逆耳順耳(電子版第11回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第11号 2006.3.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


甦るthe Documents of Iriki (入来文書) (その5)
   
Ⅴ.朝河史学の継承のために

 マルク・ブロックと朝河の交流
 朝河貫一は完成したThe Documents of Irikiをフランスの経済史家マルク・ブロックに送っている。一九二九年五月七日付ブロック宛の手紙は、その送り状だ。これに対してブロックからは一九二九年一二月五日付で返信し、これに対して朝河は一九三〇年一月八日付書簡を書いている。

画像「薩摩国14郡絵図」
薩摩国14郡絵図
 
画像「庄政所執行命令 1217年(建保5年9月)」
庄政所執行命令 1217年(建保5年9月)
 
画像「歴史の講演を聞く会」案内


 朝河は一九三〇年一一月二〇日付でブロックに宛てているが、これは入来文書を読了したというブロックの手紙への礼状である。「何よりもまず、入来文書をあなたがお読み下さったことに対して心から感謝いたします。ご多忙中にもかかわらず、このたいそう退屈な本を読み通してくださり、あなたの主宰する『年報』にみずから紹介を書いてくださることに対してお礼の言葉もございません。貴信のなかの本書についての賛辞は、小生を大いに喜ばせるものであります。今までに出た本書の紹介のうち、オットー・ヒンツェの『歴史学雑誌』(一九三〇年第二号)の紹介とアバンドゥによる『イタリア法制史評論』(一九三〇年一月)の紹介とが、他のどの紹介よりもより細心のものといえます。貴下ご自身による本書の紹介を『年報』誌上で一日も早く拝読できますことを楽しみにしております」。
 朝河がブロックに宛てた最後の手紙は一九三四年一二月一〇日付のもので、ブロックの企画したシリーズへの日本農業についての一冊を執筆する依頼を時間的余裕がないとの理由で丁寧に断ったものである。マルク・ブロックは名著『封建社会』(La Société Féodale)の「文献案内」のなかに、朝河の「起源」、「初期庄」およびThe Documents of Irikiの三点を挙げている。

 ジョン・W・ホールの評価
 ジョン・W・ホール(一九一六~一九九七年)の朝河論は『荘園研究』に寄せた「比較史家としての朝河貫一」[John W. Hall, Kan-ichi Asakawa: Comparative Historian]が最も優れている。しかしここでは朝河論が課題ではないので、他の論文から具体的な朝河引用を調べることにするが、ライシャワーおよびサンソムの日本封建制論がいずれも、その基礎的構成要素(basic ingredient)において朝河のshoenやshiki systemについての観念に基づいているのだという指摘だけには特に言及しておきたい。
 さてホールはFeudalism in Japan: a Reassessment で朝河貫一の業績を次のように論じている(この論文の翻訳は武田清子編『比較近代化論』および宮本又次監訳『徳川社会と近代化』の両者に収められている。ここではミネルヴァ版から引用する)。
 ホールはまず朝河「諸相」を典拠としてこう述べる。「マルクス主義者のサークル以外で、西洋において、日本の封建制の概念の使用に学問的な評価をあたえたのは、朝河貫一であった。朝河は、ヨーロッパと日本の両制度にかんする第一次史料を駆使して、ヨーロッパと日本の封建制の比較考察をおこない、首尾一貫した体系的な方法を展開することに成功した。朝河の「日本封建制度の諸相」という論文は、この問題の標準的な解釈としてながいあいだ意義をもっていた」。
 続けて「ごく最近にいたってはじめて、フランスの学者であるジョアン・デ・ロングレが主として法制史学派の学問的業績を基礎にして、朝河の研究を補足している」として、Jouön des Longrais, L’Est et L’Quest, Tokyo, Paris, 1958.に言及している。
 「最後にわれわれは、ヨーロッパと日本の諸制度を比較研究するための手段として設定された、これまでのものに比べれて、より具体的な定義にもどることにしよう。それは、朝河貫一の注目すべき定義である。
 封建社会においては、(1)支配階級はいくつかの武士の集団によって構成されており、そのおのおのの集団は、相互に奉仕の提供をおこなう徹底した人的紐帯の環によって結ばれている----この紐帯は、きわめて個人的なものであるので、究極的には、それぞれの環は二人の武士の間、すなわち領主と家臣との間の関係として表現される。また、きわめて人格的結合が強いので、一方が他方にたいしてその死にいたるまで忠誠を誓うということになる。家臣の奉公は、一般的には土地の授与による反対給付をうけるが、この場合、この土地は二次的要素としてのみ、この関係に入るのであって、第一義的な発動力となるものは、領主と家臣の間にとりむすばれる個人的な軍事契約である。
 (2)しかしながら、他の階級に属する人たちも存在するのであり、すべての階級の分化は武士階級もふくめて、私的な土地保有と一致する。この特定の社会における私的な土地保有は、絶対的な所有権を認めるものではなく(ただし、絶対的な最高君主がいる場合においては、その君主は例外とする)、たんに一連の相対的な保有にすぎない。
 (3)社会全体の一般的な政治のあり方からみれば、これらの私的土地保有を媒介として、公的な権利の行使と義務の履行がおこなわれる。同時に土地の上級所有権は私的に軍事力をたくわえたものの手中に帰する。したがって、この私的な武士は「国家」の公的な機能のすべてを自己のものとする。----いいかえれば支配階級は、軍事力と土地の支配を確保しているがゆえに、公的権利の私的な簒奪と私的な機関の公的な利用という、きわめて特異な状況をもたらした。すなわち、行政、財政、軍事および司法の諸方面において、公的なものと私的なものの混淆と癒着がみられる」。
 この一節をホールは朝河「諸相」(七八~七九ページ)から引いて、次のようにコメントしている。「朝河の定義は、ウェーバーやストレイヤーの定義に近い。領主と家臣を結びつけている紐帯と、私的な身分を公的な権威に結びつけている知行の二つを重視している。また明確にはのべていないが、農奴制制度成立の諸条件についてもある程度説明をおこなっている。この朝河の定義の最大の欠点は、おそらく支配階級による権威の行使が、公的権利の「簒奪」であると前提したところにあると思われる。
 「朝河もデ・ロングレも、オマージュの慣行と日本のげんざん見参(げんざん)の慣行、恭順の誓約を宣誓するのと、誓紙を読み上げる慣行、フィーフと知行地の、それぞれの間に顕著な類似が存在することを認めている。これらの慣行は、同質性のわれわれの検証を満足させるだけの類似性を、個々の部分においても、またそれらの相互の関係においても、十分にもっているように思われる。しかしなお、日本とヨーロッパの慣行の間には多くの明確な相違点も存在するのである」。
 「階級間の相対的な閉鎖性は、前近代日本の大部分の歴史過程を通じて存在する共通現象であった。専門的な武力をになう特権的階級の独立も、武家時代に特徴的なものであった。とくに「社会的身分の階層が知行の階層に対応する」ような状況が一般的となるのは、日本においては一六世紀においてであった」。
 ここでホールはThe Documents of Iriki序説(29ページ)の一句を引用している。
 「ヨーロッパに典型的な農奴制と、荘園制の厳密な形態が、日本にあらわれなかったことは認めねばならない。朝河もデ・ロングレも、農民の負担の質的な相違を指摘するのに慎重であった。日本においては、そのような負担は、保有地の生産物に対する割合で支払われるか、あるいは耕作者の所有地から計算された評価額にもとづいて支払われた。領主の直営地での労働、あるいは賦役労働のような特殊な労働負担の規定は、存在しないことはなかったが、まれであった。朝河はこの事実を、日本における稲作農業の集約的形態と、西洋における粗放的な畑作農業の相違という観点から説明している。日本の荘園とヨーロッパのマナーの相違は、朝河によってかなり詳細に論じられている。しかしマナー制度の特殊な細かい点をとり入れるために、われわれの封建制の定義を修正しようとするのでないならば、右で述べたような相違は、封建制モデルを日本へ適用することになんら支障はないはずである」。
 ホールはここで「初期荘」から引用している。
 「鎌倉期に日本がどの程度封建的であったと考えられるかということは、主として守護地頭制度の権威が、どの程度日本全土に浸透していたと考えるかにかかっている。最近に至るまで、朝河や日本の法制史研究者たちは、将軍によって行使された権限を過大評価する傾向があった。これは鎌倉期の諸制度の研究が、これまで主としてその史料を幕府記録からとっていたことの当然の結果である。ごく最近の研究は、幕府のより妥当な位置づけをおこなっている」。
 ここでホールは金井圓「鎌倉時代備前国衙領について」(『日本歴史』150号、1960年10月)に依拠して、朝河を論評している。
 「鎌倉時代を通じて、現実に封建的慣行が存在したかのように考えることは禁物であるが、同時に時代がすすむにつれて、政治と社会の分野における封建的関係の発展が、着実に律令—荘園体制をほりくずしていったこともまたあきらかである。朝河が土地所有制度における荘園から知行への移行という形で説明しているのは、まさにこの浸食の過程である。しかし、この過程は、朝河の研究で示されているよりは、もっと複雑で、同時にゆっくりとした変化であって、政治社会の両分野において、いろいろな角度からあとづけてみなければならないものである」。
 ホールはここで「寺院領」を典拠として論述している。
 「この時期[一六世紀]には、法的な管轄領域と実際の支配地域との間のずれは、ほとんど消滅していた。荘園的土地所有における各層に分割された複雑な職の体系は、統一的な知行に道をゆずった。大名は自己の戦闘能力に応じて領地を維持し、自由にその領地を処分することができた。また大名は、知行を与え、領地を保証してやった領主として、家臣に絶対的な権力をふるった。大名領国内では、「武士はすべてその大名の家臣か、陪臣であった」のである。
 ホールはここでThe Documents of Iriki序説(29ページ)から引用している。
 「一五三〇年代から一五九〇年にかけて、日本をまきこんだ大戦乱は、新しい全国制覇の形成をもたらしたが、かえって日本の社会の各分野から最も典型的な封建的慣行を消滅させるような条件を生み出していったのである。皮肉にも、日本が最初にいわゆる「封建領主」の完全な支配下に入った時、かれら領主そのものが、すでに彼らの支配形態における最も重要な封建的側面をかなぐりすてていたのである」。
 ホールはここでThe Documents of Iriki(原書サマリーの章44ページ)を典拠に述べている。
 「歴史家の多くは、徳川期の日本を封建的として完全に特徴づけてしまうことの危険性を認識している。多くの論者は、徳川時代を「後期封建制」「集権的封建制」「封建的統一国家」という術語で規定することによって、その評価をやわらげようとした。朝河も、徳川体制は「全体としてみても、あるいは部分的にみても、また武士階級においても、農民の側においても、もはや純粋に封建的とはいえない」と注意深く指摘している。残念ながら朝河は、この見解を、徳川治下の農民の研究を除いては、十分に敷衍することをしなかった。朝河以来、西洋の研究者は、いわゆる封建制再編成説、すなわち徳川の支配者たちが封建制から急速に遠ざかりつつあった日本を受継ぎ、それを以前よりももっと厳格な封建的状態にひきもどしたという説に、同意を示すものがだんだん多くなってきた」。
 ホールは「諸相」(101ページ)に基づいてこう論述している。
 「徳川社会の他の分野においても、権威は個人的な権利としてよりは、むしろ制度的なあるいは法的な通じて行使されていた。武士階級の権威は、封建体制のもとでは、知行地や農民に対して私的に行使される大権として認められていたが、これも非個人的な公的な行政体系に道をゆずった。農民階級に関していえば、人格的に緊縛された状態からしだいに大名に年貢を支払う小作人的身分へと移行していった。地方行政は大名の官僚機構に吸収され、もはや大名の家臣に再分割されなくなった。賦役や下人労働は、有償の労働や有給の家内奉公にしだいにとってかわられた」。
 ジョン・W・ホール、ジェフリー・P・マス編Medieval Japan: Essays in Institutional History, Stanford University press, 1974.は、元々朝河貫一を記念して編集された論文集である。ホール論文「歴史的背景としての京都」は、朝河の「寺院領」を一箇所引用している。エリザベス佐藤の「初期荘園の発展」は、朝河『荘園研究』から桑原庄を二箇所、そして「初期庄」を引用している。

 オーシロ・ジョージによる文献調査
 オーシロ(桜美林大学教授)は「朝河貫一と英語による日本の封建制度の研究」において、次のように朝河の影響を記している。
 「サンソムが一九三一年に出したA Short Cultural History of Japanには朝河の渋谷と嶋津の荘園についての記述が引用されている」。朝河とサンソムは一九三六年にも、その後にも手紙のやりとりをして、朝河は「サンソムを教科書に使っているとも書いている」。「(ただし) サンソムの大著A History of Japanのどこを探しても朝河についての記述がなく、索引や参考文献のリストにさえも含まれていない」。「朝河は一九四八年に亡くなったが、彼が開拓した研究分野は日本でも外国でもその後の一〇年間でめざましい発展を遂げた」。「それゆえ、もはや朝河を引用する必要がなくなったというのがその理由であろうと思われる」。「(ホールの指摘するように)ライシャワーは、近代日本の封建制の重要性を強調する朝河の解釈を踏襲している」。「(しかし)彼の自伝の中に朝河は登場しない」。「入江昭が矢吹晋宛の書簡の中で、自分は、一九五〇年代のハーヴァード大学の大学院で、仲間達が、朝河の『入来文書』は日本中世史のすべての研究の出発点であること、ライシャワーも円仁の研究では『入来文書』を大いに参考にしたと話していたのを覚えていると述べている。」
  この入江昭書簡は「朝河貫一と日米関係」と題して『甦る朝河貫一』に収められている。
 オーシロは次いで、ジェフリー・マスの朝河評価に言及するが、その前に、オーシロの次のコメントだけはここで記しておきたい。「(朝河は学問上の後継者を一人も育てなかったとホールやマスが指摘しているが、その原因は朝河が優れた教師ではなかったからではなく)、日本史の研究に夢中で取り組もうとする学生がいなかったのが実情であろう」。「朝河の時代のアメリカの歴史的環境こそが、彼の学問の後継者が欠如した理由である」。
  これはハワイで生まれ、アメリカで教育を受けたオーシロらしい注意深い観察というべきである。

 ジェフリー・P・マスの評価
 ライシャワー世代を初代、ジョン・ホール世代を第二代とすれば、スタンフォード大学教授ジェフリー・マスは第三世代の日本研究者に属する。マスの論文集Antiquity and Anachronism in Japanese History には刺激的な朝河批判がみられ、興味津々である。巻頭論文The Scholarship of John Whitney Hall は、引退する師を贈る弟子の業績評価だが、いかにもアメリカ人らしい率直さで語られる。曰く
 「朝河は橋を架けるよりは障害を設けた。朝河はその著作でシキ制度について大いに語ったが、二つの絶対に重要な箇所で間違えた。第一は、シキが社会階層を決定していること、いいかえれば所有者、管理者、耕作者がそれぞれ他人のタイトルを保有できなかったことを見きわめなかったことだ。第二は、シキが「無限に分割可能だ」と定式化したことだ。あまりにも魅惑的な観念なので、ホールも含めて誰もがこれを繰り返した。
 どこが間違いなのか。きわめて重大なのは、朝河が平安時代を通じて武士が上位の貴族に対抗して荘園を集積し始めたとする印象を与え、サンソム、ライシャワー、ホールなどがこれに追随したことである。ここに時代に固有の階級衝突があり、両者は同じものを切望した。しかし、キリーが主張したように、二つの階級は異なるレベルのシキを要求し、それは利害の衝突よりは混合を意味した。すなわち、私の主張のように、すべての荘園は中央によって所有されており、武士にとってはできることよりもできないことがより重要であったのだ。シキの制約を逃れることができないために、武士は先立って権力を握ることに失敗したのであった。シキの分割可能性についての第二の点は、いくらか技術的なものだが、この問題とかかわっている。この観念を主張することによって朝河は単一の土地から派生する多数のシキという観念に焦点を当てた。彼は個々のタイトル自体が分割できると言ったのではない。より正確にいえば、土地は分割でき売却できるが、シキは分割できず、移転できないものであった。一三世紀になってようやくシキが流通し始めた。

 堀米庸三の朝河評価
 堀米庸三(一九一三~一九七五)はかつて、こう指摘したことがある。
 「(朝河貫一)氏は強い学問家気質の実証史家として、一般論にはきわめて慎重である。マルクスに対しては拒否的だったし、ヴェーバーさえときに概念規定などでその名をあげているくらいである」「マルクスとヴェーバーが氏の問題意識に入っていなかったことが、日本史家とのふれあいを生じさせなかったこと、したがって朝河氏の業績が十分に理解されなかったことの、決定的な理由だったのではなかろうか」。
 朝河の封建制度概念は(1)主従間の忠誠関係(封建関係の人的側面)と、(2)土地を主体とする知行の授受関係(封建関係の物的側面)のうち、(1)を第一義的なものとみる。ライシャワーは(2)に力点を置いている。
 朝河もライシャワーも、(1)先行する統一国家ないし集権的統治組織の崩壊、(2)氏族制ないし部族制の内部に育まれた人的忠誠関係の結合を封建制度発生の必須条件と見る点で一致している。この観点の源流はオットー・ヒンツェ『封建制の本質と普及』(一九二九年)である。日本封建制の起源について、ライシャワーは「職の保有関係の変化」を重視したが、これは朝河がとくに重んじた点である。朝河は職(しき)をもってまだ「真の知行ではない」とし、「真の知行への転換」を一五~一六世紀の末年に求めた。これはライシャワーが室町時代の後期に日本封建制の確立をみたことと符合する。
 朝河によれば、荘園は京都の貴族や社寺などにとっては、経済的基礎であったが、地方に成長しつつある封建武士にとっては権力的基礎ではなかった。この点で荘園は実質的にも機能的にもマナーと異なる。ライシャワーの日本封建制論は、職の理論、マナーと荘園の異同論などほとんどすべてにおいて「朝河の封建制度論の基本的特徴を継承したもの」である。
 朝河の理解するマナーは、古典マナーとよばれる「一村一領主制的構造のもの」だが、このマナーが封建制度の主たる基礎であったかどうか。今日ではむしろ否定的見解に傾く研究者が多い。類似の事柄は日本中世史の研究についてもいえる。それゆえ、朝河の研究は「現代性においていささか欠けるところがある」のは、率直に容認すべきだが、それは朝河の「業績が過去のものになった」ことを意味するものではない。「史料的基礎に確実無比の足場をもつ朝河氏の研究」は、依然としてわれわれの「論議の出発点であり基礎たりうる」。
 The Documents of Irikiは「辺境薩摩のもの」であるとしても、The Land and Society in Medieval Japan(『荘園研究』)には、「越前や畿内の史料」の研究が主要部分をなしている。朝河の研究は「そのもっとも基本的部分で生きている。氏が理論家でなかったことが、かえって氏の「研究の生命を永続させる結果になった」。これが堀米の評価であった。堀米がこの論文を書いたのは、朝河The Land and Society in Medieval Japan(『荘園研究』)が出版された直後である。
 マルク・ブロックとオットー・ヒンツェ、そしてライシャワー、ジョン・ホール、ジェフリー・マス、さらに日本の中世史家竹内理三と西洋中世史家堀米庸三によって、朝河史学の位置づけはほぼ確定したとみてよい。
 にもかかわらず、小稿の冒頭で指摘したように、朝河史学は依然黙殺されたままである。

 結び----朝河史学はなぜ歴史の闇に埋もれたのか
 朝河のライフワークがなぜ歴史の闇に埋もれたのか。その原因を整理しておきたい。
 第一は、識者が指摘しているように、英語で書かれたからである。しかし英語で書かれた新渡戸稲造の『武士道』や岡倉天心の『茶の本』が版を重ねていることからすると、英語自体に罪があるわけではあるまい。つまり英語で書かれた厚い本、読みにくい本であること、これが敬遠された第一の条件であろう。朝河自身がブロックへの手紙で「たいそう退屈な本」と評し、ブロックもまた「文体の意図的な冷静さや活字の小さな印刷方式と相まって、しばしば読者に読了することの困難さを覚えさせる」と書いている通りである。
 第二に、朝河は解説書、通説のような一般向けの本を書かなかった。みずからの研究活動にすべての精力を費やして「精進」すること(朝河貫一遺詠参照)を心がけた結果である。私は彼の禁欲主義に敬意を払うが、他方で彼に若干の不満を感じないわけにはいかない。朝河はみずからの学問的成果を分かりやすく書く努力も多少は払うべきであった(むろんこれは事後の印象である。朝河自身は、ここまで徹底してみずからの学問的成果が黙殺されようとは予想だにしなかったに違いない)。
 第三に、朝河の封建制論を最初に理解した清水三男の早逝が惜しまれる。荘園を安易にマナーと対比した法制史家中田薫の思いつきは、おそらく本人の思惑を越えて広まりつづけた。一連の一五年戦争のイデオロギーとして皇国史観が強制され、これが反作用して、古代的荘園を封建的マナーと混同する時代錯誤の歴史観に対して「一見正しいような仮相」を与えたのであろう。これに警告した朝河の慧眼を的確に受け止めた清水はこの示唆を容れて『日本中世の村落』を書いたが、まもなくて戦地に追いやられ、生きて帰ることはなかった。日米戦争の最中に出たこの本に、在米の自由主義学者朝河の名を記すことは、もとより不可能であった。清水は治安維持法の被告であった。しかし、戦後清水を評価した者たちが(竹内のような同年生まれの例外は別として)、清水が明記したくとも書けなかった真実を行間から読み取ることはなかった。古典として岩波文庫に収められたのは一九九五年のことだが、校注者大山喬平は無知か、故意か、この問題に触れなかった。
 第四に、朝河の業績を同じ中世史の専門家として十分に評価した竹内理三の二つの論文(復刻版解説および荘園研究解説)もまた英語で書かれた。これに先立って日本語で発表された竹内論文では朝河の名が典拠とされていなかった。竹内は(清水と事情は異なるが)、一九六五年になってようやく本格的な朝河封建論を書いたのであった。とはいえ、ここでもThe Documents of Iriki からの引用はない。
 第五に、竹内の本格的な朝河封建論が発表されたのは、まさにハーバード大学の歴史学教授ライシャワーが駐日大使を務めていた時期に重なる。ライシャワーの日本封建制論が朝河の学問に多くを負っていることは、ホールや堀米の分析した通りだが、当時の日本では「ケネディ・ライシャワー路線」なる色眼鏡でライシャワーを見る向きが特に学界では、主流であった。このようなムードのなかで、ライシャワーの評価する朝河の学問、そして竹内が英語で書いた解説が正当に評価されることはなかった。こうして、朝河の著作は、その祖国で三度黙殺された。すなわち一九二九年の出版当時、一九五五年の復刻版当時に続いて一九六五年の『荘園研究』出版時である。

 以上に列挙した事実は、個々の現象にすぎないかもしれない。朝河史学が日本の歴史家によって、いな日本国民によって受け入れられなかったことには、もっと深い理由がありそうだ。それは朝河史学の描く日本封建社会があまりにも積極的、先進的な明るいイメージであったことによるのではないか。この特徴を最もよく表しているのは朝河の明治維新論である。朝河が一九〇七年にクラーク大学で講演した記録を整理した論文「近代日本が封建日本に負うもの」の一節を引用しよう。この論文では徳川時代が明治維新の成功のすべてを用意したことを次のように描いている。

 朝河の明治維新論
 朝河曰く「将軍徳川慶喜がついに目覚めたのは、一八六七年のことであり、その事実は自由に思考する者にとっては十五年前[ペリー来航]から明らかなことであった。すなわちもし日本が独立国家たらんとするならば、封建制よりももっと集中した政府を作るべきことである。かくして明治維新として知られる徳川政権の自発的な大政奉還は、衆知のように一八六七〜六八年に行われた。徳川期に維持された社会的道徳的制度がなかったとしたら、この革命がかくも成功裏に達成することはありえなかったはずである」。「武士階級は日和見主義を習慣的に軽蔑し、自制と忠誠の理想をもって国家統一の新しい運動における指導権を幸いにも引き受けた。何世代にもわたってその生命よりも個人的な名誉を高く評価するよう教育されてきた武士階級は、ただ勇気だけをもって障害と危険にもかかわらず、新しい目標に直進することができた。他方、何世紀ものあいだ穏健に訓練された農民階級は、新しい指導者に導かれて、新しい支配者を支えるために必要な種類の人々を形成した」。「したがって封建日本から近代日本への過渡期は、国民の福利という先進的考えに目覚めた武士階級に巨大な覚醒をもたらしたが、農民の静かな心にはほとんど衝撃を与えなかった。武士は、より保守的な武士に鋭い衝突を体験させ、それぞれの側に刺激的な英雄的忠誠的行為の記録を残した。農民は旧時代から新時代にかけて、ほとんど一滴の血液さえ流さなかった」。「封建時代が独特の社会的道徳的制度を準備しなかったならば、日本の運命はどんなに異なっていたであろうか。武士がもし個人主義的実用主義的であったならば、既存の秩序が根本的に変化した近代的条件のもとで、国家が独立を保持できたかどうか疑わしい。革命以後の日本を特徴づけるような政体として団結し、調整され、目的をもって前進することはほとんど不可能であったはずだ。同様に、農民が批判的であり、個人的に自己主張したならば、国家を転覆させるかに見えたほどの内外の危機を克服して、今日のように存在することはきわめて困難であったはずだ。国家の存在自体をあやうくする内部の反対が起こったに違いない」。

 内外整合的な各国史を
 朝河の描く日本の封建時代とは、このような偉大な遺産を残した時代なのであった。明治維新からおよそ六〇年後に出版されたThe Documents of Irikiが戦中から戦後の時代においても、「天皇制ファシズム」を支える「半封建的土地所有制」といった類の感情でとらえ、その証拠を歴史に発見しようと努めていた大方の日本知識人の心に届かなかったことの意味を改めて考えてみたい。
 永原慶二があえて入来町に調査に赴きながら、朝河を黙殺する結果となったのは、彼の時代感覚と朝河の結論との間には、目もくらむような、天と地ほどのギャップがあると感じられたからではあるまいか。むろん永原と同時代の歴史家でも、たとえば竹内理三のようにドグマ史観から自由な歴史家は朝河史学を別な目で見ていた例外もないではないが、日本の知的風土ではまさに永原の側が歓迎された事実が重要であろう。こうして朝河史学は敬遠された。これはみずからの歴史学が理解されなかった朝河の悲劇であるばかりではなく、正しい歴史理解を共有できなかった日本国民の悲劇にほかならない。
 ロンドン大学の森嶋通夫(1923~2004)は晩年に、「これからの各国史は国内から見たものと外から見たものとが整合的であるようなものでなければならない」と強調した(『日本にできることは何か―東アジア共同体を提案する』岩波書店、2001年10月)。この言葉は、元来は入江昭(ハーバード大学、歴史学)のものだが、森嶋はこの原点から「東アジア共同体を構想せよ」と主張した。入江や森嶋の説く、「内外の整合性をもった歴史記述」という問題提起は、まさに「諸国民の相互理解のための国民性の研究」を提起した朝河の主張と共鳴するものであろう。日欧の封建制の比較研究によって、それぞれの国民性の比較研究へ歩を進めようとしていた朝河を敬遠することによって、われわれが失ったものは大きいのである。
 ただし、ここで誤解を避けるために一言しておく。朝河の発見した『入来文書』(和文)自体はその後、読み続けられてきた。入来院の祖、渋谷五郎定心は頼朝の御家人重国の孫である。定心らは、宝治の合戦の功績を評価され、北条時頼(左近将監、相模守)によって一二四七年に地頭職を与えられた。南九州の封建時代は実質的にはここから始まるといって過言ではない。入来文書を無視して、南九州の中世史を語れないのは火を見るようも明らかだ。問題はその読み方である。朝河貫一はこれをヨーロッパ封建制との比較史の文脈で読んだが、この「日欧比較の視点」がこれまで敬遠されてきたのだ。
 二〇世紀前半の二つの大戦と後半の冷戦が終わり、二一世紀を迎えたいま、朝河史学はようやく甦る契機を得た。グローバル時代の今日ほど「諸国民の相互理解のための各国史」の必要な時代はなかった。古典的な名著がいま出版以来七六年ぶりに初めて邦訳されるのは、偶然ではないかもしれない。The Documents of Iriki, 1929は、まことに数奇な著作である。これはわが国の西洋史を含めて史学界全体の歪みを映す小さな鑑であるといってよいのではないか。





先頭へ戻る