逆耳順耳(電子版第1回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第1号 2004.5.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


腹に納める話


 予期していない偶然は、やはり起こるものらしい。四七年前に私は福島県立安積高校を卒業し、その際に答辞を述べて、在席の校長先生を弾劾する若気の至りの演説をした。高校教育の成果を有名大学への合格率だけで評価するのは、教育の本質にもとるのではないかという青二才の感想を述べたものであった。相当に乱暴な、礼を失した卒業生代表のことばを受けて、礼儀正しくわれわれを見送った在校生代表が後任生徒会長佐藤栄佐久であった(いまは福島県知事を務めている。任期四選を終えて五戦目の選挙が近い)。私自身はいいたいことだけを言って、受験のために東京に出て、その後あまり帰省しなかったので、不規則発言がどのような波紋を呼んだかについては間接的に知るのみだ。
 さてその講壇はいま安積歴史博物館として保存されており、そこに再度立って、後輩や市民諸氏を前にして、「朝河貫一はなぜ辞書を食べたか」を語ることになった。勤務先を定年で辞めた直後に、古巣に戻って母校の講壇に立つなどという偶然は、そうやたらにあるものではない。
 当時、立錐の余地もないほど全校生の蝟集する講壇に生徒会長として立つ機会は、いくどかあったので「あがってしまい、頭の中が白くなる」といったことはなかったが、今回の実感は、この講堂は「こんなに小さかったのだろうか」というものであった。ちょうど小学校を訪れた卒業生が机や椅子の小さなことに驚く姿に似ている。机や椅子は決して小さなものではないのに、そのような印象をぬぐえないのは、なぜか。 しばらく考えてようやく思いあたったのだが、あたかも無声映画のフラッシュバックを見るように、私の頭のなかに15インチの旧型シロクロテレビがはめ込まれ、私はその画面を通して、現実の姿をみているのであった。明治二二年に竣工、国の重要文化財に指定されている建物、風雪に耐えた風格を備える。その雰囲気がもつ迫力にやはり呑まれていたのだ。近頃の豪華なホールの虚飾を無言のうちに粉砕するような迫力を、寺院の濡れ縁にも似た、なかばすり減った厚い厚い木版が与えていた。
 ふとかつてオックスフォード大学の僧坊にも似た薄暗い部屋をのぞいた体験を想起させる。然り哲学を考えるにはこのような雰囲気が必須だと実感したことを想起する。モダンかつ快適な環境からは軽薄な哲学しか生まれないのは、当然であることを改めて確認した。
 さて、その昔、朝河貫一が辞書を食べた話を繰り返す。「彼は英和辞書を毎日二頁ずつ暗記した。 そして暗誦したものは、 一枚ずつ食べるか破り捨てていき、ある日、ついにカバーだけになったので、 それを校庭の西隈の若桜の根元に埋めたのであった。貫一は皆に”辞書喰い”というあだ名を奉られてしまった。このことは、 朝河自身ダートマス大学時代の級友たちにも、問われるままに語ったことがあるらしい。母校の中学校では、 その桜の木を”朝河ざくら” とよぶようになった。ちなみに彼より十八年おくれてこの中学校を卒業した久米正雄は、覚えこみもしない辞書の各頁を食べてしまい、そのカバーを先輩のまねをして埋めたというが、 久米の茶目気が遺憾なく発揮された話としておもしろい」(阿部善雄 『最後の日本人――朝河貫一の生涯』 八〜 九頁)。
 以下は私のスピーチ調で書く----私はこのエピソードを高校時代に聞いて、なぜそんなことをしたのか不可解でした。辞書の例文を覚えるのは正しい学習法だと理解していましたが、単語を覚えるなどは愚劣なまちがった方法だと考えており、いわんやそれを食べてしまうとは、いったい何のおまじないなのか、と不思議でした。だいぶ後で、次のようなエッセイに遭遇して目からウロコが落ちたのです。
 「成斎〔西依成斎〕はその節用集〔現在の小百科全書みたいなもの〕を抱へ込んで、狗児のやうに鎮守の社殿の下に潜り込んだ。そして節用集を読み覚えると、 その覚えた個所だけは紙を引拗って食べた。書物を読み覚える頃には、腹もかなり空いてゐるので、節用集はその侭飯の代りにもなった訳だ。で、 十日も経たぬ間に、 とうと大部な節用集一冊を食べてしまったといふ事だ」(薄田泣董『完本 茶話』、 冨山房文庫、 上一三六頁)。
 これは明治の詩人薄田泣董の随筆の一節です。西依成斎とは、どんな人物でしょうか。インターネットでこの人物を調べると、「小浜藩の儒者成斎」のことは容易に調べられます。
▼元禄一五年(一七〇二)閏八月一二日〜寛政九年(一七九七)閏七月四日。享年九六歳。名正固、後に周行。通称、門平、後に儀平、儀兵(平)衛。肥後国(熊本県)玉名郡に生まれ、前原丈軒、京都で若林強斎に学ぶ。寛保二年、京都の小野鶴山(強斎女婿)の弟子となり、鶴山が若狭小浜藩に招かれた後は、強斎の家塾「望楠軒書院」の講主を務めた。また、二条宗基の知遇を得て、二条家の学舎の創建に関わった。弟子に古賀精理がいる。隠岐国造・幸生も門人で、その関係で駅鈴調査を依頼された。谷川士清とも交友があり『日本書紀通証』の序を書くが不採用となった(「士清をめぐる人々」北岡四良)。宣長門人・千家俊信も最初は成斎の門人であった。また、寛政一二年(一八〇〇)六月に来訪した興田吉従も最初は成斎の門人であった。享和元年に宣長門にはいるが、その間の事情について、宣長はこう書いている。
 「西依儀兵衛高弟奥(興)田十左衛門吉従ト云ハ、若狭ノ儒者ニテ当時西依ガ京ノ宅ニアリテ、カノ学ヲ伝フ、コレモ垂加流ナリシガ、後尺ヲ見テソノ非ヲサトリ当時モツハラ古学ニナレル由也」(『文通諸子居住所并転達所姓名所書』宣長全集第二〇巻三三六ページ)。
 小浜藩に藩校ができたのは、安永三年(一七七四)藩主が第九代酒井忠貫侯の時でした。当時、崎門学(山崎闇斎の学派)の拠点であった京都の望楠軒の、 第四代講主の西依墨山を、初代教授として迎えたのが藩校順造館の始まり。成斎は、その墨山の父で、忠貫侯からも師として仰がれ尊敬を受けていた。
▼小浜藩に藩校ができたのは、安永三年(一七七四)藩主が第九代酒井忠貫侯の時。当時、崎門学(山崎闇斎の学派)の拠点であった京都の望楠軒の第四代講主の西依墨山を、初代教授として迎えたのが藩校順造館の始まり。成斎は、その墨山の父で、忠貫侯からも師として仰がれ尊敬を受けていた-----。
 この儒者は、以上の紹介から分かるように、肥後に生まれ、京都で学び、一時は本居宣長の師匠格であり、その後長らく小浜藩の主任教授というわけですね。一七〇二年生まれなので、一八七三年生まれの朝河貫一よりも一七一歳年上です。
 これは日本の昔話ですが、韓国では最近でも辞書を食べる習慣があるようです。いま「冬のソナタ」という韓国ドラマが話題になっています。私はこれは見ていないのですが、少し前に公開された韓国映画JSA (Joint Security Area)のヒトコマに息を飲んだことがあります。韓国は徴兵制ですが、この映画には除隊までの日数を指折り数えながら、除隊後の生活設計を計画して必死に英語を学ぶ若者が描かれています。彼は英語のスペルを繰り返し紙に書きながら辞書を記憶する。私があっと息を飲んだのは次のシーンです。この若者は一息つくと、辞書のページをひきちぎり薄いインディアン紙をまるめて口の中にいれてしまったのです。
 スパイ映画で暗号メモを呑み込んで証拠隠滅を図るシーンはときおりみかけますが、 JSAの若者の場合は、証拠隠滅の必要はありませんね。ではなぜ呑み込んだのでしょう。私はとっさにこの若者の顔が朝河貫一の顔と二重映しになりました。彼は英語を覚え込んだあと、忘れないように呑み込んだのではないか。

 「腹に納める」例をもう一つあげます。三二年前のことですが、『毎日新聞』(一九七二年九月二六日付夕刊)が田中角栄首相とともに訪中した大平正芳外相についてこう書いています。
 「北京の迎賓館で一夜を過ごした田中首相は、歴史的な第一回の日中首脳会談がトントン拍子に進んでいるためか、すこぶるごきげん。朝七時に目が覚めた田中首相のこの朝の食事は、ご持参のノリ、つけもの、梅ぼしなども並び、和中折衷の献立て。首相も外相もせっせとたいらげ、二階堂官房長官にいわせると”きのう夜の夕食会でもずいぶん食べたり、飲んだりしたが今朝もまた・・・・。二人ともとにかく元気すぎるくらいだ”という。外相のけんたんぶりには首相も驚いたふうで、これを冷やかすと外相は”持ち来るものみな腹に納めてなお従容”と漢詩まがいの文句で応じたとか。首相はそれを聞いて”おれは学はないが・・・・・”と自室にとって返し、さらさらと筆でしたためたのが北京二日目の感想を歌った、次の漢詩。国交途絶幾星霜、修好再開秋将到、隣人眼温吾人迎、北京空晴秋気深 越山 田中角栄」。
 大平外相がここで「持ち来るものみな腹に納めて」と語っているのは、文字通り食べ物のことです。しかしこの人物はむろん政治家ですから、単に食べ物の話だけをしているわけではないと思われます。中国側、台湾側双方から日本にとっては「呑みにくい要求」もいくつかつきつけられる。それらを「清濁併せ呑む」気概で「みな腹に納めて従容」とするのが政治家の仕事だと示唆しているようにも受け取れます。つまり、腹に納めるのは、食べ物だけではないのです。
 「辞書を食う」のはなぜか、これを私が問うと大学のセンセイはおひまですね。つまらないことばかり考える。辞書を食べたらなくなる。もはや使えない。つまりは「背水の陣」の決意を示すのは分かりきっていることではないのか。これが普通の答えです。
 私も「背水の陣」説に反対ではありません。しかし、それならごみ箱に捨てても同じことです。私はなぜ「胃の腑」に納めたのか、その理由を考えたいのです。コンピュータのメモリーがハードディスクにあるように、人間のメモリー装置は「五臓六腑」にあると考えるのが伝統的漢方の知識でした。だから朝河貫一や西依成斎やJSAの韓国兵士が辞書を呑み込んだのは、ハードディスクに書き込む作業として行ったのだというのが私の解釈です。単なる決意表明やおまじないとしてこれを解するのではなく、その背後にある「記憶」論を考えたいのです。なにをどのように記憶するのか。朝河貫一はそれを旧姓中学時代に考え、それを終生実行したようです。辞書を食うのは、中学でやめたようですが、記憶論を方法として意識的に用いることは終生続けたようです。朝河貫一日記には、日記自体についての目次あるいは索引が付されています。これは彼の人生行路に対する検索索引でもあります。
 私は定年になり、時間が自由になったので朝河自身の方法を導きとして朝河貫一の世界を旅する研究にこれから取り組むつもりで、辞書を食うことの意味を考えてみました。
 さて、いま校庭の朝河桜は満開ですが、桜といえば、武士道が想起されます。朝河は一九〇五年に武士道について幾度か講演しています。日露戦争において小国日本が大国ロシアを破ったのは武士道精神によるものらしい。ではブシドウとはなにか。朝河に講演依頼が殺到したのは、彼自身が旧友たちからサムライとあだ名されていたこともありましょう。Bushido はその講演メモです。これをさらに発展させた論文が一九一二年にクラーク大学で行った講演 Japan Old and New: An Essay on what New Japan owes to the Feudal Japan です。これは明治時代が江戸時代に負うものは何か、といった意味ですね。ここで朝河は「武士道とはなにか」を本格的に論じています。私の仮訳を『横浜市立大学論叢』(人文科学系列第54巻第1-2-3合併号2003年)に掲げてあります。さわりを読んでみましょう-----。
 サムライは忍耐、自制および平静を養成した。年老いたサムライが(実際には私自身の父・朝河正澄のことだが)、彼の青年時代にどのように行われたかを話してくれた。
 彼は日の出前に起床して、雪の中を裸足で歩いて剣術道場に通った。そこでは、年上の生徒が可能なあらゆる方法で若者の肝試しを試みた。新入りは師範から叱咤激励された。例えば、年上の生徒が囲炉裏から燃える薪を取り出させ、突然床に投げ散らした。床に燃え移らないうちに、新入りに拾わせ、囲炉裏に戻させた。あるいは新入りに対して、井戸からバケツ一杯の冷水を運ばせ、二年生が床の上にこぼす。それを最も素早くふき取ることを新入りに命令したかもしれない。拭き取るために何も持っていない少年は、道場着を脱いで拭き取るかもしれない。彼が道場に行ったときには、板のように固く脚の回りで凍っているであろう。彼は完全に息切れするまで剣道の練習をさせられ、正午になって彼の弁当箱は先輩たちによって盗まれていたことに気づく。暗い雨の夜、若いサムライがお互いに死とユウレイの奇怪な話をしあう。次に、誰かが灯明なしに、単独で処刑場に行き、数時間前にはりつけにされた十字を登って、死者の歯の間に棒を挟んでくるように求められる。類似の肝試しで、若者は戸外に送られる。そこでは巧みに作られた人工の鬼火が棒の上に燃えている。彼は興奮して刀を抜いて、提灯に切りつけた。彼はけんかでは勝利を収めたが、鬼火のために自分の刀を抜いたことで、生涯を通じて笑い物にされた。サムライの刀は、どうしても必要な時以外には、さやから抜いてはならない。これとは逆に、他の若者は、暗闇で何かがまさしく彼の目を覆うのに突然気づいた。彼はしばらく冷静に立って、すぐ人間の手の温もりを感じた。次に、何事もなかったかのように笑った。そのような勇気と忍耐の試練、特に疲労、飢餓、および物理的な苦痛に対する忍耐は非常に普遍的であり、それらはサムライの共通の遺産になった(現在の戦争[日露戦争]における日本人兵士の忍耐ぶりは、負傷した場合であれ、外科手術を受ける場合であれ、従軍記者によって非常に曲解され、従軍記者たちは宗教運命論のせいにした。しかしながら、そこには宗教はほとんどなく、数世代にわたって根性を厳しく焼き直してきた結果である)。忍耐のもう一つの形は、誤解が少ない。すなわち肉体的な苦痛ではなく、精神的な苦痛である。サムライは喜びであれ、怒りであれ、純粋に個人的な感情は、表情に出さないように教育された。どんなに美しいものであれ、個人の感情に屈して、その事柄に関わりのない者に感情をおしつけることは、身分の高いものにふさわしくないと考えられたからである。この特異な点については、多くの興味深い心理学的研究が行われるかもしれないが、ここで我々の目的は、自制における一般的紀律に関して訓練の意味を示すことである----。
 時間がないので、詳しくお話することはできないのですが、朝河貫一の武士道論を読むと、新渡戸稲造の『武士道』やトムクルーズのラストサムライなどがいかに浅薄な理解にすぎないかがよく分かります。朝河の原文や私の仮訳は、矢吹のホームページhttp://www2.big.or.jp/~yabuki
に掲げてありますので、ご覧いたたげれば幸いです。ありがとうございました。

 
竹内 実「中華点点」 
福本 勝清「中国的なるものを考える」
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