中華点点(第20回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第21号 2007.11.20   
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『検証 戦争責任』書評と井岡山シンポジウムの報告
 とつぜんFAXが紙を吐き出しはじめ、たまたま電話機のそばにいたわたしを驚かせた。
 「中華点点」の「あとの話」を心待ちしていますとの催促で、いわずと知れた中村社主からだった。前回、8月27日付の拙文は、「あれやこれやで、夏のはじまりに気がかりな用件をかかえていたせいもあって、暑い夏だったのである。しかし夏はおわらなかった。それはまたあとの話。」で終っていた。
 そのころの「気がかりな用件」はなんだったのか。
 忘れっぽい性分(しょうぶん)なので、たしかなことはいえないが、井岡山(せいこうざん)行きの件だったのではないかとおもう。1927年に毛沢東(もうたくとう マオ・ツォートン)がのぼってたてこもった江西(こうせい)省の根拠地である。ここから、かれのゲリラ戦がはじまった。
 ところで中村社主の催促はつづき、わたしの「あとの話」は『検証 戦争責任』についての書評のようなものになるだろうと推定していて、もしそうだとすれば、次の『中国情報源』(来年4月ごろ刊行)のトップを飾るにふさわしいだろうと、ありがたい申出である(!?)。とはいえほかにも、巻頭論文の筆者がおられるわけだし、来年4月ごろの情勢がどうなっているかはわからない。しかし、『検証 戦争責任』の書評は執筆したことはしたので、その小文を以下にかかげよう。これの中国語訳が中国・北京で出版されたのをうけて、『読売新聞』に掲載されたものである(平成19年9月5日付)

 
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『検証 戦争責任』書評 読売新聞 2007年9月5日
(上の画像をクリックすると拡大したものが見られます。)
 
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 さて、以下は「井岡山行きの話」になる。
 じつはずいぶん以前に、毛沢東の詩(これには詩の別格ともいうべき「詞(ツー)」も含めていってもいいが)を翻訳・解説し、かれの革命の歩(あゆ)みをあわせてかかげた『毛沢東 その詩と人生』(文芸春秋 1965年4月第1版)をわたしは出版している。
 このなかに、井岡山をうたった詞(ツー)がある。《西江月(せいこうげつ)井岡山 一九二八年秋》。
 
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  井岡山はここにかかげるように緑ゆたかな山である。主峰はいくつかの峰がつづき「五指峰」ともいわれている。海抜1580メートル。



写真:井崗山

 ここで、第三回毛沢東詩詞国際学術シンポジウムがひらかれ、わたしはこれに参加したのだった。2007年8月21日-23日。会場は中国井岡山幹部学院(学員楼)。



写真:シンポジウムの光景
シンポジウムの光景。左は主催者で毛沢東詩詞研究会・前中央文献研究室主任逄先知(パンシェンチ)氏。

写真:陳昊蘇氏・同夫人と
陳毅(ちんき チェン・イー)氏の令息・陳昊蘇(ちん・こうそ チェン・ハオスウ)氏も参加(中国人民対外友好協会会長)、左端は同夫人。 写真:毛新宇氏にインタビューをうけているところ
中国軍事科学院。毛沢東の令孫、毛新宇(もう・しんう マオ・シンユイ)氏も出席していて、インタビューをうけた。

 
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毛沢東の〈西江月〉はつぎのとおりである。

山下(さんか) 旌旗(せいき) 望(のぞまる)る あり
山頭(さんとう) 鼓角(こかく) あい聞(き)こゆ
敵軍 かこむこと 万千重(まんせんちょう)なれど
われひとり たかくそびえ 動(うご)かず

はや すでに 壁塁(とりで)を森厳(しんげん)にして
さらに くわえて 衆(もろびと)の志(こころざし)城となる
黄洋界上(こうようかいじょう) 砲声 隆(たか)し
報(しらせ)ありて いう 敵軍は 宵(よる)にまぎれて遁(に)げたり と


 山下旌旗在望
 山頭鼓角相聞
 敵軍囲困万千重
 我自キ(山+帰)然不動

 早已森厳壁塁
 更加衆志成城
 黄洋界上砲声隆
 報道敵軍宵遁

 詞(ツー)はいくつも形式があり、「西江月」はその形式の名称で、題名ではない。題名は「井岡山」。一九二八年秋の作である。
 この詞は同じ調子で二度くりかえされるが、後のくりかえしに「衆志成城」というのは、成語である。武田信玄が「人は城」といったというが、これからきているのかもしれない。
わたしはこの一首をとりあげて報告した。

 
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 『毛沢東 その詩と人生』は武田泰淳さんとの共著で、この本の企画をたてた青木功一氏が竹内実ひとりの名では企画がとおらないと考え、武田さんにお願いして共著者になっていただいたのである。
 武田さんが快諾されたときいて、わたしはとりあえず原詩(詞も含む)の訳文をつくり青木氏をつうじてとどけ、これは一字の訂正も加筆もなく、かえってきた。
 それから当時中国で刊行された回想録『星火燎原(せいか りょうげん)』をひらいて、当時の労農紅軍の兵士にインタビューするようなつもりで、詩や詞がつくられた背景をつづった。
 『星火燎原』のシリーズも、当時、たまたま北京にゆかれた武田さんにおねがいして買ってきていただいた。武田さんは北京の軍事博物館までいって、地図もひとそろい買ってきてくださった。
 軍事博物館の館内にいた中国人の入場者がわっと寄ってきて、これらの書籍や地図を買いこむ日本人をものめずらしげに見物していたというお話だった。

 
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 当時、資料をみながら、現地のありさまを空想でくみたてた。現地をみたいとしきりに思ったが、いつになったら実現するか、あてはなかった。それが、ことしになっていよいよ現実のものとなったのである。シンポジウムの意図とくわしい日程はわからないまま承諾し、出発した。同行は川西重忠(桜美林大学)、徳岡仁(平成国際)、徳永洋介(富山)、浅野純一(追手門学院)、それに北京在住の程麻(中国社会科学院文学研究所)の諸先生で、上海到着からはずっとわれわれは程麻先生にお世話になった。程麻先生は、拙文を翻訳編集した中国語版『竹内実文集』全10冊の刊行(文聯出版社)のさい、多大のお世話になっている。ちなみに、この中国語版が日本に入荷していることをついさいきんになって知った(福岡・中国書店・(092)271・3767)。中国書店は『嵐を生きた中国知識人-「右派」章伯鈞をめぐる人びと』を翻訳・刊行したばかりである。訳者は横澤泰夫。名訳で注もゆきとどいている。

 
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 シンポジウムで、わたしがどのような報告をしたかはここでは省略しよう。わたしは、日本で中国の古典の詩詞がどのように読まれているかにも言及し、ながねんにわたって「訓読(くんどく)」という独特の方法がもちいられていることを紹介し、日本人の創作した「漢詩」の実例を二、三あげ、石川丈山(いしかわ じょうざん)の富士山の詩をそのなかに例示したのだった。
 「白扇 さかさまにかかる東海の天」(白扇倒懸東海天)の形容を実感してもらおうと白扇を数本持参し、興味のある方にさしあげるとつけ加えた。この白扇はまいとし年末に武者小路千家でお頒(わか)ちいただいたものであるが、これまで保存してあったのをすべてさしあげたのだった。「白」は葬式の色なのでよろこばれないだろうとおもったが、そうでもなかった。
 井岡山は山岳地帯であるが、緑の樹々が茂り、日本の伊豆半島・天城越えのコースを想起したのだった。



写真:革命のあとを訪ねる旅をアピールしている看板
革命のあとを訪ねる旅というのがさかんで、この看板はそれをアピールしている。
ただし飛行場から宿舎のある茨萍まで一ヵ所みただけである。
写真:帰路に写した山の風景 写真:帰路に写した山の風景
あとはすべて山地(帰路にうつす)

 食事はすべて現地のもので、きどりのない中国料理を満喫(まんきつ)した。

写真:幹部学院の食事
幹部学院の食事。三食すべてセルフサービス。

 シンポジウムでは浅野純一、徳岡仁、程麻先生方も報告された。いずれ正式の論文集が刊行されよう。

 
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 (11月15日記す)
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