中華点点(第11回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第11号 2006.3.22   
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「関羽の話」
   
画像:関帝像
関帝像

◆ おカネの神様
 ずいぶん以前のことになるが、香港にゆき、ついでにマカオ(澳門)にもいった。
 マカオで強く印象に残ったのは、関羽(かんう)を祭っていることだった。
 レストランに入ると、床に香炉があって、その壁のくぼみになにかを祭っている。うえのほうにも、ちょうどわれわれの神棚(かみだな)のあたりに、なにかを祭っている。床の神様は土地神で、上の神様は関羽だと教えられた。住宅地を歩くと、住いの門のわきの地面に、やはり土地神を祭っていた。
 香港返還は、話題にさえのぼっていなかったときで、文化大革命は最盛期をすぎてはいたが、終ってはいなかった。
 民間信仰というかたちで、民族的な「アイデンティティ」(当時流行したコトバだ)=共同性、を訴えようとしているのだろう、と自分なりに結論をだした。
 やがて、幾星霜(いくせいそう)、北京にも旅をするようになった。気がつくと、たいていのレストランが関羽を祭っている。
 入口の正面にデーンと祭っているのである。
 ご神体にお賽銭(さいせん)があがっている。財神(ツアイシエン)としてあがめられているのである。
 おカネの神様といえば、柴又(しばまた)の弁財天(べんざいてん)もそうである。神様といっても弁財天は神道(しんとう)ではない。佛教の系統だ。まあ民間信仰といったほうがいい。寅(とら)さんの映画では柴又のお寺はでてくるが、どういうわけか、この弁財天はでてこない。山門をはいって、すこしゆくと泉が湧いていて、お札(さつ)や硬貨が沈んでいた。
 ここでおカネを洗って、そのおカネを財布にいれておくと、どんどんおカネが入ってくるといわれている。
 わたしはおカネを洗わなかった。
 仏罰(ぶつばち)があたって、いまだにおカネが入ってくる運勢にめぐまれない。


写真:財神の関帝像(許昌のレストランにて)
財神の関帝像(許昌のレストランにて)


◆ 関羽とおカネの関係
 それにしても、なぜ関羽がおカネの神様なのだろうか。ながいこと、疑問だった。
 信義にあついから尊敬されているのだ、というのが、たいていのひとの答えだった。
 洛陽(らくよう Luoyang)に商人の会館が残って、そこにも関羽が祭られていたと記憶する。商人の結社(ギルド)の神といえる。
 だんだんわかってきたのは、関羽の出身地が山西省の運城で、両替(りょうがえ)で成功した実業家といえば山西商人ときまっていた。それで同郷意識の強いかれらは、関羽と同じ山西省出身を誇りとし、その誇りを関羽を祭ることで示そうとしたのだ。
 商人は利にさとく、利益をあげるためには平気でウソをつく。そういう一般の印象があるので、関羽を祭ることで信用第一であることを印象づけようとしたのかもしれない。
 山西商人の両替屋は為替(かわせ)を組むことができた。
 銭荘(チエンチョワン)といって、全国的にネットワークを形成していた。いわば金融を牛耳(ぎゅうじ)っていたのだ。
 しばらくまえまでは、貨幣といえば銀、それも銀塊だった。元宝(ユアンパオ)という、中折れ帽子をうえにむけたようなかたちである。
 買物をしたり、支払いをするとき、これを切りとって目方(めかた)を計る。銀貨のコインはずっとあとに鋳造された。
 明治になって、清国と外交関係ができ、北京にも日本公使館がおかれた。そこに勤務していた竹添進一郎(Takezoe Shinichiro)、字(あざな)は光鴻(こうこう)、号は井井(せいせい)は、帰国にあたって中国奥地、四川省に旅行し、桟道(さんどう)や三峡(さんきょう)を実地に体験し、『桟雲峡雨日記』をあらわし、ベストセラーになった。
 旅行にあたって、この元宝を持参した。
 いよいよ使う段になって、ハサミで切ってみるとニセモノで、舌うちしたことが日記にでてくる。
 銀塊とあわせて使用されたのが銅貨である。いまの500円硬貨ぐらいの大きさである。銀の元宝だけでなく、これも持参しなくては、旅はできない。
 旅館は食事をださないから宿屋に投宿すると、買いだしにでかけ、卵や肉を買ってきて自分で料理して食べる。卵や肉を買うときは銀塊でなく銅貨で買う。
 竹添は料理人、つまりコックについては記していないが、青年がひとり同行している。あるいはこの青年が食事の世話をしたのか。
 舌うちしたが、竹添としては意外だったようには、日記はよめない。つまり、元宝のニセモノはめずらしくなかったのである。
 商人仲間の自戒として、関羽を祭ったとも考えられる。
 運城というのは、地図でみると山西省の下(南)の方で、左(西)によったところである。もう少し左へゆくと、黄河が流れている。黄河は上のほう(つまり北)から流れてきて、このあたりをわずかに南下してから直角に右に(東に)折れ、そのあと華北平原にはいる。
 運城は塩池といって、塩がとれた。塩を売る商人が全国を歩き、やがて両替え屋へと発展したのだろう。
 ニセモノばかりつかませていては、商売は発展しない。じっさいに為替を組んでそれが確実に換金できるから、かれらは実業界に地位を占めるようになったのだ。


◆ 日本の商家の家訓
 日本でも江戸時代に両替え商人が地位をきずき、明治以後、財閥になった。三井、住友、三菱がそうであるが、家訓に必ずといっていいほど「信用を大事にせよ」という戒めがでてくる。


◆ 関羽の最期
 関羽はさいごは敗戦し、首を斬られた。
 首を斬ったのは呉の孫権の軍隊で、孫権は関羽を恐れていたのだろう、首を自分では検分せず、そのまま魏(ぎ)の曹操(そうそう)に送らせた。
 「やあ関羽どの、ご機嫌はいかが」と曹操は声をかけた。
 すると、首は眼をみひらき、歯がみして、髪や髯(ひげ)をことごとく逆立てた。
 関羽は、いわゆる「関羽ひげ」をあごから長くたらしていた。二尺あって、「美髯公」(びぜんこう)とたたえられた(当時の一尺は約二十三センチ)。
 顔は黒みがかった赤い色を呈し、唇は朱、眼はほそく長く切れていた。
 この眼が、かっとみひらいて、歯はギリギリと歯がみしたのだった。『三国演義』第七十七回のクライマックスである。
 このあと曹操は体調がすぐれなくなり、やがて病死する。


◆ 桃園のちぎり
 関羽が、もうひとりの張飛とともに劉備と義兄弟のちぎりをむすんだ話はよく知られている。
 劉備、字(あざな)は玄徳。張飛、字は翼徳(よくとく)、関羽、字は運長(うんちょう)。名のほかに字があってややこしいが、目上のひととか親兄弟でなければ字でよぶ習慣があった。いまは新聞でも、名前でしるすが、以前は字でしるした。
 劉備は、漢の皇室と同姓で、つまり漢王朝の血統をつぐ身分である。景帝(第五代)の玄孫で、中山王、劉勝(りゅう・しょう)の末孫だった。
 張飛は涿(たく)県の住人で、いくらか田畑をもち、酒や豚肉を売っていた。肉がくさらないよう井戸につるしていた。その井戸はいまも残っている。数年まえ、その井戸を見学したことがある。
 関羽は、流れ者で(しかし志はあって)涿県までやってきて、ここで義兵募集の県の告知をみていたところ、劉備、張飛と知りあったというしだいである。
 身分(血すじ)、年齢から劉備が兄、関羽が次兄、張飛が弟ということになった。張飛の家のうらに桃のはたけがあって、ここで天地の神々を祭って義兄弟のちぎりを結んだ。さらに附近によびかけて、三百人が集りこの桃ばたけ「桃園」でちかいの宴をひらいた。
 動乱の世がはじまりつつあった。この集団に馬や金をだすスポンサーがあらわれた。涿県の豪商だった。馬五十頭のほか銀五百両、銅千斤をさしだした。
 軍資金ができたので関羽はなぎなた青竜偃月刀(せいりょうえんげつとう)をかじ屋に打たせた。重さ八十二斤。(一斤は約六〇〇グラム)。「冷豓鋸」(れいえんきょ)と名づけた。
 こうして「三国志」の物語りがはじまるのである。


写真:張飛の井戸
張飛の井戸(涿県にて)


◆ 関羽の信義
 かれが信義に厚い人物として尊敬されるのは、以後、一貫して劉備につかえたからである。
 かれら三兄弟は黄巾(こうきん)の叛乱の平定にたちあがったのだから政府軍で、漢という国の政府から給料などの支給もあっただろう。同じように黄巾の乱平定にのりだした曹操(そうそう)と合流した。
 曹操は後漢の献帝(第十四代)を奉じて丞相(じょうしょう)を自称していた。
 献帝は曹操の横暴なふるまいを嫌い、曹操打倒の密詔をだし、劉備もこの密詔をうけてなかまに加った。
 陰謀は曹操に知られ、劉備は逃走し、かれのふたりの夫人と子の阿斗(あ・とう)は曹操の捕虜となる。下邳(かひ。江蘇省睢寧(すうねい)県―いまの徐州の東南五〇キロ)で、ふたりの夫人を守っていた関羽も、やはり捕虜になる。
 かねて関羽の武勇にほれこんでいた曹操は、関羽をふたりの夫人とともにみやこの許昌によびよせる。その道中にも、また許昌に到着してからも、関羽はふたりの夫人をあくまでも主君の夫人としてまめまめしく仕えるのである。わたしの考えでは、信義に厚いという評価は、かれが劉備の二人の夫人、甘(かん)夫人と糜(び)夫人にもうやうやしく仕えたからだとおもう。
 さて関羽はなんども曹操の誘いをうけながら、それに従うことなく、劉備の逃亡先きがわかると、曹操のもとをたち去る。
 曹操の家臣は憤慨して追いかけるが、曹操は関羽を逃がしてやるよう命じる。
 こののち、赤壁のたたかいで曹操は大敗し、北方に逃げかえる。その退路にあらかじめ配置されていたのが関羽である。
 関羽は曹操をみのがす。
 かつて自分をみのがしてくれた恩義に報いたのである。
 曹操が関羽をみのがし、関羽もまた曹操をみのがす。こういった人間関係のやりとりが「義」というもので、これがひとびとの共感をよび、『三国志演義』はながく講談でも語られ、小説としても読まれたのだろう。


写真:関帝廟(許昌にて)
関帝廟(許昌にて)
 
写真:関帝像
関帝像
 
写真:『春秋』を読む関羽
『春秋』を読む関羽
 
写真:曹操像
曹操像
 
写真:三国志にちなむ料理(許昌にて)
三国志にちなむ料理(許昌にて)


◆ 信義ということの意味
 そこで「信義」という徳目について考えてみよう。
 「信」は約束を守ることだとばかり、しらずしらずのうちに、思いこんでいた。
 いま漢和辞典をひくと、「誠実である」という意味があがっている。また、自分がいったこと(コトバ)を守る(オコナイ)、つまり「言行一致」であるともいっている。さらに「信言不美、美言不信」(信あるコトバはかざりなく、かざれるコトバに信はなし)という『老子』のことばもみられる。思いこんでいた意味より広いのだ。
 「義」はヨコのつながりである。
 つまり、そのような道徳が、民衆によって共感されていたのである。
 関羽がおカネの神さまであることは事実である。しかし、関羽という個性をつうじて、ひとびとがよりかかるもの、支持するもの。これが信仰されてきたのだ。
 関羽信仰は、民衆にとって信仰とはなにかを物語っているようでもある。
 信義に厚い男として信仰されているが、しかし関羽の人がら、人格というものが民衆をひきつけて、その人格という綜合的な「徳」の一部分が「信」と「義」なのである。
 仁義礼智信といって、五つの徳目がとなえられるが、これらはバラバラなものでなく、綜合的にひとりの人間に存在するのである。それをいつのまにか、五つの部分、側面に分けていうようになり、それぞれが独立した徳目になってしまった。民衆の信仰は、じつはそれらの綜合のうえに成立しているのである。


◆ むすび―裏切りと信義
 以上のべてきたが、われわれの道徳観念とかなり異なる点があるのを指摘しておきたい。
 それはまえにもふれた、関羽が赤壁で破れた曹操を逃がしてやったことである。曹操は劉備の天敵(てんてき)ともいうべき存在である。関羽は曹操を捕らえ殺すべきであった。兄であり、主君でもある劉備の信頼を裏切ってまで、曹操に義理立てする必要はない。
 しかしいっぽう、この話は中国の民衆の心を打つ。民衆にとっては、タテマエの「忠」よりも、一対一の関係の「信」がたいせつなのである。これを「義」ともいっている。
 こうした「信義」の人間関係は「前近代」的といえば「前近代」的であるが、これが民間の「正義」というものである。
 なにげなく読んでいた『三国志演義』の話はじつは大きな意味を秘(ひ)めていたといわなければならない。民衆にとって王朝や政府は二の次で、それよりも大事なものがあるのである。

 ひとつ補足しておこう。
 関羽の首を点検したとき、曹操は洛陽にいた。洛陽には関羽の首を祭った「関林」(かんりん)がある。
 曹操は木製の胴体をつくり首とあわせて葬ったとも伝えられている。
 斬首されたあと、なきがらを葬ったのは湖北省当陽にある「関陵」である。皇帝にかぎって用いられる「陵」のよび名がついている。数年まえ参詣したが広大なものだった。呉の孫権は諸候の礼をもって葬った、という。


◇ 写真の説明
 洛陽の関林は竜門(りゅうもん)の石窟にゆく途中にある。わたしは、1958年10月、1995年8月に訪ねた。許昌の関帝陵は2000年10月に訪ねた。本稿の冒頭の関帝の肖像はそのおり求めた拓本である。「帝」としてあおがれているのである。ほかの写真も、許昌の関帝廟で撮った。
 許昌のホテルでは三国志の話題を料理の名にしたコースがだされ、これを考案した料理の達人がかけつけて料理もし、説明もしてくれた。

(三月十六日記す)
 
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