逆耳順耳(電子版第18回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第20号 2007.9.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


客家研究の復活(続)
 
   
(1)誤解だらけの日本における客家イメージ
 現代日本における客家イメージはどうか。
 「孫文や鄧小平を生んだ『血のネットワーク』」
 「中国を変えた少数民族」
 この二つのキャッチコピーは、日本で数万部売れた新書判客家書の帯封に書かれたもので、編集部がこの本の内容を最もよく示す言葉として選んだものである。

「客家」の表紙

 客家という宗族が、孫文を生み、鄧小平を生んだことは事実である。しかしそこから「血のネットワーク」という秘密結社もどきの組織を連想させるような書き方をするのは、根本的に間違えている。本書で繰り返し強調したのは、客家は決して「血縁によって結ばれた人々」ではない事実である。客家の文化を受容した人々が「客家」であり、逆に、客家の先祖をもつとしても、その文化を放棄した人々は、客家ではないのだ。いわんや秘密結社に似せて客家を説くのは、ミスリーディング極まりない愚論である。「ネットワーク」を強調する見方も、不自然だ。このようなタイトルの本を見かけたら、眉につばしてからめくるのが有効であろう。
 「中国を変えた少数民族」という表現はどうか。中国には五十余の「少数民族」があり、全人口の約六・六%を占める、とよく言われる。ここでいう「少数民族」とは、「漢民族に対しての少数」という意味だ。客家は「漢民族のなかの少数派」だという言い方ならば許されるが、漢民族のなかで、最も中原士族意識、あるいは中華意識の強い人々が客家であることを知るならば、これを漢民族から除外して、いわゆる少数民族の範疇に含めるとは、客家にとっては、この上ない恥辱であろう。このような言い方は、客家にとっては決して許されないことだ。これでは大学教授の見識が問われることになろう。
 客家の居住地と最も近い山地に住む少数民族に「畲(ショオ)族」がいる。彼らは元来非漢民族だが、客家先民との交流を通じて同化され、漢民族の文化を一部受け入れた人々である。たとえば彼らにも、「中原文化」に連なるという誇りをもち、「某々地」を経由したとする伝承をもつ一族が少なくない。この伝承は、客家による伝承作りの影響を受けて、それを模倣したものと解されている。こうして畲族こそが、言葉の真の意味で「中国の少数民族」なのであり、客家はこれとは異なり、漢民族のなかの一派である点を見違えてはなるまい。
(2)「客」とは何を意味するのか
 ここで「客家」、「客家先民」、「客家民系」というキーワードについて、説明しておきたい。後二者を初めて用いたのは羅香林である。中原(河南省)や江淮地区(ここで「江」とは長江中下流域を指し、「淮」とは、淮河の南側、すなわち安徽省・江蘇省の南側一帯を指す)から南下した漢民族が、贛南・閩西省境の山間部に定着し、先住非漢民族との闘争・交流の過程で、独自の文化を築き上げた---これが「客家」の誕生物語である。
 そして「客家」文化を築きあげた人々の祖先が「客家先民」である。
北方からの異民族の侵入に伴う混乱のなかで、これを避けて南下した「客家先民」を母体として「客家」が生まれた。両者を総称して「客家民系」と呼ぶ。
 中国史には膨大な記録が残されているが、そのなかに「客」の文字が時々現れる。

「客家研究導論」の表紙 「客家源流新探」の表紙

 最も初期の晋代「給客」について、羅香林は『客家源流考』(一九五〇年)は、こう説いた。晋代(二六五~四二〇年)の「給客制度(きゅうきゃくせいど)」とは、匈奴(きょうど)・羯(かつ)・鮮卑(せんぴ)・氐(てい)・羌(きょう)が中原を乱した、いわゆる「五胡乱華(ごこ・らんか)」によって生まれたものだが、「中原の民」が「南遷」して、「大姓」(大宗族)の庇護を受けて、「客」となった。この「客」の文字は、「晋元帝の大興四年(三二一年)詔書」に初めて登場するが、これが「客家」に連なると書いている。

 注  日本では一橋大学の(故)中川学教授がこれを客家と関連づけた誤った主張を展開した。たと えば『客家論の現代的構図』アジア政経学会、一九八〇年。

 しかしながら最近の研究によると、「給客制度(きゅうきゃくせいど)」の「客」と「客家」を関係づけるのは、牽強付会である。晋代から唐代にかけて史籍には、「客」「僮客(どうきゃく)」「佃客(でんきゃく)」「浮客(ふきゃく)」「逃移客戸(とうい・きゃっこ)」などの文字がしばしば現れるが、この時期の「客」とは、その大部分は「生業を失い土地を離れて」、「大姓(だいせい)」を頼り、その「使役を受けている貧しい農民」を指している。彼らは身分上、平民よりも格下の「半自由民」であり、全国各地に分布している。このような「客」あるいは「客戸(きゃくこ)」は、本書で扱う「客家」とは、まったく関係がない。ちなみに、本書で主題とする客家は、「土着の先住民」に対して、「新居民」を指して、これを「客」と呼んだのである。
 宋代(北宋九六〇~一一二七年、南宋一一二七~一二七九)の史書には、「主戸(しゅこ)・客戸(きゃくこ)」の区別がしばしば現れる。ここでいう「客戸」を客家先民と解することも、牽強付会である。「主戸・客戸」とは、当時の戸籍制度が財産の有無に基づいて、等級区分したことに関わっている。土地を持つ者が「主戸」であり、「客戸」とは土地を持たず、小作地に依拠して生計を立てる者であった。「主戸」は政府に対して納税と軍役の義務を負ったが、「客戸」は地主に租すなわち小作料を収めればよく、国家への納税や軍役義務を負わなかった。
 ここから分かるように、宋代の史書にいう「客戸」とは、「主戸」に隷属する小作農であり、「土地所有を基準とした階級区分」に基づく規定である。本書が主題とする「客家」とは、やはり異なる概念であることが容易に理解できよう。
 こうして、宋代までの史書に現れる「客」とは、半自由民を指し、あるいは小作農を指していた。客家の源流をこれらの「客」の文字に求めることは、史書の読み方としては、誤読であったわけだ。しかしながら、この誤読の嚆矢は、学術的な権威と認められてきた学者羅香林の読み方であり、それゆえ半世紀以上にわたって、これを疑う声はなかった。
 なぜこのような牽強付会が長らく、広く行われてきたのか。思うに、近現代史における客家研究が中国ナショナリズムの宣揚、すなわち振興中華を土壌としていたからである。客家の人々は、「異民族の侵略により、中原を追われた」という自己認識をもち、強烈な中華意識を持ち、侵略者に抵抗する意識を持っていた。その中原・中華意識とは、程度の差こそあれ、日本帝国主義の侵略に危機感をもつ漢民族によって共有されていた。こうして客家意識は、まさに日中関係の危機を土壌として育成されたことになる。
(3)外務省情報部編『広東客家民族の研究』(一九三二年一二月、東京)
 日本政府もまた、『広東客家民族の研究』(外務省情報部編、一九三二年一二月、東京、のち程志遠により中国語訳された。『客家源流与分布』香港天馬図書有限公司、一九九四年)を出版した。これは本文わずか二九ページにすぎない小冊子だが、実に手際のよい客家入門書になっている。元来は日本の広東総領事館から送られた調査報告書を東京の外務省情報部が活版印刷に付して、「執務参考資料」として配布したものである。

『広東客家民族の研究』(外務省情報部編、一九三二年一二月、東京)
執筆担当者の付した原題は『客家民族今昔概況』である。
目次
緒論
第1章 広東客家民族の由来、第1節上古における広東、第2節中古における客家、第3節近世における客家
第2章 民国後における客家及びその人口、第1節民国後における客家、第2節客家の人口及び分布状態
第3章 客家の特徴、第1節客家の言語、第2節客家の性質、第3節客家の風俗
第4章 客家の生活状態、第1節農・工・商、第2節客家の出稼人
第5章 客家の各方面における地位及び勢力、第1節社会上における地位、第2節軍・政・財界における勢力
第6章 客家の人物略伝
第7章 結論

  この報告書には、筆者名は明記されていないが、スチーブンスンと面識のあること、Deniker, Huntington, 章太炎著『嶺外三州語』、古直(中山大学教授、梅県出身)著『客人対』、羅靄著『客家方言十巻』、黄公度著『客族考源』、陳達著The Chinese Migrationなどの引用文献から判断して、かなりの学識をもつ研究者と推測される。
 短い結論の章から一句を引用すると、この報告書の問題意識を読み取ることができる。曰く「客家の政界・軍界・財界における現有勢力は、牢固として抜くべからざるものあり、ことに上海における抗日戦において、天下に驍名(ぎょうめい)を馳せたる十九路軍は、最近福建に移動を了したるをもって、同地方において異民族視されている「福佬(ふくろう)」と結合し、いわゆる「客・福連合運動」を実現する可能性一層濃厚となり、さらに張発奎(ちょう・はつけい)[一八七六~一九八〇年、広東省始興人、国民党の将軍。第三路軍総司令、第二方面軍総司令、陸軍総司令などを歴任]その他において江西省南部の客家を率い、客家の大連合を試みるにおいては、中国の政局を把握すること、さして困難にあらずと思われる」。「客家の先天的、後天的の堅忍不抜、自主独立の精神は、多年圧迫せられ鬱積せる感情と相まって、強固なる民族的自覚を誘致せしめ自ら別個の団結を形成せんとするものにして、その精神的連結はすこぶる深刻なものあり、したがって前記のごとき大客家主義の実現は理論上さして困難ではないであろう」(二八~二九ページ)。
 ここには満洲事変以後の第一次上海事変を通じて、抗日の雰囲気が一段とまとまりつつある状況が実に的確にとらえられているように思われる。この流れの行き着くところ、国共合作であり、抗日民族統一戦線の結成である。
 こうして中国内外の客家研究もまた不幸な日中関係のなかで、一方は愛国ナショナリズムの覚醒を強く意識して、他方は「抗戦勢力の分析」を主たる目的として進められたのであった。そのような政治状況は学術研究にとっては、よい条件とはいえない。
冷戦体制が崩壊する過程で、八〇~九〇年代に客家研究が復活したことは、真に学問的な研究を客観的に進めうる状況がようやく成熟したことを意味すると私は解している。

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