逆耳順耳(電子版第12回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第13号 2006.7.19   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


朝説史学の教えるもの---その1
   
日本封建社会に農奴は存在したか

 朝河貫一の『大化改新』を読み、『入来文書』を読んでくると、文字通り、目から鱗が落ちるように、日本史の真実が見えてくる。一般に説かれている日本史解釈への疑問が深ければ、深いほど、実に鮮やかな解答を用意してくれるように思われる。私自身は、いつも書いているようにド素人であり、たまたま顕彰協会の発起キャンペーンという必要に迫られて翻訳したのであり、その内容に鑑みてまじめに取り組んだわけではない。その点で忸怩たるものがあるが、そのような素人の目から見ても、朝説史学の描く日本中世史は戦後の通説に先だって、これを根本的に批判する内容を含んでいる。最も分かりやすい例として、いま店頭で売られている日本史辞典の「農奴制」の項目をめくってみよう。いずれもヨーロッパの封建制を支えたものとして「農奴」の役割を解説し、このヨーロッパ史を基礎として構築された唯物史観の説明を行う。そのうえで日本中世史の説明に及ぶと、シドロモドロの説明になる。
 


A『新編日本史辞典』1990年6月、東京創元社
 この辞典の編集者は「京大日本史辞典編纂委員会」である。京大日本史グループの教授たちの手になる辞書は「農奴制」のうち、日本について、次のように説明している。
1.日本では11世紀中ごろ以降、本格的な姿を現し始める中世の開発領主(武士団)のもとで、最も典型的な形をとって現れたとするのが一般的な解釈である。
2.江戸時代になってから、初めて農奴制が一般化するとみる考えも有力である。
3.中世武士団のもとの農民たちにしても、通例は百姓・平民などと呼ばれ、
4.身分的には領主の直接的な人格支配の外部におかれており、典型的な農奴身分とはみなしがたい側面も有することも否定しがたい(808ページ)。
この項を執筆したのは大山喬平教授である。

B『日本史広辞典』1997年9月 山川出版社
 この辞典の編集者は東大日本史グループである。編纂委員会の名があるだけで、項目についての執筆者名はない。編纂委員会の委員氏名は五十音順なので、石井進教授の名が先頭にある。
1.日本では11世紀の武士団の形成過程が同時に農奴制の形成過程ととらえられてきたが、安良城盛昭はこれを批判し、太閤検地によって農奴たる単婚小家族農民が成立するとし、それ以前は家父長制的奴隷制が支配的な社会だとした。
2.これは学界に多大な影響を与え、論争を引き起こすとともに多彩な時代区分論が登場した。
3.おおむね中世史家は安良城説を否定し、近世史家は安良城説を承認したが、
4.農奴制の成立を荘園制の成立に求める説や中世社会を国家的奴隷制とする論者もあって、いまだ確たる結論はない(1711-12ページ)。

C『角川日本史辞典新版』1997年9月、角川書店。
1.農奴は封建地代の形で領主によって剰余労働を搾取されるが、奴隷とは違って経営的に自立しており、他方経済外強制によって身分的非自由状態におかれた点で、賃労働者とも異なる。
2.日本については平安中期の庄園農民、太閤検地期の近世大名領下農民など、多様な時期について農奴制を認める見解があり、対立している」(837ページ)。

D『岩波日本史辞典』1999年10月、岩波書店。
 これは永原慶二監修とあるので、東大グループの著作であることがわかる。
1.日本の中世、近世では各級の封建領主が個々に農奴制的支配を行うというより、
2.百姓身分は公的、国家的に封建支配を受ける形をとっていたので、
ヨーロッパ的農奴制概念をそのまま日本史に適用することには困難が多い。
3今日では日本でいつ農奴制が成立したか、あるいは奴隷から農奴への進化の道筋はどうかといった問題提起より、
4.農奴制がなぜ「百姓」身分の編成とその支配という展開をとったかという特質に目が向けられている(922ページ)。

E『日本史小辞典』2001年5月、山川出版社。
1.農奴とは領主の隷属下にあった農民で領主に対して封建地代を納付し、農奴制は封建制の経済構造の本質的な構成要素である。奴隷とは異なり経済的に自立しているが、身分的に非自由民であるところが賃金労働者と違う。
2.九世紀ヨーロッパの古典庄園制における農民から抽出された概念だが、マルクスらによって封建的生産様式の下部構造をなす普遍的概念となった。
3.日本では一一世紀の武士団の形成過程が農奴制の形成過程ととらえられてきたが、農奴制の成立を庄園制に求める学説や中世社会を国家的奴隷制とする論者もあって、いまだ確たる結論はない」(781ページ)。
 

 
朝河史学による解答

 「日本の小作人の地位は、所有者との借地条件は不明だが、どうやら借り受けたようだ。小作人は土地や領地に緊縛されたのではなく、強制労働であったわけでもない。ローマやフランク王国の奴隷servis、コロンcolon[小作農夫]、自由民に相当するものではなかった。日本には労働を強要する領主[直営]農場はなく、小作人の生活の大部分が管理されていたのでもない。日本の土地制度はヨーロッパの意味での農奴は生み出さなかった」。
 「こうして日本の主な特徴は、武士と農民の差が小さなこと、土地保有条件の流動性、土地所有階級と小作人階級のゆるやかな形成、そして農奴の欠如であった」(邦訳『入来文書』、577ページ、原文73ページ)。

 朝河の論理は明晰だ。
 ローマやフランク王国の奴隷と日本の小作人(下人、所従など)とは、異なる。日本では武士と農民の階級差が小さく、「農奴は存在しなかった」という結論である。
 戦後の歴史学界は、日本にはそもそも存在しない「農奴の幻影」を探すために、四苦八苦して、平安庄園に農奴の実像を探り、太閤検地期の農民を「農奴扱い」した。
 実にばかばかしい徒労ではないか。朝河が1929年段階ですでに実証を踏まえて、「農奴の存在を否定していた」にもかかわらず、21世紀初頭の日本史学界は依然痴呆ぶりをさらけだして、「見解が対立している」「いまだ確たる結論はない」などと奇怪な学説を平気で記述している。

日本の庄はヨーロッパのマナーと、どこがどのように違うのか
 朝河貫一が特に強調したのは、日本の庄園とヨーロッパのマナーを安易に比較する俗説であった。この俗説は、東大法制史学講座の二代目教授中田薫(1877-1967)に始まる。中田は大学院学生の時代に「庄園の研究」に取組み、これを評価した辻善之助は権威のある『国家学会雑誌』で1年間にわたる連載を認めた。この雑誌論文はその後単行本『庄園の研究』となった。原史料を用いて庄園を分析した中田の論文は、4歳年長の朝河も引用して「日本における封建的土地所有の起源」を論じている。中田はヨーロッパのマナーと庄園の類似性を少し触れただけであり、本格的な比較分析を試みたものではない。にもかかわらず、中田が気楽に言及した一句が戦前、戦後を通じて、日本歴史家の思い込みの原点になり、その害毒は今日に及んでいる。
 朝河は「比較封建制」の研究を主題に選んでおり、当初から、庄園とマナーの徹底的比較は最も重要な研究テーマであった。そこから彼は、きわめて重要な分析結果を導いたが、その貴重な結論がこれまで日の目を見なかった。その結論を摘記してみよう。

(1)日本の庄園をヨーロッパのマナーになぞらえるのは、時代錯誤である。庄園は古代的なものだが、その土地が封土化して、日本の封建時代が生まれた。封土化した旧庄園こそがマナーと対比できるのであり、庄園をマナーに比定してはならない。

(2)ヨーロッパのマナーには農奴[および解放された農奴。これは自由民とは区別される身分]がいたが、日本にはいなかった。日本の小作人あるいは下人(げにん)、所従(しょじゅう)などと呼ばれた農民は、土地を所有する領主あるいは地主から土地を借りて耕作し、地代として年貢を収めた。ここには経済外的強制はなく、小作人たちはみずからの意志で巧みに水田を耕した。この自主性、主体性はヨーロッパの農民と大きく異なる。

(3)ヨーロッパの三圃制農業と、日本の水稲耕作には大きな違いがある。水稲耕作は水が肥料をもたらし、肥料を保護するので、連作が可能であった。千年以上にわたって連作しても、連作による障害は生じなかった。これに対してヨーロッパの乾地畑作農業は連作に限界がある。地力を養うために、しばしば休閑地を必要とした。食用の冬麦と飼料用の春麦の輪作からなるシステムが完成したあとでも、地力回復のために休耕・放牧による畜糞の供給が不可欠であった。ヨーロッパの農業にとって土地の割替えはたいへん大きな仕事であり、領主がその役割を担い、農民に耕地割当てを強制した。農民はまた領主による直接指揮のもとで農耕に従事し、いささかの自主権もなかった。まさに農奴であった。

(4)ヨーロッパの封建契約は領主と臣下が対等であったが、日本臣下の立場が弱い。代表的なフランスの場合、戦国時代が長く続き、領主と家臣の関係は時には家臣の立場が強い局面も少なくなかった。つまり長引く戦争では、強い家臣をどれだけ臣下に集めることができるかが勝敗を決した。そこで強い騎士は、強い立場で領主と交渉して、その立場を強めた。では日本はどうか。朝河は日本では領主の立場が強いことについて二つの理由を挙げている。戦国時代が短かったために、強い家臣がその立場を強める間もなく、信長・秀吉による天下統一が進んでしまった。加えて日本では、大化の改新以来、中国の集権的政府(大一統)のイデオロギーを受け入れてきたので、領主と家臣が平等であるとする観念が育ちにくかった。

 朝説史学の結論をまとめると以上のごとくである。総じて朝河の日本封建制論の際立った特徴は、水稲耕作のもつ意味を徹底的に考え抜いたこと、そこに着目して、直接的生産者すなわち農民の地位が同時代のヨーロッパよりもはるかに高かったことを指摘したことである。ずばりいえば、日本の小作農は農奴であるどころか、まさにその水田の「経営者」であった。朝河はそこまでは言っていないが、明治日本の近代化の成功の秘密を解いて、それは江戸時代に準備されたものだと、朝河が強調するとき、その農民像は「農奴イメージ」とは対照的なものだ。さらにいえば、第2次大戦後の高度成長の秘密を考えるうえでも、江戸時代の農民の姿に改めて光を当てる必要がある。朝河の封建社会論は三部構成である。
  Ⅰ 鎌倉時代、封建社会の誕生、
  Ⅱ 室町時代、封建社会の発展、
  Ⅲ 江戸時代、封建社会の変質、解体である。
 江戸時代はいわば明治の中央集権国家への過渡的存在であり、もはや解体期の封建社会であった。このような分析は、単に日本史を研究するだけでは獲得できない。ヨーロッパにおける封建制の発展と終焉を見据える鳥瞰図に支えられて初めて可能な認識であった。このような学問的成果を、わが史学界はなぜ学ぶことができなかったのか。これが問題である。


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