逆耳順耳(電子版第13回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第14号 2006.9.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


朝説史学の教えるもの---その2
   
1.初代入来院定心の譲状(第13号文書) にみる相続のあり方
 朝河曰く「この文書で初めて入来院領主に出会う。渋谷定心は二年後に輝ける武士団の初代首長になる。渋谷氏は有力な平氏一族であり、七八一~八〇六年に統治した桓武天皇(かんむてんのう)の子孫である」。曾祖父高望親王(たかもちしんのう)は幾人かの子をもった。その一人が武士政治の創始者平清盛(たいらのきよもり)であり、 一一六七年に日本の宰相になり平氏に短い繁栄をもたらし、また執権北条(しっけんほうじょう)は封建日本の真の支配者として一三三三年まで百年以上統治した。
 親王の他の子孫は、村岡、三浦、千葉、畠山、渋谷などであり、すべてそのメンバーのさまざまの行為によって 封建日本の年代記を飾る。渋谷氏の初代平重国(たいらしげくに)は、鎌倉近くの相模国の渋谷庄から姓をとった。そこに彼は職(しき)をもち、直属家臣として将軍に仕えていた。重国の長男光重(みつしげ)は相模(さがみ)、上野(こうづけ)、伊勢(いせ)、美作(みまさか)に加えて、薩摩(さつま)の職を統制していた。そのときに時代が変わった。頼朝は半世紀前に亡くなり、その死去から二〇年後に最後の世代実朝が暗殺され、京都から招いた親王と貴族が将軍の名を用いて名目的な支配を行っていた。
 鎌倉の執権北条はすべての政治権力を手中に集めていた。北条がおそらくは、他の一族を取り込んだように渋谷氏をも取り込むことに気づいて、光重は幕府を説得して若い子供たちを遠い薩摩に移住させ、鎌倉の前進基地として定着させることにした。長男重直(しげなお)を渋谷に残して光重は一二四七年あるいは四八年に五人の弟とその家族と郎党を南へ送り、薩摩中央における地頭職を次のように配分した。当時は一族の財産を子供達の間で分けるしきたりであった。次男実重(さねしげ)が東郷(とうごう)を受け取る。三男重保(しげやす)が祁答院(けとういん)を受け取る。四男重諸(しげもろ)が鶴田(つるだ)を受け取る。五男定心(じょうしん)が入来院を受け取る。六男重貞(しげさだ)が高城郡を受け取る。
 各自は地域の名を姓とした。こうして川内(せんだい)川下流に沿った肥沃な土地に渋谷氏の五つの精力的な分家が生まれた。 すべて血で結ばれた東国武士の突然の移住が、地方の首長たちをどのように騒がせ、不安の念で嶋津の中心に打撃を与えたかを想像できよう。この出来事は嶋津らにとって不吉なものとなった。一二四五年の日付をもつ以下の文書を注目してほしい。定心はまだ相模におり、後に入来で所有した領地はこの譲状に書かれていない。
 きわめて興味深い一族の状況と、この時期の封建階級の間で獲得された社会的機関を譲状自体が明らかにしている。一族は長い間父系主義であった。息子たちは概して土地で世襲の利益を受け取ったが、後家(ごけ)[寡婦、未亡人]と娘たちは通常生活のためのものしか受け取らなかった。一族はながらく父系主義ではあったが、家族に対する直接の権力は別として、氏族(クラン)に対する影響力は限られていた。長男は相続のあと、若い弟たちと一族の重要な事柄を協議した。封建社会組織の利害がまだ長子相続を生み出していない事実は、特に注目されよう。父は自由に遺言を作成し、それを気ままに修正し取り消した。所領を不平等に分けて子供たちに配分し、結局は彼自身がが最良と考えるように再配分した。 この特権は、家臣の領主に対する封建的奉仕が分割によって損なわれない限りは、領主の正式な許可なしに、家臣が執行できたように見える。若い共同継承者は奉仕を分担し、娘たちは代理人を通じて惣領の指示に従った。これを「血統」による分割や若者への再知行による分割(per paragium or per homagium)であると誤認してはいけない。相続者は個別的に領主から御家人として認められたものであり、 遺贈による保有物は譲状によって個々に認定されたのであった(第21、23号文書など)
 惣領は父の領地から他の者への分け前よりも少し多く受け取っただけである。そして惣領の家臣ではなく、領主の前では同輩の弟たちに対して温和な監督権を行使したのみであった。明らかにこれはノルマンディー流の血統ではなく、いわんや臣従の誓いではなく、王の領地を廃止する地域であった。
 朝河は家臣の領主に対する相対的自由、および惣領に対する共同相続者たちの自由の主な理由は、次の点に求めなければならないと考えた。
 すなわち(1) 前封建期における土地の職を特徴づける単一の管理されない状態、(2) 八世紀初期に日本で唐朝から導入した中国法で許している遺言の自由、(3)長子相続の原則の必要性に対する一般的認識の遅れ、である。
 この原則は遅かれ早かれ、次の時代に深まった社会不安と戦争の衝撃のもとにあった文書のいくつかで、跡づけられる。この文書で明らかにされた状況は過渡的なものだ。封建日本では発展の方向は、一二世紀以後のフランスとはちがって、「制限された長子相続」から「より自由な長子相続」への歩みではなく、逆に「自由な相続」から「厳格な長子相続」への歩みである。これは日本封建制のいくつかの重要な側面の一つであり、これは内戦の到来が遅延し集中的であったために、フランス封建制のコースとは違ってドイツ型により近いものとなった。
 
2.初代渋谷定心は一三二町歩を六人に分割相続させた(第17号文書)
 第17文書
定心の保有地    
薩摩 入来 75    
美作 河会 31.2    
伊勢 大功田 10.4 公事つき  
上野 大類 9 公事つき  
相模 打毛地 6    
100 131.6    
明重の分け前    
薩摩 入来 18.7    
美作 河会 17.4 公事つき  
上野 大類 9    
相模 打毛地 3    
36.6 48.1    
重経の分け前    
薩摩 入来 18.7    
伊勢 大功田 10.4 公事つき 4.7町
美作 河会 2.3    
23.9 31.4    
重賢の分け前    
薩摩 入来 18.7    
美作 河会 4 公事つき 3町
17.3 22.7    
重純の分け前    
薩摩 入来 10.4    
美作 河会 7.5 公事つき  
相模 打毛地 3    
15.9 20.9    
六郎次郎(他腹)の分け前    
薩摩 入来 8.2 公事つき 1.2町
6.2 8.2    
荒六(他腹)の分け前    
薩摩 入来 2 公事つき 19.4町の残り
1.5 2    

図:入来院系図
3.弘安の役と入来3兄弟の戦死、論功行賞
 有重は一二八〇年六月六日付け譲状を書いて、一二八一年七月に戦死した。実子なし。遺言状の日付は戦死の一年以上前だ。当時入来院の武士たちは出陣を前にして、遺言を書き、戦墓に墓標を用意して出陣する習わしであった。出陣即戦死が武士の心構えであった。さて遺言状にいう。所領(1.相模吉田上庄家作、藤意の林野5町、2美作河会郷宮の西、4町8反、3入来清色郷北側の5分の3)は甥であり、4代領主となった重基に遺贈された(第42号文書)
 有重の母(明重後家)は一二八七年三月一〇日付け譲状を書いた。有重の残した領地のうち、河会郷の公田4.8町は、兄公重1.1町、兄重孝1町、弟致重の娘1.2町、静重の子の妻1.4町などが知行せよ(第44号文書)。明重一族の受けた勲功賞は次の通りである。・筑前国早良郡比伊郷の地頭職田地10町[1町から30石収穫。10町なら300石取り]・武光三郎師兼(入来院家臣)筑前国早良郡七隈郷の地頭職、田地3町ほか(第45号A文書)。娘辰童(下村重氏に嫁ぐ)と娘弥陀童(四大領主重基に嫁ぐ)の争いに対する連署北条宣時、執権北条貞時の下知状一二九一年(戦死は1281年、死後10年目)。致重が恩地として受けた筑前国下長尾の10町歩は、次のように相続された。娘辰童は3町、うち1町は母虎光に。娘弥陀童3町。惣領定円3町。長尾泰平寺に1町・・・10町を3:3:3:1に分けた(第46号文書)。3人の子に均等配分、男女差別なし。
 
4.弘安の役と戦死三兄弟
 明重の譲状案 一二六五年と将軍の許可(第24号文書、一二六七年)
 24-A 第13、17号参照。入来院二代領主明重の息子有重への譲状である。有重の取り分についてのその後の歴史は、第42、93号Aなどからたどれる。明重も領地を惣領の三代公重とその子長徳丸たちに譲った。しかしこれらに関わる譲状は残されておらず、日付も不明である。分け前と長徳丸のその後の経歴は第87号、93号 B Cの研究から分かる。
 渋谷有重(ありしげ)の譲状(第42号文書、一二八〇年)。遺贈者有重(ありしげ)は入来院二代領主である明重(あきしげ)の四男である。入来院領主は長男公重(きみしげ)に相続された。その相続人はこの文書の被遺贈人重基(しげもと)である。それゆえ重基は父からの相続に当たり、父と叔父の領地をまとめた。一族の系図を見よ。

図:2代領主明重の3子息、弘安合戦で討死

 「下村重村の保有についての関東裁許状案」(一二八八年、第43号文書)。渋谷家の下村支族は、入来院二代目領主明重の弟重賢(しげかた)の子孫である。彼の長男重継(しげつぐ)は弟重村(しげむら)を相続人とした。
 弘安の役におけるように、新たに与えられた「恩地」は、旧来の「本領」すなわち「世襲領地」とは区別して扱われた。本領と恩地の違いは、次の表のごとくである。本領は処分権を制限されなかったが、恩地は制限された。すなわち質入や売却は、後者は不可能であった。

世襲領地・本領 処分権は制限されず 世襲・再知行は可 質入・売却可
恩地・新恩 幕府の干渉が大きい 世襲・再知行は可 質入・売却不可

図:2代領主明重の3子息、弘安合戦で討死

図:3代当時は均等相続、男女差別なし。

図:寺尾氏初代から4代まで

図:寺尾重広と重名の争いに対する幕府の裁定

図:寺尾4代から7代まで

図:109寺尾重名の譲状

図:寺尾家の相続争い(第1幕)

図:寺尾家の相続争い(第2幕)
 
5.「寺尾氏系図」の書き換え問題
 第28号文書(訳本158ページ)の冒頭部分には、寺尾重経が「長男弥四郎重通」に譲り渡すと書いてあり、「寺尾氏系図」(訳本621ページ)にも、重通はあたかも長男のように、冒頭に書いてある。ところが、第39号文書(167ページ)は、父親重経に勘当された与一(=為重=重員)が重通とその母妙蓮による告訴に対して、反駁したものだが、ここでは「継母妙蓮とその子重通」と書いてある。 与一(重員)と重通との腹違い「兄弟」関係の真相はなにか。重経は、当初与一(および七郎)に、財産の一部を譲り、その後与一と七郎が「武蔵国司北条義政のもとに勝手に参じた」ので、重経がこの譲状を「廃棄」した。重経の死去に際しては、後家妙蓮とその子重通に譲った。以上の経緯から、実際には「与一が先妻の子」であり、「重通は継母の子」と推測される。
 
6. 分割相続から嫡男単独相続への以降の意味。
 律令制は分割相続であった。その後、一方で領主側は「惣領のもとに力をまとめて奉仕して欲しい」という願いを抱いたのに対して、他方で「戸主側も一族をまとめるには長子惣領制度が望ましい」と判断した。両者の利害が一致して、「嫡男相続」(訳本549ページ)が生まれた。この「嫡男相続」の考え方が一般的になったあとで、「寺尾氏系図」は書き換えられ、末子の重通が長男の位置に書き換えられたのではないか。朝河は、「自由相続から長子相続へ」の動きは追求しているが、「寺尾氏系図」の「長男書き換え(与一から重通に)」問題には気づいていない模様。

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