中華点点(第29回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第35号 2010.02.15   
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帝王思想


 「中華点点」が更新時期になります。興に乗るものがありましたら、ご執筆賜れば幸いです―と、中村公省・蒼蒼社社主の手紙を添えて、『中国指導者相関図』が恵送されてきた。楊中美・高橋博共著である。
『図説中国国俗』の表紙
『図説中国国俗』の表紙

 蒼蒼社『蒼蒼』で、ことしの「干支」(えと)による占いを執筆したさい参考にかかげた『図解 中国国俗』が返送されてきて、それに新刊の本書が同封されていたのである。「興」をそそられ、拝読した。
 まず、冒頭の「はしがき」(楊中美)を読み、そのあと末尾の「あとがき」(高橋博)を読んだ。

 
◇ ◇ ◇ ◇
 

 「はしがき」の終わりに近く、毛沢東の発言が引用されていた。
 
 「党外無党、帝王思想、党内無派、千奇百怪」

 文革のときの毛沢東の思想は(文革を発動したことも含めて)、「帝王思想」というものが、かれの思想の底辺に存在していたのではないかと考えていたので、この毛沢東の発言は、はなはだ強烈だった。「やっぱり」という印象だった。
 「党外無党」と「帝王思想」がつながり、“一党独裁が党による帝王思想によってもたらされた”といっているようである。“党による”というのは、“党主席”、すなわち、“毛じしんによってもたされた”ものだから、ここでは、毛は自分を客観的にいったのであろう。
 それで、このような、〈党=一党独裁=帝王思想〉という図式を念頭におきながら、目下の中国共産党を眺めると、習近平(シイ チンピン しゅう きんへい)が次期党主席にあげられている状況について、かれらじしんどのように分析しているのか、本書をつうじて知ろうとした。
 しかし、いちいち、本書の著者が、「帝王思想」にたちかえって説明しているはずはない、むしろ、後継者問題はそのような単純化できないことを本書は告げていた。
 習近平を共産主義青年団の系列と考えるのはあやまりで、「太子党」とよぶのは、かれの人がらを正しくとらえるものでないと、本書は指摘していた。
 かれがこんにちの立場を確保したのは、党内の複雑な人間関係、政治的矛盾に慎重に対処してきたからである、と本書(楊中美)はいう。
 中国の官僚は、党内の人間関係に、それなりに意識的にとりくんできたことが、わかる。
 中国の政治にも潮の流れがあって、ただ自然体で上から降(お)りてくる指示を実行していればすむ、というものでもないようである。
 帝王思想は、後継者について指名権と罷免権を含み、当然のこととしてこれを行使する。
 胡耀邦、趙紫陽は罷免されたが、罷免する側からいえば、この二人がはたして罷免に値(あたい)するものだったかどうかは別として、罷免は当然のことだった。
しかし、罷免にともなう後継者の選出は、こんにちでは少数の集団によって、すなわち「ブラック・ボックス」で、おこなわれる。「帝王思想」プラス「ブラック・ボックス」によって、権力が継承されるのである。
 本書が指摘するこうした状況は、たいていの中国研究者が感じていたものである。しかし、本書のように、明白に指摘されると、いささか憮然(ぶぜん)たるをえない。
 王朝交替の歴史によって、習慣化されたものであるから、一朝一夕になくならない分、むしろ現在の指導者は、積極的にこれを保持しようとし、これを批判し改革を呼びかけるものを法律的に取り締まろうとしている。
 二〇三〇年には人口は十五億にたっするといわれる。「自由」を謳歌(おうか)できず、
謳歌しようともしない十五億人が地球上に存在することは、むしろ寒心(かんしん)に耐(た)えない。しかし、十五億の集団が、いわば、従順に生活するとも考えられない。

 
◇ ◇ ◇ ◇
 

 『論語』などを読んでいると、春秋末期の中華大陸は戦乱にあけくれ、下克上(げこくじょう)の社会相だった。
 このような社会相を「現実化」してうけとったのが、毛沢東で、このような社会に対処するには、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)のようにあるべきで、孔子はまちがっていたと、毛はいう。
 毛沢東は、当時は奴隷制が衰え、奴隷主貴族が没落(ぼつらく)、封建地主が台頭しつつあったという前提で、始皇帝を高く評価している。歴史を推進した、と毛はいうのである。
 この一段を、わたしは、つぎのようなメモにまとめた。

 
◇ ◇ ◇ ◇
 

◇批林批孔――毛沢東の指示
 一九七三年三月、党中央工作会議で、毛沢東は林彪(リン ピァオ りんぴょう)を批判するのとあわせて、孔子(クン ツー)を批判せよ、とのべた。
 七月四日、王洪文、張春橋を呼び、毛沢東は「林彪は国民党と同じく孔子を尊重し法家に反対した」と語った。
 八月五日、「封建論を読み、郭老(郭沫若)に呈す」という自作の詩を江青夫人にメモさせた。
 その詩は、つぎのようなものだった。


「封建論」を読み 郭老に呈す
              一九七三年八月五日

 君に勧(すす)む 始皇帝を罵るのを 少(へら)したまえ
 焚書の事業は 商量するを 要す
 祖竜 魂は死すれど 秦はなお在り
 孔学 名は高けれど じつは秕糠(ひこう。ヌカ、表皮)なり
 百代 すべて 秦の政法を 行う
 『十批』は よき 文章にあらず
 唐人の 封建論を 熟読し
 子厚より文王に 返ることなかれ

読「封建論」呈郭老

 勧君少罵秦始皇
 焚抗事業要商量
 祖竜魂死秦猶在 
 孔学名高実秕糠
 百代都行秦政法
 十批不是好文章
 熟読唐人封建論
 莫従子厚返文王

 この詩ができたとき、毛沢東はこれを口(くち)ずさみ、江青夫人にその場でメモさせ、さらに口頭でつけ加えるところがあった。江青は翌日の政治局会議の席上で、この詩を伝達、その翌日、周恩来はつぎのような自筆の書翰を毛沢東に送った。


――江青同志は昨晩、政治局会議において、主席の「柳子厚の封建論
 を読み、郭老に呈する」詩、および関連する問題をわれわれに伝達さ
 れ、われわれはこれについて討議しました。

 この周恩来の書翰を毛沢東は読み、読んだしるしのマル(○)印がついていて、中央档案館に保存されているという。また、この詩が印刷されたものが中央档案館に保存され、『建国以来毛沢東文稿』にも収録されているという。

 始皇帝と孔子についての毛沢東の比較は以上のようであった。 
 これによって、「批林批孔」(林彪を批判し、孔子を批判する)運動がはじまったが、これに介入、便乗して自分の権力の強化をはかったのが、毛夫人の江青だった。そしてそのとき、たまたま訪中したのがキッシンジャーだった。

 
◇ ◇ ◇ ◇
 

◇キッシンジャー訪中の波紋
 林彪が毛沢東の暗殺を企て、失敗して亡命、モンゴルで堕死した事件は、文革を推進してきた「四人組」にとっても、毛沢東にとっても大きな傷手(いたで)だったろう。 
 毛沢東は林彪に「孔子、孟子の一味(いちみ)」だったというレッテルを貼って、傷手を転嫁(てんか)しようとし、江青は、さらに林彪に加えて周恩来を「現代の大儒」として儒家のなかにいれ、周恩来を批判し、失脚を図った。
 毛沢東は文革の再構築を図ったが、江青としては「批林批孔」は、自分のための権力闘争だった。江青は呂后(りょこう)や武則天(ぶ そくてん)の再評価にも力を入れ、法家と女帝を結びつけた。
 儒家を批判し、法家を賛美せよ、という毛沢東の提案は浸透しにくかった。
たまたまこのようなとき、キッシンジャー国防長官が訪中した(十一月十日~十四日)。国防長官に就任して、さいしょの、そして通算して六回目の訪中だった(第一回は極秘の訪中、第二回はニクソン訪中の準備の打合わせの訪中、第三回はニクソンとともに訪中。第四、第五については未詳)。
 キャッシンジャー『最高機密会議録』の解説はつぎのようにのべている。

 この半年まえの六月、ソ連と首脳会談をおこなったアメリカにたいし、中国は冷淡な態度を見せていたから、中国の理解を求める必要があった。
 周恩来は地位が弱まりつつあった。毛沢東の信任を失いつつあったかれに、党内の強硬派は反孔子キャンペーンを展開し、間接的に周恩来を攻撃していた。キッシンジャーは周恩来の立場の変化に気づき、「彼の役割は毛沢東にたいしては以前よりずっと従属的なものとなりました」とニクソンに報告した。(『キャッシンジャー最高機密会話録』二〇六~二〇七ページ。毎日新聞社 一九九九年九月、編者=ウィリアム・バー 訳=鈴木主税・浅間政子)

 しかし、周恩来の地位が弱まったのは、キッシンジャーにも責任があった。

 キッシンジャーは、中国にたいするソ連の軍事的脅威という持論を展開し、米中間でひそかに軍事協力をおこなう申出をし、ホットラインを通じて戦略上の警戒情報を送り、中国の戦力強化をはかる提案をおこなった(二〇八~二一〇ページ)。



 キッシンジャーとの会談はつぎのようにおこなわれた。
  十一月十日(土曜)午後九時二十五分~午後十時。――(A)
  十一月(日曜)午後、長時間。抜粋のみ公開。――(B)
  十二月(月曜)午後、長時間。――(C)
  上のあと、毛沢東と。午後五時四十分~八時二十五分。――(D)



 (B)は記録は抜粋のみ公開。(C)は完全に非公開。
 (C)は周恩来は会談内容を毛沢東に報告していなかった。
 通訳は、(A)、(D)は唐聞生と沈若蕓。沈は新しく加ったが、これは毛沢東の指示による。(C)についてはわからないが、沈を除外できなかっただろう。とすれば、(C)の内容はこの沈をつうじても毛に伝わり、毛はその報告にもとづき、周は弱腰(よわごし)だと判断、政治局で周を批判するよう指示したのだ。
 キャッシンジャーは、周恩来に加えて、葉剣英(中央軍事委副主席)と会談しており、そのときは唐のほかに「軍通訳」として女性の楊友勇が加わっている。
 キッシンジャーはニューヨークで、鄧小平と会談し、鄧には周恩来ほどの「歴史の理解」がなく、外交の場においても周ほどに巧みな交流の技術がないと(のちの回想録で)のべている。
 キャッシンジャーとの会談の内容を周恩来は毛沢東に報告していなかったことを、このときの通訳が毛沢東にたいする報告のなかで言及、キャッシンジャーが北京を去るやいなや、毛沢東は、政治局で会議をひらき、周恩来の「右よりの誤り」を検討するよう指示した(キャッシンジャーの訪中は一九七三年十一月十日~十四日)。
 江青は会議の席上、周恩来にむかって、「これは第十一回目の路線闘争ですよ」といい、さらに面と向かって、「毛主席に代わろうと、じりじりしているのでしょう」と、いい放った。
 のちに政治局会議の報告をうけた毛沢東は、やがて届いた匿名の手紙を政治局員に配布させ、江青を間接的に批判した。

 
◇ ◇ ◇ ◇
 

 本稿の表題は「帝王思想」である。
 これを一つの「設問」とすると、本稿がすべて解答したとはいえない。
 この〈毛沢東=帝王思想〉は、ここのところの中国から思いついた設問であるが、これによってレッテル貼りをしようというのではない。
 次号までよく考えたい。

(2月4日 記)
 
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