逆耳順耳(電子版第14回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第15号 2006.11.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


邪馬臺国、不毛の百年論争を嗤う
----学閥対立に隠れていた笠井史学がいま蘇生する
 
第1章 「邪馬臺国」を九州に追放した本居国粋主義
   
 私は先ごろ、朝河貫一の学位論文『大化改新』を百年ぶりに翻訳した(英文原著1904年、邦訳柏書房2006年)。その過程で、『古事記』や『日本書紀』をいくどかめくり、記紀に描かれた「神話と史実の腑分け」について改めて考えさせられた。ある時、仲間が拙訳の書評会を開いてくれ、あれこれ議論するうちに、話は邪馬台国に及んだ。9月2日のことだ。こうして私は生まれて初めて『魏志倭人伝』の原文を繙いた。私は漢文教育をほとんど受けておらず、中文は現代文でも古文でも、頭から読みくだす習慣がある。『魏志倭人伝』を通読して意外な事実に気づいたので、書き留めておきたい。
 
第1節 邪馬臺は「ヤマト」と読むのが常識
 読み始めてまもなく、「邪馬台国」は一度しか登場しないことに気づいた。すなわち「倭」は二五回、「倭国」は三回、「女王」は一三回、「女王国」は五回も登場するなかで、「邪馬台国」が一度しか登場しないのはなぜか。これを考えながら、原文を再読して気づいたのは、「倭国」が通称であること、「女王国」は「倭国」の当時の特徴を踏まえた、言い換え表現にすぎないことだ。
 では「邪馬台国」とは、なにか。これは実質的に「女王国」の言い換えであり、『魏志倭人伝』全体から読み取れる文脈では、「倭国」あるいは「女王国」と同義であり、それ以外のものではない。あえて「邪馬台国」の四文字で表記したのはなぜか、これに着目して該当個所を読み直すと「邪馬台国」の四漢字が浮き上がり、たちまちヤマトに変身した。
 日本語の「漢字かなまじり文」にカタカナが挿入されると、その部分が否応なしに強調された印象をもつ。カタカナ外来語がキャッチコピーのように用いられる事情に似ている。
 漢文訓読で読むと、ほとんど自覚しにくいが、漢語のなかに混入された「漢語にとっての外来語」は、これを中国語で読むとその響きが意識に残る。私の抱いた違和感はそれであった。古代中国語の文章を読んでいるうちに、突然ヤマトが現れ、もう一度目をこすると、邪馬台国に戻っていた。
 こうして私が気づかせられたのは、これが「女王国」側の「自称」にほかならないことだ。『魏志倭人伝』の書き手や読み手にとって、倭国や女王国は、あるイメージをもつことができる。ところが耳慣れない「ヤマト」ことばは、容易に記憶しにくい。
 『魏志倭人伝』の筆者にとって「倭国」あるいは「女王国」という表記は「既知」であり、「倭国」にせよ、「女王国」にせよ、なんらかのイメージを想定できる。これに対して「邪馬台国」の四文字は、いわば当て字であり、漢字自体には意味がない。「倭国」あるいは「女王国」側の人間が「そのような発音をしていた」という伝聞を音声で記録したものにすぎない。つまり、私がここで感じた体験をいえば、使者が「ヤマト」と発音したものを記録者が「邪馬台国」と記したのではないかという、ほとんど確信に近い思いつきであった。
 この簡明きわまる事実を誤解したことが、不毛な邪馬台国百年論争の始まりではないか。事柄の実質は、「ヤマト」という自称に対して『魏志倭人伝』の執筆者が、(あたかも万葉仮名のように)当て字を書いただけのことなのだ。それゆえ、私の想定が正しいとすれば、これは明らかに畿内の大和について語ったものであり、三世紀半ばの大和朝廷の姿を同時代の伝聞として記録に残したものである。下の図版は、便宜上岩波文庫版を用いたが、ここでは「邪馬壹国」と誤記されている。この「壹」が「臺」の誤記・誤植であることについては後述。
 
図版:『魏志倭人伝』岩波文庫版107ページ
『魏志倭人伝』岩波文庫版107ページ
 
 こうして私の読み方によれば解答は、「邪馬台国」=「倭国」=「女王国」=ヤマトである。それゆえ、 本居宣長(1730~1801)以来、日本の知識人たちを悩ませてきた、いわゆる「邪馬台国論争」はここで雲散霧消することになる。やれ「畿内説」だ(京大系)、やれ「九州説」だ(東大系)と繰り返されてきた、いわゆる「学術」論争なるものは、ほとんど床屋政談並みのムダ話ではなかったのか。おそらく私がこれから書こうとしていることは、「コロンブスの卵」もどきの話にすぎないかもしれない。
 なお、佐伯有清の遺著『邪馬台国論争』(岩波新書、2006年)は、黒板勝美、池内宏、志田不動麿、鈴木俊、末松保和など東大出身の研究者でも九州説に与しなかった例を挙げて「東京大学は邪馬台国九州説などと括ってしまうのは、単なる興味本位から発した作りごとにすぎない」と批判している(viページ)。佐伯自身が東大国史出身であり、内藤湖南の大和説を支持して「湖南外伝」を書いたのであるから、佐伯の主張はよく分かる。だが、「現今でも、邪馬台国九州説は東京大学、大和説は京都大学と色分けして邪馬台国論争を叙述し、興味をそそろうとする傾向が見受けられる」(vページ)と佐伯自身が書いているように、この論争はそのような形で扱われているのも一つの現実である。
 すでに結論が出ているにもかかわらず、学界の交通整理が不十分なために、根拠を失って久しい学説が依然、装いをこらして、あたかも亡霊のごとくさまよっている姿は醜い。ヒミコの亡霊を箸墓に鎮魂する作業は、すみやかに行う必要がある。浅学非才、門外漢の私が敢えて交通整理学を買って出たのは、このためだ。僣越の謗りを免れないことは承知しているが、傍目八目は真理であり、また経済学徒としては資源や人材の浪費を避けたいと念願するからである。
 私が「邪馬台国」=ヤマトと読めたのはなぜか。初めは偶然のような気もしたが、考えてみるとそうではなかった。私はいわば「漢文訓読フィルター」に妨げられなかったようだ。「日本人の色眼鏡」というと、誤解を招き易いので、あえて「漢文訓読フィルター」といっておく。このフィルターを通すと、すべての漢字は、あたかも日本語で書かれた文章のように読める。これが曲者だ。
 たとえば邪馬台国はヤマタイコクである。しかしこのフィルターを外して中国語で読むと、ye-ma-tai-guoとなる。ここで邪馬台国だけをye-ma-tai-guoと読むのではない。冒頭から中国語の文として読んでいくと、ye-ma-tai-guoのような名詞が、あたかも日本語の文章に挿入されたカタカナ表記のように印象づけられ、これが外来語の漢字表記であると気づかせられるのである。実はこれは微妙な感覚にすぎないのだが、漢文訓読方式によると、本来の中国語の「地の文」とそこに挿入された「音訳」表記の区別が見失われる危険性が強い。
 この時代の音韻体系に従う場合、ヤマトが実際にどのように発音されたかの究明は専門家に委ねるとしよう。ここでは『魏志倭人伝』に情報を提供した者が耳慣れない「ヤマト」なる外来語を語り、それを「邪馬台国」の四文字に記録した過程が重要だ。
 
第2節 ヤマト説の証明材料
 「邪馬台国とはヤマトなり」の答えが用意されたからには、あとは証明材料を集めればよい。証拠はすぐに見つかった。『隋書倭国伝』である。冒頭に近い個所に、有名な次の記述がある。「其の地勢は東高西下、邪靡堆に都す、則ち『魏志』に云うところの邪馬臺なり」(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)である。『隋書』は「邪靡堆」(ヤミトゥイ)に都を置く、と音を表記し、『魏志』のいう「邪馬臺」(ヤマト)と同じだと解説している(岩波文庫、石原道博編訳、128ページ)。いいかえれば『魏志倭人伝』では「邪馬臺」と表記されているが、これは「邪靡堆」と表記してもよい、と説明した形であり、「邪馬臺」も「邪靡堆」もヤマト側の自称を音で表記したことを示唆している(一つ、註釈しておくと、「邪靡堆」の「靡」は、「摩」の誤記・誤植であろう。もし「摩」ならば、「邪摩堆」となり、「堆」と「臺」の違いになり、音を写したことが一層明確だ。ちなみに内藤湖南はここを「邪摩堆」と読んでいる)。
 
図版:『隋書倭国』岩波文庫版128ページ
『隋書倭国』岩波文庫版128ページ。邪靡堆則邪馬台者也。
 
図版:『後漢書倭伝』岩波文庫版118ページ
『後漢書倭伝』岩波文庫版118ページ。
ヤマトは楽浪郡から一万二千里。案ずるに、今名
邪摩惟は音之訛也。
 
 ここでもう一つの証拠に気づいた。『後漢書列伝七十五倭伝』である。「その大倭王は邪馬臺国に居す(其大倭王居邪馬臺国)」と記し、ここで割り注の形で「案今名邪馬惟音之訛也」と註釈している。「惟」の「りっしんべん」をそのま読めば、「案ずるに、今の名ヤマイは音の訛りなり」となる。これは「邪馬壹」を言い換えたものであろう。「堆」、すなわち「つちへん」の誤記と見なすならば、「案ずるに、今の名ヤマトゥィは、音の訛りなり」となる。
 『後漢書倭伝』は、王朝としての先後関係とは異なり、実際には『魏志倭人伝』の後に書かれたものだ。むろん『隋書倭国伝』の前である。
 そこでこれら二つの註釈を前後関係を踏まえて、並べると、以下のようになる。
 (1)『魏志倭人伝』は「邪馬壹国」と書いた。
 (2)『後漢書倭伝』は『魏志』を「邪馬臺国」と訂正し、原本の「ヤマイは音の訛りなり」と註釈した。
 (3)『隋書倭国伝』は「ヤミトゥィ(邪靡堆)則ち『魏志』に云うところの邪馬臺なり」と註釈した。

 ここで『後漢書倭伝』の割り注がきわめて重要である。この註釈を加えたのは、いつ、誰によるものか、版本研究者のご教示を得たいところだ。
 とはいえ版本研究の結果を待つまでもなく、私にとってはすでに有力な証拠である。というのは、『後漢書倭伝』の書き手や読み手にとっても、「邪馬臺国」は、耳慣れない外来語なので、「邪摩惟は訛りなり」の註釈を必要とした事実が重要である。音をとれば、明らかに「邪馬堆」であるべき個所が「邪摩惟」(ヤマウイ)と誤記されていることに注意を喚起したわけだ。こうして中国においても、「臺か、壹か」が問題になったが、それは音声レベルの話ではなく、文字に書いた後のことにすぎない。日本でもこの文脈をまるで誤解してヤマイと読み、敢えて異説を立てる者が現れたが、牽強付会、本末転倒も甚だしい。

 次の『隋書倭国伝』は「ヤミトィ(邪靡堆)」と書いて、これは『魏志倭人伝』の「ヤマト(邪馬臺)」のことだと説明した。
 こうして中国の史書の書き手と読み手は、「ヤマト—ヤマトゥィ—ヤミトゥィ」という音で、「倭国」を呼称してきた。
 『魏志倭人伝』に初めてヤマトが記述された三世紀中葉のこと、当時の倭国では漢字を用いて国名を表記する文化が未成立であった。今秋一〇月一二日、難波宮跡から木簡が発見され、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」(春草のはじめの年)が話題になったが、これは難波宮完成(六五二年)以前のものと専門家は解説している。三世紀から七世紀まで、倭国がどのように自国を自称し、それが中国の史書にどのように記録されたかを考えるに際しては、徹底的に中国の史書を「漢文訓読フィルター」を外して読む必要がある。
 念の為に書いておくが、『魏志』におけるテキストの読み方を『後漢書』や『隋書』に頼ることには、疑問を感じる向きもあるかもしれない。これは中国のいわゆる正史がどのような歴史意識に基づいて書き継がれてきたかを、考えるならばその当否は明らかだ。『魏志倭人伝』における記述はさまざまな形で『後漢書』や『隋書』に修正されつつ、引き継がれている。
 少なくとも「倭国伝」は、倭国についての知見を引き継いだものであり、「邪馬壹」から「邪靡惟」への認識も同じである。正史の筆者と読者たちは、そのようにして倭国を認識してきたのである。(続)

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