逆耳順耳(電子版第5回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第5号 2005.1.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


甦る大化の改新(2)----- 法制史学会について

 歴史学会におけるこのような扱いは、法制史学会においても、踏襲されたごとくである。
      
 法制史学会代表理事水林彪教授(東京都立大学法学部)の「法制史学の『これまで』と『これから』」によって、この学会の概況を一瞥してみよう。

















法制史学会は、日本・東洋・西洋の各地域の、古代から現代までの各時代の法の歴史を研究する人々が集い、啓発しあうための学会として、一九四九年一一月二三日に発足、以来、約55年の歴史を刻んできた。当初は数十名を数えるにすぎなかった会員も、現時点では、約460名に達している。
学会誌『法制史研究』は、一九五一年度の第1号以来、毎年1冊出版され、先般、第53号が刊行された。
二〇〇二年一〇月に本HPが開設された。学会HPとしては、出色のものの一つができたのではないかと自負している。特に『法制史研究』の「総目次」、「法制史文献目録」、「全データ検索」は、法制史学関連の文献情報を求める全ての人々に裨益するところ大であろう。
「法制史学」は、「史学」の一部である。しかし、この国の史学全体において法制史学の占める比重は、必ずしも高いとは言えない。日本史関係の講座ものの巻別編成や目次などを見れば、経済史、政治史、社会史などに比べて、法制史関連に割り当てられる論文数が少ない。
「法制史学」は、また、「法学」の一部である。法制史の講義は、通常、法学部における法学の体系の中に位置づけられている。
古典古代や近代西欧の法は、我々の法の母法にほかならず、したがって、「史学」の対象である以前に、現代日本の法的思考を反省的に吟味する「同時代学」に直接に資する素材である。
依るべき確かな基準を喪失し、全てのことが不透明になってきた今現在、学問のなすべきことは、何千年におよぶ学の伝統を正面から受けとめつつ、人類が直面する根本問題を根本的に考えぬくこと、そして、そのことをよくなしうる人材をじっくりと育てることにある(二〇〇四年五月三日)。

 法制史学会の課題が水林彪教授の指摘するごとくであるとすれば、これはまさに朝河貫一の追求した課題と完全に重なるといってよい。現に朝河貫一自身がみずからの学問を法制史、とりわけ比較法制史と呼んだことは周知の通りである。では朝河貫一と志を同じくするこの学会は朝河貫一の業績をどのように扱ってきたであろうか。『法制史研究』( 7号) (1957年) に井ヶ田良治(同志社大学名誉教授)が『入来文書』の書評を書いただけである。ほかには朝河貫一の名は見当たらない。
      

 「大化の改新」をホームページで検索すると、以下の15件がヒットする。《法制史研究》は2 件であり、その内容は1.牧健二 / (著者・論文紹介)石井良助 大化改新と鎌倉幕府の成立 / 法制史研究10号(1960) 251頁。および2.龍前佳子 / (書評)遠山美都男 大化改新――六四五年六月の宮廷改革―― / 法制史研究43号(1993) 309頁である。そして《法制史文献目録(1990〜)》には、以下の13 件の書評が登場するが、朝河貫一に関連のあるものは見当たらない。
     
1. 北村文治 / 大化改新の基礎的研究 / 吉川弘文館 / 1990
2. 鈴木英夫 / 大化改新直前の倭国と百済──百済王子翹岐と大佐平智積の来倭をめぐって── / 続日本紀研究272 / 1990
3. 門脇禎二 / 「大化改新」史論 上巻・下巻 / 思文閣出版 / 1992
4. 石上英一 / 大化改新論 / 朝尾他編『日本通史』3 / 1994
5. 龍前佳子 / (書評)遠山美津男著『大化改新──六四五年六月の宮廷改革── 』 / 法制史研究43 / 1994
6. 門脇禎二 / 「大化改新」新肯定論批判──直木孝次郎氏説への反論と質問── / 門脇編『日本古代国家の展開』上 / 1995
7. 関晃 / 大化改新の研究・下 / 吉川弘文館 / 1996
8. 時野谷滋 / 大化改新詔第1条の述作論について(上)(下) / 芸林45-1, 2 / 1996
9. 青木和夫・田辺昭三編 / 藤原鎌足とその時代──大化改新をめぐって── / 吉川弘文館 / 1997
10. 門脇禎二 / 直木孝次郎氏の応答論文に思う──「大化改新」史論と学界動向── / 日本史研究423 / 1997
11. 遠山美津男 / 古代王権と大化改新──律令制国家成立前史── / 雄山閣出版 / 1999
12. 神崎勝 / 大化改新の根本問題について──津田左右吉の改新研究に学ぶ(一)── / 立命館文学561 / 1999
13. 韋蘭春 / 大化改新前後の遣唐使について / 国学院大学日本文化研究所紀要86 / 2000

 朝河貫一『大化改新』の今日的意義

 門脇禎二は『「大化改新」史論』下巻(思文閣出版、1991年)で、「大化改新」観の原型について要旨次のように指摘している。

 <[大化改新が]重要な政治的変革期として、日本人に意識されはじめたのは決して古いことではない。時期的には、明治20年代後半以降のことである。それは明治維新にかかわらせてとりあげられはじめたのであり、明治政府が自由民権運動をきびしく抑圧しながら、明治憲法体制を確立してゆく過程においてであった><たとえば有賀長雄は、1882年の皇典考究所での講演において「大化の革命」という語を用いている。帝大教授星野恒も歴史学徒は教育勅語の趣旨に沿って研究の精密化」を呼びかけている。ついで田口卯吉「藤原鎌足」(『史海』2巻1891年)、久米邦武「大化の改新を論ず」(『史学雑誌』32号、1892年)、三浦周行「大化改新論」(『史学雑誌』7編の1、1896年)、竹越与三郎『2500年史』(第8章空前絶後の国政改革、1896年)、喜田貞吉「国司制の変遷」(『史学雑誌』8編の1、1897年)等々が出た><底流に共通して認められるのは、時の政府の直接の出発的であった明治維新との関連を、大化の改新の上にはっきりと意識し始めていたことであった><国学者流のナショナリズムが提起したそのままの「大化改新」観ではないが、最初に学界に登場した「大化改新」論は、まずこのような時代的特質をもっていた(279〜82頁)>。

 朝河貫一『大化改新』が書かれたのは1903年であり、大化の改新と明治維新を並べて、日本史における二つの革命と名付けているのは、まさにこの時代的特質が刻印されたものといってよい。では朝河貫一『大化改新』は時代を越えられず、時代遅れになったのか。もし歴史の風雪に耐え得ない論説にすぎないならば、これを葬ればよいだけのことだ。

 戦後日本史学界では大化の改新「虚像」論が広く行われた。たとえば門脇禎二はいう。<646年にできた大化「改新之詔」 の文章と、「改新」から少なくとも何十年も後に出た令の文章が全く一致している。おそらく「改新之詔」 は、もともとあったのではなくて、のちに『日本書記』をつくるときに、当時の編纂者たちが手元にあった法令によって「改新之詔」を当時のものとして述作したと考えられる。この問題を最初に提起したのは津田左右吉であった><大化改新で租庸調という税の制度ができたと[教室で]教える。ところが、律令制のところでまた租庸調を教える。これに類したことがいくつかある。同じ制度がダブって出てくる。これは実は律令制のときに定められたのであって、大化改新のときではなかったのではないか。さらに大化改新そのものがなかったのではないか。当然こういう筋道で考えてゆくことができる(門脇290頁)>。

 この問題について朝河はいう。<701年の大宝律令には全文があり、これは改新の半世紀後に改新の任務を異なる面から提議し完成させたものである。たぶん一部は中国の法をより深く知ったからであり、一部は大建設期に得られた経験のためである><しかしながら645年の法令を701年の法令から推論することは、ときには危険をともなうこともある。『日本紀』の断片的な記述は、資料だけでなく論理的関連もひどく不完全なので、法令の記述を参照して特定の問題に対する改新政策を導いた意図と全体的政策への示唆を求めることは正当化されよう。資料が不十分であるか、不完全なときに、645年と701年の間に横たわる思想のギャップを埋めるために、政治的経済的基礎から推論することは許されるが、研究者が批評の領域を飛び越えて解釈の領域に入り込むならば、その解釈において成功するか否かは、最も広範囲な人類学の訓練を受けているかどうかによるであろう」。

 朝河はまたいう。<六四六年に始められた最初の割当が六五二年に完成したことを考えると、着手における時間の長さと困難さは、最初の割当が次の割替までは有効だと考え、次の割替をいつやるかについてはおそらく決めていなかったのではないかと思わせる。なんらかの定期的割替については、少なくとも中国における制度の存在はよく知られていたに違いない。七〇一年の律令はこの点について多くを教えてくれる。一回目の割当から次の割替では六年とするとか、原文上でも制度の面でも問題を残しているが、これを論ずる必要はない。法令から改新までを戻って議論しておくのは危険だと指摘しておけば十分であろう。しかしながら、ある程度の確信をもって推論しておきたいのは、唐の人々が考えていたような年ごとの割替は、六四五年にも七〇一年にもこの期間中にも考えられなかったことである>。

 朝河の以上二つの指摘は、大化改新「虚像」論に対する牽制と読めないであろうか。つまり朝河は「改新之詔」のあいまいさと大宝律令との関係を考えぬいており、そこから「政治的経済的基礎から推論することは許される」としたが、「研究者が批評の領域を飛び越えて解釈の領域に入り込む」ことは厳しく戒めたのである。大宝律令を根拠として改新「虚像」論に飛躍した軽率さにあらかじめクギを刺しておいたように感じられてならない。