逆耳順耳(電子版第9回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第9号 2005.11.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


甦るthe Documents of Iriki (入来文書) (その3)
   

 Ⅲ.The Documents of Iriki といわゆる入来(院)文書は峻別されなければならない
    ---遺稿整理時の諸問題について

 前項で山口隼正が指摘したように、一九五五年、朝河貫一著書刊行委員会によってThe Documents of Iriki(東京、日本学術振興会)が復刻された。その際に、朝河の執筆した英文の部分は一九二九年版のまま復刻したが、これには三本の英文解説論文と入来文書の増訂部分(日本語原史料)が付加された。これによって日本語部分は大きく様相を変えることになったが、朝河訳の英文テキスト文書番号と日本語原件の文書番号の対応関係は、新版xx~xxiiページ所収のIndex to the Japanese text of the documentsに示されている。日本語原史料が増補されたほかに、三篇の英文解説注14が付された。それから一〇年を経た一九六五年に、朝河遺稿を集めたThe Land and Society in Medieval Japan(『荘園研究』)注15が出版された。
 こうして一九四八年八月の朝河没後に盛り上がった顕彰運動が一九五五年にようやく結実し、さらに一〇年を経て、遺稿集が出版され、顕彰運動は一段落したわけだ。これらの顕彰のために多くのエネルギーが費やされたことはいうまでもない。関係者の労苦をねぎらいたい気持ちは強い。だが、その反面、この顕彰運動の限界あるいは欠陥も、半世紀を経た後、明らかである。文字通りの後知恵になるが、いま顧みると、二冊の著書はどうやら「編集方針を間違えたのではないか」という疑いを禁じ得ない。
 まず五五年のThe Documents of Iriki復刻について。
 この企画は、英文部分の復刻はそれでよいとして、日本語部分も朝河の選択通りに一五五の史料をそのまま復刻すべきであった。すなわち復刻は朝河の編集した通りに「完全復刻」すべきであり、手を加えるべきではなかった。史料を「増補」したのは、ミスリーディングではないか。日本の大学図書館等に原本は当時七冊しかなかった。だから、原本をまず増やすべきであった。「増補」方式がなぜまずいのか。一つは、朝河が熟慮の末に選択した成果を曖昧にしてしまった。これによって英文との対照が不便になっただけでなく、朝河の細心の選択の意味を結果的に薄めることになった。
 もう一つは、史料の海に読者あるいは研究者を投げ込むことになった。史料の海はどこまでも広く、かつ深い。海図なき航海は迷う。方法なき歴史家は容易に史料の大海に溺れるほかはない。一見良心的に見える「増補」が実は、朝河の達成した成果から読者の目をそらすことになった。朝河が何を選び、何を捨象したかを忘れさせ、朝河が熟慮の結果取捨したものを単なる準備不足と誤解させた形跡が残る。これは朝河史学からその方法を真に学ぶことなく、単に形式を模倣した一知半解というほかない。
 最も分かりやすい一例だけを挙げよう。百歩譲って、もし増補が必要だとすれば、それは英文155A と155Bのように、朝河が英訳(三七三~三七七ページ)を掲げながら、印刷時間の都合で日本語テキストに含めなかったことを悔いている徳川慶喜の大政奉還に関する二点(三七九ページ注の冒頭部分)を増補すべきであった。この点に配慮していないのは、ここに書かれた朝河の釈明を刊行会関係者が読まなかったことを意味すると解するほかない。
 もう一つの欠陥は、朝河の書いた英文部分をそのまま邦訳する作業を怠ったことだ。多くの論者が書いているように、「朝河が英文で発表したこと」が読者を遠ざけることになったとすれば、なによりもまず邦訳に取り組むべきであった。もし史料の増補が必要ならば、それは次の課題とすべきものであった。ここで朝河の The Documents of Irikiといくつかの『入来文書』の違いを際立たせるために、所収史料を対照表にまとめてみよう。

表1 三つの『入来文書』
  編集者 出版年 所収史料
[A]
The Documents of Iriki
朝河貫一 1929年 日本語史料1~155英文の部にのみ155-A「徳川慶喜の覚書」(一八六七年半ば)および155-B「玉座に対する将軍の覚書」( 一八六七年、『徳川慶喜公伝』 )を含む。頼朝による幕府の成立から大政奉還までの分析が朝河の課題であったことを示すもの。
[B-1]
The Documents of Iriki
朝河貫一著書刊行委員会 英文の部1955年、日本語史料の部1957年7月、323ページ 入来院家242、岡本家79、寺尾家45、庶流入来院家12、田中家2、清色亀鑑80、入来関係59、祁答院46、諸氏系図8、計573文書および写真版7点再刊次第にいう。「本書の再刊に当たっては、後学として改めて原本との校訂を行う一方、学界の便を計って、編纂の体例に次の方針を採用した。すなわち入来町に現存する文書は、所蔵者別にすべてこれを収蔵すると共に、文書を現存状態に則して配列することとしたのである。この方針に基づき、本年1月、『入来文書』の原本は、朝河博士の偉業に酬いんとする入来院重尚氏の好意により、同家と委員会との厳重なる管理の下に、鹿児島県入来町から東京大学史料編纂所に移送せられた。ここに本格的に、しかも急速に編纂を開始し得るに至った。そして東京大学助教授佐藤進一委員等が編纂に当たり、博士にゆかり深い史料編纂所の専門学徒がこれに協力した」
[B-2]
『入来文書』新訂版
朝河貫一著書刊行委員会 1967年8月、日本語史料のみ323ページ。 入来院家242、岡本家79、寺尾家45、庶流入来院家12、田中家2、清色亀鑑80、入来関係59、祁答院46、諸氏系図8、計573文書および写真版5点松方三郎委員長の序にいう。「原典資料としての入来文書は、今回の刊行によって、さらに広く活用されることであろう。学界のために慶賀にたえないことだ。ここに新版を世に送るに当たり、いささか由来を識し、併せて新たに校訂を加えられた史料編纂所の今枝愛真、新田英治、百瀬今朝雄、金井圓、益田宗の諸氏と、佐藤進一教授、石井進講師の労を感謝し刊行の言葉にかえる次第である」
[C]
『近世入来文書』
阿部善雄古川常深本田親虎編 1981年4月東大出版会 史料290および系図13。編者阿部教授の序にいう。「近世外城制下の伝統は、まだ学究者の手によって十分に点されることがなかったので、より輝きを放つようになったとはいえない。これを惜しんで本書『近世入来文書』の収集と編纂を志したのが、入来町出身の元高崎経済大学教授故古川常深氏であり、同町の誇る碩学本田親虎氏も私とともに協力された。そして同教授が業半ばにして没するにおよび、本田氏は全面的に編纂完成の労を払われた。ここに中世『入来文書』の命脈が躍動して『近世入来文書』に伝えられるに至ったのであり、慶賀これにまさることはないであろう。さて近時20数年、近世史料の基幹をなす大名史料群の調査がいちじるしく進展をみたが、そのうち最も欠如するものは陪臣家臣団の史料群このような事情に鑑みて、薩摩藩の一肢として同藩の発展を支えた外城主入来院氏をめぐる家臣団の史料が、本書にみるように豊富に伝存したことは、すこぶる貴重なことである。これらの史料群によって、われわれは外城制下の在郷武臣団の公私にわたる封建的環境と、ならびにそれの地方経済との接触の姿を、明確に究明することができるであろう」。

 上の表1から明らかなように、朝河一九二九年版は第1号から155号まで番号を付して古文書を収めている。関連文書はまとめられているので、朝河の説明によれば文書数は255である。これらの文書の歴史的意味づけをまず「史料解題」し、次いでこれを英語に訳して、詳細な脚注を付したもの、これが朝河版である。朝河はこの本を書いたのではなく、「編集した」ものだとその立場を繰り返し説明している。朝河はみずからを指して「著者は」と書いた箇所は一つもなく、すべて「編者は」で統一している。歴史家朝河は歴史書を「書いた」のではなく、古文書を「編集した」というのが彼の基本的スタンスである。
 朝河の没後、刊行委員会は収録史料を二・四倍に増やすと共に、「所蔵者別にすべてこれを収蔵する」と共に、「文書を現存状態に則して配列する」方針を採用した。この結果、朝河版では菊判一三四ページ分であったものが菊判三二三ページに膨れ上がった。これによって史料としての『入来文書』はより整う形になったが、朝河の編集意図あるいは執筆意図は大きく損なわれる結果になった。これは刊行委員会が予測できなかった帰結であろう。朝河はこれらの史料を用いて日本の封建制をヨーロッパとの比較において原史料に即した 客観的視点から研究することを望んでいたはずだが、その遺髪を継ぐ者が朝河の方法をいわば誤解して朝河の成果を埋没させ、朝河から切り離された『入来文書』の「物神化」に努めたように映るのを否めない。
 これは、はなはだ奇妙な成行きなのだが、ここに(1)世に理解されることのなかった朝河史学の悲劇と、(2)朝河史学を活かすことができなかった日本史学界の悲劇、そして(3)みずからの歴史を国際的視野に立って眺める機会を失った日本国民の悲劇が象徴されているように思われる。
 あえて厳しい率直な感想を記したが、その端的な帰結が『近世入来文書』[表1のC]の編集であろう。これらの史料集の編纂が無用だというつもりは毛頭ない。それ自体としては大事な作業である。しかし、日本の読者・研究者にとってより必要なことは、日本における封建制の発展と没落の歴史を知り、その封建遺産がいかに明治以後の歴史に引き継がれたかについての朝河の分析結果を知ることであったはずだ。遺憾ながら、竹内が指摘したように、朝河史学はまだ日本史理解の主流にはなっていない。このような事態の背景には、のちに触れるようないくつかの悪条件が重なってのことだが、刊行委員会の関係者自体が、竹内のような例外を除けば、朝河史学の核心、特に日欧封建制との比較の視点に照らして日本史を解読しようとした朝河史学の意味をよく理解していなかったことも一因ではないかと惜しむのである。

 次に『荘園研究』注15の編集方針について。
この本は未定稿「越前牛原荘」と牛原荘関係文書七三点および荘園関係文書五七点、計一三〇篇の原史料を付した朝河遺稿と、朝河が英文で発表した論文の原文復刻七論文からなっている。収録論文は以下のごとくである。
1. 日本の封建的土地所有の諸起源一九一四年(『史学雑誌』に朝河貫一自身による要約あり)
2. 中世日本の寺領荘園の生活一九一六年(『歴史地理』に上野菊爾による抄訳あり)
3. 日本封建制の諸相一九一八年(『歴史地理』に上野菊爾による抄訳あり)
4. 日本歴史における農業についての総論一九二九年
5. 初期荘園と初期マナーとの比較研究一九三〇年
6. 封建制度・日本一九三〇年
7. 源頼朝による幕府の創立一九三三年
 朝河がすでに発表していた上記七論文を収めたのは妥当な措置である。望ましいのは原文だけでなく、邦訳を付すべきであったことだ。1~3については、すでに邦訳があるが、必ずしも十分なものとはいいがたい。これらは初期朝河の封建制論であり、The Documents of Iriki(一九二九年)を経て、朝河史学が確立したとすれば、論文四~七の成果を踏まえて、新たに再訳すべきであった。さらにNotes on Village Government in Japan After 1600,I & II, Journal of the American Oriental Society, Vol. 30, 1909-10. & Vol. 31, 1910-11.は、典拠した資料部分が膨れ上がり、雑誌掲載は未完成に終わったので、完成度の点から一部では不評注16のようだが、江戸時代の分析としては貴重な成果であり、収録すべきであった。
 これらの既発表論文を中心として、たとえば『朝河貫一封建論集』(仮題)を編纂すれば、朝河史学の核心を理解するうえで、役立ったはずである。未定稿「越前牛原荘」と牛原荘関係文書および荘園関係文書を収めたことも悪いはずはないが、これらの原史料のなかに、朝河史学のエッセンスが埋没する結果となったのは、編集方針の失敗というほかない。いずれにせよ、遺稿整理に参加された関係者の努力に敬意を払う点で人後に落ちるものではないが、その結果については、あえて率直な印象を記しておかなければならない。このような編集方針が朝河史学の核心への理解を妨げる結果となったのは惜しんでも余りあるものというほかない。
 実はもう一つの事情がありそうだ。訳者は日本史学界の内部事情に不案内だが、管見する限り朝河史学は、戦後日本の政治状況のもとで進歩的日本史学を代表する存在であった永原慶二のような研究者によって黙殺されたことが大きな転機になったのではあるまいか。入来町へ現地調査に行きながら、その報告書で朝河の名に言及しなかった理由は、むろん分からない。もし存命ならば、問い合わせてみたい気持ちだが、訳者は定年をまってようやく翻訳の仕事に着手し、事の経過に気づいたのであり、遅かりし由良の助である。かつて永原の講義を聞いたことのある友人によると、悪意をもって黙殺したとは思えない。おそらくは朝河史学の位置づけに悩み、結局は棚上げしたのではないかという見方であった。永原が朝河の問題提起に触発されて入来まで調査に行きながら、結局はそれを活かしきれなかったのは、朝河史学と当時の永原史学に代表される日本中世史学との距離があまりにも隔たっていたからであろう。永原のように入来まで調査に出向く積極性は示さなかった他の歴史家たちも、永原と同じように、黙殺してきたわけである。こうして朝河史学は進歩派だけではなく、保守派あるいは中道派からも無視されてきた。
 その間の事情を一九五五年の復刻版および一九六五年のThe Land and Society in Medieval Japan(『荘園研究』)の解説論文から、詳しく観察してみよう。
 復刻版所収の西岡虎之助論文注12は徳川光圀の指示により、『大日本史』の編纂が始まり、狩谷棭齋(えきさい、一七七五~一八三五年)の考証を経て、明治から昭和に至る荘園研究を回顧しつつ、肝心の朝河貫一については、末尾のわずか二行で言及するのみだ。曰く、
「この背景に照らして見るとき、朝河貫一のThe Documents of Irikiの目的と達成は、いかに優れていて、先例のないものであるかがますます明らかになりつつある」と。
 これは典型的な「敬遠手法」ではあるまいか。朝河の「目的と達成」についてなに一つ具体的な記述はない。単に「優れており、先例がない」と形容するのはホメ殺し以下であろう。 宝月奎吾論文注13は東大史料編纂所がどのように発展してきたか、日本の古文書がどのように保存され、研究されてきたかを記しているが、朝河貫一の名は一度も登場しない。朝河自身がかつて米国から史料編纂所に研究留学し、その史料をいかに利用したかは、『書簡集』などから知ることができるが、宝月論文はほとんど朝河の研究に関心を示していないように見える。

竹内理三の評価---その1
 これら二つの「お飾り」とは異なって、竹内理三[一九〇七~一九九七]論文注14は唯一、朝河の研究をまともに論評しているが、肝心のThe Documents of Irikiからの引用は皆無であるのは象徴的である。竹内は言う。「当時イェール大学にいた朝河貫一博士にとっては、両者[日本の荘園とヨーロッパのマナー]は同じものではなかった。しかしながら朝河の仕事は外国語で書かれたので、新しい歴史的潮流のなかにあった日本の学者に注目されることは、ほとんどなかった。すなわちこの間に日本では唯物史観が幅を利かせていたのであった」(p. xiv )。
 竹内論文はマナーと荘園の類似性を主張する(旧講座派の流れを汲む)唯物史観派が朝河学説を無視したことを実に的確に指摘している。竹内はさらに石母田正[一九一二~一九八六]『中世的世界の形成』注17や藤間生大[一九一三~]『日本荘園史』注18などに触れつつ、石母田の荘園五分類説を紹介する。すなわち畿内、瀬戸内、北陸、東海、山陰の五つのタイプに分け、さらに畿内=先進型と辺境=後進型に大分類した(xvi)。石母田の五分類では九州は無視されている。そのうえ、さらに辺境型のレッテルを貼り付ける始末であった。これでは入来が無視されるのは火を見るよりも明らかだ。
 竹内はいう。朝河博士は日本の荘園について西ヨーロッパのマナーと同じものと見る見方に警告したと先に指摘した。しかしながら朝河の警告とは別に、社会経済史家たちは、荘園の発展は当時の律令制度のアンチテーゼではなく、律令に固有なさまざまな要素の自然な発展であり、成長だとする見解を堅持し続けた。ただし現在[一九六五年当時]では、荘園は古代のもので、律令制度と調和するという解釈が支持を得ているが。
竹内は続ける。戦後の日本学界では、「古代社会は奴隷制の上に」樹立され、「中世社会は農奴制を基礎とした」とみなす観点に合わせて、「古代に属する荘園は奴隷制に基づく生産様式であった」とみる見解が幅を利かせている。
 この解釈は「封建社会が荘園制度から発生した」と説明するうえできわめて便利であったために、学者たちは今日このテーゼを実証するためにあらゆる努力を惜しまないように見える。しかしながら「荘園では奴隷が領地を耕した」とする解釈は信憑性を問われないわけにはいかない。
 こうして竹内は、荘園制度と封建制度との関係を論じ、実は封建制度自体についての定義が曖昧なことを論じ、今後の研究の発展のためには、「朝河博士の成果に対する注意深い研究が必要だ」と説いた。竹内は続けて、一四~一五世紀の郷村制を論じて、村落における農村共同体的絆と荘園の成長と崩壊、封建制の勃興の関係を研究課題と設定した。
 竹内は朝河学説が無視された理由の一つが「荘園とマナーを峻別する」主張にあることは正しく指摘したが、この論文では朝河が分析した荘園の解体と知行化の過程、これに伴う農村社会の再編成の部分には言及していない恨みが残る。
 なお、竹内は一九五五年に「日本荘園研究の歴史」注19を書いている。いわく、「荘園と中世村落が必ずしも一致せず、且つ西洋のmanorとも異なる点をいち早く指摘したのは、エール大学の朝河貫一[寛一と誤植]氏である。氏は、大正五年[一九一六年]までに、アメリカにおいて「一六〇〇年以後の日本の村落統治」、「日本における封建的土地所有の起源」、「中世日本の荘園生活」などの英字論文をものせられたが、英文であるため国内の歴史学者の目にふれる機会がなかった。しかるに大正九年[一九二〇年]『歴史地理』誌上に、「中世日本の寺院領」及び「日本の封建制度に就いて」を発表して、manorと荘園とは異なることを指摘し、manorは村落団体であるのに、荘園は散在的田家組織( Einzelhof )の一で、わが国の荘園は、manorの如き領主の強力な支配下に立つものではなかったこと、荘園の領主権は薄弱で、荘民は農奴ではなかったことを述べ、後者では、荘園がそのままに封建的封土ではなく、地頭職や名主職が封建武士の恩給の対象であったことを注意したもので、共に頗る重大な提言をふくみ、特に[講座派の流れを汲む]内部構造派にとっては、賛否にかかわらず無視する能わざる内容をもっていたが、この論文が史料の脚注が十分でなかったために[邦訳は原注を省略していた]、十分わが学界に理解され得なかった。最近筆者[竹内]が、『史学雑誌』に発表した「荘園制と封建制----日本の場合」は、もっぱらこの朝河博士の論文により示唆されたものに過ぎない」注19
 竹内が末尾で言及した「荘園制と封建制----日本の場合」は、『史学雑誌』注20に発表され、その後、著作集『荘園史研究』に収められている。この論文は、日本における荘園史研究の「二つの重大な誤解」について、誤解の原因が「日本の荘園制と封建制」とを「西洋のmanor と feudalismとに対応させた」ことによって生じたとして、誤解を解こうとしたものである。第一の誤解は「西欧のfeudal system がmanorial systemを基盤としている」ところから、「わが国の封建制も荘園制を基盤としている」と見る考え方である。しかし、この説によると、「荘園制時代といわれる平安時代」と「封建制時代といわれる江戸時代」とを以て、「同一の社会構造とみとめる」ことになり、不自然である。わが国の封建制は、むしろ「荘園制をむしばみ、変質させ、解体させることによって成長し、完成していった」。「荘園制と封建制は異質なもの」であり、別個のものである。注21
 第二の誤解は「荘園制を以て封建制に対立する社会関係のsystemと見る」見方である。この観点は、「荘園制と封建制を区別した」のは進歩だが、「封建制の構造から荘園制を逆に類推した見方」にほかならない。竹内は封建制の内容を三カ条に整理する。(1)土地が主要な財産的形態となっていること。(2)土地所有者である領主階級が、土地の占有者であり同時に独立的な経営者である「農奴」から、剰余生産物、又は労働力を提供させること。(3)独立的な土地の占有者・経営者である農奴を収奪・搾取するために経済外的強制が行われること、である。ここで竹内は「一三世紀から一八世紀の間の農民の性格」を、「農奴と一色にぬりつぶす」農奴論を退けつつ、「主君と臣下の主従関係」によって秩序づけられた武家時代であるとして、その構造を次のように説明する。「鎌倉時代の将軍と御家人との関係」は、「個人と個人の人格的関係によって成立したもの」であって、「将軍が御恩として与える土地給与、又は所領安堵」は、この「人的関係を媒介として」行われた、封建関係は、「土地の給与を媒介として、人的関係に入る」といわれるが、「実はその逆である注22」と。
 竹内がこの論文について「もっぱらこの朝河博士の論文により示唆されたもの」と語ったことは前述の通りだが、この竹内論文自体においては、典拠とした朝河論文は文献に挙げられておらず、直接的言及はなかった。竹内は『史学雑誌』『歴史地理』に抄訳された朝河の封建制論の骨子に照らして、当時日本で行われていた「二つの大きな誤解」を正そうとしたのであった。

竹内理三の評価-その2
 前述のように、松方三郎(一八九九~一九七三)を委員長とする朝河貫一著書刊行委員会は一九五五年に『入来文書』(増補版)を出版したのに次いで、一九六五年に遺稿集ともいうべき『荘園研究』注15を刊行した。刊行委員会名義による日本語の「序」はこう述べている。「先に本委員会が『入来文書』の増補公刊を果たしてより、遺稿の出版に対する期待がこの第二集『荘園研究』として結実するに至る迄には、長い著実なる準備を必要とした。エール大学の図書館の一室に収蔵される博士の膨大なる遺稿と蒐集資料を整理公刊することは容易なる事業ではなく、同大学における歴史学者の整理を俟たなければならなかった」。
 引用箇所の前後を飾る美文調の文体から判断して、この序の執筆者は阿部善雄(一九二〇~一九八六、当時史料編纂所所員、のち東大史料編纂所教授)と推測される。松方三郎による英文序(一九六五年三月三〇日付)の末尾に阿部は刊行事業会の事務局長(general-secretary in charge of the publication)として働いたことが記されている。また阿部の同僚金井圓(一九二七~二〇〇一)はエール大学図書館を訪問し、東京とニューヘブンを結ぶ架け橋となったと記されている。
 さてこの『荘園研究』に寄せた竹内理三「日本封建制の研究と朝河貫一博士」(Studies of Japanese Feudalism and Dr. Kan-ichi Asakawa) は、朝河の封建制研究の意義を実に的確に描いている。
 竹内は、まずヨーロッパのfeudalism概念が明治に導入されて以後中国語の封建(fengjian)概念との混同が生じたこと、次いで朝河より四歳年少の中田薫(一八七七~一九六七)が法制史の観点からヨーロッパの中世封建制を「恩貸制と従士制の結合」として解釈する見解を『法学協会雑誌』注24に発表したこと、その中で「この見解は今日でさえも法制史の研究者の間でほとんど原型のまま受け入れられている」事実を指摘したあと、マルクス主義歴史学の横行を次のように述べている。すなわち彼らは「古代、中世、近代」をそれぞれ「奴隷制、封建制、資本制」によって特徴づけ、「封建社会とは本質的に農奴社会である」と規定する。「封建社会の特徴は土地所有制の形態にある」とする、いわゆる「内部構造派」の見解[旧講座派の流れを汲む]が現在の学界で支配的(predominant in the current scholarship of Japan)だと指摘している注25-1
 では「内部構造派」の論理的矛盾はなにか。「荘園の主な単位は名田」であり、「名田は小さな領主によって保有され」、「荘園の小さな農民によって管理され」ていた。名田を基礎とする「荘園の財産は寺社や宮廷貴族によって保有され」ていた。これはいわば「名田の所有」を「封建的土地所有とみる」見解にほかならない。だが、もしこれが正しいならば、「名田の所有者こそが封建領主」にならざるをえない。もしそうならば、「平安の貴族社会こそが封建社会である」ことになり、「鎌倉時代に先立って封建社会がすでに成立していた」ことになる。この結果、「律令制度下の貴族」はみずからの存立基盤を破壊して、「もう一つの封建社会を作った」という自己矛盾に陥ることになった。
 この矛盾を解くために、「内部構造派」はこう考える。律令制下の土地所有の本質とはなにか。律令国家は奴隷制の国家であるとみる見解が広く行われたことを前提として、「古代(奴隷制)から封建制への移行」の問題を論じようとした。すなわち律令国家は「荘園制度という媒介項を経て封建的土地所有制に移行した」と解する考え方である。石母田『中世的世界の形成』注17、藤間『日本荘園史』注18はいずれも「荘園制度は律令奴隷国家を継承したもの」であり、それゆえ「封建制である」とみなしていた注25-2。こうして「荘園制度、すなわち封建制とみる見解」が流行し、日本では「平安時代半ばから封建制である」とする主張が行われた。こうして藤間と石母田の仕事は、大部分の荘園研究者に対して、「日本の荘園とヨーロッパのマナーの共通点」なるものを確信させ、「荘園制こそがマナー制であり、封建制である」とみる倒錯した見解を広く受け入れさせるよう導いた注26。竹内は日本の当時の学界状況をこのように批判したあとで、朝河の見解を次のように紹介した。
 朝河博士の研究は「ほとんど日本的標準となっていた見解」に反対するものであった。「日本封建土地制度起源の拙稿について」、「中世日本の寺院領」、「日本の封建制度に就きて」などの論文で、朝河はヨーロッパのマナーは村落共同体であり、そこでは住民は「マナー領主の強い封建規制」を受けている。これに対して日本の荘園では「領主は弱く、住民は農奴のように扱われてはいない」と指摘した。朝河は荘園のいわゆる作人(さくにん)は「小作人というよりは土地の所有者」であり、「荘園自体はfief[知行]ではない」と強調した。日本の封建制においては地頭しき職と名主職がbeneficium[恩貸地]として武士にあたえられ、こうして「地頭が領主と農民の間に介入した」と論じた注27
 朝河のこれらの見解はなぜ受け入れられなかったのか。
 竹内はいう。「不幸にして、これらの発見が日本で長らく認められなかったのは、いささか曖昧な邦訳のため、そして日本の研究者側にヨーロッパの方法論の経験を欠如していたため」である。とはいえ一九三〇年代に清水三男[一九〇七~一九四七年]は『日本中世の村落』注28を書いて、荘園は領主のための経済的単位にすぎず村落共同体ではない、村落は荘園とは別に独自に存在していた、荘園は古代の所有制の特徴を残したものであり、中世の村落は武士による封建所有を単位としていた、と主張した事実を紹介している。その清水はその後日中戦争に出征して、戦後シベリアの捕虜収容所で死去した。この本はいま岩波文庫(33-470-1)に収められているが、遺憾ながら清水に大きな影響を与えたはずの朝河貫一についての記述はない。また校注者(大山喬平京都大学名誉教授および馬田綾子)もその影響についてなにも記述していない。校注者による「解説」が説明するように、清水は一九三八年に治安維持法違反で逮捕され、三九年以来思想犯として警察の保護観察処分下にあった。四二年に出版された『日本中世の村落』において、交戦中の敵国アメリカに在住する歴史学者朝河の名を引用しにくかったことは、容易に推測されるところであろう。文庫本「解説」における朝河無視の理由は不明だが、いずれにせよ清水の置かれた境遇に対する配慮を欠いたものというほかない。
 竹内は続ける。ヨーロッパのマナーが中世を特徴づけるのに対して、「日本の荘園は明らかに古代的性格を帯びた制度」であった。にもかかわらず、少なからざる研究者が今日でさえも[一九六五年当時]、荘園は封建的土地所有制に基づくと誤解しており、この誤解が日本史研究会史料研究部会編『中世社会の基本構造』注29の執筆者たちによって継承されている。本書(『基本構造』)は「荘園制が封建制に等しい」と直截に主張しているわけではないが、「封建領主制と封建的小農民はともに一〇世紀ごろに現れた」と主張している。一〇世紀は荘園制が急速に発展した時期であるから、これは荘園制が封建制に等しいと主張することに等しい。故清水三男が「荘園的土地所有と封建的土地所有は明確に異なる」が「共存していた」と分析した成果をまったく無視して、多くの研究者はいぜん破産した見解に固執している。「日本史研究会の本はこれを増幅したものにすぎない」注30と竹内は厳しく批判している。
 荘園制と封建制が異なるものであることは、「封建制は一九世紀初めまで続いた」が、「荘園制は一六世紀までには完全に消えた」ことを考えるだけでも明らかだ、と竹内は強調する注31。竹内は次いで荘園の組織単位とされる「名田を封建的土地所有制の基礎である」と見るのは、根拠がないことと批判する。封建的土地所有を支えた独立小農民による耕作は「名田の解体から生まれた」と見る見解は強くなったものの依然次のような謬論も消えない。それは「封建関係の確立は在家制度の拡大に依拠する」という見方だ。在家は人の住む「家の管理」を意味し、「夫役を家に課す」課税制度であり、ここでは「田畠は課税対象とはされていない」。「課税対象は麻織物、絹、木材」であり、これらは夫役から生産される。これは「律令制度下の調、庸、雑徭と同じ」だ。
 在家についてのこのような解釈は、牧健二、西岡虎之助、清水三男、竹内理三らによって行われた。しかしながら、石母田正『古代末期の政治過程および政治形態』注32および、永原慶二「日本における農奴制の形成過程」注33は、在家を封建制の発展の重要な要素として扱う。彼らは一九五〇年ごろ、「在家とは附属する田畠と屋敷を含む全体である」とする見解を表明し、屋敷の所有者は「田畠のような不動産とともに売り買いされた半奴隷である」と解釈し、さらに「封建制の確立は在家が独立した農民に発展することによって行われた」と主張した。永原慶二はその後、井ケ田良治「南九州における南北朝内乱の性格」注34および誉田慶恩「東北地方の在家に関する一考察」注35の分析を受けて前説を修正した。すなわち「在家とは律令制から奴隷制への発展の移行形態」を示すものであり、辺境の農業管理に限られる遅れた形態ではない、と。ただし、永原は在家が国司の支配から自由であり、特別な領主によって統治されていたことには言及しなかった注36
 要するに、石母田、永原らは、在家が「人力の管理制度である」という根本を忘れ、「人と土地を統一支配するもの」が封建制だとみる俗流の見解に束縛されていたために、「在家と名田の区別」ができなかった。これが竹内のコメントである。以上の行論において竹内はThe Documents of Irikiから具体的な引用はまったく行っていない。おそらく未読なのであろう。朝河自身は「在家」を「農民の屋敷」と説明し(第13号文書注25)、これに対応する「武士の屋敷」が「門」であると説明した(第104号注22)。とはいえ、武士と農民という二つの階級は「完全に区別されたものではない」し、それゆえ規模と重要性は異なるとしても、両者が峻別されたわけではないことに留意せよ、と指摘している。


注12.早稲田大学西岡虎之助による論文Development of the scientific method in the study of Japanese history(日本史研究における科学的方法の発展) (iii---v所収)。
注13.東京大学史料編纂所宝月奎吾教授による論文Advance in the study of old documents and their preservation in Japan(日本における古文書研究とその保存の前進) (vi----xii所収)。
注14.九州大学(当時)竹内理三による論文History and present state of the study of the shoen in Japan(日本における荘園研究史と現状) (xiii----xix所収)。
注15.朝河貫一著、朝河貫一著書刊行委員会編、日本学術振興会刊、1965年3月。英文タイトルは、Land and Society in Medieval Japanである。
注16.E. O. Reishauer, Japan, in Coulborn ; Feudalism in History, pp. 36-37.
注17.石母田正『中世的世界の形成』伊藤書店、1946年
注18.藤間生大『日本荘園史』近藤書店、1947年
注19.『史淵』第六五号、のち竹内理三著作集第7巻『荘園史研究』一九九八年所収、482ページ。
注20.「荘園制と封建制----日本の場合」『史学雑誌』六三篇一二号、一九五三年。のち『荘園史研究』482ページ。
注21.『荘園史研究』446-447ページ。
注22.『荘園史研究』447-448ページ。
注23.注15に同じ。
注24.『法学協会雑誌』第24巻第2号、1906年。
注25-1.竹内論文『荘園研究』27ページ。
注25-2.竹内論文『荘園研究』28ページ。
注26.竹内論文『荘園研究』29ページ。
注27.竹内論文『荘園研究』29ページ。
注28.清水三男『日本中世の村落』日本評論社、1942年。岩波文庫版、1996年。
注29.『中世社会の基本構造』お茶の水書房、1958年。
注30.竹内論文『荘園研究』30ページ。
注31.竹内論文『荘園研究』30ページ。
注32.石母田正『古代末期の政治過程および政治形態』日本評論社、1950年。
注33.永原慶二「日本における農奴制の形成過程」『歴史学研究』第140号
注34.井ケ田良治「南九州における南北朝内乱の性格」『日本史研究』17号、1951年。
注35.誉田慶恩「東北地方の在家に関する一考察」『歴史』第7号、1954年。
注36.永原「在家の歴史的性格とその進化について」『日本封建制成立の研究』所収、吉川弘文館、1955年。

写真:後醍醐天皇綸旨(宿紙)
●後醍醐天皇綸旨(宿紙)
渋谷新平二入道定円当知行地、不可有相違者、
天気如此、悉之以状、元弘三年十一月九日  式部大丞(花押)
 
写真:入来院文書(巻物)
●入来院文書は巻物の形で保存されている
(現在は東大史料編纂所に保管)。


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