中華点点(第12回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第12号 2006.6.19   
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【 漢 詩 の 話 】
   
写真:『漢詩紀行辞典』の本の箱のデザイン
 
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◇ ◇ ◇ ◇

 このほどようやく拙著が上梓(じょうし)になった。中村社主に謹呈したところ、打てばひびくように『蒼蒼』に書くべきであると、電話があった。自社の出版でないのに書けという、公平無私のおすすめである。感動した。
 「我田引水」(がでんいんすい)、「自画自讃」(じがじさん)の嫌(きら)いはあるが、拙著について、しるすことにしよう。
 かんたんにいうと、出版社からこういう提案をうけた。
 ――地名を並べ、それぞれについて、漢詩をつけてみたい。
 2003年4月11日の日付である。いまから3年前の平成15年。たいていの手紙が、年はしるさないが、これは年をしるしていた。
 さっそくひきうけ、それからまるまる3年とちょっと経過した、ということになる。
 わたしとしては、5年は経過した気分である。
 はじめの1年間、平成15年、2003年というとしは、なぜだかわからないが、いま思いかえしても暗澹(あんたん)たるものがあった。
 どのように、暗澹だったか。念のためパラパラと日記をめくってみたが、べつに暗い事件が連続しているというふうではなく、まぁ普通の日常生活がつづいている。しかし、このとしは暗い気分だった。

◇ ◇ ◇ ◇

 めったにない機会だとおもって、ひきうけたのだったが、目算(もくさん)がたっていたわけではない。不安があった。
 とりあえず、対象とする世界を「禹域」(ういき)と呼ぶことにきめた。すると、心が軽くなった。想像の空間がひろがった。
 学生時代、鈴木虎雄(すずき・とらお)先生がご存命で、二、三どおめにかかったことがある。先生の号は豹軒(ひょうけん)。『禹域戦乱詩解』という戦争の詩を集めた本をだされていた。
 禹が洪水を治(おさ)めたおかげで、大地が耕作できるようになった。その徳をたたえ、「禹域」と称するようになった(という)。この大地について、「禹域」を用いることに、躊躇(ちゅうちょ)はなかった。
 豹軒先生は作詩もされ、漢詩人だった。同級の相浦杲(たかし)君は、その作詩のなかまに参加していた。
 先生はべつに理由もなく、しぜんと「禹域」という表現をえらばれたのだろうが、しかし当時、日本の軍事侵攻は始まっていたのである。現実から距離をおこうとされたのだろう。
 「禹域」がある以上、「扶桑」(ふそう)も入れなければならない。「扶桑」の項目を立てれば、かねてから気にいっていた、郁曼陀(いく・まんだ)の『東京雑事詩』からも詩を採(と)ることができる。わたしは、たのしみになってきた。

◇ ◇ ◇ ◇

 しかしながら、地名は地名にすぎず、すべての地名が日本の読者になじみがあるとは、かぎらない。
 地名を地域ごとにまとめるとして、まず、「江南」を思いついた。これなら「中原」とか、「巴蜀」(はしょく)も、かかげられる。
 「江南」では、まずこれを全体としてうたった詩をかかげよう。それから、「杭州」を第一にもってこよう。このようにもくろんだ。
 というのは、わたしは杭州に半年、滞在して、すっかり気にいっていたからである。
 なんとしてもとりあげたい。
   「江南憶 最憶是杭州 ‥‥‥‥
      チアンナン・イー ツゥエ・イー・シ・ハンチョウ ‥‥‥‥
 これは、白居易(はく・きょい)の詞(ツー)である。なんと、わたしはこれを李白(り・はく)だと思いちがいして、旧著にしるしたことがある。誤りを訂正するためにも、杭州にちなむ名詞(ツー)をかかげたい。

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 「江南」についてしらべるうちに、南京一帯がこれにはいる、とわかった。
 当然なことであるのに、わたしには迂闊(うかつ)だった。江南の文化は「六朝(りくちょう)」の文化である。六つの王朝をつうじて南京はみやこだったのである。
 学生時代、青木正児(あおき・まさる)先生の講義を聴き、「嘯(うそぶ)く」についての説明をうかがったことがある。のちに東京、日比谷の映画館で映画『アラビアのローレンス』をみた。この「嘯く」場面がでてきた。
 ローレンスが砂漠の志願兵を率いて出発する、その谷間をはさむ砂丘を埋めたベドウィンたちが口笛を吹いて送る。谷間にひびく口笛こそ「嘯く」だったのである。
 さて、青木先生の好著『江南春』(こうなんしゅん)には、蘇州のたびがしるされている。それを読んで蘇州にあこがれ、蘇州が「江南」だと思いこんでいた。
 しかし、「千里うぐいす啼いてみどりくれないに映(えい)ず」といった風景はやはり南京の郊外がふさわしいのかもしれない。

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 詩に訓読や語注をつけながら、その翌2004年もすごした。あれを思い、これを偲(しの)ぶことがあった。つまり、わたしは机上の旅をつづけていたのだ。
 さすがに、草臥(くたび)れてきた。どういうわけか、校正刷がなかなかもどってこない空白の時期があって、手もちぶさたにイライラした。それを鎮(しず)めようと、まとめたのが『中国――欲望の経済学』(蒼蒼社2004年10月刊)だった。
 じつは、べつくちの仕事にもとりかかっていた。「中国の歴史」(仮題)である。
 少しばかり書きはじめていたので、詩や詞のうたわれた時代背景のなかには、親近感のあるものもあり、解説が書きやすかった。
 『欲望』のほうは、思いっきり想像をめぐらした。『金瓶梅』に助けを求めた。
 しかし、ものにはバランスがある。わたしはついで、『孟子』に助けを求め、「浩然の気」と「惻隠(そくいん)の心」の条を引用した。
 すると翌2005年、なんと孟子の石像が立命館大学に寄贈され、その歓迎パーティに招ばれた。『蒼蒼』にさっそくしるした。中華点点(第8回)’05.9.15。
 暗澹たる、重くるしい空気が、少し明るくなりかけたような気がした。地名に即してあつめた詩も、しだいに数がふえた。

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 「扶桑」のさいごの詩は、梁啓超(りょう・けいちょう)が下関で詠じた詩だった。意図したわけではなく、そういうまわりあわせになったのである。
 下関では「春帆楼」(しゅんぱんろう)が有名である。日清戦争の講和会議がここでひらかれ、清国代表は李鴻章(り・こうしょう)だったが、春帆楼の附近で暴漢に襲撃された。いってみると、現場は人力車がようやく通れる狭い道だった。
 このときの講和条約に反対して、意見書を清王朝に提出したのが康有為(こう・ゆうい)である。いわゆる「公車上書」(こうしゃ じょうしょ)で、「公車」とは挙人のことである。北京に集まっていた挙人(きょじん)1300名余が署名した。これに参加し、さらに改革を主張したのが梁啓超だった。
 この一冊は、『辞典』とは称するが、この詩は読みつづけたひとのしめくくりになるだろうと思いながら、原稿を送った。
 ところが、そのあと、下関市立大学から講演に呼ばれた。もっぱら道盛誠一・経済学部教授のお世話になり、堀内隆治学長にもおめにかかった。
 講演で梁啓超にまで言及したかどうか、覚えていないが、当日は新幹線で新下関に到着、その足で市場でにぎり鮨を求め、山田瑠璃子教授の研究室で食し、新鮮、美味だった(代金は山田教授が立替えて下さり、ついそのままだった)のは覚えている。
 そのご、梁啓超の乗った船が笠戸丸だとわかり、初校で加筆した。そのあとさらに、これがロシア(帝政ロシア)の軍艦で(はじめから軍艦として建造されたわけではないが)、建造された当初は、カザン号という船名で、オデッサ~長崎~ウラジオストック航路に就航、数回航海したあと、日露戦争が勃発、ロシア太平洋艦隊の基地である旅順港に投錨、病院船として停泊していたところ、二〇三高地が日本軍に占領され、砲撃をうけて沈没したと、わかった。
 戦後に日本海軍が引き揚げ、修理して、船名を「笠戸(かさど)丸」とつけた。「カザン」号にちなむ船名だったのである。
 これを借りうけた東洋汽船は南米航路に投入、まもなくブラジル移民の第1回、781人をサントス港に上陸させた。ブラジル政府の好意で帰る船荷に、ブラジルのコーヒー豆をはこんできた。はじめて日本にきたこの豆をつかって、現在までつづく銀座8丁目、カフェ・パウリスタが開店した。
 そのご、東洋汽船は笠戸丸を海軍省に返却、大阪商船が借用、改装して台湾航路に就航した(1910年4月)。梁啓超はこの笠戸丸に乗船したのである。
 笠戸丸はそのご、鰊(にしん)工船になり、船主は転々、漁業工船として北洋で操業するうち、1945年8月9日、カムチャッカ半島西岸の日魯漁業ウトカ工場沖に停泊中、ソ連機の空爆で沈没した。
 わかったのは以上であるが、再校のとき、ごくかいつまんで補足した。
 もともとロシア船だったのが、ソ連空軍機の空爆で沈没したのだ。船にも(人間にまけない)宿命というものがあるのかもしれない。
 台湾にゆく梁啓超がこの船に乗ったというのも、不思議な暗合(あんごう)である。
 笠戸丸のこの宿命(運命)については、わたしは柾木恭介『猫ばやしが聞こえる』によって知った。
 この『猫ばやし――』については、すでに本欄に紹介したが、漢詩の拙著との関連は、ここではじめてのべる(発行は績文堂2005年4月刊、(03)3260-2431)。
 柾木は笠戸丸については山田廸生『船にみる日本人移民史』(中公新書)によるとしるしている。
 ところで、ここでなぜ、とくに笠戸丸をとりあげたかといえば、これを知ることによって、梁啓超の下関の詩が、いっそう味わい深く読めるだろうと思ったからである。そして、拙著は『辞典』とうたっているが、読み物としても読めるよう意図してもいたからである。さらにいえば、柾木はわたしの妹、角谷美智子の夫で、昨年亡くなった。その鎮魂慰霊をこめてしるしたのである。もし存命であれば、梁啓超の詩を読んでもらいたかった。
 (2006.6.6)

写真:笠戸丸
(笠戸丸:柾木恭介著『猫ばやしが聞こえる』績文堂2005年p.171より)
 
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 さて、「我田引水」「自画自讃」したこのわたしといえども「含羞の人」ではある。拙著、拙著といいながら書名、出版社名をあえて本文にしるさなかった。それで、冒頭に本の箱のデザイン(案)として送られてきた数枚のうちの一枚をかかげ、拙著の書名、出版社をこれによっておつたえしよう。
 版画は莫測氏である(北京在住)。
 莫測氏はずいぶん以前からの交際で、氏の版画をたびたび装幀に使わせて頂いている。貴重な創作を、デザインとして登場して頂き、まことに申訳ないしだいであるが、ご本人の了承をえている。ときには拡大してもいる。
 ここにかかげるのは、編集部で作成した案で、わたしは、同じ調子の色彩にせず、下にゆくほど色調をうすくしては如何かと、愚考をのべた。店頭にならんでいるのをみると、この愚考が採用されている。ただし色、書名の配置はすべて編集部(辞典編集部)の案である。
 また本欄のはじめにかかげた4枚の地図は、本書のなかの詩をたどったもので、わたしは気がつかなかったが、収録の詩をつぎつぎにたどっていけば、このような足跡の旅になるということである。『中国 歴史の旅』『中国長江 歴史の旅』〈朝日選書〉の取材に同行して頂いた堀内正憲氏が作成した。
(2006.6.6)
 知るひとぞ知る、堀内氏は朝日新聞刊『知恵蔵(ちえぞう)』の命名者であり、編集長でもあった。本書の詩を解説するにあたって、初稿では、遠慮もあって、わたしは自分の旅の経験や感想を、一種の「かくし味」としていれて、あまり言及しなかったが、氏は正面からしるすように忠告された。わたしは忠告にしたがった。
 写真をほめて下さる読者もいる。じつをいうと、わたしはあるとき保存していた写真をぜんぶ捨てようかと思ったことがある。使いみちがないとおもったのだ。書店の「新刊案内」(5月号)の表紙に採用されたのは、走りだしたバスの上から撮ったので、前景が流れている。
 前景の流れを指摘されたのも、たしか堀内氏だった。 


写真:「新刊案内」5月号の表紙
「新刊案内」5月号の表紙の写真
(2006.6.15)
 
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