献であり、しかもよい案内になるだろう。正面にすえて、とりくむ、という姿勢には、あたまが下る。
 書名のとおり、文革は「威風」と「頽唐」で、「威風」であることがじつは「頽唐」であったと指摘できる。
 中国の歴史をふりかえって、そこから見直す作業も必要だろうが、そのばあいの視点も本書は示している。わたしが不思議におもったのは、いまどきこれほど眞剣(しんけん)に文化大革命にとりくむ人物があらわれようとは夢にも考えなかったからである。著者にとっては失礼な話だ。あえて恥をさらし、著者の偉業をたたえたい。
(平成17年12月6日しるす)