逆耳順耳(電子版第3回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第3号 2004.9.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


威海劉公島海戦記念館
   

 夏休みに烟台師範学院で開かれた中国近現代史料史学会国際シンポジウムに参加した。烟台師範学院は来年から魯東大学に昇格する予定で、すでにこの昇格準備委員会の名称でさまざまの活動を始めている。国際シンポジウムの主催もそれらの活動の一環だ。


 東洋文庫の田仲一成さん(図書部長、学士院会員)から参加を勧められたので、いそいそと出かけた(実は敵は本能寺、山東省にはかねて期待しながら実現していない訪問地があったからだ。言わずと知れた泰山と曲阜である。とにかくこれを見ておかないことには、中国文化を考える際に、画竜点睛を欠く怨みがある)。

 さて学会で私は「東洋文庫所蔵のモリソン文庫について」報告した。モリソンは『ロンドンタイムス』北京特派員として活躍した。義和団籠城部隊に参加し負傷したり、日露戦争当時、日英同盟を踏まえて日本贔屓の記事を送り、ポーツマス講和会議まで出向いて、成行きを見守ったモリソンの一連行動は『日露戦争を演出した男モリソン』(ウッドハウス瑛子著、東洋経済新報社)などに活写されている。モリソンは北京時代に収集した蔵書古地図等二・四万冊を三菱の総帥岩崎久弥(弥太郎長男)に売却した。この蔵書には『東方見聞録』各版五四種、イエズス会士の中国東アジア関係報告・見聞録など貴重な資料が含まれていることは周知の通りであろう。財団法人東洋文庫はこのモリソン文庫を拡充して成った。この経緯や資料状況は中国の歴史学界では一部にしか知られていない。この経緯を私は持参したノートパソコンと液晶プロジェクターで、スクリーンに映しながら説明した次第である。乾隆帝がマカートニー大使の前でふんぞりかえる図柄などは、まさに百聞は一見に如かず、だ。アヘン戦争を描いた海戦なども、やはりスクリーン一杯に映さないと迫力が欠ける。そう考えて敢えて、プロジェクターを持参したわけだが、やはり老骨には重すぎた。帰国後一ヶ月以上経ても、利き腕の痛みはとれない。

 さて学会にエクスカーションはつきもの。今回は威海劉公島参観が企画されていたので、勇んで参加した。烟台市から威海市までの高速道路はよく整備されており、およそ一時間余である。そこからフェリーで十数分、劉公島に着く。劉公島はかつて北洋海軍提督署(通称水師衙門)が置かれた黄海渤海湾の要衝である。一八八八年に北洋海軍が正式に発足し、その実力は「アジア一位、世界で四位」と謳われた。一八九四年日清戦争が勃発、この北洋海軍は黄海大戦で新興の日本海軍に敗れ、丁汝昌総督(一八三六〜一八九五)は提督署内で自殺した。劉公島は中国海軍揺籃の地であり、日清戦争当時の大砲や砲台などの史跡が多数残されている。日清戦争百周年を期し一九八五年に中国甲午戦争博物館がつくられた。ここで私は中国流の軍国主義教育に直接触れて、その実態を改めて思い知らされた。


 江沢民指導部が日本軍国主義を強調し続けたのは、まさに中国軍国主義を合理化するためにほかならないという予断が裏付けられた気分である。ポスト冷戦期に軍事予算を拡大するには、仮想敵国が必要だ。ここでアメリカは強大すぎるから敵にはできない。中国の防衛族にとって恰好の口実あるいは標的は台湾独立派であり、これを支持する日本軍国主義という虚像であろう。私は九〇年代後半以降の江沢民軍拡をこのように見てきたが、それを確認できたことになる。

 さて煙台は八〇年代半ばにケ小平によって沿海開放都市に指定され、開発区がもうけられてきた。ここには日系企業も進出しており、早い話、私の大学同級生が二代目社長をやっている製靴メーカーの委託加工工場も確かここにあるはずだ。しかし、時間が足りないのでここはスキップ。

 最近は米国の自動車メーカーGMが広大な敷地を取得して、ビュイックの生産を始めるべく建設に乗り出した。その敷地の大きさを車窓から眺めながら蓬莱閣に向かう。ツテを頼ってチャーターした車は吉利の小型車で半年前に四万元で買ったという。中国で最も安い小型車である。イメージはホンダのフィットに似ている。運転手の本職はボイラーマン、夏期は仕事がないので、このマイカーを使って「第二職業」で稼いでいると得意気に説明してくれた。半日借り上げで三〇〇元、リーズナブルな値段であろう。

 蓬莱閣の歴史の説明のなかに、「蓬莱」の原型が渤海湾の蜃気楼だとする説明はたくさんあったが、それが隣国日本と重なり、徐福が秦始皇帝の命を受けて(あるいは始皇帝を騙して)、日本渡航をはかった経緯はほとんど説明されていないように見受けられた。日清戦争以来の敵国日本のイメージと理想郷蓬莱(日本)のイメージがそぐわないからであろうか。中国の歴史説明もかなりいいかげん、ご都合主義に思われた。

 小泉内閣が北朝鮮の拉致問題を口実として、自衛隊の強化に努めていることは明らかだが、これに先立って江沢民の人民解放軍が軍拡をやってきたのは、おそらく次の理由によるものである。

 一つは、一九九一年暮れの旧ソ連の解体であり、これをピークとする東欧の民主化があった。当時、「蘇東波」の三文字があたかも幽霊のごとく中南海の指導者たちを悩ませた。「蘇東波」とは、ソ連・東欧から発する「津波のような民主化の波」を指す。東欧の社会主義体制が「スターリンの戦車に乗ってやってきた」のに対して、毛沢東のゲリラ闘争は、いわばスターリンの妨害を乗り越えて達成された面があり、中国革命は東欧とは異なる性格をもつ。にもかかわらず、基本的に同じイデオロギーを根拠とする以上、中国にとっても民主化問題は「明日は我が身」と内外から見られたのはきわめて自然な成行きであった。動揺し、不安に脅えるなかで大々的に展開されたのが江沢民指導下の愛国主義教育キャンペーンにほかならない。ここで日本軍国主義は徹底的に「反面教師」扱いされた。

 もう一つの事情がある。ポストケ小平時代への権力の移行問題だ。毛沢東時代の晩年に二度の失脚を体験したケ小平は、最後に復活したあとは、ひたすら毛沢東の誤りを繰り返さないよう意を用い、みずからは第二線に身を置き胡耀邦、趙紫陽ら後継者の育成に努めた。天安門事件で趙紫陽という馬謖を斬ったあと、陳雲、李先念の意見を入れて江沢民を後継者に指名するや、まもなく引退した。

 さて、ストロングマンケ小平の後を襲った、小型軽量指導者江沢民にとって、ポスト冷戦期のむずかしい過渡期を乗り切ることは重すぎる課題であったようだ。江沢民はひたすら愛国主義教育に力をいれ、他方で軍拡を進めた。

 日本軍国主義を仮想敵国扱いして、国内世論の凝集に努めるという最も安易な道を選び、そのカゲで政治改革を棚上げした。愛国主義教育「実施綱要」には、この運動が「狭い民族主義」に陥ってはならないと書かれていたが、国際主義を語るやいなやソ連東欧の盟友を想起させることからして、ひたすら国内にのみ視野を向けさせた。この結果、愛国主義教育キャンペーンは、戦時中の日本軍国主義にも似た排外主義に堕することになった。中国の愛国主義教育キャンペーンがもともと「反日教育のために」行われたというのではない。愛国主義教育には近代の日中敵対関係とは異なる史跡も含まれているし、国際協調を最初から否定したわけでもない。にもかかわらず、現実に江沢民によって指導されたこのキャンペーンは事実上、反日運動としかいいようのないものとなった。そしてこのキャンペーンがこのような性格を強くもつことになったのは、日本側のまずい対応も預かっていることは確かだが、それは副次的であり、最も大きくこのキャンペーンの性格を規定したのは、冷戦体制が旧ソ連東欧の解体に終わったという現実だとみてよいだろう。アジアカップ北京決勝戦にみられた反日騒動はこれらの一連の事態の帰結にほかならない。要するに、ポスト冷戦期の幕開けににおいて、東アジアの小さな指導者たちは、互いに隣国を仮想敵国とすることによって国内統一に狂奔してきたわけだ。身近に敵のイメージを作ることによって、統一を図るのは、最も姑息な手段であるが、この程度の三流政治家たちによって、意図的に作られた敵対関係の幻影がサッカー場に集約されたとみてよい。原因がここまではっきりしてくると、打開の道筋もおのずから浮かび上がってくるはずだ。