逆耳順耳(電子版第15回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第16号 2007.1.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


朝河貫一「島津忠久の生い立ち」をめぐって
 
   
 朝河の書いた忠久論の核心は3カ条あげられるのではないか。
1. 陽画としての『入来文書』(1929)、陰画としての「忠久論」(1939)
 朝河は『入来文書』(邦訳 77ページ)で、次のように述べている。「議論の多い島津忠久の血筋について、ここでは立ち入らない。他の個所で検証する」と。では「他の個所」では、どのように述べているのか。邦訳80ページの注5では「この問題は『南九州の封建体制』という次の著作で扱う」と予告していた。この本は結局、未完成・未刊行に終わった。これは甚だ惜しいことだが、この記述から「忠久」論が予定していた著作の一部として構想されていたことが分かる。なお、朝河はイェール大学朝河文書に嶋津藩について膨大なカードを残している。これらのカードこそが用意していた「次の著作」のために作られたものであったことはいうまでもない。
 こうして未完の『南九州の封建体制』とは、いわば嶋津藩の側から、あるいは南九州全体を鳥瞰する視点から南九州の封建体制を描いたものだとすれば、これはまさに『入来文書』で渋谷家の細密画から日本の封建制の確立・発展・没落を描いたものとツイになる構想であったものと推測できよう。この文脈であえて、「陽画としての『入来文書1929』、「陰画としての『忠久論1939』」と対比させて位置づける見方が可能だと思われる。
 「忠久伝説」がなぜ必要とされたかを考えるためには、その対抗者としての「渋谷家」のイメージを想定しなければならない。すなわち、一二四七年に、五人の渋谷兄弟が薩摩中央の嶋津庄の寄郡の新しい地頭に任命されたが、朝河はこれについて「われわれは日本の封建時代の夜明けを告げる三代[鎌倉・室町・江戸]の始まりを見出すことができる。鎌倉では摂政の北条家が幕府の事務を管理し、京都では九州の昔からの庄領主である近衛家の兼経が宰相の地位を復活していた。南では嶋津の二代目忠義(一二〇二~一二六四年)が地方の優越性を求めては、領主の大名や庄の内外に確立された数多くの族長から妨害されていた。この時点で有名な武家である渋谷家の分家の強硬な五人が薩摩の中心に突然派遣されたことは、嶋津の若い一族を極端に不安にするものであったにちがいない。渋谷氏は近親の千葉氏、三浦氏、畠山氏などのように、有名な武士一族であった」と書いている。つまり、「嶋津の若い一族」が「極端に不安になった」のは、なぜかが明らかになれば、忠久伝説登場の意味が理解できることになる。
 ここで想起されるのは、故松方三郎の述懐である。阿部善雄『最後の日本人』は、松方の述懐をこう紹介している。「松方[三郎]は入来院氏の当主重尚や里の人々とともに、1919年の夏を追想したが、松方正義の子息であった三郎はそのとき、『薩摩は、ついに二本松出身の朝河博士の大いなる逆襲に遭った』と笑いながら語った(122ページ)。
 松方の「逆襲」の意味を阿部は取り違えたのではないか。松方はむろん『入来文書』の出現にも当然驚いたが、もっと痛烈に薩摩・嶋津藩の至らなさを痛感したのは、「忠久の生い立ち」における朝河の痛罵ではなかったかと思われる。『入来文書』は客観的な学術書として薩摩藩の一部の歴史を描いたものだが、嶋津藩の「恥部」をいわば直接的に暴いたものが、「忠久の生い立ち」ではなかったか。
 このように「忠久論」を読むと、阿部善雄の本に、この論文についての記述がないのは、いささか腑に落ちない。『入来文書』の完成は、1929年。「生い立ち」は1939年。実際の発表は10年の間隔があるが、「忠久の生い立ち」で書いた中身は、『入来文書』執筆の時点ですでに調べ挙げていた。いいかえれば、『入来文書』の隠し味は、「嶋津藩史」であり、その偽史である。その偽史の部分を全面的に批判したものが忠久論にほかならない。
 
2. 朝河史学方法論の演習としての「忠久論」。
 朝河は、伝説や神話の分析に膨大なエネルギーを傾注している。これは伝説や神話に含まれる「史実」を、いわば岩石から金脈を泥土から砂金を発見するように探ろうとしたからである。朝河は戦後の唯物史観学派が科学主義の看板を掲げつつ奇怪な観念論に陥ったのとは異なり、伝説や神話を丹念に分析して、そこから文字による記録が生まれる前の「史実」を読み取ろうとした。これらは故無くして生まれたものではない。人々の営みのなんらかの語り伝えるべき真実が含まれているからこそ伝えられたものだというのが朝河の確信であったように見える。朝河はまさにこのような方法で『大化改新』において、文字による記録が生まれる前の歴史を掘り起こそうとしたのであった。忠久伝説は、鎌倉幕府の成立直後に早くも生まれ、時代の発展とともに4種類のバージョンに変化して、明治維新に至った。封建制の成立から没落までの時期に対応する。すでに文字による記録は大量に存在した。朝河は当代の記録、後代の記録と丹念に照合しつつ、忠久伝説の生まれた背景、動機、その帰結を分析した。ここから朝河史学の方法を具体的な事例に即して学ぶことができる。
 
3. 当代性。皇国史観に流れる日本史学界への警告としての「忠久論」。
 「忠久論」のもう一つの意義は、その時事評論的な意味であろう。この論文が発表された1939年は日中戦争が始まって2年目、1938年の国家総動員法の翌年であった。朝河は 「空漠な日本精神論」「前途危険な軍国主義の類い」といった表現で、日本を覆う戦争の影に警告したのは、1935年であり(「ループネル氏フランス農地史論」『社会経済史学』1935年8月号まえがき)、それからの4年はますます軍国主義への歩みを早めていた。そのような状況で書かれたこの論文には、歴史の偽造に対する朝河の怒りが直截に表明されている。現にこの論文も一部が検閲で伏字とされた。
 4. 忠久論とは、「日本史上最大・最長の4種の忠久伝説」を周到な手続きで完膚なきまでに分析したものだが、なかでもその焦点は4種の伝説のなかの一つのピークである忠久=頼朝私生児説を酷評したものである。これはあらゆる確度からみて、到底ありえないデッチあげであり、特に朝河の考える「武士道論」の精神からして、ありうべからざる馬鹿話であった。伝説のもつそのような含意を考慮することなしに、ひたすら自らの先祖を「高い源流」に求めることによって血統を飾ろうとした愚劣ぶりを朝河は痛罵し、恬として恥じない島津藩の無知蒙昧を嗤ったのであった。たとえば重野安繹(やすつぐ)(1827-1910、薩摩藩士、維新後政府の修史事業にあたる。東大教授として国史科を設置)がその史実を調べたところ、ついに根拠を発見できなかったにもかかわらず、伝説は否定されることなく、『島津国誌』の記述は史実に基づいて修正されることがなかった。
 頼朝私生児伝説はいつ、なぜ生まれたか。その効用はなにか。
 
 4.忠久伝説のうち頼朝私生児伝説の発生は遅く、戦国・室町からであった。これは嶋津庄の所有者が藤原氏から足利氏への移転を裏付けたあとに、貴族から武家に移転した経緯を曖昧にして、「元々から武家の嶋津庄」と思わせる作為のためであった。平安時代には、帰化人としての系譜や京都朝廷とのつながりを自慢していたはずだが、戦国時代、特に南北朝になると、「もともと武家側だった」と変えたほうが武家政権下での正当性を主張するには都合がよく、ここで生まれたのが頼朝私生児説であったとみるのが朝河の解釈であった。朝河曰く、「此説[忠久は頼朝私生児説]は13世紀半に近く起ったという系図相論の記事には未だ出現せず、只15世紀初頃から道聖、安国寺、聖栄の記と、信濃島津家伝とに其存在を証し得るのみである。且つ其後も猶久しく伝説は浮遊変移の状態に在り、次第に成長の道程を経て後、侯家[嶋津]が公けに採用し源姓を称え「家系を編し始めた」[伝説の藩公認]のは17世紀初半以後である。
 
5.頼朝伝説の動機
 このような頼朝伝説を作り上げた「動機」を朝河はこう解釈している。「此伝説は最も熱心に最も久しく最も多数の人に扶育培養されて、最も細緻複雑の「譚話」[奇譚、綺譚、尊大、うぬぼれ、尾ひれをつけた「談」]を包容するに至った。「如何に知的良心の未だ低く、如何に家系を衒う習いの遍ねく行われたにもせよ、頼朝の面目と自家の源泉とを併せて瀆し、前から唱え来った惟宗氏事実及び広言伝説との矛盾と史的事歴の撞着とを敢えて犯して、久遠時間大胆に新伝説の構作を進めたのは、なぜか」。

5-1.消極的理由。「島津家も亦支那(ママ)人の後裔といわれるのを免れようとしたのであろう」。「鎌倉時代には国民的感情もやや動いて、もはや文化的外種の出たると誇る念が消え去った」「其後元寇時代、更に[秀吉]征韓時代に至れば猶更のこと」であった。

5-2.積極的理由。武家政治の始祖頼朝を我が先人なりと唱えた動機は、必ず一般に系統の高貴を語らんとする僣上心が殊に此家において昂上した故。頼朝伝説の生まれたと見える室町時代には、南北朝に経験した苦闘が猶も激烈となり、島津家が殆ど運命を賭して頑強の「国人(くにうど)」等と力争した時[嶋津貴久1514-71が日向伊東氏を打ち、薩摩大隅日向を統一。嶋津義久1533-1611が豊後大友、相良、秋月、龍造寺、有馬らを下して、1586年ごろ九州全土を平定。しかし1587年秀吉の九州征伐にあい降伏]であるから、「彼等に対して血統の上からも優越を張ろうとする念慮」が強かった。

 朝河は『入来文書』所収の145号文書解説において、1574年に入来院重嗣が嶋津義久に降伏した事実を指摘しつつ、13世紀後半の渋谷下向から16世紀後半に至るまでの300年間は、嶋津は入来院を屈伏させられず、拮抗状況が続いていた事実に着目している。すなわち、この拮抗を破る大義名分としての、武家政治の元祖頼朝の私生児伝説なのである。つまり、嶋津は1401年に鶴田を下し、1422年に高城を下し、1565年に祁答院を下し、1570年に入来院重嗣を降伏させることに成功したが、この間、170年を要しており、最終的には嶋津側の勝利に帰結したとはいえ、その勝利はあらかじめ見えていたのではない。きわどい戦闘を繰り返しつつ、ついに勝利を収めた。この過程で頼朝との血縁関係をデッチあげることになったと朝河は見ているわけだ。
 こうして嶋津庄は、南北戦争期(1336-1392)に藤原の手を離れ、尊氏に移った。1352年に尊氏は嶋津資忠に850エーカーを与えたが、これは近衛が吉野朝廷に与したので、尊氏が奪ったのであった。嶋津庄は創設300年にして、「庄から封土に」変化した。にもかかわらず、いぜん「嶋津庄」の名をもって呼ばれ続けたので、「庄から封土へ」という性質の根本的変化が十分に理解されていないことが日本封建制を理解するうえでの大きな問題である。嶋津は「文官貴族としての地頭」から、「領地をもつ封建領主」に変身したが、その過程でつくられたものが頼朝私生児説なのだ。
 嶋津六代、七代に即して、より具体的に見ていくと、六代氏久は1387年6月、「氏久の山引き合戦」をやり、七代元久は1395-96年に高城(たき)を攻撃したが、下したのは1422年であり、30年後であった。当時の渋谷氏は東郷、高城、入来院、祁答院で守護の領地を手に入れ、九州探題今川了俊に直接奉仕して、強力であった。それから170年を要して、ついに嶋津16代義久(1533-1611)の時代に、ほとんど九州全域を統一した。
 さてこうして嶋津は九州の代表とはなったものの、「既に三国(薩摩・大隅・日向)を討ち従えて後は、隣国及び他境の列侯に対し、更に江戸時代となっては、自ら覚束なげに源氏を称える徳川家に対する外様の強者として血種上一段高く我が地歩を占めようとした。この心は更に昂ぶって終に以仁王落胤の説をさえ唱うるに至った」のである。つまり、嶋津藩が直面した次の難問は、徳川家に対抗する系図作りであった。こうして生まれたのが以仁王落胤説だが、さすがにこれは流産した。あまりにも作為が明白だったからである。
 
6.頼朝と島津家源頭との汚濁
 朝河は「系譜を修飾して源泉を高処から引かうとする試みは、族制を重んずる日本の美質の反面に横たわる甚だ普遍的現象であった」と見る。そして「支那(ママ)を除いては日本の如く多分に此反面を示し得る国は稀」であるとし、「昔は諸方で殆ど常事の如く此修飾を企てた結果、恰も当然の事のように見倣されて、人が之に対する良心の麻痺したかの観を呈して居る。日本の社会史上否み難い事実は畜妾、庶腹、乃至私生児が中流以上の殆ど尋常事であった」ことだと分析する。ここで問題は「悪辣の点は、頼朝をして盛長の妻を姦せしめたこと。一一七九年内侍が未だ盛長の妻でなかったと明言せぬ以上は、是れは一様の有夫姦にはあらず、驚くべき卑劣の姦通である。盛長は頼朝の流謫時代以後誠実に勤仕し、異常の勲功あり、他に超えて頼朝に親信され、交懽し、且つ恩を知るに篤き頼朝に対して特殊の忠義ある比企尼の長女を娶ったといわれる人である。後年政子が其子景盛について「有其寄、先人殊令憐愍給」といって頼家を誡めた程の間柄である。頼朝は頼家ではない。『東鑑』は頼朝に情婦のあったことを数度記して居るも、他妻を犯したこと、就中恩誼深き忠従の妻を私した罪悪を頼朝に寄与することは『東鑑』のみならず他書も他家の系も示さぬ所以である」。
 朝河はこのように、頼朝私生児説の意味するものをたたみかけるように厳しい言葉で批判する。そしてまさにこの個所が検閲の対象となった。すなわち
 xxxxxxxxxx[伏字一〇文字]、xxxxxxxxxxxxxx[伏字一四文字]、xxxx[伏字四文字]、xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx[伏字二一文字]。都合49文字が消されている。これに続く文字は、「恩者、忠従に対して感荷の情の懇誠なるを記される頼朝が、果してかかる悪行を犯すほどに賤しき人物であったろうか」。朝河の理解する頼朝の人物像からして、部下の妻を寝取ることは、到底ありうべからざる行為であった。
 
7.「忠久の生い立ち」の真実
 徹底的な史料考証の末に、朝河が行った「伝説の改造」結果は、要旨以下のようなものである。 
  1. 忠久は自他の称した通り惟宗氏。 
  2. 其名に忠の字が在るのもそのため。 
  3. 父母については徴すべき確証なし。生れたのは1165年よりやや前。多分もとは純粋の京紳。 
  4. 藤原氏殊に近衛家の所従であり、其恩顧によって兵衛、衛門の尉となり、検非違使となり、一時は賀茂祭主を勤め、或は何時かは播磨掾となった。 
  5. 近衛を仰ぐことから島津庄に重要な庄職を宛行われ、其他にも同家及び他の高家から他の庄職を得た。 
  6. 少くも1180年まで、又は更に数年後在京し、然る後或る有力の所縁によって頼朝の御家人となった。 
  7. もし基通に紹介されて鎌倉に仕えたならば、基通が頼朝の強請によって摂政を罷めた1185年末以前。11年後基通復任の後とすれば遅きに失する。 
  8. 伝説の如く1185年に頼朝に始めて見参したとすれば忠久が20歳を踰えた頃となる。 
  9. 頼朝に帰して後に其重臣比企能員の女又は実妹と婚したと察せられる。 
  10. 而して此等の縁由又は其他の理由あって頼朝に異常に重く用いられ、1197年以前に島津庄内最大の地頭とされ、1203年以前に三国の守護とされた。 
  11. 鎌倉御家人となっても猶京都との関係を保ったらしく、左衛門尉となったのは1198年初のことで、頼朝の推挙と基通などの夤縁とによるもの。子孫に至っても嫡流以外には京都関係の人があったと見えるのは、此の如き忠久の生い立ちによる。 
  12. 忠久が晩年に藤原姓を冒したらしいのは、基通の猶子となっためではなく、久しく恩顧を受けた事実を恃んだもの。猶数代は惟宗姓を保ったのは此故。 
  13. 広言を忠久の父と称するものは彼の生前は間接の記事だに無いが、後代の追記を信ずるならば没後半世紀程には此説があった。記事の真正は疑うことも、受ける事も等しく難い。 
  14. 内侍が彼の母なることは,今日知る所では更に遅い伝説で、少くとも其説の史学的価値は父伝説に劣る。15.以仁王の落胤説は最も新しく、全く証なし。 
  15. 頼朝私子伝説は之よりは遥に早く起り、最も高声に宣伝されたが、空中の蜃気楼と観るべきもの。
 以上が朝河「忠久の生い立ち」の結論である。

 忠久論の目次 1.忠久誕生の年 2.丹後内侍―比企氏であったか、忠久の母であったか。3.丹後局と丹後内侍 4.惟宗広言―広言と忠久、伝説の由来、伝説の活力。5.源頼朝、畠山重忠、近衛基通――頼朝伝説の漸成、此説を疑うもの、改めるもの。 政子の嫉妬、重忠との関係、基通との関係、基通に重用された理、頼朝に重用された理、頼朝説の動機。6.高倉宮以仁王―説の根拠、説の影響と責任。7.結論―伝説の地盤、伝説の四体系四時階、近世改造の例、諸点の史値の評価、史学的価値と現実、史学的改造。原載『史苑』一二巻第四号一九三九年七月四一~一五八ページ(通巻二七五~三九二ページ)。朝河は別刷に三〇数カ所の訂正を書き込み早稲田大学図書館に贈呈した。


先頭へ戻る