中華点点(増刊第1号)

上野 秀一
(日中語学専門学院 事務局長)
電子礫・蒼蒼
第42号 2011.02.01   
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竹内実先生とご一緒した中国旅行をふり返って


1.旅行の特徴
 私は上野秀一と申します。25年間旅行会社で勤務したなかで、印象に残っているのは、竹内実先生とご一緒に中国へ行った思い出です。
 別紙の表は、竹内実先生を講師とし中国に行った一覧です。表のほかに写真も入れました。
表のNo.1で、(株)日中旅行社に在籍中、武者小路茶道文化訪中団のサブ(補助)添乗員として竹内実先生と初めてお会いしました。No.2以降は(株)国際交流サービスに勤務していた時のツアーです。
 まずは先生の人柄から申します。先生はどんな些細なことであっても、何かをして上げた時に誰に対しても「今日は何々して下さってありがとう」と必ずお礼を言われますし、時にはお礼状を書かれます。1988(昭和63年)年に初めてお会いしてから、一度も偉ぶったそぶりをされたことがありません。会社で役職などに就くと自分が偉くなったと錯覚して相手を不愉快にさせることがありますが、そうならないように見習っています。
 初めは厳しくご指導頂きました。1998年(平成10年)12月、「三峡クルーズ」の出発案内の原稿をお持ちした時に、「注意事項ばかりですね。大手の旅行社と何ら変わるところがないじゃないですか? これだったら大手に頼んだ方がまだ安心感があります。中小の旅行社であれば、もっと独自性を活かして、参加する人がわくわくするような案内に作り直して下さい」と言われました。
 そのことがあって、旅行中に自分が出来ることでお客様が喜ぶことは何かを考えるようになりました。その一つがビデオ撮影でした。5~6時間撮影したものを2時間に編集して、プレゼントしました。1998年以降、私が添乗する全てのツアーのお客様にプレゼントさせていただき、参加者の方々は随分と喜んで下さいました。 
 竹内先生に質問をすると、「上野君はどう思いますか?」と、初めのころは逆に質問をされました。「まずは自分で考えなさい」ということです。答えられずにいると質問に答えて下さいましたが、とても恥ずかしい思いをしました。  
 その次から質問をする前にいろいろと調べるようになり、先生と中国についての話をしている時が楽しい時間に変わりました。
 すっかり歴史好きになった私と竹内先生がいろいろと考えながら、次はどこへ行きましょうか?と、自由な発想で中国各地をあちこち空想しながら、打ち合わせをするのも楽しい時間でした。企画から添乗業務までを一貫して行い、お互いに意思疎通を図ることで、信頼して下さったのだと思います。


2.旅行形態から分類
 ①手配旅行
 旅行会社が扱う旅行形態は主催旅行と手配旅行があります。
 手配旅行は、お客様の希望する時期に、希望するコースを作り、気のあった仲間同士や研究や趣味の仲間で旅行をする形態です。表で言うとNo.5とNo.9が手配旅行になります。


写真No.5


 No.5のシルクロードツアーは竹内先生の妹さんの、角谷(すみや)美智子さんがご友人の方々を誘われました(写真No.5、ホージャ墳)。トルファン郊外のアイデン湖は海抜がマイナス154m、中国で最も低い(世界で、2番目に低い)位置にある塩湖です。そして、カシュガルから200km離れたカラクリ湖(標高3,600m、世界で、2番目に高い)では、ムスターグ・アタ山やコングール山などの7,000m級の山々も見られ、大自然と親しんだツアーでした。
 No.9のツアーは竹内先生が講師の大阪の集りで、歴史好きの有志が参加された旅行です。三国志ゆかりの五丈原・宝鶏青銅器博物館・楊貴妃墓などを見て回りました。竹内先生のご都合がどうしてもつかない時に一度だけピンチヒッターとして、「モンゴルのナーダム祭とチベット高原」と題して講演をさせて頂きました。 
 ②三国志ツアー
 上記の2つのコース以外は主催旅行として実施しました。どなたでもご参加していただけるツアーです。お客様の目を惹くような特徴ある旅行を前面に押し出して募集する必要があります。歴史ツアーを中心に考えましたが、その代表的なものとして三国志ツアーがあります。ここでは三国志ツアーについてのべます。

写真No.2-1


 No.2「三峡クルーズの旅」(写真No.2-1、船内にてお茶会)では、当陽県を訪れましたが、長坂の戦いで阿斗(のちの劉禅)と甘夫人を救出した話しに基づき、馬に乗り阿斗を抱いた趙雲像が、街のロータリーの中心にあり、この地の英雄が趙雲であることが分かりました。


写真No.2-2


 当陽では関陵[(斬首(ざんしゅ)された関羽の身体を埋葬](写真No.2-2)に行き、No.3「中国 歴史の旅」では洛陽の関林(関羽の首塚)を訪れました。関羽には「身在当陽、頭在洛陽、魂在郷里」という言葉があります。私は郷里の山西省解州関帝廟も訪れたことがあります。


写真No.4


 No.4「三峡クルーズと三国志の旅」では荊州を中心に訪れました。荊州では、荊州故城内の荊州賓館に宿泊し、朝、城内を散策しました。荊州城は関羽が築いたと伝えられ、現存の城壁は清の順治3年(1646)に再建されたものです(写真No.4)。楚紀南故城は、紀山の南にあるので、紀南故城と言います。春秋戦国時代の楚の都城で、400年余りにわたって、政治・経済の中心地でした。
 豪華客船の展望室から三峡の景色を楽しみながら、竹内先生から李白・杜甫・陸游などの三峡にまつわる漢詩の解説を受けたのは、正に至福の時間でした。


写真No.6-1


 No.6の「三国志の旅」Ⅰでは、四川省内の蜀の旧跡を訪ねました。秦嶺山脈の渓谷沿いに切り開かれたのが蜀の桟道です。嘉陵江東岸の絶壁に掘られた明月峡古桟道(写真No.6-1)を歩きました。崖に木の杭を打ち込み、それを土台として上に木の板を敷きつめて作られたのですが、風雨に晒されたり、流されたりして、その保守が如何に大変であったかを知ることが出来ます。剣門関は魏の鐘会の兵10万の侵攻に対して姜維が3万の兵で死守したところです。この場に立つと決して大げさに思えないから不思議です。綿陽では富楽山(劉備と劉璋が対面した場所)公園を訪れました(写真No.6-2、背景は五虎上将の像)。


写真No.6-2


 このツアー終了後、先生は五丈原で確認出来なかったことがあると言って、一人で再確認に行かれ、とことん追求される姿には頭が下りました。


写真No.7


 No.7の「三国志の旅」Ⅱでは許昌を訪れました(写真No.7、地元テレビ局の取材を受ける竹内先生)。196年に曹操が献帝を迎えて許昌を都としました。毓(いく)秀台は献帝が祭天の儀式を行ったところです。春秋楼は関羽が燭台をともして、『春秋』を読んだところです。
三国演義では悪玉の曹操ですが、実際はそうではありません。事実と物語の間にあるギャップを楽しむのも三国志ファンの一つの魅力となっています。
 ③最も印象に残った旅行〈鶏鳴狗盗〉 


写真No.3


 旅行中に先生はお茶会(野点)を開かれます。No.3のツアーで函谷関を訪れた時もそうです(写真No.3)。函谷関は鶏鳴狗盗の故事(史記・猛嘗君列伝)で有名な所です。昼過ぎに到着すると、鶏が闊歩していましたがすぐに姿を消しました。抹茶を一服頂いた後、「ものまね上手?」な私は、大きな声で「コケコッコー」と2回鳴きました。するとどうでしょう。「コケコッコー」と周辺から鳴き声が聞こえてきました。それも一羽や二羽ではありません。繰り返し聞こえる鳴き声に感動しました。「鶏鳴狗盗」を二千数百年ぶりに再現したのです。後に先生が大学の授業で、このビデオを使って講義されたことを知りました。


3.中国に翻弄される人生?
 ①天安門事件でリストラにあう。
 1989年(平成元年)6月4日の天安門事件が発生、その影響で、10年間勤務した(株)日中旅行社を辞めることになりました。5月中旬に北京飯店に宿泊していて、毎夜天安門広場に様子を見に行きましたが、死者が多数出て、自分が会社を辞めるはめになるとは夢にも思いませんでした。6月4日に宿泊していれば、事件に巻き込まれていたかもしれません。
 北京で多数の死傷者が出たことで、ツアーは軒並みキャンセルとなりました。
 日本人は特に安全面の意識が高いと言えます。家族が反対するから、行かないという人が多いのです。悪く言えば、自分で判断出来る人が少ないということです。ヨーロッパ人やアメリカ人は自分の責任において旅行をしていましたが、日本人は外務省の渡航自粛勧告が出て、観光客はいなくなりました。
 日中旅行社はリストラを行い、120名の社員を50名に減らしました。7月の一ヶ月間で各自が結論を出すことになり、この期間は本当に悩みました。最終的に会社を辞める結論を出し、8月に退職しました。
 ②二度目のリストラ
 退職の翌年、1990年4月から(株)国際交流サービスで、中国への旅行案内を続けました。しかし、13年後、今度は新型肺炎(SARS、重症急性呼吸器症候群)の影響で二度目のリストラを余儀なくされました。
 2002年(平成14年)に広東省で発生したSARSは、翌年3月には、死亡者が30人以上に達し、北京でも死者を出しました。そしてアジアから世界に広まりました。
 私の扱っている中国旅行が全てキャンセルとなり、代わりに実施出来たのはミャンマーと沖縄旅行の2本だけで、7月に退職せざるを得ませんでした。天安門事件に続いて2度目の退職です。
 旅行社の仕事は、日程が予定通りに行かなかったり、ミスがあるとお客様から叱られることもあり、辛いこともありましたが、自分から旅行会社を辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。「ツアコン」が私の天職だと思っていたからです。
 中国の歴史に翻弄されるかのような私の人生です。
 2年半、全く別の仕事をしましたが、今度は中国が懐かしく感じられるようになりました。No.10とNo.11は退職後ですが、嘱託添乗員として同行させて頂きました。旅行会社で25年間中国と係わって仕事をして来ましたので、私は中国とは縁が切れないようです。
 2006年(平成18年)3月から日中語学専門学院(日本語学校:大阪市南森町)で勤務を始め、現在事務局長をしています。
 中国の若者たちを生活指導するのが主な仕事ですが、将来ある若者を教育出来ることは充実感があります。中国を旅行して多くの方々にお世話になったこと、いろんな知識を学んだこと、何ものにも代え難い貴重な経験を積みました。だから、少しでもそれを中国の学生達に還元したいと思っています。
 中国の歴史を学んだことは有意義でした。本を読むだけでなく、実際にその場所を訪れることが出来たのが何よりの強みです。一人でどこにでも行けますし、中国の父兄とも会話が弾みます。旅行社に勤務の合計25年間で180回以上中国を訪れました。楽しいことが多かったのは事実です。
 ③尖閣諸島中国漁船衝突事件
 中国各地に募集活動で出掛けますが、旅行会社で培った知識が役に立っています。会話より翻訳の方が得意ですので、入国管理局に提出する学生の入学理由書などは学生の気持ちになって翻訳して、少しは役立っていると感じています。
 2010年秋の尖閣諸島中国漁船衝突事件により、日中関係は貿易をはじめ訪中・訪日団などに影響が出ました。私どもの学生募集においても、中国の父兄が子弟の安全を心配したり、日本に抗議を示して応募を取り消すなど少なからず影響が出ました。中国とかかわっている以上、政治的なものに影響されるという現実を忘れてはいけないと再び感じました。
 しかし、隣国の中国や韓国を理解し、仲良くしたい気持ちが揺らぐことはありません。中国人・韓国人留学生に対し、彼らの父親代わりとして、温かい目で見ながらも、時には厳しく接しています。
 彼らが今後の日中韓の架け橋となってくれることを願っています。


4. 「テレビ出演でもアドバイス」
 自分の天職は「ツアコン」だと思っています。旅先だけでの案内だけではなく、様々なことについてアドバイスをし、若人に夢を与え、叶えるお手伝いをする夢先案内人になりたいと思っていますが、2001年(平成13年)4月に関西テレビ制作で全国放送された「ファイトマネー」に出演したことは、私の一生の思い出であり自慢です。番組の内容は、素人が日本一の捕手と言われたプロ野球ヤクルトスワローズの古田選手と沖縄で盗塁対決をするというものでした。不可能と思われることでしたが、コーチ役としてメンバーをまとめ、諦めずに全力で挑んで勝利を勝ちとりました。
 どんな職業に就いていても、この気持ちを忘れてはいけないと思っています。だから番組でもらった「ツアコン」のニックネームは私の大切な宝物です。
 竹内先生とは関係のない話だと早合点しないで下さい。ここでも先生から頂いたアドバイスが有効でした。ストーリーとプロット(ストーリー[筋]を展開させるきっかけがプロット)をうまく結びつけることが重要だとアドバイスを頂いていたのです。
 古田選手の「ID野球」と自分の武器である「中国語」そして「盗塁」、これらは一見何の関係もなさそうですが、これを「コンピューターウイルス」という表現を使い、バッターボックスで古田選手に中国語で話しかけて幻惑させることを思いつき、ミスを誘ったのです。
 番組では「中国ウイルス」として紹介されましたが、この「コンピューターウイルス」という表現が頭に浮かんで来た時に、何かが起こる予感がしました。


5.「感謝の気持ち」
 旅行を通じて、武者小路千家のお家元、千宗守不徹斎(ふてっさい)宗匠はじめ多くのお客様や、日本ばかりでなく中国の方々と出会うことが出来たのが嬉しいことでした。人との出会いを大切にすることを教わりました。たくさんの方々がリピーターとなり何回も参加して下さいました。感謝するばかりです。竹内先生の多くのファンの方々が旅行を支えて下さったと言って過言ではありません。
 2003年SARSの影響で二度目のリストラにあった時は、先生はわがことのように心配して、励ましのお言葉を何回も頂きました。本当に親身になって心配して下さっていることがひしひしと伝わってきました。
 私に就職先を紹介して下さったNPO大阪府日中友好協会の大藪事務局長と竹内先生が2010年の春に会う機会がありました。後日、大藪氏と会った時に、「竹内先生みたいな偉い先生から上野君の就職のことでお礼を言われた。もう4年も前の話やのにびっくりした」と言っておられました。この時、親子の絆のようなものを感じました。旅先でいつも一緒にいると親子のように思われるかも知れませんね?と言うと、先生は「それは違うよ、兄弟だよ」と笑っておっしゃいました。


写真No.6-3


 綿陽市富楽山公園「桃園結義の像」の前で、中国のガイドさん(写真左)、竹内先生(中央)と筆者(右)の3人で撮った写真は、義兄弟の契りを交わしたように写っています(写真No.6-3)。

             
  (2011年1月2日 記)
 
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