中華点点(第24回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第27号 2008.11.24   
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毛沢東をめぐる旅
 ことしも残り少なくなって、歳(とし)の瀬(せ)というか、時間ギレがいよいよ迫ってきた感じがする。
 “チュウゴク”(中国)を対象に原稿を書きあげたが、どういうわけか、到達感というか、満足感というか、まるで感じられない。
 まず、さいしょの読者である編集部があまり反応(はんのう)を示してくれない。これは、むしろ“よい”ことだと思う。原稿に書かなかったことを電話して、編集部が了解したとしても、読者には伝わらない。わたしは、執筆しながらほとんど電話をしなかった。べつに“褒(ほ)めてくれ”と願っているわけでもないが、猛烈な反感がポーカー・フェイスの下にかくれているのかもしれないと、薄氷を踏(ふ)む思いなのだ。
 単行本は原稿を渡してから、印刷して店頭にならぶまで、少なくとも3~4か月かかる、と今回にかぎって、認識したのだった。なにかの難病をかかえているような気分で、この11月という月(つき)を過さなければならない。
 なにかのはずみで、列車が進行を中止して、レールのうえにガタリと停止するように、拙著も陽(ひ)の目(め)をみないかもしれないとさえ思う。もとより、常識的に考えて、そんなことはありえないのだが。・・・・・・
 というわけで、なにかしら、欠落感、不満足感というものが胸の片隅(かたすみ)にある。
 それはそれとして、この夏、9月6~9日と、湖南省湘潭(しょうたん シアンタン)にいった。そのあと10、11日と韶山、長沙をたずね、12日の飛行機で帰国したのだった。
 その疲れがいまごろになって、出てきたのかもしれない。


 
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“現代化視野中的毛沢東思想研究”国際学術研討会論文集の表紙
“現代化視野中的毛沢東思想研究”
国際学術研討会論文集の表紙

 湘潭まででかけたのは、毛沢東についてのシンポジゥムが開かれるが、参加しないかと誘われたからである。去年の8月に井岡山でやはり毛沢東にちなむシンポがあり、これに出席して啓発されたことは、1月出版の『コオロギと革命の中国』(PHP新書)にしるしたから、ご存知の方もおられよう。
 ただし、今回は詩詞という文学作品についてではなく、現代化をテーマにしたシンポだった。すなわち―
      現代化視野における毛沢東思想研究。
      湘潭大学の毛沢東思想研究センター主宰。
 〈現代化〉という現在の課題に、毛沢東思想がどのように役立つかを討論しようというもので、毛沢東思想やマルクス主義の“中国化”をめぐっての議論が中心になった。
 〈毛思想・マルクス主義の中国化〉はこれまでもいわれたことで、めずらしくないが、毛思想やマルクス主義のどのような点を〈中国化〉しようというのか、議論はそこまで進まなかったような印象だった。
 マルクス主義は日本にも輸入されたが、しかし、〈日本化する〉ということは、いわれなかった。〈マルクス主義〉はキチンとした輪郭(りんかく)があるもので、これに加工するということは、日本では思いうかばなかった。しかし、北一輝の『日本改造法案』は社会主義を天皇制のもとでどう実現するかにとりくんでおり、日本は日本なりに〈日本化〉しようとしていたといえる。
 〈マルクス主義の中国化〉ということは理論的枠組みとして、一つの〈出路〉(しゅつろ)だと思うが、どのような〈中国化〉なのか、そのところがモンダイだ。
 シンポジゥムは一種の同窓会的な雰囲気があった。いまのチュウゴクはこういう会合をつうじて、学者、研究者のコミュニケーションを計っているのだとわかった。
 到着したとき、おどろいたのは出席者論文が1冊にまとめられていることだった。
わたしはいちおう原稿を持参したが、これを補足して再版するという話はなかった。
最終日に記念写真が配布されたが、参加者はざっと120~130人いた。

写真:シンポジュウム参加者の記念撮影風景
シンポジュウム参加者の記念撮影風景


 
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◇毛沢東の生家

写真:毛沢東の生家
毛沢東の生家



写真:毛沢東生家
奥に見えるのが毛沢東生家

 シンポジゥムが終って、翌日は韶山の毛沢東の生家を訪ねた。多くの参観者がきていて、観光ポイントになっている様子だった。
 20年ほどまえ、わたしはここを訪ね、中村公省・蒼蒼社社主、矢吹晋氏ほか同行者がいてたのしい旅だった。これをもとに岩波新書『毛沢東』を出版した。
 生家はほとんど変化がなく、入ったところの正面に佛壇がはめこまれていたのももと通りだったが、佛壇には位牌が一つ祀られていた。


 
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《嶽麓書院史話》の表紙
朱漢民・鄧洪波《嶽麓書院史話》
湖南大学出版社 2006年9月

◇岳麓書院
韶山をたずねた翌日は長沙を大急ぎでひとまわりさせてもらった。長沙の市街はタテに長い。市街の中心に湘江(しょうこう シアンチアン)が南北に流れているからである。湘潭からクルマで長沙まで約1時間半、湘江を渡って西岸へゆき、まず岳麓書院を訪ねた。
 岳麓山の東側、湘江を見おろすふもとにある。北宋の開宝九年(976)潭州の太守朱洞が創建したが、道教、仏教の寺院道観となっていた時期もある。長沙に新しい文化運動が発生するたびにここで講義や集会・討論がおこなわれた。朱子(朱熹)はここで講義した。
 近代に入ると梁啓超がここで時務学堂をひらき、蔡鍔(さいがく ツアイオー)はその学生だった。のち建物を利用して湖南大学が開設され、毛沢東も出入りした。


 
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◇愛晩亭
 すぐ近くにあったのが杜牧(とぼく)の詩で有名な愛晩亭(あいばんてい)である。山の中腹にあるが、クルマで登ってゆける。
 建物があったが、唐時代のものであるはずはない


写真:愛晩亭 写真:愛晩亭
愛晩亭

 遠 上 寒 山 石 徑 斜
 白 雲 生 処 有 人 家
 停 車 坐 愛 楓 林 晩
 霜 葉 紅 似 二 月 花


とおく 寒山を のぼりきたれば 石径(いしのみち) ななめ
白き雲 生じるところ 人の家(すまい)あり
車(くるま)とめ そぞろにめでぬ 楓林(ふうりん)の ゆうぐれ
霜葉(そうよう)は 二月の花より くれない なり
山行(さんこう)       ―拙訳


 
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◇新民学会の跡
 新民学会の建物が整頓されて、見学ポイントになっていた。立派な案内書が出版されていた。

写真:蔡和森・新民学会跡
蔡和森・新民学会跡

「風華正茂的歳月―新民学会紀実」湖南人民出版社 2008年4月刊の表紙
中共湖南省委党史研究室・新民学会成立会旧址管理処=主編《風華正茂的歳月―新民学会紀実》湖南人民出版社 
2008年4月刊


 
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◇第一師範

 毛沢東が学生生活を送った。

写真:第一師範
第一師範


◇橘子洲

 毛沢東の詞(ツー)に長沙をうたった詞がある。長沙と題されていて、学生時代に湘江の中州(なかす)橘子洲(きっししゅう)で泳いだことがうたわれている。岳麓山を下りると湘江なので、湘江沿いに南へいって、橘子洲の南のはしがみえるところで、岸べから眺めた。しかし、気温が高く、水面からは水蒸気がたちのぼっていて、はっきり見えなかった。
 思っていたより大きいことが確認でき、満足した。

写真:橘子洲
橘子洲

 
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◇昼食の豚足
 ひるになったので市内にゆき、大衆食堂といった感じの食堂に入った。メニューを見ると豚足があった。迷わず注文した。美味だった。


 
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◇毛沢東の清水塘住居あと

 このあと毛が長沙で労働組合をつくるのに熱心だった時期の住居をたずねた。

写真:毛沢東の清水塘住居あと
毛沢東の清水塘住居あと

 
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◇上海の毛沢東住居

 上海には夜到着した。上海の友人に夕食をごちそうになった。その席で「上海毛沢東住居」があることを教えられ、8時すぎていたが、クルマにのせてもらい、参観した。
 そこで写真をなかなり入れた紹介の小冊子をもらったが、同行の程麻氏(中国社会科学院文学研究所)が、私の写真があるのを発見した。60年の安保反対のとき上海で毛沢東の接見をうけ、ニ、三日して『人民日報』に写真がのった。そのときのものである。恥しいの一言に尽きるが、何冊かにサインした。

「毛沢東在上海」の表紙
《毛沢東在上海》
編著=中共上海市委党史研究室
     中共一大会址記念館
     上海毛沢東故居
上海書店出版社2003年12月

「毛沢東在上海」p.93の写真
「毛沢東在上海」P.93の写真
毛沢東、周恩来接見 日本文学代表団(1960年6月21日、在上海)
前列 左から開高建、竹内実、松岡洋子、野間宏、毛沢東、西園寺公一、亀井勝一郎、大江健三郎


 
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 シンポジゥムのあいだ、『毛沢東集』を買いたいという声を聞いた。伝説になっているのだ。いまはインターネットで、唐詩の原文もひきだせるのだから、『毛沢東集』もなにか方法がありそうだと思っている。
 日本に帰国すると、台湾の学者から『毛沢東集』を出版したいという電話が突然にあり、いちおうO.Kし、藤本、市川両君、中村社主にも伝えたが、台湾からはそれっきり音沙汰がない。
 台湾とはべつに、北京の人民大学出版社から、海外毛沢東研究を叢書にしてだしたいという話があった。これは程麻氏におねがいして原稿をまとめたところである。シンポジゥムのもりあがりが、人民大学出版社の企画になったようである。


 
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 毛沢東については、わたしは個人的に苦(にが)い思い出がある。京都のあるサウナで某氏(かりにS氏)とであったところ、いきなり怒鳴りつけられて驚いたのだった。
 S氏とはそんなに親しい間柄(あいだがら)ではないが、ようするに“おまえの毛沢東礼賛(らいさん)のおかげで、おれはひどいめにあった”という意味の抗議だったようである。しかし、わたしはとくにS氏を相手にレクチュアしたおぼえはなく、驚いて眼を白黒しているうちにS氏はたち去った。
 毛沢東の影響は大きいが、わたしの研究や紹介は小さなものである。ある時期、日本での毛沢東の人気は大きなものがあったから、わたしに責任があると思った人がいても、やむをえないことかもしれない。
 なにかのおりにS氏と再会したら、どういうことなのか。ゆっくりお話をうかがいたいと思っている。しかし、S氏が(健在だとしても)もう忘れているかもしれない。
 (2008.11.14記)
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