逆耳順耳(電子版第16回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第18号 2007.5.21   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


朝河論文「忠久」の伏せ字復元の話
 
   
 朝河貫一が『大化改新』で博士号を取得し、イェール大学で講師として教壇に立ったのは1907年のことであった。今年は就任百週年である。そこでイェール大学ではこれを記念するさまざまのイベントを企画している。皮切りは、3月9~10日に開かれた朝河記念シンポジウム「日本と世界」である。私はたまたまこのシンポジウムに合わせて、朝河の三部作『入来文書』、『大化改新』、『朝河貫一 比較封建制論集』を翻訳していたので、シンポジウム冒頭のセクションにおける冒頭の報告者に指名された。欧米への留学経験がなく、研究の主たる用語として中国語を用いてきた私にとって、これはたいへん気の重い課題であったが、光栄な任務であることは明らかなので、Hic Rhodus, hic salta! (ここがロードゥス島だ。ここで跳べ)の決意で、壇上に立った。
 用意した原稿を見ようと、目を落として愕然とした。原稿がかすんで何も見えない。やむなくポケットから眼鏡を出して掛けてみた。ますます見えなくなって、あわてて眼鏡を外す。手許に原稿を持ち上げて読めばよいことに気づくまでの数秒、実に当惑した。
 定年以後約3年、朝河三部作に取り組み、パソコンとにらめっこしているうちに視力が衰えたことは自覚していたが、これほどまでに衰えていたことを自覚したのは、初めてのことだ。東京や北京で、いくどか講演をやっているが、手許の原稿が見えなくて立ち往生寸前などという事態に直面したことはなかった。
 さて報告者が続くなかで、なぁんだと臍を噛んだのは、パワーポイントのこと。私はパワーポイントの使い方にはかなり慣れているつもりだ。特に中国の学界ではパワーポイントが大流行していて、これを用意していかないと「手抜き報告」のそしりを受けるほどだ。そこでやむなく、現代版「紙芝居」を事前に用意する習慣を身につけた次第である。
 何のことはない。イェール大学でもこれを使えばよかったのだ、と気づいたころは後の祭り。紙芝居ならば、画面を見てもらい、時々説明を加えることで済む。文字や画像は、不明瞭な発音の不足を補って余りあることは見やすい道理である。どのような会場で報告するのかをあらかじめ、聞いておかなかったのは、まずかった。
 私の拙い英語による15分のスピーチで、どこまで内容を理解してもらえたか、はなはだ心もとないと感じて、演壇を下りたが、実は分かる人には、分かっていた。私が事前に提出したペーパーは、大学のホームページに掲げられており、それをダウンロードして目を通した参加者にとっては、私が話す前から、内容は分かっていたのだ。
 それを実感したのは、加藤良三大使の晩餐会におけるテーブル・スピーチであった。加藤大使はイェール大学に学び、「大学OBとして」、そして「日本を代表する肩書をもって」会議に参加された。イェール大学は、大出世したこの卒業生を大歓迎し、大学総長の公邸で晩餐会(私も伴食)を特に開くとともに、シンポジウム関係者全員を招いたディナーにおけるスピーチの機会を用意した。大使はそのスピーチのなかで、日露講和当時のイェール・シンポジウム(あるいはイェール・メモランダム)における朝河の貢献について言及した。ポーツマス講和会議と朝河については、旧著『ポーツマスから消された男』で書いた要点を、私の提出論文には書いておいたが、時間の制約上、口頭の報告では省略した。
 ところが加藤大使は、私が省略したこの部分に触れて「プロフェッサーヤブキが述べているように」と、その核心を引用してくれたわけだ。これは実にありがたい言及であった。私は美味しい赤ワインを幾度もおかわりして、いい気分になっていたところで、テーブルの仲間たちの視線を浴びて、赤ワインが一段と美味しくなった。
 本論に入ろう。このシンポジウムのためにイェール大学に招かれた機会に、私はどうしても調べたいものが三つあった。1.忠久論文の伏せ字起こし、2.スターリング図書館ファサードの顔杲卿墓誌銘、3.朝河桜のその後、である。
 朝河が『史苑』(1939年7月号)に書いた論文が検閲で一部を伏せ字とされたことは前号で書いたが、その伏せ字を起こしたテキストが、スターリング図書館のAsakawa Papersのなかに保存されているに違いない、というのは私の確信であった。歴史家朝河が国家権力による表現の自由の制限・抑圧に対して、何もしないことはあり得ないのだ。朝河文書のどこかに必ずあるはずと信じて、それが含まれる可能性のあるボックスを一つ一つ調べた。一度に書庫から出してもらえるのは、数箱に限られている。そこでそれを探して、返却して、また予約して借り出し、返却し、といった作業を午前、午後3日間続けた。断念しようかと諦めかけた最後の日に、ついに発見した。「印刷したもの」という説明だけで、タイトルの書かれていないボックスに含まれていた。私は小躍りした。
 その伏せ字を起こした部分と資料のコピー2葉を以下に示す。

資料


資料

『朝河貫一 比較封建制論集』邦訳405ページ(『史苑』108ページ、34)
只独島津家系のみが、己の出自を誇らんためのみに、この背信、破廉恥の汚辱を憚る所なく頼朝の面上に投じた
邦訳405ページ(『史苑』108ページ、1011)
猶ほも久しきに亘つて弥が上に之を修飾しつつ、
『朝河貫一 比較封建制論集』邦訳427ページ(『史苑』141ページ、6~8行)
再び論ずるまでもなく、従来の詳しい頼朝伝説が、嘘であったと白状せねばならぬ。更に苦痛な良心の呵責、再び他人の律儀を犠牲として根もなき自家の美名を買はんとする事であらねばならぬ。前には創物の将軍に不信義の汚名を寄せ今は進んで末路惨憺たる一王に冤罪の悲哀を加へたる。たとへ我は眼眩んで此無情を忍んでも、他人の賛同は期し得ぬであらう。
 いま、検閲官を刺激したと思われる箇所に下線を付して見た。これらの短い表現のなかに朝河史学の「頂門の一針」を見出すことができよう。検閲官はおそらく皇室とゆかりのある島津家の先祖の系譜だけに神経を尖らした。朝河はまさにそれを熟知するがゆえに、皇国史観による歴史の偽造に一矢を報いた。この論文がまさに1939年という時点に発表され(その内容は、朝河が『入来文書』を書いた1929年当時にすでに調べ尽くしていたものだ)、しかもこの箇所がこの時点で検閲の対象となった事実は、世界史と日本現代史、そして朝河史学の核心を読むうえで、恰好の素材だと私は考えている。

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