逆耳順耳(電子版第7回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第7号 2005.7.4   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


甦るthe Documents of Iriki (入来文書)  (その1)
   

   マルク・ブロックを読む者はアサカワを知らず。
 入来文書を読む者はアサカワを知らず。
 イリキを発見して忘れられたK・アサカワがいま甦る。


 T.黙殺される朝河史学

 ある日、私はあと半年で定年を迎える勤務先の図書館にぶらりと出かけた。実は私はこの図書館をほとんど利用していない。現代中国研究を志す者にとってこの図書館の蔵書はまことに貧弱であり、私の研究室よりも、頼りにならないからだ(むろんこれは一般論ではない)。
 虫の知らせであろうか。国立歴史民俗博物館編『日本荘園データ』1という本が開架式書棚から飛び出して見えた。ほとんど無意識のうちに私はある名前を探していた。朝河貫一である。初めは容易に見つかるだろうと考えて立ったまま、探した。ない。ない。ないはずはない。こう考えて今度は閲覧室の机に運び出して、冒頭からめくり始めた。結局小一時間費やして、『日本荘園データ』の本体ではなく末尾に付された「荘園関係文献目録」に朝河貫一論文二点を発見した。同書五五六ページに朝河貫一「中世日本の寺院領」2があり、キーワードとして「本所領家、寺社領、高野山」の三語が挙げられている。さらに五八四ページに朝河貫一「日本の封建制度に就いて」3があり、キーワードは「一般、封建制」であった。
 続けて「入来院」を探す。同文献目録に挙げられた入来院研究論文は一〇点であった。すなわち、西岡虎之助[一八九五〜一九七〇]、加藤民夫、石村みち子、永原慶二[一九二二〜二〇〇四]、古川常深、北島万次、五味克夫、佐川弘、上杉允彦、高橋暢各氏の論文4である。これは「欠陥目録」ではないのか。このような目録を編纂するために、国税をいくら用いたのか、担当者の説明を求めたいところだ。ついでに書いておくが、国公立大学や研究機関の独立法人化に伴い、類似の出版物はますます増えることが懸念される。点数主義、員数合わせの弊害である。荘園研究ならば、朝河貫一の遺稿集『荘園研究』(日本学術振興会、一九六五年)とともに、それに先立つThe Documents of Iriki(日本学術振興会、一九五五年、和文書名は『入来文書』)が言及されて当然であろう。なぜそれへの言及がないのか。疑問を抱きながら、別の日に再度図書館を訪れた。
 この日は、東京堂から一九九七年に出た『日本荘園大辞典』(阿部猛、佐藤和彦編)5をめくった。これは『日本荘園データ』から二年後に出たもので、文字通り荘園を主題とした「大辞典」である。同書九〇〇ページに「入来院」が独立項目として立てられており、一ページの三分の一を少し上回る紙幅を用いて解説されている。そしてこの項目の参照「文献」として、西岡虎之助論文6永原慶二論文7が挙げられている。筆者は三木靖8である。同大辞典の「参考文献目録」には、少なくとも一七〇冊の書目が挙げられているが、朝河貫一著書刊行委員会編『荘園研究』(日本学術振興会、一九六五年)が挙げられているのみで、同委員会編The Documents of Irikiは挙げられていない。これも欠陥辞典というほかない。
 しばらくして二〇〇四年秋の某日、また同じ図書館を訪れた。書庫から西岡著『荘園史の研究』を借り出して「中世前期における荘園的農村の経済機構」6を読む。これは『文化史研究2』所収論文を一〇年以上経てから単行本に収録したものである。論文の書かれた一九四三年という時期からして、期待せずにめくったが、やはり予想通り朝河貫一の名はいくら探しても見当たらなかった。
 同じ日に、『中世の社会と経済』(永原慶二、稲垣泰彦編、一九六二年)をめくった。朝河貫一の死去は一九四八年、これを契機とした顕彰運動のなかで学術振興会が復刻版を出したのは一九五五年のことだから、この本には朝河貫一の名が登場するに違いない。期待は再度裏切られた。この本に収められた永原論文「中世村落の構造と領主制」7-1には、アサカワのアの字もなかった。これはどうしたことか。アメリカで一九二九年に英語で出版された本にまで日本の歴史学者の注意が届かないのは理解できる。しかし、東京でその七年前に出版され、五年前に再版された本に中世史家が気づかないというのは、おそらく不注意のためではあるまい。なぜ言及がないのか、意図的な黙殺なのであろうか。
 永原論文に接して、私の疑惑は膨れ続けた。この論文は、実は一九六〇年度の科学研究費を得て、一九六一年四月上旬に入来を実地調査して書かれたものである。同行者は大東文化大学講師古川常深(入来出身)、東大史料編纂所員石井進、一橋大学大学院関口恒雄であり、現地において協力を惜しまなかったのは、入来町長松下充止および入来町史編纂主任本田親虎であった。そもそも永原慶二はなぜ入来町を調査対象として選んだのか。朝河貫一The Documents of Irikiを意識していたはずだ。ならば、なぜこの研究についての言及がないのか。一七七ページの註釈(8)には、次の記述がある。
 「入来文書(新版)の編者はこの史料について、錯簡を訂正した後、第一紙、三紙の間及び第四紙・五紙の間に脱落あらんと注記している。たしかに第四紙・第五紙の間には人給分に関する一紙分の欠落があったと見られる。現存部の集計一二町七反一〇しろ代と文書の計一五町一反三〇代の間にひらきがあるのはそのゆえんであろう。しかし、第一紙・第三紙の間には欠落があったとは考えがたい。なぜなら記載分の実集計と文書の集計がほとんど一致するからである」7-1
 永原がここで言及したのはThe Documents of Irikiではなく、その日本語原史料を朝河貫一著書刊行委員会が独自に再編集したものである。この編集に携わったのは同書「再刊次第」に明らかなように、「東京大学助教授佐藤進一等が編纂に当たり、博士にゆかり深い史料編纂所の専門学徒がこれに協力した」部分である。
朝河貫一原編、朝河貫一著書刊行委員会編『入来文書(新訂)』こそが永原が入来を調査した際の最も重要な史料であったことは、明らかである。にもかかわらず、永原は朝河貫一のThe Documents of Irikiすなわち英文部分についての言及はまったくなかった。
 これは一体、どうしたことか。不可解きわまる扱いではないか。
この調査に同行した石井進[一九三〇〜二〇〇一]はのちにこう証言している。石井は『日本中世史像の再検討』に寄せた論文7-2のなかで、一九六一年四月に行われた入来への現地調査をこう回顧している。時に永原三九歳、石井三一歳であった。
 「私が入来院の調査にまいりましたのは随分昔のことで、今からざっと二十数年前になります[入来調査は一九六一年、石井講演所収本の出版は一九八八年]。荘園の復元的調査研究が学界でまだ始まったばかりの頃、それをリードしておられた永原慶二さんに連れていっていただきました。私には最初の、こうした調査でしたので、今でもなつかしい思い出です」(一〇六ページ)。
 「数日間の調査を終わりまして帰京後、しばらくしてから永原さんの論文「中世村落の構造と領主制」7-1が発表されました。それは調査の結果を実に見事にまとめられたもので、本当にびっくりした」(一〇九ページ)。
 「入来院地方の現代の水田を、迫田、谷田と、より大きな川ぞいの低地一帯にひろがる水田の二つに分類し」「永原さんは後者の、川ぞいの低地一帯の美田の部分は、実は江戸時代になってから薩摩藩の主導のもとに長距離用水路を開鑿することで初めて安定的な水田が開かれた地域で、中世の水田を考えるためには、この美田の部分は消去しなければならないのだと強調されました。したがって中世の水田としては、前者の迫田、谷田こそが重要になります」。「こうして小さな谷ごとに水田が開かれ、一軒、あるいは二、三軒の農家が点在する姿を、永原さんは「孤立農家」ないしは「小村、散居制集落」と規定された」(一一〇ページ)。「この永原さんの学説は、私にも大変明快で説得的で、すっかり感服してしまったのですが、ただ一部分については素朴な疑問を抱かざるを得ませんでした」。「迫田、谷田部分が中世に開かれていたことは確かだとしても、いま一つの美田地帯を全部消去してしまうことは正しいのだろうかという疑問です」(一一一ページ)。
 「塔之原の例からみますと、中世の水田が、いわゆる美田地帯に存在しないどころか、かえって地域の支配者である地頭の直営田がむしろこの美田地帯に集中していたことになり、中世耕地は迫田、谷田であったという議論では説明がつかないのではないか。これが永原さんの論文に感心しながらも私の感じた疑問であった」(一一二ページ)。
 「なぜ最初の調査で、平地の美田地帯について中世耕地として低い評価を与えることになってしまったのか。思うにそれは、中世の文書に出てくる地名・人名を手がかりとして、今もそれが残っている場所を中心に調査を進める方式をとったためではないか。こうした方法をとった場合、復原研究がもっともやりやすいのは、中世の地名等が今も多く残っている場所になる」。「上に述べたような調査の仕方では、永原さんのような結論になるのが理の当然である」。「当時の支配者である地頭の屋敷や直営田の集中した場所は、やはり荘園村落の中心地ではないか。そうした事実を正しく評価できないようでは、復原的調査研究法としても困るのではないか」(一一三ページ)。
 先輩の仕事の功罪は後輩の目から見ると、一目瞭然であるようだ。石井はここで往時を回顧して、永原が入来をモデルとして中世の「散居型村落」のイメージを描いたことを評価しつつ、他方で、永原が軽視しあるいは無視した「美田地帯」の意味を論じて、永原の欠落を補っている。
 ただし石井は触れていないが、実は永原のこの論文にはもう一つの問題提起あるいは学説の確認があった。論文末尾の「総括と展望」でこう指摘している。
 「入来地方の在家農民支配が、著しく直接的、身分的性格をもち、それだけに支配力が強烈な形で現れてくる」。「村落共同体の形成が進めば、かげをひそめることであるが、入来の場合ではさけえないものである。このような条件のもとでの領主=農民関係は、ある面では土着奴隷制的支配と近似した状態を示す」。「封建制下の農民の状態を狭義の農奴・隷農の二段階に区分しうるとすれば、狭義の農奴とはまさしく、このような個別的・身分的支配をつよく受ける存在にその直接的な前提を見出しうる」。「こうみてくると、入来院の領主=農民関係は、封建的な村落共同体の未成熟という段階に照応する農奴制の前提的な姿を示すものといってよく、特殊な地理的・自然的条件に規定された例外とはいいえない」。「ここにおける集落と耕地の形成過程や領主=農民関係は、律令制解体過程における中世的村落の形成の姿を、もっとも原理的に示しているといってよい。われわれが薩摩という辺境の一例をとりあげつつ、そこから中世の村落構造と領主制の問題一般を論じうる条件も、まさしくその点にある」(二一三〜二一四ページ)。
 永原が「薩摩という辺境」の、さらなる辺境ともいうべき「迫田、谷田」に視線を向けたのは、「土着奴隷制的支配と近似した状態」を発見するためであった。そして彼は「封建的な村落共同体の未成熟という段階に照応する農奴制の前提的な姿」をそこに発見したという。
 だが、朝河は、永原の説いたような「奴隷制、農奴制」の存在をそもそも認めない。朝河比較史学の核心ともいうべき「要約」の章でこう指摘している。
 「日本の小作人は、土地や領地に緊縛されたのではなく、強制労働を課されたのでもない。
ローマやフランク王国の奴隷、自由民、コロンに相当するものではない。小作人に対して労働を強要する領主領地はなく、その生活の大部分が管理されていたのではない。日本の土地制度はヨーロッパの意味での農奴は生み出さなかった」。
 これは永原にとってたいへん不都合な見解であった。やはり無視するに如くはない、永原はそう考えたのではないか。
 永原が迫田、谷田という細部に固執し、後進の石井がこれを批判して、より大きな流域の美田の位置づけに言及しているのは、私には日本中世史学界の視野狭窄を示す象徴的な構図に見える。いわば虫瞰図にとらわれている。朝河は一九二〇年代にイェール大学にあって、主としてフランスの封建制と対比しつつ、入来文書を解読していた。いわば世界史を俯瞰したうえでの虫瞰図作りだ。永原、石井は一九六〇年代から八〇年代にかけて、朝河が何十年も前に否定した「奴隷制、農奴制」のドグマにとらわれている。私には悲劇というよりは喜劇に見える。
                                                        [次号に続く]



注1.国立歴史民俗博物館編 『日本荘園データ』佐倉、 1995年3月、博物館資料調査報告書で全2巻。第 1巻は: 畿内・東海道・東山道を扱い、第2巻は: 北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道・壱岐島を扱う。第2巻付には、「荘園関係文献目録427〜623ページが付されている。英文タイトルは、 Information of manors in Japanである。荘園=マナーとする通説に依拠した訳語を用いている。
注2『歴史地理』1920年3月号に上野菊爾による抄訳があるが、原注は訳されていない。
注3『歴史地理』1920年4月号に上野菊爾による抄訳があるが、原注は訳されていない。
注4-1.西岡虎之助「中世前期における荘園的農村の経済機構」『文化史研究』2、1948年。
注4-2.加藤民夫「室町初期の地頭領----薩摩入来院の場合」『秋大史学』10、1959年。
注4-3.石村みち子「地頭職相伝上に於ける女性の地位----入来文書を中心として」『國學院雑誌』62-11、12、 1961年。
注4-4.永原慶二「中世村落の構造と領主制」永原慶二、稲垣泰彦編『中世の社会と経済』1962年所収。
注4-5.古川常深「中世における観農形態と農民層分解----鎌倉末期入来院の場合」『東洋研究』5、 1963年。
注4-6.北島万次「中世末期における門の存在形態」『社会と伝承』7-3、4 1963年。
注4-7.五味克夫「入来院山口氏について-----山口文書の紹介」『鹿大史学』11、 1963年12月。
注4-8.佐川弘「中世入来院領における在地構造の変質」『史学雑誌』73-4、6 1964年。
注4-9.上杉允彦「門割制度成立の前提」『史観』69、 1964年。
注4-10.高橋暢「渋谷氏の西遷と惣領制----特に入来院を中心に」『法政史学』21、 1969年
注5阿部猛、佐藤和彦編『日本荘園大辞典』東京堂出版、1997年9月、950ページ
注6西岡虎之助「中世前期における荘園的農村の経済構造」『荘園史の研究』下巻2、岩波書店、1953-1956年。
注7-1永原慶二「中世村落の構造と領主制」『中世の社会と経済』永原慶二、稲垣泰彦編、東大出版会、1962年152〜214ページに所収。
注7-2 石井進稿 『日本中世史像の再検討』網野善彦・石井進・上横手雅敬・大隅和雄・勝俣鎭夫編。山川出版社、1988年。なお、この本は1986年に札幌で開かれた「第10回北海道高等学校日本史教育研究会」の講演記録をもとに編まれたものである。ホームページ「学校を変えようhttp://www4.plala.or.jp/kawa-k/index.htm」の編集部紹介によれば、『再検討』は、高等学校の日本史教員の研究会での講演であり、各論題においてどの論者も教科書に書かれている歴史がいかに誤っているかということを中心に置いて最新の研究成果をもとに論じているため、「教科書的歴史理解」を点検するには最適の書、の由である。石井論文はのち『石井進著作集』第八巻に所収、岩波書店、2005年3月。
注8三木靖、鹿児島短大学長を経て、当時鹿児島国際大学教授。