中華点点(第18回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第18号 2007.5.21   
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光華寮裁判について(その3)
  
 かねてとりあげてきた〈光華寮裁判〉について、このほど最高裁の判決が出た。初審の京都地裁にさしもどしとなったが、わたしはもっと早く出されるべきだったとおもう。
 ここで、ふりかえって、経過を整理しておきたい。(「中華点点」第16回、第17回も参照されたい。)

 
◇ ◇ ◇ ◇
 

◇光華寮裁判の経過と教訓
 ことし(平成19年)3月27日、最高裁は光華寮の所属をめぐる裁判に判決を下し、25年まえに大阪高裁が下した判決を破棄、京都地裁にさしもどした。もともと京都地裁は1977年(昭和52)9月に、台湾政府の告訴にたいし「(原告は)国家を代表せず、したがって訴訟を担当する能力はない」という理由で、これをみとめなかった。
 光華寮は中国人留学生の寄宿舎で、京都大学が管理していた建物である。
 台湾当局が寮生のたちのきを求めて告訴したのが1967年(昭和42)だったから、それから40年を経過したことになる。文化大革命(1966~76)の影響もあって、寮生は家賃の納入を拒否していたようである。
 戦争中、中華民国だったが、1949年、中華人民共和国が成立した。
1952年(昭和27)、日本はアメリカなどと講和条約をむすんだ。いわゆるサンフランシスコ条約。
 日本の吉田茂首相(当時)は、中国大陸に中華人民共和国が成立しているのを認識していて、これと講和条約をむすぶのが当然だと考えていたようである。しかし、この新しい国家はアメリカと、おたがいに宣戦布告なしに、朝鮮半島で戦争(朝鮮戦争)をしていた。
 アメリカの国務長官、ダレスは吉田首相に書翰を送り、台湾の中華民国と講和条約をむすぶように要求し、吉田首相はこれにしたがった。
 この講和条約に賛成できなかったので、わたしはかなり熱心に国会の議事録を読んだ。国会の答弁でも、「じっさいに中国大陸を支配しているのは中華人民共和国である」と、日本の外務省は答弁していた。このあたりのことは、拙文にもくわしくしるした。「フィクションとしての日中平和」『別冊・潮』(日本の提案)一九六九年十月、『同時代としての中国』181-204ページ 田畑書店 一九七六年四月。
 条約には「将来、中華民国の領域に属する地域を含む」という注釈をつけることになった。
 当時、台湾の中華民国は「大陸反攻」をスローガンとしかかげ、大陸をとりかえす軍事行動をおこすことを公然と表明していた。
 アメリカは中華人民共和国を「コミュニスト・チャイナ」とよび、これを日本語に訳した「中共」というよび名が日本ではつかわれていた。おそるべきコミュニスト(共産主義者)の国家であるというのだから、これと講和条約をむすぶのは、アメリカ占領下では現実的には考えられないことだった。そのようななかで、中国大陸の現実を冷静にみていた吉田茂首相の見識は評価されてよい。
 吉田茂は満州事変のとき(1931)、瀋陽の総領事だった。かれが事変に積極的に関与したとは語られていないから、冷淡だったのだろう。中国を見る眼はあったのだとおもう。


 講和条約締結のおりの国会の質疑応答が、「日華平和条約」の締結にもいかされたのだろう、附属文書では、「将来、中華民国に帰属する大陸」を指して、「又(また)は」とつけくわえられていた。
中華民国が書翰を送り、これを「及(およ)び」と読む(中華民国当局がこのように読む)と申立て、この中華民国の書翰も講和条約の附属文書として公式にかかげることになった。
 このいきさつは、拙編『日中国交基本文献集』下巻、164ページ以降、とくに170ページに資料としておさめた。


「同意された議事録」と題する附属文章の「一」に、つぎのようにある。
中華民国代表
 私は、本日交換された書簡の「又は今後入る」という表現は、「及び今後入る」という意味にとることができると了解する。その通りであるか。
日本国代表
 然り、その通りである。私は、この条約が中華民国政府の支配下にあるすべての領域に適用があることを確言する。
竹内実編『日中国交基本文献集』下巻170ページ。
蒼蒼社 1993年2月
 
 ここで言及されている「又は今後入る」という表現は、講和条約そのもの(全十四条)にはなく、「日本国と中華民国との間の平和条約交換公文」につぎのようにみえる。


 第一号書簡をもって啓上いたします。本日署名された日本国と中華民国との間の平和条約に関して、本全権委員は、本国政府に代って、この条約の条項が、中華民国に関しては中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域に適用がある旨のわれわれの間で達した了解に言及する光栄を有します。本全権委員は、貴全権委員が前記の了解を確認されれば幸であります。以上を申し進めるのに際しまして、本全権委員は、貴全権委員に向って敬意を表します。
 一九五二年四月二十八日台北において 
(河田 烈)
中華民国全権委員 葉公超殿
同上164ページ
 
 日本は、自主独立国家ではなく、「冷戦」という国際環境のなかで束縛されていた。
 この「日華条約」は、1972年(昭和47)10月の「日中共同声明」で破棄された。
 したがって、1977年9月の京都地裁の判決は正しく、これが正しいとすれば、1982年(昭和52)4月、大阪高裁がさしもどしたのはまちがっていたわけであるが、さしもどされた京都地裁は、はじめの判決をふたたびくりかえすことはできない(というのが慣例(?)のようである)から、はじめの判決を否定し、1986年(昭和61)2月、京都地裁は台湾の所有権をみとめた。
 この京都地裁の判決に、わたしはなっとくがゆかず、『ジュリスト』『法律時報』に判例としてかかげられるのを待って、判例につけられた「講評」を読んだが、一流の学者が執筆した「講評」は、「であるがゆえに判決は正しい」という論理でかかれていて、なぜ「であるがゆえに」なのか、さっぱりわからなかった。
 しかし、光華寮の建物はもともと京都の住民の私有財産であり、私有財産の商取引としては合法的だというわけなのだろうと、自分なりになっとくした。

 
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 さいきんになって、最高裁がいよいよこれをとりあげるというので、あらためて考えてみた。
 そして、この商取引はたんなる商取引とはいえず、光華寮は外交機関に準ずる性格があったと考えるにいたった。そのころの留学生は、私費留学もいたかもしれないが、国家から派遣されてきたという身分をもっていたのが、ほとんどだったとおもう。それで京都大学がわざわざ光華寮を設置、管理したのである。中華人民共和国の成立とともにこの新国家に引渡されてしかるべきだったのだ。
 光華寮を購入した商取引の一方の当事者は中華民国の外交機関である。国家を代表する性格をもっている「日中共同声明」は、それまでの「日華条約」をふくめて、中国にかんする国際条約を破棄するものであるから、この段階で取引は無効になるべきだった。
 「共同声明」の深刻な意味に、自分が気づいていなかったことに、わたしは気づいた。
 最高裁がさしもどしたのは、当然のことだった。1972年(昭和47)10月の「共同声明」から35年ちかくを経過していることを考えると、「声明」が、ひとびとによってなっとくされるまでには、時間がかかったことをかんじる。わたしは中国研究者として、もっと積極的に「声明」を考えるべきだった。
 
◇ ◇ ◇ ◇
 
 温首相の訪日はその「日中共同声明」から35年たっている。
 来日して二日目、温首相は京都で学生と野球をたのしんだ。立命館大学のユニホームを着用してマウンドにあらわれた。背番号は〈35〉だった。
 温首相は多難だった過去をふりかえり、その成果をうけつぎ、将来の発展に努力するという決意のもとに、この数字をえらんだのだろう。
 野球というスポーツに託して歴史を語ったのだ。
 この記念すべき年に、自分は日本を訪問したのだ、という誇りもこめたのだろう。
 
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 光華寮裁判についての年表をかかげよう。


年表  日中台と光華寮を巡る動き
1912 清朝崩壊。中華民国が成立
1921 中国共産党創立
1945 第二次世界大戦おわる。やがて国民党と共産党の内戦
1949 中華人民共和国政府(現在の中国政府)が成立を宣言。中華民国政府は台湾(台北)へ
1952 日本が台湾当局と講和条約を締結。台湾当局が光華寮の所有権を取得
1967 台湾当局が寮に居住する元留学生に対し明け渡しを求めて提訴(9月)
1972 日中共同声明で日本が「中国唯一の合法政府は中華人民共和国政府」と承認
1977 京都地裁が台湾側の訴えを却下(9月)
1982 大阪高裁が地裁判決を破棄、さしもどし(4月)
1986 京都地裁が台湾の所有権を認める(2月)
1987 高裁が寮生側の控訴を棄却(2月)。中国の反発が強まり外交問題化
2007 最高裁が台湾側と寮生側に釈明手続き(1月)
最高裁が大阪高裁判決を破棄(3月)
『毎日新聞』2007年3月28日2面
引用にあたって一部訂正した
 
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 さらにつぎにかかげる二つの解説記事が参考になろう。(A)は最高裁判決が下されるまでのもので、(B)は以後のものである。
 上記(B)の解説はもっともな点もあるが、国家間の関係としては、もはや明明白白で、光華寮の帰属については、これで一件落着になった、とわたしにはおもわれる。



◇(A)「中国が代表」――進む通説化
 提訴から40年ぶりに、判決に向けて動き出した光華寮訴訟。最高裁が「台湾には訴訟活動を続ける正統性がない」との判決をすれば、裁判の土台そのものが崩れることになる。それは、最高裁がはじめて「一つの中国」を認めることにほかならない。
 高裁判決当時は、国際政治学でも、領土の実効支配が残り新政府が完全に承継したわけではなく、「二つの中国」だとする学説が有力だった。このため、二審の判決を維持する形にならざるをえないとみられ、「封印」状態が続いてきた。しかし、中国経済成長などを背景に、中国国民を代表するのは中華人民共和国だとする見方が一般化。今回の審理入りは、こうした現状を踏まえたものとみられる。
 一方で、最高裁第二小法廷は戦時中の中国人強制連行をめぐる訴訟で、日中共同声明によって個人の賠償請求権も放棄されたかどうかという大きな論点についての初判断を示し、中国人原告側を敗訴させるみとおしだ。
 戦後補償訴訟と光華寮訴訟という、日中間に横たわってきた司法上の長年の課題がいずれも決着する可能性がたかまった。
《解説》 『朝日新聞』1月23日(夕刊)
◇(B)「二つの中国」――結論先送り
 光華寮訴訟で過去の判決四件をすべて無効とした二十七日の最高裁判決は、中国国家を代表する権限が中華人民共和国に変更され、裁判はその時点で中断したとして四十年に及んだ訴訟に区切りをつけた。しかし台湾が中国国家を代表して今回の訴訟続ける権限を否定しただけで、訴訟当事者として所有権を主張する権限があるかどうかについては判断せず「二つの中国」問題への結論は先送りされたといえる。 最高裁が判決で示した原告国家を代表する権限の移動を、民事訴訟を起こした企業に例えると、代表取締役の社長らが訴訟途中で解任され、企業の代表権を失った場合に当たる。解任された社長らが裁判をつづけることはできず、新たに代表取締役となった社長らに裁判はひきつがれる。
 今回の訴訟で原告国家の代表権を持つのはどこなのかという争点は、原告表示が「台湾(提訴時中華民国)」に変更されたのを見た寮生側が上告後に「そもそも日本政府が承認していない台湾が原告国家を代表して裁判をつづけられるのか」と指摘したことから、浮上した。
 その後、二十年近く要したのは「天安門事件などで中国も不安定な時期があり最高裁はタイミングを計っていたのではないか」(訴訟当事者の関係者)とみられるが、国家代表権に争点を絞って台湾、寮生側双方に意見提出を求めてから判決まではわずか約二カ月だった。
今後、国家代表権を否定された台湾があらためて提訴し、所有権を主張するなどした場合、原告として認めるかどうかが「二つの中国」問題への司法の結論となる。
(解説) 『京都新聞』3月28日1面

 
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