逆耳順耳(電子版第4回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第4号 2004.11.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


甦る大化の改新(1)
   
 初めに

 定年生活を初めて半年、これまで読もうとして読めなかった本を読む時間を十分に与えられ、気分爽快である。朝河貫一顕彰協会の理事会メンバーに推されながら、朝河学に疎いことを恥じてきたが、ようやくその入口の扉をたたくことができた。これはその読書報告の一部である。

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 元東京大学史料編纂所長坂本太郎(1901〜87)の『大化改新の研究』(東京、至文堂)が出版されたのは1938年であり、朝河の英文著書『大化改新』出版以後35年目であった。坂本は既存研究を1.政治史的史観、2.文化史的史観、3.社会経済史的史観の「三つの立場」に分けた。いわく「政治史的史観は古くより行われた史観であり、新井白石、三浦周行、藤井甚太郎らの立場である」「特色濃厚に、その政治史的史観の典型を示す所は、その原因論である。即ち原因を単に族制の一に解し、その族制の弊害を豪族専権の一点のみより考察している」「事実の克明な穿鑿において、またその穏健な解釈において、この史観は確かに正統派と呼ばるべきものではあらうが、原因論の安易なること、史的意義の理解に未だしきことなどは、後に来るものに克服されねばならなかった」。 「次に明治の末より大正にかけて史学界に横溢した文化史研究の風潮が必然大化改新の研究の上にも影響し、ここに文化史的史観の名に整理さるべき一群の労作を生じたことは敢えて不思議とすべきではなからう」「そこでは改新が何よりも支那文化輸入の重大なる事件として理解される。原因論において支那文化の輸入が重大なる一項を占め、本質論において之が採用の仕方が論議される。而してこの観念を推及して聖徳太子の摂政政治を重視し、改新の先駆は太子にあり、太子のなさんとしてなすに及ばざりしもの、之を大化において成就したとする」。「かくてこの史観は、歴史現象の理解に優れ、前人の逮ばざりし点を明らかにした上に、実際には政治史的史観の長所をも合わせ採ってあらわれ、学界に裨益した功すこぶる多い。
 今この類に属すべき論著を挙げるならば、まず黒板勝美博士の国司の研究、聖徳太子御伝、その他の論文、安藤政次氏の日本文化史古代編、西村為之助氏の同奈良朝編、西村真次氏の国民の日本史飛鳥寧楽時代編、西岡虎之助氏の綜合日本史大系奈良朝編、又は中村直勝氏の大化改新などを得るであろう」。「別に朝河貫一氏が英文にて著はす所の大化改新論(The Early Institutional Life of Japan: A Study in the reform of 645 A.D.)も、かなり政治的要素を強調してはゐるけれども、その方法によって之を本史観の中に属せしめ得るであろう。この書は堂々三四六頁の長篇であり、特に改新を論じたものとしては邦文にも比無き量をもち、内容亦優れたる示唆に富む。今その大体の結構を紹介すれば、まづ改新前の制度(Institutions before the Reform)の叙述に一章を費し、次に改新の動機(Events up to the Reform)として蘇我氏の興亡、支那文化の伝来等を論じ、第三に支那の政治思想(Political Doctrine of China)と題して歴代にわたる政治思想及び制度の変遷を述べ、第四章改新(Reform)としてその第一に憲法十七条を論じ、以下順次に改新の経過を縷述して全篇を終へてゐる。氏によれば大化改新は一時危殆に瀕した皇権を再び確保せんとする皇室の努力のあらはれである。この目的のために支那の政治制度がそのまま採用せられたけれども、両者は遂に融合せず、このことが後の日本歴史に於ける特異な性格を形造る原因となったのであると。その他或いは大化の詔に挙げられた前代の弊政は改革者の語として誇張さられてゐるべきこと、これによって改革は時勢の要求する所であったと論ずべきでないことを指摘し、或いは二年八月癸(みずのと)酉(とり)の詔に皇位に関する支那思想の宣揚せらるるを前後の思想と矛盾するとし、書記の編者の誤りがここに存すべきことを推察するなど、傾聴に値する見解は少なくない。而して以上の外、特に支那政治思想の検討に一章百頁を充て、又憲法十七条を改新の経過の劈頭に叙述する如き点によっても、之を文化史的史観に属せしむべき理由の見出されることを私は信ずる」(下線は矢吹による。23〜24頁)としている。
 

 坂本は以上二つの傾向と区別して「社会経済史的史観の名に呼び得るもの」として次のように指摘した。「この史観は早くは福田徳三博士の日本経済史論(Die gesellschaftliche und wortschaftliche Entwickelung in Japan)などに宣揚されているが、盛行するに至ったのは大正より昭和にかけての経済史研究勃興の結果である」「竹越与三郎氏の日本経済史、本庄栄治郎博士の日本社会史以下多くの著書、黒正巌博士の農業共産制史論、田崎仁義博士の大化改新の社会上経済上並びに思想上の意義(国民経済雑誌第17巻第3号)等はこの傾向における典型的なる論著であろう」「この史観にあってはまず大化以前の社会組織としていわゆる氏族制度の厳然たる存在を予想する。而してこの制度が社会上経済上思想上各種の原因によってそれ自ら崩壊するに至った時がすなわち大化改新なりと見る」「社会経済史的史観の導入が一般に歴史研究の上に与えた功績は、之をこの場合にも認めることができるけれども、あまりに史的経過の必然性を強調し、事実の穿鑿に迂にして、理法の適用にのみ焦るその弊害もまた免れぬ所といわねばならぬ。殊に唯物史観を奉ずる人々がいわゆる氏族制度より古代国家へ移行の公式をそのままここに当てはめんとする如きは、この史観の欠点を最も明らかに呈示したものであろう」。
 坂本はこのように改新史観の三潮流を整理しつつ、「以上の諸傾向のいずれにも属せしめ難き異色ある研究」として津田左右吉博士の大化の改新研究を挙げている。「ここに見られる研究態度は、一言にしていえば、事実の再吟味である」。「この結論はともかくとして、そのこれを出した基礎事実は前人の未だ試みざる厳密な吟味を得て形成されたものである」。「思うに改新研究の態度はここにおいて一転機を画したと見られる」。「津田博士が既成史観を問題とせず、敢然それらの拠って事実の検討に力を注いだのは、まさに如上の研究史の間隙を衝いたもの、時代を画する栄誉に値するというも過言ではない」「私は右の津田博士的なる基礎事実検討の態度にこそ、この答えを求むべきであろうと思う」(27〜29頁)。
 坂本はこうして津田の方法にならって事実の再吟味に向かう。大化の改新を書いた時期の坂本は完全に津田の徒であり、津田の方法によって個々の津田の結論に検討を加えるやり方をとっている。坂本は本書の緒論「研究の沿革」において朝河貫一『大化改新』論を22行にわたって紹介したが、結局は既存の文化史的史観に分類され棚上げされ、津田左右吉の「基礎事実再吟味」の方向に向かった。以後、朝河貫一の大化の改新論はそのまま棚上げ状態が1世紀以上も続いている。坂本の『大化改新』(至文堂、1938年)は、『坂本太郎著作集』が編集されたとき、第6巻に収められた(吉川弘文館、1988年)。

 坂本の研究史レビューから 35年を経た1973年に、野村忠夫著『大化改新』(東京 : 吉川弘文館, 1973.7)が再度、研究史をレビューした。しかし、野村は坂本説を圧縮しただけだ。すなわち坂本は22行の紙幅で朝河を紹介したが、野村はわずか1行で片づけた。「朝河貫一が英文で著した『大化改新論』もこれに属するとみてよい」(『研究史大化改新(増補版)』6ページ)。野村に至っては、原書を紐解いたかどうか、はなはだ疑わしい。野村は坂本の権威に安易に依拠して、朝河貫一著『大化改新』を「文化史的史観」に分類して事足れりとした。こうして坂本によって最初に不適当な、あえていえば誤ったレッテル貼りが行われ、それを野村が引き継ぎ、その結果、朝河の所説は顧みられることがなかった。
 野村の本には「大化改新関係文献一覧」( p285-303)が付されているが、朝河貫一関係の文献は皆無である。野村の本は、増補版が1978年に出たが、朝河貫一の名が索引に、坂本の祖述部分として一箇所登場する点では初版も増補版も同じである。繰り返すが、朝河貫一『大化改新』(1903)は、1930年代に坂本によってまず「文化史的史観」に押し込められ、1970年代に野村忠夫によって再度、この不当な扱いがだめ押しされたことになる。

 さて野村は第2の研究史として井上光貞の「大化改新研究史論」の位相をこう要約している。
 「まず津田左右吉の『大化改新の研究』は、『日本書記』の厳正な文献学的批判によって、改新の経過をその編者とは少しちがって再構成し、改新の歴史的意味は土地制度の改革であることを明らかにした。この文献学的研究は、改新研究史上の画期的事件ともいうべきであろうが、少なくとも論理的には一つの問題が残されていた。それは主観的合理主義につらぬかれていることである」「この点を注意した坂本太郎氏の『大化改新の研究』は、その主観的合理主義(を批判しつつ)、「記事肯定の主義」に経って改新を再構成した」「改新とその継続を改新当事者およびその後継者の律令的な中央集権への努力に求め、改新を王政復古とみた」(野村、9ページ)。
 野村は続ける。「昭和の研究史は、新しい飛躍をした。社会経済史学ことに唯物史観の系統をひく研究であり、古代社会の構造に新しいメスを入れ、いわば改新の基礎的背景を明らかにした」「第1のグループは、秋沢修二、伊豆公夫、早川二郎、渡辺義通の諸氏で、昭和6、7年ごろから古代社会の分析をつぎつぎに発表した」「第2のグループは、正倉院の奈良時代戸籍による古代の家族構成研究を土台に古代史を検討してきた石母田正、藤間生大、松本新八郎の諸氏である」(9〜10ページ)。 
 野村は最後に、門脇禎二の改新否定論を紹介する。いわく「大正末年から昭和初年、次第に慢性的恐慌におちいりはじめた状況のもとで、徹底した近代的合理主義を方法的基礎にする学説と、学問自体に明確に階級的立場を意識した史的唯物論にたつ学風とがあらわれたことが、より重要である」「まず津田左右吉の『大化改新の研究』は、改新の目的、経過、その後の制度上の変遷、社会実態まで逐一検討を加えた。とくに注目したいのは、いわゆる改新詔がそのまま信用できないという疑問がはじめて提出されたことで、それは改新研究史上に画期的な問題提起であった」「この津田学説と基本的な対立を示すと一般に受け止められているのは、坂本太郎氏の『大化改新の研究』である。その所説は、とくに『日本書紀』批判の態度において鋭く対立する」「津田、坂本の学説は案外に共通した側面をもつことが軽視されている。つまり両者は、昭和期とくに10年代に入る前後から目立ちはじめた史的唯物論の改新研究の動向に、きびしい反感を呈示している」「津田、坂本説と早川、渡部説とは、前者が政治改革説、後者が社会改革説といったものではない。ほぼ同時代に生まれながら、時代の動きに対処した学問の仕方、方法がちがうのであり、それぞれから学びとるものは、論証成果にかぎらず、方法論まで含めたものでなければならない」。
 ここから史的唯物論に立脚した左翼史観が戦後一世を風靡した。門脇禎二の大化の改新虚像論はその典型であった。しかし1990年代の旧ソ連東欧の崩壊とともに左翼史観がほとんど崩壊したことはいうまでもない。