逆耳順耳(電子版第6回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第6号 2005.3.25   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

 

甦る大化の改新(3)

 


 さて私はこれまで朝河貫一『大化改新』が今日まで黙殺されてきた事情を坂本太郎と野村忠夫の研究史レビューに即して調べてきた。そこからしだいに浮かびあがるのは、いわゆる津田史学の功罪であろう。ここで朝河貫一と津田左右吉(1873〜1961)の年譜を並べてみよう。
 両者は奇しくも同じ1873年に生まれた。津田は91(明治24)年に東京専門学校を出ている。95年卒業の朝河の4年先輩に当たる。朝河は福島尋常中学を卒業してから上京したのに対して、津田はその過程をスキップしたものであろう。東京専門学校の創立は1882年であり、設立当時の同校は入学、卒業条件が緩やかであったものと思われる。

津田左右吉


 津田は中等教師を務めたあと、1907年に白鳥庫吉の庇護のもとに満鮮地理調査室(満鉄東京支社内に設置したもの)の研究員になり、本格的な研究生活に入った。ときに津田は34歳であった。その後1918年(45歳)から40年(67歳)まで22年間早稲田大学文学部教授を務めた。津田は40年に『神代史の研究』など4著書が発禁になり、出版法違反で起訴され、早稲田大学を辞したものである。この事件のゆえに、戦後は皇国史観学派と戦った英雄として迎えられ、その「実証主義史学」は一世を風靡した。47年に帝国学士院会員、49年文化勲章という輝かしい経歴は、津田史学がいかに戦後隆盛を極めることになるかを暗示したものであった。
 そのような津田史学全盛のもとで朝河史学は無視されてきたわけだ。ここまでくると、津田史学を栄えさせた諸条件こそが朝河史学を闇に葬った真犯人である、といわざるをえない。
 小熊英二著『単一民族神話の起源』(新曜社、1995年)は、第14章記紀神話の蘇生で白鳥庫吉、津田左右吉の史学を扱っている。これはたいへん手際のよい整理なので、小熊の分析を借りて、津田史学の欠陥をスケッチしてみよう。


 白鳥はヨーロッパ留学以後、日鮮同祖論や混合民族論を排して、「アジアには日本のような言語はない」「日本民族の渡来は何万年も昔のことであり、大和民族はこの島で生まれた」と唱え始めた(全集第9巻178-79ページ、小熊275ページ)。その結果、「天孫降臨を2600年前とする記紀神話はデタラメなのか」「天皇のいない日本民族が存在したことになるではないか」、という矛盾に逢着した。ここで白鳥は「記紀は史実ではなく、物語にすぎない」と批判を交わして、「単一民族論」に固執した。
 津田は1902年に編纂した歴史教科書では混合民族論を採用していたが、日露戦争と日韓併合後は白鳥の驥尾に付して単一民族論に転換した。すなわち1913年に著作『神代史の新しい研究』で、記紀は史実ではなく、作り物語だと説いた。これは記紀を史実とみなさないことで白鳥の戦術と軌を一にするものであった。
 1919年に出版された『古事記および日本書記の新研究』で、「神武天皇東征」「ヤマトタケルの命の西伐東征」「神功皇后の新羅征伐」などを「すべてが空想の物語」だと断じた。さらにスサノヲの新羅渡行は後世の加筆にすぎず、神功皇后の祖先とされる新羅王子アメノヒボコの列島渡来の記述も、「一つとして事実として考へらるべきことが無い」とした。こうして日鮮同祖論と、天皇家に朝鮮系の血統が流入したという説が否定された。
 こうして「白鳥と津田は、東洋史・言語学と記紀研究とを分担しながら単一民族論の基礎づけを行ってきた」(小熊284ページ)。「津田の思想は、国体論のなかから、天皇統治は権力支配ではなく国民との自然の情の結合だという部分だけを極大化したもの」(287ページ)である。

「津田においては日本は単一民族国家だから、民族と国民は同じものだったが、国家と民族は明確に区別した。彼は、記紀は国家や天皇家の起源を記したものであるから、そこから民族の起源を探ることはできないと述べている(289ページ)。

「記紀は国家の歴史であり、民族の歴史でないとすることは、二つの意味をもっていた。第1に、日本民族の起源がはるか太古だと主張することが可能になった。国家の歴史が2600年だとしても、民族はそのずっと前から列島にいたのである。第2に、異民族の不在と平和的な日本民族という主張が補強された。つまり、単一の平和的民族がいただけのはずの日本に、神武東征などの征服神話が存在するのは、記紀が国家権力によって作られた物語であるからだった。しかも、記紀の記述には、政府がとりいれた中国思想の影響が多大に及んでいたというのである」(289〜290ページ)。

「津田は朝鮮人を、儒教道徳の因襲や形式的制度のなかで生命力を失って滅びた民族とみなしていた。さらに「所謂支那料理は遊食階級、所謂士大夫、ブルジョアの食ひものとして発達したものである」といった表現からは、津田にとって中国的要素をとりさった理想の民族が健全な生産者としてイメージされていることがうかがえる」(290〜91ページ)。

「津田にとって天皇と民族は不可分であり、すでに1916年の時点から、天皇を「国民的精神の生ける象徴」とよんでいた。そして彼が『神代史の新しい研究』から一貫して主張していたのは、天皇が政治のうえで接触していたのは氏族であって民衆ではないということであった。つまりその政治的機能は、諸氏族の調整役であった」。「津田のライフワークであった大作『文学に現はれたる我が国民思想の研究』で主張されたのは、日本が受けた中国文化の影響は一部の権力者や知識人にとどまり、国民はべつに日本独自の文化をもっていたということであった。彼がこの研究で国民の文化と権力者の文化を区別したことが、それを可能にした。彼にいわせれば、権力者が中国をまねてつくった奈良京都の寺院や仏像などは、民衆からみればひどく異質で高圧的なものでしかなかった」(293ページ)。

「『支那思想と日本』では、漢字に中国思想が宿っているとして漢文授業の廃止を主張し、さらには「できるだけシナもじは使はない」という方針から、「りくちゅうひらいずみにおいて つださうきち」といった表記をするまでにいたる」「ところが、中国をそこまで嫌いぬく一方で、欧米文化の影響にはまったく寛大であった。彼は、日本は中国に影響をうけた東洋の一部ではなく、欧米文化の影響を多大にうけた世界の一部であるとしていたから、欧米文化は中国文化を中和してくれるものとして歓迎されていたと考えられる」(294ページ)。

「津田自身は、古代人が書いた美しい神話を、「支那式合理主義」で解釈しても意味がないという立場にたっていた。彼は『古事記および日本書記の新研究』の結論で、自分の根本思想を「記紀の上代の物語は歴史では無くして寧ろ詩である。さうして詩は歴史よりも却ってよく国民の内生活を語るものである」と要約している。 「彼を批判する側も評価する側も、津田の研究は記紀に合理的批判を加えたものだとうけとめた」

「津田のねらいは、合理的に解釈したら史実とはとうてい考えられないからこそ、混合民族論で切りきざまれていた記紀を、理性のおよばぬ神話として蘇生させることにあった」「とくに戦後の歴史学者たちは、津田を天皇制イデオロギーに対する科学的批判者として高く評価した。津田が民族の歴史と国家の歴史を区別し、国民の文化と権力者の文化を区別したことから、彼らせ津田を国民(民衆)史観の始祖と位置づけた。漢字使用の制限は、戦後において、民衆に平易な表現をとるという啓蒙的・民主的観点から打ち出されたことがあり、津田の漢字排斥もその文脈から理解されていた。津田が欧米文化排斥の風潮に同調しなかったこと、無政府主義者に好意を示したこと、反権力指向であったこと、そしてなによりも大日本帝国から言論弾圧をうけたことなど、すべてが進歩的な価値観に一致した」

「彼らは津田の天皇支持と反共姿勢にはとまどい反発したが、記紀研究はそれとはべつに、古代史のあるべき解釈として全面的にうけいれられてゆくことになる」(295〜56ページ)。
 

小熊の分析を続ける。<津田左右吉が天皇家冒涜の容疑で出版法違反に問われたことは、帝国の混乱を象徴するものであった。ことのおこりは、津田が日中戦争のさなかの1938年に、岩波新書の『支那思想と日本』を出版したことだった。この本は津田の従来からの主張である、中国思想が日本に表面的な影響しか与えていないことを力説したものである><津田のこの本によれば、儒教思想は中国の権力階級の道徳として特殊に発達したものであるため、普遍性がきわめて乏しく、「一般民衆を禽獣と同視し」、しかも結果として「支那の政治と社会とが少しもよくならず、支那の民衆が少しも幸福にならなかった」という。

一方で、日本への中国思想の影響は支配階級の一部にしか及ばなかった。また、本居宣長や平田篤胤の日本中心主義や古事記から神の道徳を導こうという姿勢も、自国を世界の中華と考える「支那の中国思想」と、書物から形式道徳を説く中国の影響だった。日本文化は日本民族独自のもので中国とはまったく異なるから、両者を含む「東洋」などというものは存在しない」(332ページ)。

「津田の東洋否定論は、徹底した中国嫌いと、日本の独自性の主張からのものだった。ところが、まさにそうであるがゆえに、彼は右翼から批判されることになった」「津田は記紀を「作り物語」としたことにより天皇家を冒涜したという容疑に問われた」(334ページ)。「津田の記紀研究は出版停止となったものの、ほとんどの容疑では無罪となり、有罪となった残り一件も執行猶予がついた」「津田裁判は、単一民族論が東洋否定論となり侵略に役立たないため、弾圧された事件であった」(336ページ)。
 

小熊の解説を通じて、われわれは津田史学なるものが戦後歴史学に大きな影響を与えた道筋を知りうるが、この解説をまつまでもなく、津田史学の核心部分は奇怪きわまるものだ。朝河史学をいくらか学んだものからすると、津田史学なるものはほとんどアマチュア史学の域を出るものではない。にもかかわらず、この種の俗流史学に文化勲章を与え、帝国学士院会員の名誉を与えたのが戦後の日本史学なのである。
 鳥なき里において、コウモリのみがもてはやされる時代にあって、戦後歴史学はコウモリの跳梁跋扈する世界と化して、ミネルヴァの梟にとって出番がなかったことは、返す返すも無念であった。
何が問題なのか。戦後横行した左翼史学の根本的欠陥は、要するに、皇国史観を批判したいあまりに、その根拠とされた『日本紀』自体を歴史の世界から追放し、神話の世界に閉じ込めようとしたことである。皇国史観が否定さるべき謬論であることは言を待たない。だが、「皇国史観憎し」のあまり、それと一緒に事実上『日本紀』まで否定するに至ったのは、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という感情に溺れたものというほかない。こうして戦後史学は皇国史観という「盥の水」と一緒に、日本史の真実という「赤子」まで流してしまう愚行を演じてきたことになる。
 

旧ソ連の解体以後10余年、左翼史観が崩壊し、ここでようやく日本史研究の本流が甦ることになった。最後に、ある碩学のコメントを引用して、拙い解説を結ぶことにしたい。
 堀米庸三(一九一三〜一九七五)はかつて、こう指摘したことがある。「(朝河貫一)氏は強い学問家気質の実証史家として、一般論にはきわめて慎重である。マルクスに対しては拒否的だったし、ヴェーバーさえときに概念規定などでその名をあげているくらいである」「マルクスとヴェーバーが氏の問題意識に入っていなかったことが、日本史家とのふれあいを生じさせなかったこと、したがって朝河氏の業績が十分に理解されなかったことの、決定的な理由だったのではなかろうか」(「封建制再評価への試論」『展望』一九六六年三月号、のち『歴史の意味』中央公論社、一九七〇年所収、一六七〜一六八頁)。


 堀米は続ける。朝河の理解するマナーは、古典マナーとよばれる「一村一領主制的構造のもの」だが、このマナーが封建制度の主たる基礎であったかどうか。今日ではむしろ否定的見解に傾く研究者が多い。類似の事柄は日本中世史の研究についてもいえる。それゆえ、朝河の研究は「現代性においていささか欠けるところがある」のは、率直に容認すべきだが、それは朝河の「業績が過去のものになった」ことを意味するものではない。「史料的基礎に確実無比の足場をもつ朝河氏の研究」は、依然としてわれわれの「論議の出発点であり基礎たりうる」。『入来文書』は「辺境薩摩のもの」であるとしても、『荘園研究』には、「越前や畿内の史料」の研究が主要部分をなしている。朝河の研究は「そのもっとも基本的部分で生きている。氏が理論家でなかったことが、かえって氏の「研究の生命を永続させる結果になった」。これが堀米の評価であった(『歴史の意味』一六九〜一七〇頁)。