逆耳順耳(電子版第20回)

矢吹 晋
(21世紀中国総研ディレクター、横浜市立大学名誉教授)


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電子礫・蒼蒼
第23号 2008.03.18   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。蒼蒼社版の「逆耳順耳」は蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


軟禁時代に趙紫陽は何を語ったか
――『趙紫陽軟禁中的談話』を読む――

 
 
『趙紫陽軟禁中的談話』の表紙
  
 天安門事件で失脚した悲劇の政治家・趙紫陽(1919年10月17日~2005年1月17日)が死去して2年後、彼が軟禁されていた時代の談話をまとめた『軟禁談話』(略称)が出版された。(香港開放出版社、2007年1月刊)この時期に出版されたことは、秋の第17回共産党大会を控えて政治改革論議に一石を投じる意味を持つ。また昨秋、上海閥の中心的な位置にいた陳良宇書記が解任されたことは、江沢民の影響力を排除する上で大きな意味を持つ。
 趙紫陽は89年の天安門事件の際に、武力鎮圧に反対して失脚した後、その死に至るまでの16年間、自宅(北京富強胡同6号)に軟禁されていた(ここはかつて胡耀邦が住んでいた邸宅でもある)。趙紫陽の邸宅に入るには、人民武装警察(武警)の警備を突破しなければならない。抗日戦争期を趙紫陽とともに戦った老友宗鳳鳴(1920年~、北京航空航天大学幹部を経て引退、高級工程師)は「気功師」に成り済まし、百回以上にわたって軟禁宅を訪問し密談を重ねた。うち91年7月10日~97年9月の記録が47篇、第15回共産党大会のトラブルで中断後、98年5月~2004年10月24日の記録が34篇である。
 最後のヒアリングは趙紫陽死去の2カ月前であった。その談話内容を記録したものが本書『軟禁談話』である(出版前言、17ページ)。そこには、鄧小平はどのように院政(垂簾聴政)を行ったのか、趙紫陽と胡耀邦との関係、趙紫陽失脚の真の原因、第15回党大会に意見書を提出した経緯、中国の「権貴(エリート)」資本主義への見方、江沢民・胡錦濤指導部への見方など、示唆に富む観察が記録されている。
 序文は改革派の重鎮李鋭(元毛沢東秘書、中央組織部副部長)と鮑彤(趙紫陽の政治秘書、懲役7年、釈放後軟禁状態)が書いている。巻頭には写真がまとめられている(1~32ページ、50葉)。
  ◇「歴史に借りを残したくなかった」
 宗鳳鳴のヒアリングは、「なぜ武力鎮圧に反対したか」から始まる。 趙紫陽の答えはこうだ。
 「当時、私の前には、三つの選択肢があった。一つは、鄧小平を説得して『人民日報』4月26日付社説を改め、学生運動を『動乱』と見る見方を改めること、二つは病気を装い、『両面派』を演じること(しかし私は健康であり、それは言えないし、言葉では言ったとしても、やり遂げられないので、やはり『自由化反対』に力を入れなかった、と批判されるだろう)。三つは、私が選んだ通りの行動だ」 宗鳳鳴がすかさず聞く。
 「なぜ、どうしてその行動を選んだのか」
 趙紫陽の答えは、「歴史に借りを残したくなかったからだ」(我不願在歴史上留下一筆賬)というものであった。趙紫陽のボディガード李樹橋によれば、趙紫陽は天安門事件前にしばしば、「歴史を見ると、学生運動を鎮圧した者によい末路はない」と繰り返していた。
 また趙紫陽のゲリラ時代のボス趙健民(1912年~)には、趙紫陽は「むしろ総書記を辞めるとしても、歴史の罪人にはなりたくない」と語り、趙健民は「いついかなる時でも、心に違う自己批判をやってはならない」と趙紫陽を諭していた(宗鳳鳴自身は諭した本人の口から聞いている。2ページ)。
 実は趙健民自身が文化大革命期に誣告されて入獄した経験を持つだけに、この忠告には迫力がある。
  ◇鄧小平との分岐点
 さて長期の軟禁生活で外部情報を遮断された趙紫陽が宗鳳鳴に対して、「ゴルバチョフの評価」を聞く。全く食い違う二つの評価がある、と説明した。
 一つは東欧社会主義を瓦解させた裏切り者、罪人とする見方。二つはゴルバチョフの「新思惟が冷戦を終わらせ、人類を誤った認識から救出したとする見方。宗自身は後者を採る、と説明した。
 これに対して趙紫陽は直接的に感想を述べることはしなかった。ただゴルバチョフが「保守勢力と共産党組織の妨碍から脱して」、大統領と政府による直接的指導の下で委員会を組織し、「改革を断行したことを称賛した」(4ページ)。ここから逆に、趙紫陽がやろうとしてできなかったことの内容を知り得る。台湾の国民党が野党に転落した事件について、趙紫陽の見方はこうだ。「第二次大戦後、蒋介石は一つの党、一つの主義、一人の領袖による独裁からなる古いやり方をやろうとしていた」「しかし台湾に移って以後、蒋介石の代表する階級の利益、階級的基礎には変化が生じた」「加えて体制維持への危機感を感じて、反省を繰り返して改革を進めた。米国の援助などの特殊な条件もあってようやく国民党は変化した」(4~5ページ)。このような中国内外の変化をにらみながら、趙紫陽は改革派としての立場を固めていったが、鄧小平に対する印象はこう語っている。 「私は鄧小平と8年付き合って(華国鋒の後任として総理に抜擢されてから失脚するまで)、彼の性格がよく分かった。彼は一端決めたことを改めることはない。従って、天安門事件についても立場を変えることはあり得ない」。社会主義制度については、鄧小平は「所有制を軽視」しており、「所有制の形式」は意に介さない。「彼が着目しているのは、生産力だ」(5ページ)。まさに白猫黒猫論者そのものだと趙紫陽も証言した。
 趙紫陽自身は市場経済化を進めるだけでなく、「所有制関係も解決しなければならない」と見ていた。ここが鄧小平との分岐点になった。とはいえ、鄧小平もまた政治体制改革の問題提起は試みていたのであり、この意味では政治改革をいつ、どのように著手するのか、そこが分岐点になったと解するのがよいであろう。
  ◇趙紫陽の「政治的遺言」
天安門事件後、趙紫陽は主流派から二十数カ条の批判を浴びたが、うち21カ条について彼は反駁した。たとえば米国中央情報局(CIA)から資金をもらって「動乱」を支持し、「党を分裂させた」の類である。いわゆるソーロス資金問題である。これらについて趙紫陽は二つの報告にまとめて鄧小平に届けさせた。それを読んだ鄧小平は、当該事項についての趙紫陽批判をやめるよう指示した。これが初日、すなわち91年7月10日のヒアリング記録である。なお、この日、宗鳳鳴は趙紫陽処分を決定した第13期4中全会(89年6月23日)における趙紫陽発言の全文を記録している(これは89年に出版された矢吹晋編『チャイナ・クライシス重要文献』第3巻226~227ページに結論部分が、01年に出版された『天安門文書』張良編〈文藝春秋〉に抄訳が収められ、楊継縄著『中国改革年代的政治闘争』〈香港EPC社、04年〉には付録として全文が収められている。しかし今回のテキストが最も信頼に値するテキストと見てよい)。
 趙紫陽の弁明は、『軟禁談話』中、16ページにわたる長文で全5節からなる(6~21ページ)。第1節で89年4月中旬以後の学生運動と動乱の経過に対する趙紫の認識を述べ、第2節で同上時期における趙紫陽の対応を点検した。すなわち(1)胡耀邦追悼会以前の段階、(2)追悼大会から北朝鮮訪問まで、(3)北朝鮮訪問中のこと、(4)五四大会における講話内容について、(5)アジア開発銀行年次総会の講話について、(6)5月8日の政治局常務委員会および10日の政治局会議について、(7)ゴルバチョフとの会見について、(8)5月16日夜の政治局常務委員会について、(9)5月17日の鄧小平宅で開かれた政治局常務委員会について、(10)5月19日早暁天安門広場でハンスト学生を見舞ったことについて、(11)5月19日の戒厳令布告大会を欠席した問題について、である。
  第3節では、「経済工作の欠点、過ち、責任問題」を論じ、第4節では「ブルジョア自由化反対」に趙紫陽が消極的だと批判された問題について所信を述べている。
  ◇総括
 趙紫陽は宗鳳鳴に対して、この書簡を密かに「印刷するのに苦労した」こと、政治局常務委員7名と楊尚昆、万里、そして于光遠(元中央顧問委員会委員)、李鋭などには送るが、弾圧の口実を与えるのを避けるために、その他の者には送らないことを説明した。
 趙紫陽の当時の心境は、たとえ党から除名されようとも、第15回党大会で自己の一貫した立場を表明したかったのであろう、と宗鳳鳴は忖度した(260ページ)。
 趙紫陽がこの書簡を送った3日後に、香港「蘋果日報」(9月15日)が建議全文を報道した。9月17日には「ワシントン・ポスト」が「書簡」について、「銭其シン外相は趙紫陽書簡を第15回党大会事務局が受け取った事実を確認した」と報じた。ここから騒ぎが大きくなった。
 間もなく中央弁公庁から趙紫陽宅に係員が訪れ、趙紫陽は「紀律に違反した」「大局を顧みない」とする二つの罪状を告げた。趙紫陽は大いに怒り、「党員がなぜ中央宛て、党大会に宛てて、書簡を書いてはいけないのか」と抗議した。翌日から趙紫陽は来客と会うこと、ゴルフ場へ外出する、これまで認められていた外出を禁じられた。
 誰がこれを決定したのか。いうまでもなく江沢民である。彼は自らの前任者・元総書記に対して、これまでの二つの罪状(「動乱支持」と「党を分裂させた」)に加えて、「紀律違反」と「大局を顧みない」という新たな二つの罪状を加え、「軟禁」の程度をエスカレートさせる処分を行った。
  ◇経済改革では鄧小平と一致
 この結果、宗鳳鳴は翌年5月27日までの8カ月余、趙紫陽宅を訪問できなかった。趙紫陽は02年の第16回共産党大会に対しては、もはや改めてこの問題を提起することはせず、05年1月に死去した。
 趙紫陽の天安門事件に対する態度に接して改めて思うのは、江沢民のような無能な指導者ではなく、改革派・趙紫陽が中国共産党の指導部にとどまったならば、現在の中国とはかなり異なる中国が現れたに違いないという思いである。
 04年10月24日の最後の面談で、宗鳳鳴は鄧小平路線と趙紫陽路線の違いを総括している。
 鄧小平の改革は「市場経済+集権政治」であったのに対して、趙紫陽のそれは「市場経済+民主主義+法治」であった、とまとめている。趙紫陽にとって最も心残りであったのは、政治体制改革ができなかったことだ。
 鮑彤はまた趙紫陽の経済改革路線を鄧小平が全面的に肯定していたことについては、『鄧小平文選』(2巻296ページ)の語録を引用している。それは天安門事件以後、すなわち趙紫陽失脚後に、第13回共産党大会の趙紫陽政治報告は「一字一句変えてはならない」と指示したことだ。つまり、政治体制改革の問題を除けば、鄧小平と趙紫陽のスタンスは一致していたことを鮑彤は改めて強調している。
  ◇胡錦濤はどう受け止めるのか
 趙紫陽が政治体制改革について明確な立場を保持し、終生これを変えなかった事実は、中国の改革派にとって大きな援軍となろう。今秋[2007]の第17回共産党大会の政治路線にどれほどの直接的影響を与えるかは予断の限りでないが、中国における腐敗の蔓延、民衆の政治不信の蔓延が江沢民による政治改革棚上げにあったとする趙紫陽の証言は、ますます現実の結果として現れてきた。胡錦濤の中国がどこまで趙紫陽の遺言を真摯に受け止めるのか、注目したい。
(原載 時事通信オンデマンドブックレット、e-World 2007年秋季号、第2号)
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