縄文巨大石棒の謎(第3回)

中村 公省
(東京都町田市在住)

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電子礫・蒼蒼
第82号 2018.04.29
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室内石棒+埋甕の祈り(中)

〔3〕唐渡宮遺跡埋甕の大股開き図は受胎図である

 さらに、もう一つ埋甕事例をじっくり検討しましょう。誰もわかっていない謎に挑むわけですから、こと細かな検証が必要になります。ブツは、八ヶ岳南麓の曽利「文化」の本拠である唐渡宮(とうどのみや)遺跡から出た埋甕に描かれていた、かの有名な、女性の大股開き図です。(図5、図6)
 この埋甕の出土状況は屋内ではありません。屋外埋甕です。報告書によれば、口径1.1m・底径90㎝という大穴に、高さ20㎝程度の別の小甕2個と一緒に、小石の敷かれた上に埋設されていました。注目されるのは、本体の埋甕の巨大さで口径50㎝・高さ63㎝、しかも全く無垢であったという事実です。埋甕は縄文を使わない曽利式土器で、発掘報告書の所見は以下のごとくです。
 「埋甕の施文は、口縁部に曽利Ⅲ式土器の特徴である同心円から転化した遮光器文様がびっしりと並ぶ。懸垂文は、三条の沈線文と蛇行沈線文を交互に配し5区画とし、その空隙を櫛状施文具による櫛描条線で満たしている。底部には鮮明できしっとした網代痕が残っている。」
 巨大埋甕に描かれた図は、発掘報告者の武藤雄六によって、「お産の最後の状景であろうと思う。したがって、落下する物体は後産と解すべきが妥当となろう」とされています。それ以来、この大股開き図は出産図とされています。
 武藤雄六は女性の頭の描写を「天に上る鬼神」の如しと直感して、生ける顔にあらず「死顔」だ、難産で母子ともに死んだものと解釈しなければならない」と言っていますが、この所見は意味深長であります(以上『唐渡宮―八ヶ岳南麓における曽利文化期の遺跡群発掘報告書』1988.9)
 渡辺誠(名古屋大名誉教授、日本考古学協会副会長)が、異論をはさんでいます。曰く、
 「この絵には正中線〔土偶に必ず描いてある妊娠線〕がないのです。したがってこれから妊娠する予定の女性です。お乳も小さく描いてありますね。なのに下部のこんなところだけ、大きく描いてあるのです。ここには大地からかげろうのように子供の魂がはいるところをあらわしているということになります。」(渡辺誠『目からウロコの縄文文化―日本の基層を探る』p.73、2008.12、ブックショップ マイタウン)
 出産か、妊娠かでは、上下方向が逆です。胞衣がぶら下がっているのか、幼児の遺骸からタマシイが上昇していっているのか? しかし、絵自体がかもしだすイメージを主観的に論じても決着はつかないでしょう。そもそも、誰が描いたのか、何のために描いたのか、作画のシチュエーションを想像してみるべきです。
 「全く無疵で、しかも高さ60㎝を越す大甕」に「膠墨を使った顔料で人体を、通常考えられない埋設直前に描いている」(武藤雄六、同上)と観察されていますが、描き手は、遺族であるとうちゃんでも、じいちゃん・ばあちゃんでも、おじさん・おばさんでも、あり得ず、肉親外の第三者でしょう。誰か? 絵を描けるのは、司祭者以外にはない。大股を拡げた肢体をあられもなく描いているところから推して、司祭者はムラオサではなく、女=オババであり、絶対的不可能なことを可能にする呪術者だったと見られます。唐渡宮遺跡近くの井戸尻考古館には頭髪にトグロを巻いた蛇を戴いている土偶(藤内16号住居址発見・縄文中期)がありますが、この女は蛇符をあやつる呪術者だったでしょう(谷川健一『魔の系譜』pp.32-38、講談社文庫、1984.11)。国宝第1号の「縄文のビーナス」(棚畑遺跡出土・縄文中期前半)の頭にも渦巻を描いたターバンが載っています。もう一つの国宝「仮面土偶」(中ッ原遺跡出土・縄文後期前半)が「マツリを行う女性」であることも明白です(茅野市尖石縄文考古館)。要するに縄文中期の八ヶ岳山麓では巫術、呪術をよくする女シャーマンが大活躍していたのです。
 素描者が女シャーマンだったとしても、では、「難産で母子ともに死んだ」近親者の眼前で埋甕にさらさらと「お産の最後の状景」を描くなんてことが想定できましょうか? およそ、考えられませんね。子供を死産し、自らも落命した母親を納めた大甕、子供の入った小甕を前にした悲嘆渦まく修羅場で、オババは厳かに祈り、呪術を行使したでありましょう。
 オババが筆を走らせる。お母さん! 貴方も赤ちゃんも蘇れ!
 これ、この絵のごとく。生き直せ、生まれ直せ! 赤ちゃんのタネが宿る! 
 死んだ子供のイノチを、この世で再循環させて、もういちどお母さんのお腹に戻して生まれ直してもらいたい、という悲痛な願いを叶えるのがシャーマンの役割です。埋甕の大股開き図は、祈りが通じ、絵のごとく受胎し、やがて再生して生まれ直すことができるという悲願成就の図に他ならなかったでありましょう。



図5  唐渡宮遺跡から出た埋甕―甕の下部に墨で女性の大股開き図が描かれている
(出所)唐渡宮遺跡
http://kisetusiyasin.yu-nagi.com/medousa/neriinauman/buttsitu/2/umekame.html

 武藤雄六(井戸尻考古博物館初代館長)は報告書で、この絵を想像力豊かに観察しています。
 「物語風に結べば、曽利Ⅲ期のある日、ここ唐渡宮に住んでいた神と崇められる女性がお産をしたが、難産のすえ母子ともに死んでしまった。そこで、無垢の大甕にその様子を描き、貉沢の崖縁に大きな穴を掘り、鎮魂のために小石を並べ、その上に女神を納め大甕と、赤子と後産を納めた子甕を並べて埋葬した。つまり、大甕は主棺であり、二つの小甕は陪棺と称すべきものであったろうと思われる。」(唐渡宮 八ヶ岳南麓における曽利文化期の遺跡群発掘報告1988.9p192)
  「大甕と赤子と後産を納めた子甕」――忠生埋甕文化の本家本元である曽利の本拠にも、後産を納める風習はなかったと先に私は断じました。そこで、「大甕と赤子を納めた子甕」と訂正しなければなりません。「二つの小甕」には「二人の赤子」が納められていたと見ざるを得ません。双子が特別視され、特別扱いされる民俗事例が日本でも外国でも多々あり、出産・育児についての特別の想念を斟酌すべき余地も残しています。【注4】
 また、産褥死と母子合葬に関しては、渡辺仁『縄文土偶と女神信仰』(2001.5、同成社)が世界の狩猟採取民及び牧畜と農耕民(男子農耕社会)の両民族に見られる子殺しの事例を30例近く列挙しているのが注目されます。例えば、以下のごとくです。
 「出産で母親が死に、生まれた子に引きとる別の女性がいない場合は、森林に捨てるか、その母親の墓に生き埋めにされた。」(南米、北西アマゾン流域、ウイトト族)
 「北部マイドゥ族では、母親が幼い子を残して死ぬと、その子は原則として、あたかも授乳しているように母の胸の上に横たえられて生き埋めにされた。」
 「嬰児の母親が死ぬとその子も生き埋めにされた」(アラスカ・エスキモー)
 「母親が出産後間もなく死んだ場合はその子も死ぬ運命にある。主な理由は、母親があの世で子とともに居たいというよりも、赤子に授乳するすべがないからである。」(エスキモー一般)(以上、pp.88-92)
 私は思うのですが、ここから、いろいろなストーリーを描くことが可能です。しかし、大股開き図物語において武藤雄六は長蛇を逸していると思われてなりません【注5】。この傑出した非アカデミズム考古学者に敬意を表して、ここで死者を、産褥死した母と双子とみなし、上下を逆転させた、極めて控えめのストーリーをイメージさせてもらいましょう。

双子を孕んだ妊婦がみまかった。母親のお腹から子供を救出しようとしたがままならず、二人ともこの世に生れ出ることができなかった。〔ここで、私は歴史的事実を重ね合わせています。1950年、福島県会津の山村で、40歳になる女性が死亡した。出産直前に、一種の妊娠中毒症にかかり、おなかの女の双生児も亡くなり、一つの棺に三つの屍体を納めて埋葬し、役場には二通の死産届けを提出されたのです。〕【注6】
親子を別々にするのは、なんとしても忍び難い。
特殊なケースに遭遇して、特別な葬儀方法――双子の赤ちゃんのこの世での復活を祈り、同時に大人の母親のタマシイをあの世に送りとどける複合的な儀式が案出された。即ち、母親は土葬ではなく屋外埋甕葬で、幼児も屋内葬ではなく屋外埋甕で、別々の埋甕におさめ一緒に葬る方法がとられた。〔特別な葬儀方法としては、アイヌの「共に開いて出る」儀式を別途、文末注に紹介しておきます。【注7】
入棺に際しても特別な儀礼をあみだし、神と崇められているシャーマンのオババが、儀式出席者の面前で、墨痕鮮やかに、復活祈祷図を描いた。お母さん、戻っておいで! 赤ちゃんもお母さんの体に戻って、もう一度生まれ直すことができる! そうさせてみせる! ウオーッ!嗚咽の渦のなかで、オババはひたすら呪術をほどこし、祈り狂い、憑依、脱魂した。

図6 唐渡宮遺跡から出た埋甕に描かれていた女性の大股開き図
出産の図か、それとも受胎の図か? 頭部(頭・顔・首)が塗りつぶされているのは何故か?
(出所)『唐渡宮 八ヶ岳南麓における曽利文化期の遺跡群発掘報告 1988.9』


 
◇ ◇ ◇ ◇
 


〔4〕忠生遺跡で室内石棒祭祀は如何に行われたか?

 唐渡宮遺跡埋甕の大股開き図に、年甲斐もなく興奮してしまいました。頭を冷やして、振り出しに戻りましょう。
 埋甕の中には何が入っていたのか? 
 屹立する石棒によって何が祈られたのか?

 119号住居の東南の出入り口部には、埋甕とともに無頭石棒が立っています。ここでは死亡幼児の葬儀が行われたに違いありません。この世に生まれ出ずることがかなわなかった幼児はあの世に送るわけにはいかないのです。何故なら、仮にあの世に送ったなら、あの世でもまた生まれ出ることができなくて、この子は永遠に生を見ることが叶わないからです。死産児は、この世のうちに止めおき、お母さんの体に戻して、もう一度生まれ直してもらう、そうすれば生を授かることができる。祈りに、祈る。唐渡宮遺跡埋甕の大股開き図のごとく、お母さんの体に、遡ってゆき、やがて再生して、生まれ直すことができる。即ち、この世とあの世とのイノチの循環を絶たれてしまった幼児は、改めてこの世のうちでイノチを再循環させることによって、この世に復活させ、成人となってはじめて、この世とあの世とのイノチの循環の軌道に乗せ得るようにしたと思われるのです。
 イノチのリセット儀式を行う石棒は無頭(包茎)であって、未成熟を象徴しています。また、この石棒はひょいと持ち上げることができ、別の家の中の穴ぼこに立てることができ、別の祭祀を執り行えます。無頭石棒はあの世に送る必要のないものですから、ムラに1本あれば十分です。石棒と埋甕がセットになって出土することが多くないのは、こうした理由によっていると思われます。【注8】
 無頭石棒は、同時代の石棒工房である西野牧小山平遺跡から出た、制作途上の数々の証拠品から、有頭のものと無頭の者が並行製作されていたことがわかります。即ち、有頭石棒はムラ一族の祖霊祭祀用・葬儀用(ムラオサによる中央広場祭祀)であり、亀頭を欠いた無頭石棒はイエ家族の幼児葬儀用(女性祈祷師による住居内祭祀)であって、中期後葉・加曾利E3式期時代に両者は明確に使い分けられていたと推定されます。
 忠生遺跡A1地区で、中期中葉・勝坂時期には無頭石棒は出土していないと思われるし、土偶も全く発見されていません。逆に、中期後葉期に室内無頭石棒とともに有頭の大石棒が存在したかどうか? これについては、存在した、と言えます。何故なら、忠生遺跡A1地区では、石棒が遺構内から37点、遺構外から45点、計82点の欠損品が出土しており、そのうち中期後葉・加曾利E2式期に相当する第51住居址から大型石棒(欠損品)が出土しているからです。調査報告書にはこうあります。
 「端部がやや窄まった大型石棒であり、おそらく基部側とみられる。表裏面及び末端面に多数の凹みをもつ他、砥石としての利用が見られ、浅く窪んだ縦方向に砥ぎ面が見受けられる。」
 すると、中期後葉の加曾利E3式期には、中央広場で大型有頭石棒を使ってこの世からあの世への送り祭祀(葬儀)及びあの世からこの世への祖霊の迎え・送りの祭祀が行われ、さらに住居室内では無頭石棒を使って夭折した子供の、この世での生まれ直しを祈願する祭祀が同時並行的に行われていたと考えられます。前者はムラビト共通の宗教的世界の儀式であり、後者はイエの家族にかかわる呪術的世界の儀式です。私は先に、この中央広場での大型石棒祭祀を主宰したのはムラオサであると見なしましたが、住居室内での無頭石棒を使っての、幼児の生まれ直し祈祷祭祀を主宰したのは恐らくオババ=女性呪術師だったでしょう。
 推測の根拠は、アイヌにおける男女の社会的役割分担にあります。山田孝子『アイヌの世界観』によれば、アイヌ社会では、宗教儀礼が男の手に委ねられるのに対し、呪術的行為は女性のものとされていました。
 「男性は神の(宗教的)領域に、女性は呪術的領域に関係する……。このような神話でのジェンダーによる役割の違いは現実の生活においても認められる。じっさい、各種の宗教的行事をとり行うのは男性である。儀式においてカムイと直接交流するカムイ・ノミ(神への祈り)を行うことができるのは男性のみであり、女性はシヌラッパ(先祖供養祭)の場合を除きカムイと直接対話することができないのである。これに対し、神憑りになって病気治療や占いをするシャマン(トゥス・クルと呼ばれる)は、……女性が一般的である。」(山田孝子『アイヌの世界観』1994.8、p.99、講談社)
 男性が宗教的領域を司り、女性が呪術的領域を統べて、男と女が一体となってその与えられた役割を演じて、<一対の神>が成立している、というアイヌ社会の宗教儀礼は、縄文中期後葉の忠生村にも見られたのではないでしょうか。大型石棒祭祀は男のムラオサが、この世とあの世とのタマシイの行き来の祭祀に使い、住居室内無頭石棒の方はシャーマンを兼ねるムラのオババがこの世でのタマシイのリセットの呪術のために使い、両者が<一対の神>となって、忠生村のムラビトのイノチのよりどころとなった姿が推測されます。
 呪術の一種である巫術には「呪う」面と「占う」面との二つの方向があるそうですが、シャーマンによる卜占を必要としたのは、思いがけない災禍への対策だったでしょう。洪水、津波、疱瘡その他疫病、日・月食、地震、あるいは変死者などなど。そのアイヌの世界の儀式次第が、金田一京助の教え子の久保寺逸彦によって以下のように記録されています。
 「酋長を初め、長老、その他の村人たちが大勢集まって来て、巫女を招き、、巫女に神懸かりさせ、その口を通して、神の意志を伺って対策を講じようとする。巫女に神懸かりさせるには、まず、男子の故老がイナウ(幣)を酒(トノト)とを供え、神祈り詞(イノンノ・イタック、雅語の叙事詩体をとる)を述べて、神々を祀り、「神下しの詞」(カムイ・エスニック・イタック)」を唱える中に、巫女は次第に、神懸りの異常意識に陥り、何かぶつぶつ歌う様に口走り出るが、それを「神の宣託=神語」とし、傍に坐る男子の故老が審神人(さわにん)として、その宣託を判断して、村人の当面する災禍、吉凶、禍福の依って来る原因、いかにそれに対処すべきかを知るのである。」(久保寺逸彦「叙事詩(二)」(アイヌ文化保存対策協議会編『アイヌ民族誌』1970年、第一法規出版社所収、pp.476)
 アイヌの宗教や儀式の根底に横たわるものは、アニミズムの観念を背景とするシャーマニズムでした。
 そこで、改めて考古学的所見の方に戻りましょう。忠生遺跡119号住居址の石棒には凹み穴が多数穿たれています。一方向からのみスケッチした報告書の図7からは33の凹穴を数えることができます。円柱をぐるっと廻して数えていけば、この倍以上の凹穴が記されていると推測されます(報告書では凹穴数が数えられていない)。
 凹穴は女性マークで、「石棒と凹み穴は男と女の象徴として合体したものと考えるのが自然だろう」(能登健『列島の考古学 縄文時代』p.77、2011.6、河出書房新社)。第1回目で書いた67号住居址の大石棒は◎◎◎◎が4つ、あらかじめ彫刻されていましたが、こちらの無頭石棒の小さな◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎は、ランダムな並びであり、各々大きさが違い、正円をなしていません。即ち、出来上がっている無頭石棒に、あとで新たに穿った穴ぼこだと断じてよく、祭祀を行うたびごとに祈祷者がマーキングしていったものと推測できます。◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎付の無頭石棒は、マグワイを重ねて、もういちどイノチを授かって、生まれ直しおいでなさい、という祈りを、リアルな世界で実現保証する象徴的デモンストレーションと見られます。33以上の凹穴数から、33回以上のデモンストレーションをやっていると見ていいでしょう。タダオの呪術師オババはしたたかでタダモノではありません。


図7  119号住居址出土の石棒スケッチ(右)〔左は119号住居址中央炉址内の石皿破片〕
33の凹穴を数えることができる。凹穴は女性器を象徴しており、33回以上の両性合体儀式が行われたことが推定される
(出所)『忠生遺跡 A地区(Ⅲ)忠生遺跡調査会 2011.3』
 
 注4  双生児については大塚民俗学会編『日本民俗事典』(1972.2、弘文社)にこうある。「日本だけでなく世界の各民族を通じて、双生児は大体歓迎されなかったようである。双生児は異例であり、育てるのも大変なので、双子についての俗信は多い。」
 さらに重引ながら、双子に関して以下のような記述を目にしている(飯島吉晴「生育儀礼と性の逆転」、安井真奈美『出産の民俗学・文化人類学』所収p.109)。〈長島信弘は、「ふたごを邪性あるいは獣性のあらわれとするところでは、肉体的あるいは社会的に抹殺するという解決策がとられるようですが、神性と結び付けられているとき、すなわちふたごは人であって人でなく、霊界とこの世とに同時に所属すると考えられている場合には、ふたごは神の祝福であると同時に、その力ゆえに危険な存在になります。ここに、神話や儀礼を中心としたふたごの文化複合が形成されるのです」(長島信弘「ふたごの神秘力」『月刊みんぱく』2巻12号、1976年)と述べている。〉
注5  ドイツ・フライブルク大学東洋研究所日本科教授であったネリー・ナウマンは、「縄文時代の精神世界」の優れた研究者であったが、彼女は唐渡宮遺跡から出た埋甕絵画に対して、「死者の再生と関係するかもしれない」とまで迫っている。
 「使用された黒色顔料は炭粉入り膠であり、毛筆のようなもので描いている。絵画は数か所で少し剥落があるにしても、痕跡は残っている。人体は両足を左右に大きく広げ、両膝を内湾させて地面に踏ん張り、付け根状の両腕は土偶一般のように、左右に伸びている。点は乳房と臍であって、ここまでは理解しやすい。しかし、臍の下のもう一つの点とそれに垂下して、女性の両足の間から出てきたような長楕円形の物体を判断するのは難しい。どんな物体が、下方の地面まで届くような筆づかいで表現されているのかも判断が容易ではない(『唐渡宮』)。多少とも出産場面の表現であるのは確かのようで、ただ詳細については議論の余地があろう。発掘した調査員らが推測するように、三個の土器を埋設した穴は墓であったかもしれない。その場合、絵画は死者の再生と関係するかもしれない。そうした思考――件の絵画ほど自然主義的な表現でないものの――はたびたび現れる象徴を通じて、この地域の多くの遺跡から出土した土器に多数見られるものだ。」(ネリー・ナウマン著、檜枝陽一郎訳『生の緒』p43、2005.3、言叢社)
注6  悲劇が繰り返されることがないではなく、一度あったことは二度あり得る。私は、空想物語をしているわけではないのだ。
 「一九五三年、民俗学者の山口弥一郎は、自分の関ったある事件を『民間伝承』に発表した。それは次のようなものである。
 一九五〇年、福島県会津の山村で、四〇歳になる女性が死亡した。出産直前に、一種の妊娠中毒症にかかり、おなかの子どもとともになくなってしまったのである。葬式を出すために集まった親類や村の人々は、「おなかの子どもがもう少しで生まれる、という時になくなったのだから、この仏様は浮かばれまい、必ず化けて七年間は、この家の棟にまつわりつくに違いない」と語り合った。そして、親族会議を開き、村の医者に頼んで、亡くなった妊婦の腹を裂き胎児を摘出することに決めたのである。取り出されたのは、女の双生児であった。そのため、一つの棺に三つの屍体を納めて埋葬し、役場には二通の死産届けを提出した。」(安井真奈美『怪異と身体の民俗学――異界から出産と子育てを問い直す』p.15、2014.12、せりか書房)
注7  ここでアイヌの世界における、「特殊なケースに遭遇して、特別な葬儀方法――産死した赤ちゃんのこの世での復活を祈り、同時に大人の母親のタマシイをあの世に送りとどける複合的な儀式」を紹介しておきたい。出産と女性そして妖怪との関係を示す民俗的事例が、しばしば見られることも看過できない。「たとえばウブメという妖怪は妊娠中に死んだ女性の霊魂が怨念となってこの世に戻ってくる姿だと言われている」(宮田登『妖怪の民俗学―日本の見えない空間』p.29)
①久保寺逸彦証言―-産死した産婦の埋葬
 産死(ホネコツ<腹のために死ぬ>ホネエン<腹のために悪くなる>)した産婦を埋葬するには、一般の葬式と同じ形式によるが、墓についてから、埋葬する前に会葬者を退け、周囲を茣蓙で囲い、ぼろを着た気丈な老婆が、屍の包みを解くか、あるいは丈夫な柄を付けた鎌で切り開き、中の母体の腹を裂いて、死児を取り出し(これをコニ・チャラバ<産の痛みを散らす>という)母体の懐に抱かせてから、再び茣蓙に包んで埋葬したという(幌別、白老)。日高二風谷では、鎌で一回切る真似をするだけで、実際には、腹までは割かなかった。埋葬し終わったら、会葬者一同その墓のまわりをまわって悪魔祓いの強歩の行進(ヅシリ・オカリ・ウエヱンテ)を行うという(幌別)。このようなことは産死ではなく、臨月前の産婦が死亡した際も行ったという(幌別)。一見、無惨なことのように見えるが、産婦が産みたくて死んだのだから、産ませたことにしてやって後に心を残さないようにさせてやろうという温かい思い遣りからすることなのである。この時、故老が、神々に祈り、産婦にも告辞を述べるが、普通の形式のものと違って、あの世へ行って一緒に暮らせるように述べるという。(久保寺逸彦「生死・冠婚・習俗行事 妊娠と出産」アイヌ文化保存対策協議会編『アイヌ民族誌』所収、1970.4、p.463)
②N.G.マンロー証言―「共に開いて出る」と呼ばれる儀礼的慣習
 昔は妊娠した女性が亡くなると、埋葬のために遺体に土がかけられる前に、一人の長老か老女が<ウコ ニ チラバ>(共に開いて出る)と呼ばれる儀礼的慣習が行われていたようです。つまり、遺体の腹部を鎌で傷つけて胎内の赤ん坊の魂をそこから出してやっていたのです。これは確かな筋から聞いたことですが、北部の地域ではこのような場合には遺体の腹部に針を刺して赤ん坊の魂を出してやっていたということです。(N.G.マンロー著『アイヌの信仰とその儀式』p.197、2002.9、国書刊行会)

 以上のような「特殊なケースに遭遇しての特別な葬儀方法」をアイヌの浦川ハルから聞き知って、土偶とは何か、着想したのが、哲学者の梅原猛である。
「 (一)土偶はすべて妊婦の像であり、腹がふくらんでいる。
 (二)土偶は完全なものはない。手足がバラバラになっている。
 (三)土偶は異様な貌をしていて、とくに目は開かれているか、かたく閉じられている。
 (四)土偶の腹には、縦一文字の傷のような線がある。
 これはやはり、浦川ハルさんがいうように、腹に子どもを宿してから死んだ妊婦の像にちがいない。土偶はそういう妊婦の死に対して、妊婦と胎児をともにあの世に無事に送ろうとしてつくられたものにちがいないと考えたのです。」(『梅原猛著作集』第17巻p.415)
 この梅原猛説は、極めて「特殊なケース」を土偶一般に拡大解釈する危険を冒していると思われる。土偶すべてに(一)~(四)の特徴があるという事実認識は無理がある。(四)の土偶の腹の縦一文字の傷のような線については、臍から下の線は割腹疵と見なせるにしても、臍から上は誰が見ても割腹疵と見なすことはむずかしい。(一) の土偶は妊婦像、(三)の異様な貌も、「すべて」の土偶の特徴とは言い難い。唯一妥当するのは、土偶に完品はないであるが、これは土偶に限っての特徴ではない。この世とあの世はアベコベの構造をしているのであって、この世からあの世へ送るには、完全なものを不完全にする、生きているモノは殺す、完品は破壊するのが鉄則である(これは梅原猛説自身が力説するところである。河野広道「貝塚人骨の謎とアイヌのイオマンテ」(『人類学雑誌』50(4)、1935)が熟読吟味されるべきであろう。)
 「腹に子どもを宿してから死んだ妊婦」については、あくまで、「特殊なケースに遭遇しての特別な葬儀方法」とすべきである。私は梅原猛の「日本人のあの世観――人類普遍の哲学」を非常に高く評価するものであるが、土偶が何たるかについては梅原猛とは全く異なる見方をしている。その詳細については、忠生遺跡の背面人体文土偶を具体的に検証するなかで論じる予定である。
注8  縄文中期中葉~後葉の時代の遺跡で、住居の出入り口部に埋甕と石棒がセットになった出土例が他にあるかどうか? 
 木下忠『埋甕――古代の出産習俗』巻末の「埋甕の資料」によれば、諏訪富士見町の藤内遺跡(中期・井戸尻Ⅰ式期)の第7号住居址に1例ある。「南西隅に大型の鉢型土器の埋甕があり、上部に有頭石棒が直立して立っていた。」(p.229)
 また、国学院大学のデータベース(『縄文時代の大形石棒――東日本地域の資料集成と基礎研究』2011、国学院大学研究開発推進機構学術資料館)によって調べてみると、以下の4例を発見できる。
 ① 中期中葉――山梨県古林第4 2住
 ② 中期後葉――長野県伊久間原89住
 ③ 中期後葉――埼玉県上本田57住
 ④ 中期後葉――神奈川県市ノ沢団地11住
   
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