中華点点 メモリアル(第1回)

竹内 実
(京都大学名誉教授)

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電子礫・蒼蒼
第57号 2013.09.04
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【解題:中村公省】

  竹内実先生が冥界に旅立たれて1カ月。
 「いつまでも感傷に浸っているときか!」という叱正が天の一角から聞こえた。
いまや日中平和友好条30周年に節目にあるが、日中関係は尖閣諸島問題で険悪な状態に陥ったまま、打開の糸口すらつかめていない。
 コトの発端は、昨年9月9日、ウラジオストックで開催されたAPEC首脳会談において野田佳彦首相が、胡錦濤国家主席との「立ち話」で尖閣諸島の国有化を「最後通告」して、胡錦濤のメンツをつぶしたことにある。この事実認識には日本側からは異論もあろうが、中国側はそう認識し、そう主張している。
 キーワードは、面子(ミエンツ)、メンツにある。
 日中関係の中でのメンツの問題については、日中国交回復20周年に際して、竹内先生が「文化問題としての日中関係」という論文を執筆されている。収録書は竹内実編『日中国交基本文献集』(上下巻、1993年2月蒼蒼社刊)の巻末「付論」であり、あまり人に知られていないであろう。論文の下敷きとなったのは、1992年11月開催の日本日中関係学会記念京都シンポジウムなどでの講演であり、です・ます調で記述さている。A5判13ページにわたる長文であるが、ここでは、その一部の、メンツに直接言及した部分だけを抜粋する。抜粋の仮題は、私の責任において、「日中関係とメンツ」とする。
 「日本国民の皆様方」が、この1年ほどの日中関係を振り返り、この卓見を手掛かりに、己の対中認識を再検討されんことを、故人も切に望んでいるに違いない、と思う次第である。

 
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日中関係とメンツ
竹内 実

 文化問題として華人世界をみると、どうなるでしょうか。
 文化には表層と深層があり、華人世界のばあい、その深層には、メンツの問題があろうと思われます。
 メンツの問題を研究した最初の著作は、アーサー・スミスによって書かれた。
 スミスはアメリカ人で中国に派遣された宣教師として民衆に接触し、三十年ちかい経験をもとにかれらの習俗の奥にある心理を考察した著作をまとめ、その第一章を「メンツ」にあてた。
メンツは体面〔たいめん〕、面目〔もんぼく〕のことです。原文は「面子〔ミエンツ〕」で文語の「面」に接尾辞「子」がついている。口語では顔は「瞼〔リエン〕」といい「面」とはいいませんが、「面」は顔の意味です。
 メンツの例をスミスは四つ、あげている。
 例一・テニスのボールが紛失した。
 雇い人が拾ったことはわかっている。
 雇い人は頑固に拾わなかったと主張する。
 しばらくして、ボールの失われた場所にゆき、雇い主に見られないようズボンから落とす。
 それから拾いあげて、「ここにあります」と叫ぶ。
 例二・召使を解雇する場合。
 ほんとうの理由を申しわたしてはならない。
 以前に召使いがみとめた罪科をくりかえし責め、それから馘首を申しわたす。
 ほんとうの理由を確認することは、召使のメンツを失わせることになる。
 例三・貸した金が戻ってこない場合。
 借金をした男がいて、返済しようとしない。
 とりたてにきても、返済するつもりはないのである。貸し主も、そのことは承知しているが、借金した男のところへいって、騒ぎをおこす。大声で罵って、男がでたらめであることを隣近所のものにしらせる。
 これによって、貸し主のメンツは保たれた。
 将来、ふたたび悪辣な借り手があらわれることはないであろう。
 例四・ある県知事が死刑になった場合。
 県知事はとくに願いでて、官服を着たまま首を刎ねられることを許された。

 スミスが中国にやってきたのは、一八七二年(明治五年)でした。
 したがって、右の事例は当時の社会相を反映しており、たとえば、例四は、みせしめのため市場などで公開の処刑がおこなわれるのが普通であった、当時の慣例を知れば、処刑される県知事がなぜ官服にこだわったか、わかるでありましょう。
 例一から例四まで、いずれもメンツを重んじる例であって、赤裸々な現実に直面するのを避け、あくまでも自分の体面を維持しようとする精神がみられます。
 じっさいには、ここで体面が維持されたとしても、現実はかわらないのです。
 スミスの著作は、Arthur Smith,“Chinese Characteristics”一八九〇年(明治二十三年)(初版)、一八九四年(増補版)出版。日本語訳は『支那的性格』中央公論社 一九四〇年。訳者は白神徹。ただし、すでに一八九六年に博文館から翻訳がでています。

 メンツは中国社会の深層に横たわる重要な心理です。人間行動を規制する。それは日本の年号でいえば明治をつらぬいており、大正期にも、そして現在までもつづいて生きているでしょう。わたしはさいきん一つの興味ある事例を発見しました。
 これは一九二五年、大正十四年八月二十八日に中国南方、広東省の海上で発生した事件で、航行中の日本船が中国側の砲撃をうけ、乗船していた日本海軍の水兵が死亡、乗組員数名が負傷したというものです。
 一九二五年という年は、この五月、上海でおきた「五・三〇」事件をきっかけに労働運動が拡まり、中国全体に民族意識が高揚した年です。ストライキは香港にも波及し、広東(広州)でもイギリスに反対するデモがくりひろげられ、イギリス軍、フランス軍の発砲により二百人以上の死傷者がでています。
 日本船は石炭運送船で三井船舶会社のものでした。石炭運送船になぜ海軍の水兵がのっていたのかわかりませんが、とにかく日本海軍としては放置しておけない。中国側は虎門要塞からサーチライトを照らし停船命令をだしたが、日本船が従わなかったので発砲したと主張した。広東総領事館が海軍の依頼で交渉した。
 中国側は国民政府が対応し、見舞金をだすことで解決しようとした。
 汪兆銘(政府主席)、蒋介石(要塞司令)、許崇智(軍事委員)の連名です。
 日本海軍はあくまで謝罪を要求し、交渉は難航しました。
 それで、日本総領事館は孫文の秘書を長年つとめ、当時、上海に隠居していた山田純三郎に解決を依頼したのです。山田純三郎は「国民政府顧問」の肩書をもっていましたが、両者の言い分をよくきき、汪兆銘と書簡を十数回やりとりしたあと、最終提案を示し、汪兆銘はその提案を承諾しました。
 山田純三郎の提案はつぎのとおりでした。
 (一)日本側は中国側に対し謝罪を要求しない。
 (二)中国側は見舞金を増額する。
 (三)中国側は日本の軍艦に代表を派遣し、日本の軍船上において和解をおこなう。これは友好の式典としておこなわれる。
 これは山田純三郎の長年の中国生活の経験に裏うちされたすばらしい解決案であり、これによって事件は解決したため、記録されず、いわば水に流されたのです。汪兆銘の手紙が残っていて、あきらかになったものです。
 わたしは、この事件と解決策を『醇〔じゅん〕なる日本人――孫文革命と山田良政・純三郎』プレジデント社 一九九二年九月刊、によって知りました。著者は結束博治〔けっそく ひろはる〕 。
中国側のメンツを考慮して、山田純三郎は中国側の謝罪を求めませんでした。しかし中国側は代表が日本軍艦上に赴いた。これにたいし、日本側は中国側にたいし「友好」の式典をもって迎え、中国側と同等の階級の提督が迎え、中国側のメンツを傷つけなかったのです。

 中国の歴史をふりかえると、戦国時代の話ですが、廉頗〔れんぱ〕が藺相如〔りんしょうじょ〕に詫びた事例があります。
趙の国に仕え、秦の横暴に抵抗し、外交的手腕を発揮したのが藺相如です。その功績により「上卿」に任じられた。いっぽう、これまでいくたびも戦争によって功績があり威厳を示してきたのが廉頗という将軍です。彼は、藺よりも位が下ということになり、不満を抱いた。
 ――相如に会ったら面罵して辱めてやる。たかが「口舌の徒」ではないか。攻城野戦の功は我にあるぞ。それと知った藺相如は、廉頗を避ける。あまりに臆病だとなじる部下にたいしこたえた。
 ――秦が趙を攻めようとしないのは、わたしと廉頗がそろっているからで、どちらかが欠ければ秦の侵攻をうける。
 わたしには国家が大事だ。
 伝えきいた廉頗は藺相如に詫びるのです。
 「肉袒〔にくたん〕して荊〔けい〕を負い、門に詣〔いた〕りて罪を謝す」
 上半身裸になり、いばらを背負い、これを鞭としてわたしを打って下さい、と詫びた。
 大切なことは相手の家にでかけていったことなのです。
 ですから、さきほどの虎門要塞砲撃事件で、中国側代表が日本の軍艦にでむいたことは、これは中国の伝統的な考え方では謝罪にほかなりません。
 虎門要塞事件、さらに古代の戦国時代の事例をここにあげたのは、読者諸君にはすでにお気づきとおもいますが、「天皇訪中」について考えるところがあったからであります。
 訪中のまえには「訪中すべきか否か」の議論が、日本でありました。それは「謝罪すべきか否か」の議論、さらには「お言葉」は如何にあるべきかの議論になり、わたしもいくつかの新聞雑誌からコメントを求められましたが断ってきました。
 中国の伝統的な「礼儀」の形式からみれば「天皇訪中」は中国側に礼を尽くしたことになります。
 これにたいし、「友好の式典」をもって中国側も迎えておりますが、これはメンツを与えてもらったことにたいする感謝であります。
 日本的な発想ですと、自己卑下する事例にとられるかもしれませんが、メンツの考えかたからすれば、メンツを相手側にあたえたのであり、それだけ大きな立場に立ったのであります。
 ただし、これはあくまでも文化問題としての華人世界を考え、その世界における文化的深層としてメンツを取り出した拙論の展開として、「天皇訪中」にたいする私見をのべたにすぎません。読者諸賢のなかには、わたしの非礼に怒りを覚えられる方もあろうかと思いますが、私は「天皇訪中」をめぐる議論には重大な欠落があると考え、にもかかわらず他の中国研究者から指摘がない不足を補ったつもりであります。
 「天皇訪中」は、日本国の地位をおしあげました。
 これをなしとげられたのは天皇陛下、ご自身であります。


 
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