逆耳順耳(電子版第17回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第19号 2007.7.20   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


客家研究の復活
 
   
 中国革命史研究において、客家問題は長らくタブーであった。毛沢東の「井崗山の闘争」から分かるように、最初の根拠地は客家の居住地であった。しかし、井崗山の土着リーダーであった袁文才と王佐は、その後共産党に入党したにもかかわらず、共産党によって殺害されてしまった。さらに江西省党支部内部の「本籍=江西人」と「客籍=客家」との対立は、富田事件という大きな内ゲバ事件に発展した。これら二つは、根拠地内の恥部であり、これらを克服して「中華」「愛国」で抗日統一戦線に結集していくのが革命史の主な潮流であった。このなかで、客家問題は「民族の内部矛盾」として処理すべきものとされ、この問題に触れることがタブーとされたことは見やすい道理であろう。
しかし鄧小平の改革開放期になって、毛沢東時代の総括が部分的に始まると、客家問題も解禁され始めた。
 1988年5月、華東師範大学中国史学研究所で、華僑・華人史および東方学研究の学術座談会が開かれた。そこでは福建省龍岩師範専門学校の校長で、「胡文虎研究室」主任を務める李逢蕊が研究の方向性に関わる発言を行った。客家史・客家人研究の緊迫性に鑑みて、客家研究を専門とする研究機構と計画的組織的研究を呼びかけたのであった。
 この会議を経て、華東師範大学中国史学研究所に客家人研究室が設けられ、李逢蕊を研究室主任に招聘した。一年後、この研究室は、北京、上海、広州、福州、贛州、閩西、梅州、香港、台湾・シンガポールなどの有志と連絡をとりつつ、同大学の『歴史教学問題』誌の増刊号の形で、『客家史と客家人研究室』特集号を出版した(呉沢主編、華東師範大学出版社、1989年1期)。B5判133ページからなる雑誌形態のこの号には、李松庵「客家人の数次の南遷初探」、王増能「客家と畲族の関係」、林善珂「客家人は太平天国革命」、劉南彪「台湾客家小考」、潘汝瑶「孫中山の祖籍問題」、林添華「李登輝祖籍初探」、張祐周「胡文虎の成功と悲劇」、張龍泉「黄遵憲の詩歌を論ず」などの論文が掲げられている。

『客家史と客家人研究室』の表紙


 翌年暮れに、この雑誌は『客家学研究』と誌名を変え、発行所も上海人民出版社に変えて、出版された。しかし「呉沢主編」は変わっていない。扉には、当時の上海閥の大御所陳丕顕、人民解放軍の長老楊成武、伍洪祥(1914~2005、 福建省上杭生まれ、江西ソビエト期に党梅県書記、永定県書記、四人組逮捕以後、福建省党書記)が揮毫を書いている。これら3名はいうまでもなく客家出身の実力者である。顧問としてはこの3名のほかに、葉選平、劉大夫、李国豪、李国瑶、何添発、張問強、陳仲平、卓済民、項南、鐘敬文、姚美良、姚南、謝畢真、曽良材、曽憲梓、廖鉞、熊兆仁などの名が並べられている。これらの人々も客家出身であることはいうまでもない。

『客家学研究』の表紙


 呉沢主編は本誌冒頭の「客家学建設の芻議」で客家問題がどう認識されてきたかを次のように要約している。
 第1期(1868~1904年)
 太平天国運動における客家人の蜂起や広東西路土客紛糾事件のゆえに、世間の注目を浴びた。
 第2期(1905~1919年)
 教科書で客家人を非漢族と書かれたことが客家人士の怒りを招き、客家人は中原漢族の源流を調べるようになった。
 第3期(1920~1930年)
 新文化運動に伴い、近代西洋の学術文化が中国に伝えられ、人類学、民族学、民俗学などの方法が輸入され、これを用いて客家民系を調査することが始まった。
 第4期(1930年以後~)
 北平燕京大学国学研究所の顧頡剛、洪煨蓮が羅香林を招聘して『客家史料叢刊』を依頼した。2年後、羅香林とスチーブンソンは客家文化を実地調査した。その後、羅香林は広東文理学院院長、香港東方研究院院長に就任して、客家研究を進め、『客家研究導論』『客家源流考』を世に問うた。羅香林は客家研究の開拓者である。
 羅香林の2冊に次いで、影響が比較的大きいのは、陳運棟『客家人』、古直(1887-?)『客人対』(上海中国書店、1930年)、羅靄其『客方言』などである(『客家学研究』1~2ページ)。

 呉沢の紹介から、過去およそ150年に客家問題がどのように扱われてきたのか、その概要を知ることができよう。特に興味深いのは、太平天国との関係で話題になったこと、客家=非漢民族説が教科書で書かれ、これに反発した客家側が中原との源流関係を論じて、ついには中原士族にたどりつくという構図である。客家学の創立に際して、決定的な役割を演じたのが羅香林教授であった。客家学の復活は、同時にその開拓者・羅香林への批判を含まないわけにはいかなかった。(つづく)

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