中華点点(第25回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第31号 2009.08.01   
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《内山完造の生涯》という書物

『内山完造の生涯』の表紙
『内山完造の生涯』の表紙

 
 《内山完造の生涯》という書物が出版されていることは、本書の寄贈をうけて、はじめて知った。
 画家の南一平氏の作品である。南氏は、これを〈漫画〉と名づけておられるが、劇画にありがちな誇張した表現はみられない。
 内山完造先生が、戦前に上海で書店〈内山書店〉を経営し、魯迅と親交を結んだ話は有名であるが、若い人のなかには知らないひとも多いだろう。
 ことし平成21年(2009年)はその没後50周年にあたる。記念の行事が、その生地・井原市(岡山県)においておこなわれた。
 わたしもその案内を頂き、参加するつもりだったが、体調が心配だったので、けっきょく参加できなかった。
 そのときのチラシをかかげよう。




『内山完造先生没後50周年記念事業』のポスター
『内山完造先生没後50周年記念事業』のポスター


 中国から(チラシに見えるように)魯迅の令息・周海嬰(しゅうかいえい)先生も見えるので、
『内山完造の生涯』 P46 王宝良
『内山完造の生涯』 P46 王宝良
ぜひ再会したかったが、残念だった。
 このチラシに、内山完造先生のすべてが物語られているように思うのである。そして、生地のゆかりある方々が内山さん(さんと呼ばせていただく)を誇りに思い敬愛されている雰囲気がひしひしと伝わってくるのである。
 内山さんはクリスチャンだった。それで上海でも教会に通い、子供たちにおとぎばなしをして聞かせることをしておられたというが、そのなかでは戦争の話をいっさいしなかったという。
 内山書店がはじめて雇った中国人店員が少年の王宝良(ワン・パオリァン)だった。かれが、店ではたらくようになってさいしょの食事をとったとき、内山完造夫妻は同じ食卓で、同じ食事をとらせたという。王は感激したのだった。内山夫妻がクリスチャンだったから、できたのか? むしろ夫妻の毎日の生活、中国に対する思いが、このようなおこないをさせたのかもしれない。


 魯迅とも知りあった。

『内山完造の生涯』 P57 


 日本の軍事行動で上海にも戦火が波及し、魯迅は内山書店に避難した。

『内山完造の生涯』 P70 魯迅は内山書店に避難した。
『内山完造の生涯』 P70 

 日本人の店員もふえた。村井正雄(のちの内山正雄)、中村享(のちの児島亨)の二人である。

『内山完造の生涯』 P74 日本人の店員もふえた。
『内山完造の生涯』 P74 



『内山完造の生涯』 P82,83 魯迅五十五歳 ―没―
『内山完造の生涯』 P82,83 魯迅五十五歳 ―没―


 やがて魯迅が逝去、内山は葬儀に参列した。
 妻みきが死去すると、内山はその墓を上海につくった。
 日本が敗戦して、内山は日本に引き揚げた。そして新中国が成立、内山は日中友好協会の設立に参加し、全国を講演して新中国の息吹(いぶ)きを伝え、中国の民衆の文化、民族性について啓蒙した。
 やがて中国に招待されて、北京で死去した。

 
『内山完造の生涯』 P100 北京の地にて永眠
『内山完造の生涯』 P100 北京の地にて永眠


『内山完造の生涯』 P101
『内山完造の生涯』 P101




 
◇ ◇ ◇ ◇
 

≪日中友好の先駆者≫という書物



《中日友好の先駆者》の表紙
『中日友好の先駆者』の表紙

《中日友好の先駆者》―魯迅と内山完造写真集
上海魯迅記念館/上海国際友人研究会編
上海人民美術出版社 出版




『中日友好の先駆者』 P6 1930年代上海の四川路
中日友好の先駆者P6 1930年代上海の四川路

 これも感動的な写真集である。
 わたしの説明より、写真そのものが語りかけてくる。
 とはいえ、やはり解説は必要だろう。
 シャンハイ(上海)は英文で読む中国のいくつかの地名の一つで、だれでも「ジョウカイ」とは呼ばない。チンタオ(青島)も、ペキン(北京)もそうである。
 ペキンは広州で中国の役人と接触したイギリス人、フランス人が、広州で発音される「ペッキン」をこのように記録したので、じっさいに北京に居住するひとは、このように発音していなかった。
 シャンハイには「租界」(そかい)があって、これは漢字の「租」(そ)が示すように、借地料を払って「借りる」ことを意味していた。
 農民も、小作人のばあい地主に借地料を払って耕地(畑や水田)を借りたのである。日本では小作人になっても、このような貸借関係はなかった。
 イギリス人、フランス人が借地料を支払う相手は中国の地主で、清朝政府ではなかった。ほんとうはイギリス人、フランス人は土地を購入したかったのであるが、清朝では、土地を外国人に売ることはみとめられなかった。伝統的な思想から先祖伝来の土地を外国人に売ることは許されることではなかったのである。
 そこで“土地を借用”するというのは口実で、借地の期間を九十年とかに決め、じっさいは購入したのも同様、かれらはこの土地に道路をつくり、道路には電車を走らせ、道路で区切った土地に西洋式のビルを建てたのである。
 「租界」を維持するために、借地人の集まりをつくり、これが一種の「議会」になった。
 議会での議決が法律と同じ効果をもつという、イギリス、フランスそれぞれの本国の習慣にもとづき、「租界」の行政が実施され、その効力は清国の法律を無視するものだった。――「租界」の治外法権である。
 これは貿易港の開港をみとめた「南京条約」の趣旨を超えるものだったから、イギリス外務省は、上海の「租界」のこうした権利をみとめなかったが、「租界」の借地人(イギリス居留民、フランス居留民)は聞き入れなかった。
 「租界」にはかなりの清国人が流入し、住み着いた。かれらは「租界」の行政当局の指示を守り、課税を支払った。外国人並みの扱いだった。
 そこで、清朝に反対する革命家は清朝に逮捕されそうになると「租界」に逃げこんだ。中華民国になって、国民党が中央政府を掌握すると、国民党と対立した共産党員もまた「租界」に逃げこんだ。
 「租界」では印刷所が生まれ、清朝の干渉が及ばなかったので、革命的な出版が「租界」で印刷出版された。上海はいわゆる「進歩的文化人」のたまり場になり、「プロレタリア文学」が「租界」でさかんになり「左翼作家連盟」といった組織も、「租界」で成立した。
 日本でもプロレタリア文学がとなえられ、それが上海という窓口をとおして、中国にも影響を及ぼした。
 こうしたなかで魯迅は一つの中心的な存在になった。しかし、プロレタリアが中心と仰ぐモスクワではスターリンとトロツキーの党内抗争があり、中国共産党もそのあおりをうけて、方針がゆれうごき、魯迅にたいする評価もそのときどきに変化した。
 とくにモスクワから、ソ連に留学していた28人が正真正銘(しょうしんしょうめい)の「ボルシエビイキ」(共産党員)として送りこまれ、中国共産党の指導権を掌握したとき、魯迅はさながら中国革命に敵対するものとして党の文化人からあつかわれた。
 したがって、魯迅は上海にあって執筆活動をつづけていたが、心理的には、しばしば不愉快な気分におちいった。
 しかし内山完造が経営する内山書店で休養し雑談をするひとときは魯迅にとって心理的に開放感を味わう貴重な時間だった。内山書店はまた木版画講習会などの文化活動の原点でもあった。
 本書はこうした上海の「租界」文化の一端をうかがわせる貴重な証言である。



『中日友好の先駆者』 P7 内山書店付近略図
中日友好の先駆者P7 内山書店付近略図

『中日友好の先駆者』 P8 魯迅と内山完造 1933年夏 千愛里3号の前で
『中日友好の先駆者』 P8 魯迅と内山完造 
1933年夏 千愛里3号の前で


『中日友好の先駆者』 P12
 『中日友好の先駆者』 P12
『中日友好の先駆者』 P13
『中日友好の先駆者』 P13


『内山完造の生涯』 奥付
『内山完造の生涯』 奥付

 
『中日友好の先駆者』 奥付
『中日友好の先駆者』 奥付


 本稿については、福山市日中友好協会会長・佐藤明久氏の多大の助力をうけた。厚く感謝します。福山市日中友好協会は児島書店内に事務局がおかれています。〒720-0063 福山市元町1-12 児島書店 (084)923-3990

 
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