縄文巨大石棒の謎(第6回)

中村 公省
(東京都町田市在住)

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電子礫・蒼蒼
第86号 2018.09.14
蒼蒼 目次へ >>

土偶は巫女の呪術具であった
(その二)

〔2〕「頭上の蛇」は人類の共通遺産である
 前回、「『縄文のビーナス』の頭上ではマムシがとぐろを巻いている」と書いて、「縄文の美」の讃美者たちから顰蹙(ひんしゅく)を買いました。顰蹙とは、不快の念を表わして顔をしかめること、生理的不快拒絶症の意味です。心地いいことしか見ようとしないんですね。
 ヒトは蛇に出会っただけでザワーとした嫌悪感が走る。毒蛇ともなれば腰が引ける。そんな毒蛇を頭の上に載せているなんてことがあろうはずがない。あってたまるか!
 ところが、どっこい、この世は美しいことばかりじゃないんですヨ。人類の歴史は蛇だらけですゾ。
 私が言うんじゃ信用できないでしょうから、この際、エジプト歴史研究の大城道則駒澤大学教授の説に耳を傾けてみましょう。以下の画像の方は、ネットサーフィンで画像検索して、私が勝手に挿入したものです(ありふれていて、始原出所は辿れないので、出所明記しません)。

 「ヘビは神々やその頭髪と強い繋がりを持っている。例えばヘルメス神は二匹のヘビが絡み合う杖であるカドゥケウスを持ち、古代ギリシアの酒の神ディオニソスはしばしば頭部にヘビを着けた牡牛の姿で現れると人々に考えられていた。」


 ヘルメス神

ディオニソス

 「頭髪が無数のヘビであり、みる者を石へと変えてしまう能力を持つゴルゴン三姉妹の一人メドゥーサなどが良く知られた存在である。」


 メドゥーサ

 「長野県藤内遺跡の16号住居址から出土した縄文中期の土偶の頭頂部にはとぐろを巻くヘビが着けられている。奄美大島の祝女が従女の頭髪にハブを巻きつける例や宮古島の巫女が祭事の時にハブを頭髪に載せる事例も知られている。」


奄美大島の祝女ノロクモイ



 「紀元前一千年頃に栄えたアンデスのチャビン文化の神ランソンもまたメドゥーサのようなヘビを髪の毛として持っている。」


アンデスの神ランソン


 「シベリアのシャーマンが衣装に付けるリボンは「毛髪」と呼ばれるが、それは同時にヘビの意味を持つことが知られているし、トゥングースではカフタンと呼ばれるマントの背中に吊り下げられたリボンをクーリン=ヘビと呼ぶ例がエリアーデによって紹介されている。」


シベリアのシャーマン


 「頭髪の重要性は古代エジプトにおいても知られており、太陽神ラーの髪の毛は当時高価な宝石であったラピスラズリでできていた。さらにツタンカーメンのミイラの頭骨上には、金とファイアンス製ビーズで四匹のコブラを描いた亜麻布製の頭巾が被せられていたのである。」(大城道則「古代エジプト王権の象徴としてのヘビについて―ジェベル・タリフ・ナイフハンドルと自然崇拝―」(『駒沢史学』84号、2015 p.43)


ツタンカーメンのミイラのマスク


 以上、大城道則教授の講義で、「縄文のビーナス」の頭上に蛇が蜷局を巻いていても、なんも驚くに値しないことがお分かりいただけましたでしょうか。教授は、何故? の問いにも答えてくれています。毒を以って毒を制するのだ、というのです。
 「ヘビはまた一般的に人々に忌み嫌われる対象であるがゆえに、反対に強烈に神聖視され易いという特徴を持っている。例えばオーストラリアのワルラムンガ族の呪医は、ヘビを体内に招き入れることによって特殊能力を得ると考えられているし、シベリアのヤクート人の伝説によると、最初のシャーマンの身体はヘビの塊でできていた。聖なる力を持つ呪医やシャーマンは、人々に避けられるヘビと密接に関係していることがわかるのである。アイヌでは悪霊であるヘビに取り憑かれた病人を救うためにキナシュッカムイと呼ばれる蛇神の模型を作り治療を行なうことが知られている。キナシュッカムイはヘビの最高位にある霊魂であるため、自分の一族のなかで不埒なまねをしたヘビを追放・抑制する力を持つと考えられていたのである。悪をさらなる巨悪でもって制するという構造がここにみられる。またユダヤ教の神ヤハウェの両足をヘビとして描いた図像も知られている。ヨーロッパでは薬局のマークとしてしばしば医学の神アスクレピオスの象徴としてのヘビが使用される。中国春秋戦国時代の呉越の人々は、ヘビの肉を食べることを忌み嫌っていたが、もし子供が食べてしまった場合は、その子が成人してから吹き出物・瘡ができないと考えていた。これらは毒を以って毒を制すというアンビバレントな思考を反映したものなのであろう。忌避と神聖とは表裏一体なのである。」(同上、p.38)



 さて、奄美大島の祝女が従女の頭髪にハブを巻きつける例や宮古島の巫女が祭事の時にハブを頭髪に載せる事例の、そのすぐ南、台湾の少数民族の頭上の蛇は、私の以下の論考にとって極めて重大な意味を帯びていますので、民俗学者・吉野裕子『蛇 日本の蛇信仰』(ものと人間の文化史32 法政大学出版会、1979.2)の一節を追加参照させてもらいます。
 「台湾大学考古学資料室及び中央研究院民族学研究所は、…パイワン族をはじめとする高砂族による蛇の造型が数多く収蔵されている。それらは人面と蛇の木彫板、屋内装飾の彫刻、祭祀用土器の類に夥しくみられるが、その背景をなしているのは、……百歩蛇〔この蛇に咬まれると百歩歩かぬうちに死ぬ、ということからこの名をもつ毒蛇〕に対する信仰である。百歩蛇を頭上に頂く男女祖先神の等身大の木彫板、或いは百歩蛇の蛇体の上に祖先の人面が刻まれている木彫板は、いずれも頭目の標識としてその屋敷の前面に立てられたものである。」(pp.140-141)


 同上『蛇―日本の蛇信仰』p.141より


 下の人物写真の方は、ネットサーフィンで拾った台湾高砂族(今は高山族と呼ばれている)の往時の姿です。これ自体は史料価値ゼロですが、イメージとして強烈で、学術的論証力のある歴史史料の探索を促されます。「陶罐」のほうも発掘物なのか、おみやげ物なのか定かではありませんが、縄文中期前半の土器に造形された蛇に酷似していて、確固とした原始資料を探し出さなくてはなりません。
 こんなものを持ち出すと、眉に唾つける方がいるでしょうから、明治期の学術論文である伊能嘉矩「台湾土蕃の蛇につきての敬虔的観念及び之に伴生する模様の応用」(『東京人類学雑誌』第25巻第244号、1906.5)と伊能嘉矩「台湾のツォ蕃族に行はるる疾病の祈祷及び死者埋葬」(『東京人類学雑誌』第25巻第290号、1906.7)の二論を参照済みであることをお断りしておきます。また『台湾総督府蕃族調査会報告書』(1920-22年)には、写真入りで台湾各少数民族の宗教と巫術がもっとたくさん、詳しく報告されています。大日本帝国の遺産は学術的価値があるのか無いのか知りませんが、私は、この塩蔵民俗資料を、縄文時代の巫女の巫術解明のために積極的に使おうと思います。


 (左)台湾高山族鲁凯人の服飾、(右)高山族の陶罐
(「人蛇结婚、人蛇互变……」『半岛都市报』2013年2月8日より)
 

 そういえば、忘れものがありました。実は、「縄文のビーナス」の頭上にあるのは島田髷のような髪型だ、即ち「とぐろを巻く蛇の形に結った髪型」だという通説のよりどころにできそうな歴史的事実も、その後の調査で見つかったので、公正を期して反証材料として紹介しておくことにしましょう。
 『諸橋大漢和辞典』を紐解いてみると―
 【靈蛇】レイダ 霊妙な蛇
 【靈蛇髻】レイダケイ 一種のまげ
 とあります、そこで、インタ-ネット(中国の「百度百科」)で靈蛇髻を検索すると、以下のような画像が出てきたのです。


魏の皇女の霊妙な蛇のごとき髷


 霊妙な蛇のごとき髷。語釈にはこうあります。
 「靈蛇髻は古代の婦女の髪型である。魏、晋の時期より始まった。髪型の変化は常なく、随時随型にくしけずるが、一説に曹魏の文帝の妻甑后が創始したものという。」
 曹魏(220年-266年)とは「三国志」の最強国家です。
 果たして、この靈蛇髻が、「縄文のビーナス」の頭を飾るにふさわしいかどうかは、考古学者の先生方のご判断にゆだねましょう。

〔3〕「ミス馬高」の頭上では7匹の蛇が蜷局を巻いている
 さて、道草を食いました。元に戻って、「『縄文のビーナス』の頭上では、マムシがとぐろを巻いている」ことを地道に論証していく作業に戻ります。多少繁雑になることは、お許し願いたい。
 第5回論考で私は、「ミス馬高」の頭部を点検するのにMIHO MUSEUM 『土偶・コスモス』(2012.9、鳥羽書店)所収写真を借用しましたが、これは間に合わせの窮余の一策であり現物を検証しないことには危ない。と思い同土偶を保管している新潟長岡市馬高縄文館に遠路はるばる出向いたのですが、この美女はガラスケースの中身納まっている箱入り娘で、前後左右上下からつぶさに観察できない。別途、出土調査報告を探したがわからない。そこで新潟県立歴史博物館にメールで問い合わせたところ、宮尾亨学芸員から以下の如き出土調査報告書の存在を教えられました【注1】

〔1〕 長岡市立科学博物館研究調査報告 第二冊
中村孝三郎編『馬高№1(近藤編)』
長岡市立科学博物館考古研究室
1958年10月10日発行(非売品)
〔2〕 長岡市立科学博物館研究調査報告 第八冊
中村孝三郎著『先史時代と長岡の遺跡』
長岡市立科学博物館考古研究室
1966年8月5日発行(非売品)

 馬高遺跡(うまだかいせき)は、新潟県長岡市にある縄文時代中期の遺跡で、口縁部が燃え上がる火のごとき火焔型深鉢土器土器(重要文化財)の出土史跡として超有名ですが、そこから発掘され土偶が「ミス馬高」(重要文化財)です。複雑な歴史事情を端折って簡単言えば、「ミス馬高」は、1937年(昭和11年)12月31日、地元の素封家・近藤三郎、近藤勘治郎父子が苦難の末に発掘し、日中戦争を挟んで戦後になって二人の死後遺志を継いで、馬高遺跡発掘に携わった中村孝三郎が長岡市立科学博物館研究調査報告として、上記2冊を「非売品」として刊行したという次第です。歴史遺産として記録にとどめた中村孝三郎の努力に敬意を表して、両書を紐解いてみましょう。
 まず、第二冊『馬高№1(近藤編)』の方をめくると、図版が目に飛び込んできます。
 「ミス馬高」の正面写真と真上頭上からの写真があります(図版第11)
 実測図もあります。正面、真上頭上、そして裏面、向かって左側からの側面(13図)。スケールは5㎝です。


第二冊 中村孝三郎編『馬高№1(近藤編)』より 図版11


第二冊 中村孝三郎編『馬高№1(近藤編)』より 図13


 観察所見では以下のように述べています。
 「大形板状土偶、胴下小欠、頭上は盃状に凹み、中に沈線で六重円を描き同側壁に六小孔を認む、器体、良く研磨され顔面良く整頓され、眉及鼻は隆起、目は三日月型に沈刻し、頬に二本の沈線を対し、口は竹管状器具にて押刻、乳房欠失、胴部にかけて半円及直線を施し、脇腹部に『山』字状の沈線を配す。」(p.34、傍線は引用者)
 (そこで、傍線部をもう一度読み直して、図を睨むと)ム、ムッ?!
 私は先に「ミス馬高の頭頂の籠の後ろに二つの孔が開いています」と書きました。ところが、この所見では、「線で六重円を描き同側壁に六小孔を認む」とあります。MIHO MUSEUM 『土偶・コスモス』写真判定による私の「二つの孔」という所見は間違っていました。慙愧の念を禁じ得ません。
 そこで、最後部の二つの孔を実測図で見直しです。頭の後ろを、俯瞰図、裏面図および側面図を対照させて観察すると、後頭部の二つの孔は下まで貫通していることがわかります。貫通孔なら、羽を挿す孔ではない。紐を通して吊す孔、或いは縛る孔の可能性が浮かび上がります。
 右腕に、もう一つ貫通している孔があります。正面実測図と背面実測図を見比べると、貫通しているのが確認できます。しかし、左腕に孔はない。紐を通して吊す孔、或いは縛る孔としたら、バランスを欠く。右腕と後頭部二つで吊るして、右腕穴に通した紐を引いて揺り動かす? 巫女は、この土偶をどのように利用するのか、善男善女のムラビトは、この土偶にどのように面したのか、難しい判断を迫られます。【注2】
 さらに重要なことながら、頭上の孔は二つだけじゃない。「側壁に六小孔を認む」とありますから、六つ孔があるはずです。
 改めて仔細に観察していきましょう。頭上から見た図の上部(土偶像の右手)に明確に孔があり、これと対照的に、下(土偶像の左手)の欠損部分にも孔があったと見なせます。その孔と後ろの二つの孔との間も怪しげで、孔が二つあるんじゃないか? これも対照的に、土偶像の左手にも二つ孔があると見なせるのではないでしょうか?(一つは明確です)
 以上の見立てが正しいとすると、どうでしょう。孔は六つではなく、八つ、ということになります。うち六つは羽を挿す飾り孔、貫通している二つは吊し孔ないし縛り孔と見なせそうです。
 蛇足ながら、この写真と実測図とは同じものだとすると何やらおかしい。実測図が正しいとすると、写真の方の左右が逆になっている。そう、裏焼きになっているんじゃないか!【注3】
 そこで、第八冊『先史時代と長岡の遺跡』の方を見てみましょう。こちらの方には、「ミス馬高」の正面写真と真上頭上からの写真の他に裏面からの写真があります(図版第24)。このうち真上頭上からの写真を見ると疑問氷解です。第八冊の方が正しい。第二冊『馬高№1(近藤編)』の真上頭上からの写真は明らかに左右逆版になっています。これで一件落着です。


第八冊 中村孝三郎著『先史時代と長岡の遺跡』より(第24図)


 逆版はともかくとして、第八冊の「ミス馬高」実測図としては、上方からの俯瞰図と正面図が掲載されています。スケールの右端には5cmと記されています。


第八冊 中村孝三郎著『先史時代と長岡の遺跡』より
(付図(9)の一部)

 また、第八冊『先史時代と長岡の遺跡』の本文の「土偶」には次のような所見があります。重要証言を含んでいます(傍線部分)から、念入りに読んでおきましょう。
 「図版第24図、付図(9)~4は、裏日本の北陸地方縄文中期を代表する『ミス悠久山〔馬高の旧地名〕』と呼ばれる知名の無脚形土偶である頭部は盃形につくられ、中に六本の沈線がやや螺旋状にほどこされている。顔面は逆三角形を呈し、眉及び鼻は隆起手法で作られ、目は三日月型に沈刻されている。頬に二本の沈線を対し、口は細い竹管状工具で押刻。乳房は欠失している。胴は板状づくりで、胸腹部には直線及円状の沈線で施模様されている。胎土は細砂粘土を用い、焼きも堅い。色調は褐色を呈している。高さ18センチで大形に属す。」(p.102、傍線は引用者)

 ◇無脚土偶とは、脚がない、したがって自立できない。『№1』の側面図の方を見ると明らかですが、胸にふくらみがなく扁平です。
 ◇頭部は盃形につくられ、中に六本の沈線がやや螺旋状にほどこされているについては、この後で詳しく検討します。
 ◇顔面が逆三角形、目が三日月型は、キノコ状の頭頂部と並んで新潟中央部(中越)に多い「吉野屋タイプ」土偶の特徴です。長野、山梨の中期前葉土偶に見られる顔面はハート形、目はアーモンド型と近似していますが決定的に違う地域色豊かな顔つきと思われます。
 ◇胸の下の「胴は板状づくり」です。胴から下は欠損して不明ながら、他の同地出土類似土偶から類推して脚は作られていなかったと見られます。いわゆる板状土偶の一種です。立たないから、寝かして置くか、手に持って使用したと思われます。高さ18センチというサイズ、板状という形は巫女の手に納まる大きさです。「独立した二脚を造形しない背景には、握りしめるという土偶の取り扱いがかかわっているかもしれない」との洞察があります(前掲「新潟県の縄文時代中期土偶」p.42)。
 ◇「頬に二本の沈線」は、いわゆるダブル・ハの字の文身(イレズミ)です。これがない、あるいは片方だけというのも見かけられます。おちょぼ口は土偶に一般的ですが、大口もないわけではありません。
 ◇「乳房は欠失している」とは、もともとはあったが、ポロリ落っこちてしまって、見つからない、という意味合いです。正面図をしげしげ見ると、欠損した傷跡が確認できます。いわゆる正中線らしきものがオッパイ跡の下に3本伸びています。1本ではなく何故3本なのか? 両あばら骨のあたりの山型(向かって左)とW型(向かって右)の陰刻はペアでしょうが、いわゆる鳥の足のおまじないでしょうか? 3本の正中線、三つに分かれた鳥の足、3という数字は縄文世界で意味深です。
 さて、以上を前置きにして、以下、肝心要の問題、「ミス馬高」の頭の上には何があるのか? の点検にとりかかりましょう。一番下中央の突起は鼻で、下を向いた状態です。
 まず、中村孝三郎所見を検証します。
   「頭上は盃状に凹み、中に沈線で六重円を描き同側壁に六小孔を認む」(第二冊)
   「頭部は盃形につくられ、中に六本の沈線がやや螺旋状にほどこされている」(第八冊)
 前者の六重円は明解な言葉づかいです。果たして「ミス馬高」の頭上に六重円があるかどうか? 真上からの実測図を一瞥するだけで、何? 何? 六重円とは小さい円から次第に大きい円に六周に円を巡らした図形を言うのでしょう? そんな円は何処にもありゃしません。また、頭上のマイマイ線は一続き、一筆書きでもありません。切れ切れになっていますネ。長めのヒジキを並べたかのように、重複せず同心円状態を形成しています。
 後者第八冊の「六本の沈線がやや螺旋状にほどこされている」という表現はどうでしょう? 「螺旋」とは「巻貝のようにぐるぐる回りながら次第に・上(下)がって行くもの」です(『新明解国語辞典』第4版)。「沈線がやや螺旋状にほどこされている」とは、頭上が盃状に凹んでいること、頭部が盃形につくられていることに注目した所見でしょう。「やや螺旋状」の「やや」は「螺旋」に近いというほどのニュアンスでしょうか。しかし、「螺旋」が断続していることには全く頓着していません。
 肝心なことは、「ミス馬高」の頭上のマイマイには明確に切れ目があり、ひと続きの円、一筆書きの円ではないことです。この切れ目が目に入らないか! 頭には髪の毛しかない、髪の毛のつむじは一続きだという信念が無意識に働いているんじゃないでしょうか?
 切れ目は細かいから見落としを容認できるにしても、頭上の盃状に凹みの方は、いやおうなく存在します。こちらは何でしょうか? 盃形につくられているのは何故でしょう? 考古学者はこぞって河童の皿であると見なしていますが、この即物主義者が誰も見たことのない、この世に有りもしない河童の皿だなどと空想をほしいままにしているのは滑稽千万です。実証的に検証することこそ重要でしょう。
 考古学者にして民族学、民俗学者、人類学者であった鳥居龍蔵(1870―1953)が1900年の台湾調査で撮影したガラス乾板写真の中に台湾少数民族のタイヤル族の女の写真があります。「口元から耳にかけての入墨は結婚した女だけに許された。入墨はしていても、衣服はすでに漢民族のものを着ている。よほどおしゃれな女性らしい」との説明があります。このタイヤル族の女の頭の被り物は、面白い格好をしていますね。(この女の頭の被り物は、鳥居龍蔵の『苗族調査報告』(東京帝国大学理科大学人類学教室)にもあります。)


鳥居龍蔵1900年(明治33年)4-5月撮影。(写真番号:7609、撮影年:1900、地域:台湾 写真の説明:女の上半身ポートレート。掲載カタログ:台湾2、プレート:83)(東京大学総合研究博物館データベース>人類先史>東アジア>東アジア・ミクロネシア古写真資料画像データベースより)


 もう一つ1928-39年にかけて台湾で民間人の瀬川幸吉が撮影した『台湾先住民写真誌 ツオウ篇』(2000.9、守谷商会)を見てみましょう。「末端に刺繍及び色糸の房のついた頭巾を巻いた女性」の側面・正面・背面写真があります。頭巾(ツェオブグ)とは「女性の頭に巻く黒布」です。鳥居龍蔵の写真とよく似た被り物です。


末端に刺繍及び色糸の襞のついた頭布を巻いた女性。タッパン社(village)」
(上掲『台湾先住民写真誌 ツオウ篇』p.55)より


 同写真集には、さらに、頭巾を巻いた二人の女と祈祷師のスナップが掲載されています。これは「祈祷師によってお祓いを受けている女性と子供。祈祷師は手に魔除けのショウジョウハグマ(タバニヨウ)を持つ。トフヤ社(village)」と説明されています。ショウジョウハグマとは植物名で、和名はムラサキムカシヨモギです。


祈祷師によってお払いを受けている女性と子供。祈祷師は魔除けのショウジョウハグマ(タパニヨウ)を持つ。トフヤ社(village)」。
(上掲『台湾先住民写真誌 ツオウ篇』p.206)より


 同様の台湾原住民の巫術料は『台湾総督府蕃族調査会報告書』にもっと詳しい報告があります(例えば、パイワヌ族の巫は『蕃族慣習調査報告書5巻3』p.31-55)。しかし、いたずらに繁雑になりますから今回は割愛します。ここでは、もうひとつ、花婇列島の南の端から北の端に転じて、樺太アイヌの「輪状帽ズスグルハハカ」を見ておくことの方がより重要です。「輪状帽ズスグルハハカ」の女物はマハネク(女子)・イカムハハカと言います。


樺太アイヌ巫女がヅスグル(巫術)に用いる輪状帽イカムハハカ
(前掲『アイヌ民族誌』p.274より)


 重要な証言ですから、あえて長い引用をします。注意深くお読みください。
 「これは防寒用の帽子で、外出のときまたはそりに乗るときなどに用いたものである。女ものはマハネク(女子)・イカムハハカという。多くはじゃこうじかの皮、あるいはきつね、うさぎなどの毛皮も用い、毛の部分を内側にし、外側を木綿布で覆ったものであるが、木綿布製に綿を入れたものもあり、下縁を折り返した丸い形となる。このイカムハハカの中に、ヅス(巫術)のさいに施術者がかぶる帽子がある。〔写真参照のこと〕これはライチシ生まれの藤山ハル女の作ったもので、ヅスグル用イカムハハカという。これは輪状帽に似ているのでここで述べる。これは古い時代には木皮編みであったといわれている。このイカムハハカに似た形のものは、シベリアのイェニセイ地方のシャーマンがかぶる頭飾りに見ることができる。シベリアのシャーマンの場合は金属製のものであり、材料および付加物の点では異なっているが、輪状帽の上部に十文字のバンドをつけた形はよく似ているので、シベリア地方のシャーマンの往時の使用物に共通点があったことは想像に難くない。このイカムハハカの文様はゴスンプルー文様という。すなわちゴスンプとは神様のことで、ゴスンプルーとはシャーマンが行進するときの蛇行する状態を表わしたものである。なおこのイカムハハカはヅスクルのみならず、ヅスのさい病人にかぶせて悪霊を退散させたりすることもある。また、くま送り、その他の儀式のとき、酋長が祈りを捧げるときかぶる重要なものである。」(児玉作左衛門「衣服の附属品」、アイヌ文化保存対策協議会編『アイヌ民族誌』1970.1、第一法規出版社、p.274、傍線引用者)
 右側が前、左側が後ろ。ハチマキ部分に蛇文様がうねっていますが、この文様は向こう側に続いているでしょう。輪状帽は高さが8-9㎝あり、それに似ていると言うから、やはり高さ8-9㎝と見られます。ターバンとしては高さが不足しますが、かつてスカルノ大統領がかぶっていたムスリム用帽子(ペチ)を少し低くしたようなイメージでしょう。昔は木皮編みだったという証言も注目されます。防寒用で内側は毛、外側は木綿で覆い、しかも重大なことに縁を折り返しているというのです。きっちり被れるよう上部に十文字のバンドを渡して安定度の高いものにしています。この上に何かを載せる、あるいは容れるような構造になっているかどうか? 一般女性のハチマキである額飾帯(チェパヌプ)は垂れ飾りを左右両耳の下まで垂らしますが、巫女が巫術の際に着用するのは、頭頂部に十文字のバンドを渡し、下の縁を折り返した帽子にしてあります。この帽子の上だったら、ほんのわずかの工夫をすれば、何か物を載せることができるでしょう。
 北海道アイヌにあっては、巫術は女だけが行います(これは金田一京介報告に基づいて第5回で言及済みです)。下の写真は、金田一京介の教え子の久保寺逸彦が撮影した樺太新問(にいま)の巫女―春日コタンルケの祈祷写真です。次の久保寺逸彦証言は示唆に富んでいます。


樺太新問(にいま)の巫女―春日コタンルケ
(前掲『アイヌ民族誌』p.747より)

 「巫女の霊妙な巫力は、その巫女の憑き神から賦与されると信じられている。アイヌは、人には誰にも憑き神があるとする。凡そ人間の賢愚、能力・不能、運・不運すべてその憑き神次第で決まる。しかも、憑き神は、一つに限らず、二つでも三つでも、出来るだけ多くの傑い憑き神を持って、その恩寵に与かりたいと願うのである。憑き神は、先天的なものも、後天的なものもある。巫女の憑き神は、多く蛇体のもの、特にまむし(トッコニ)、サック・ソモ・アイェップサク(翼のある竜)、時には、くも(ヤオシケップ)、黒・白のきつね(チロンヌップ)などである。」(久保寺逸彦「巫女の託宣歌」『アイヌ民族誌』p.746、傍線引用者)
 最早、写真ではなく、現地調査が必要で、現物を見て、触れて、被って、厳密・慎重に検証すべきでしょうね。しかし、いまは先を急がなくてはならない文脈にありますから、とりあえず、ハイ、コレマデヨ。

 縄文中期後葉の土偶の頭の上の盃状の凹みはマイマイを留めるための容れ物であるとしたら……。中に入ってるものは液体じゃなく、固体ですから漏れる心配はない。重さ如何ですが、ほどほどの重さであれば、木皮編みの帽子ならささえきれるでしょう。籠という可能性もあり、籠ならバランスをとれるようにしさえすればOKでしょう。帽子か籠がなければ、マイマイは頭上に留まることができないで、ずりおちてしまいます。逆に、頭の上のマイマイが「とぐろを巻く蛇の形に結った髪型」だったとしたら、こんな入れ物は全く不要です。髪は頭の皮についているんじゃありませんか? (そういえば、皮があるから髪があるのだという表現が中国にはあり、大衆があるからこそ指導者があるのだという譬えとして毛沢東が常用していたことを思い出しました。)
 具体的に、土偶に即して検証してみることが、最も肝要です。
 「カッパ型土偶」の初期原型と目されている富山県八尾町長山遺跡出土の土偶を点検してみましょう。〇40は顔面が欠落して両腕が下がっているからでしょうか、頭上に異常に大きな受け皿をかぶっているように見えますが、下の〇42土偶のような顔が付いていたと推測されます。





『富山県八尾町長山遺跡発掘調査報告書』(八尾町教育委員会、1985.3)より

 〇42と〇40とは大きさが違うだけでなく、頭頂部の盃状の被り物の周囲の文様が違います。〇42の頭上の被り物の周囲は無文で、皿状に凹んでいて、中の左右にマイマイが二つあります。〇42を裏側から見ると、頭頂部が水平で酒杯のごとく皿になっているように見えます。酒杯はマイマイ入れのためにあるかのようです。
 〇40は盃状の被り物の周囲は非常に手が込んでいます。見事な綾杉文が施されています。中央部は空白ですが、中心から下にかけ風に揺らぐ火がついたろうそくのような何ものかが認められます。〇40の頭周囲の連続刺突文は植物繊維の編み籠を克明に表現したかのように見受けられますが、いかが? 縄文時代早期末葉の佐賀市東名遺跡(ひがしみょういせき)から編み籠の文化が発掘されていますから、縄文中期の富山に編み籠の文化が栄えたことは怪しむに足りません。〇40の背後には被り物中央から綾杉文の弁髪のごときものが垂れています。これは髪飾? いや籠飾りでありましょう。
 〇42と〇40は頭上の盃状の凹みにこだわり、それを巧みに造形した原初形態と思われます。何を入れるために、頭上にこんな見事な容れ物を作らなきゃならなかったのか。〇42の頭上左右の二つのマイマイは、左が右巻き、右が左巻きになっています。
 頭部の格好が長山土偶〇42に類似した土偶に新潟県糸魚川市長者ケ原遺跡出土の長者ケ原土偶があります。身長29.1㎝。長山土偶〇42は両手を下げていますが、長者ヶ原のほうは両手を万歳しているところが、異なります。顔が破損して不明ですが、〇42のような逆三角の顔が付いていたと思われます。頭でっかちで、おそらく〇42のように上部が蓮の実状に拡がり、受け皿を形成していたのではないでしょうか。しっかり立っていて(立像型)、胸から足に至る体に乳房、正中線、あばら骨、下腹・陰部のデルタ、膝小僧などが太線で力づよく陰刻されています。首から下は、首から上のでっかい頭の皿を支える支柱にすぎない、という印象を漂わせています。頭の皿の中は空っぽです。何か、入れるべきものがあると見なさなきゃならんでしょうね。


新潟県糸魚川市長者ケ原土偶
(『にいがたの土偶』p.81より)


 さて、「縄文のビーナス」の場合は、頭の籠が冠帽状のもの、巨大なターバンになっていることは、先刻第5回論考で見たとおりですが、もう一つの国宝の頭上も検証しておきましょう。「縄文の女神」と呼ばれている山形県西の前遺跡出土の「西の前土偶」です。全国最大の土偶で、身長45㎝、自立型土偶です。スタイリッシュで見事なプロポーションで、「究極のデフォルメ」と評されています。
 「縄文の女神」は前から見ると巨大なベレー帽をかぶっているかのようですが、裏に回わって頭部を見直すと凸ではなく凹になっています。「究極のデフォルメ」のために頭が吹っ飛んで無くなっちまっている。これは髪の毛であるという推測を絶対に許さない形だ、と私は思います。巨大な容れ物です。長者ケ原土偶とよく似た頭の機能を擁する正真正銘の「カッパ型」です。
 表の顔はそぎ落としノッペラボー、裏の頭の皿の中もカラッポー。皿の左右は10㎝以上、天地は5㎝ほどありますから、生きた蛇でも入る大きさです。
 皿の上部に2つ、下部に4つの小孔が認められます。うち上部の2つ、下部の2つは表まで貫通しています。下中央の2つの小孔は下に貫通し首部分に抜けています。これら小孔は紐を通したのか、羽を刺したのかは即断できませんが、板状の「ミス馬高」とは異なり自立型であることを考慮に入れなくてはなりません。巫女は、これを寝かしたのでも握りしめたのでもなく、前方に立てたか、吊るしたか、回したかして、呪術の呪具としたと思われます。
 この際、「究極の空想」をお許し願いたいのですが、「縄文の女神」を正面から見えるようにセッティングしておいて、呪術のクライマックス時にくるりと回す、その時、頭上にうごめき物がある!
 これぞ、岡本太郎の言うところの四次元の美じゃありませんか?


「縄文の女神」(『西の前遺跡発掘調査報告書』山形県文化財センター、1994より)


 いまや、私は蛇に群れる習性があることを、まざまざと思いだしています。子供のころの体験ですが、南斜面に蛇の穴といわれる穴があり、その穴を掘りあてると、冬眠中の蛇がうじゃうじゃ、絡まり合って蝟集していました(蛇足ながら、交尾の時は注連縄のごとく、番で絡まり合う、しかも蛇のペニスは鉤型になっていて、なかなか抜けないで精力絶倫ながーい交尾をする。蛇の卵は白く、赤い実の万両ほどの大きさで、ゴムまりのような弾力があった)。また薬種屋だったと思われますが、店頭のガラスケースの中にうじゃうじゃ蛇が固まっているのを、おそるおそる覗き見た記憶もあります。我が家のヌシと言われていた、ど太い青大将がニワトリの卵を呑んで膨らんだ腹をくねらせて梁上を這っていくのを驚声をあげて見上げたものです。
 星座=蛇使い座の存在は、古代ギリシアに蛇を飼い馴らし利用した者がいたことを示していますが、蛇の飼育はそんなに難しいものじゃなさそうです。「ヘビを飼いならす方法」を以下にご紹介しておきましょう。
 「ヘビは一般に平和主義者であり、幼い時から食物をやったりしていると、ある程度なれるものである。しかしながら、首を絞めたり、たたいたり暴力をもって生け捕ったヘビは、粗暴となり、容易になつかない。そこで、飼いならそうと思うヘビは、捕虫網で、生け捕り、その中で一応落ちつけてから、他の携帯袋に入れる。この場合でも粗雑な取り扱いは禁物である。生捕ったヘビは大きな金網室に自然な状態で放飼し、食物をやる際に驚かしたり、いじめたりしないよう常に安心感を与える。夏になると、とくに水を多く欲しがるので、飼育室のすみへ、つとめて自然な状態で移動させ、そこで水を器に入れて飲ませる。寒い時は布袋に入れて、体温で暖め、ときどき頭をなでてやる。このようにして、忍耐強く続けていくと、手なずけることができる。」(高良鉄夫「ハブ=反鼻蛇――恐るべき毒ヘビの全貌」、谷川健一編『日本民俗文化資料集成』第20巻、p.189、1998.5、三一書房)
 脱線しました。もとい! 肝腎なことは、「ミス馬高」の頭上の蛇でした。
 「ミス馬高」の頭上には、蛇が何匹いるのか、いないのか? これが最終点検です。
 第八冊 中村孝三郎著『先史時代と長岡の遺跡』より(付図(9)の一部)の真上からの俯瞰図を目いっぱい拡大します。下の突起は鼻で、下向きになっており、上が背後です(以下、本文での呼称は、この図の左を左、右を右と呼ぶ。上は時に背後、下は時に正面と呼ぶこともある)。





 最中心部の壺型の円は上に切れ目がはっきりあります。蛇の頭がどちらかはっきりしませんが、仮に左の三角が頭ではないかと見ておきます(1匹目)。
 その外側の円は最上部でクロスし、すれ違っています。どちらが頭か難しいところですが上部外側が頭と見立てられるでしょう(2匹目)。
 その外側の三重目は難しい。左上部から反時計回りでぐるっと回って最上部で上に直角に折れその上部で、またすぐ右に直角に折れ、切れ目なしで時計回りに回って上部に至って出発点近くの上部に戻っています。その終着点に頭らしき膨らみがあります。長―く続いていますから、交尾している姿と見ておきましょう(3、4匹目)。
 5周目は右上が頭、反時計回りでぐるり回って、中央左手で切れています(5匹目)。5匹目の切れ目を上にたどると頭らしきふくらみがあります(6匹目)。
 そして、一番外側は左の孔から反時計回りで回って破損部分で立ち消えています。右孔に至っている可能性があります(7匹目)。左寄り上部の小孔と小孔との間をつなぐ3つの線が何であるかはわかりません、蛇と見立てるには短すぎるように思えます。
 以上、合計7匹の蛇が蝟集していると見立てられるのではないでしょうか。
 以上の見立てには、私も確信がもてません。不安は切れ目がイマイチはっきりしないことにあります。また、同時期の土器に刻印された蛇の図像との相似があってしかるべきです。土器上に描かれた蛇は、頭が三角あるいはふくれている、胴はくねくねとうねっているか蜷局を巻いている、三角文や斜線で蛇紋を表現しているなど、一目で蛇だとわかる造形をしています。しかし、「ミス馬高」の頭上にはそうした明確な図像は見られません。せめて切れ目の頭が明確に三角形を呈していれば、蛇だと言いきれると思うのですが、イマイチです。ここで確言できるのは、蛇に似たひも状のものが7条存在する、というに止まるでしょう。福井、新潟、山形、長野、山梨、神奈川、東京など中部一円の縄文中期前半の「カッパ型土偶」の頭上に存在するマイマイとの検証が必要で、それらとの照合を経てこそ、「ミス馬高」の頭上には7匹の蛇が蜷局を巻いている、と確言し得ると考えます。無論のことながら、考古学の土偶に対する形式分類学の限界は明々白々であって、歴史学、民俗学、民族学、宗教学、神話学、心理学など関連諸学の知恵を総動員して対象をつぶさに検証する必要があります。
 そこで、この夏に、山梨、長野の考古博物館めぐりをしてみました【注4】。最後に、その成果の一部を紹介して、今回の締めとしましょう。
 山梨県立考古博物館では、一の沢西遺跡出土の愛らしい「イッチャン」土偶をシンボルマークにしているのですが、同博物館常設展示図録である「古代望見」(2014.3)p.19には下図のようにガイドしています。

 


 “「いっちゃん」の後姿にはヘビ” (右写真下ゴシック)―-―-きっぱり断定しています。
 展示場のガラスケースの中には、「いっちゃん」の後ろ姿が見られるようにバックミラーが仕掛けられています。
 一の沢西遺跡の発掘調査報告書(1986.3)から、実測図を転載させてもらいましょう。


上が「いっちゃん」。下は同時に出土したもの。
 (『一の沢西遺跡、村上遺跡、後呂遺跡、浜井遺跡 笛吹川農業水利事業に伴う発掘調査報告書』山梨県教育委員会、1983.3、pp86-87)


 左から正面-側面-背面で、正面図の上は俯瞰図です
 上が「いっちゃん」です。「いっちゃん」の下は、「いっちゃん」の友達でしょうね。「いっちゃん」と同時に出土したもので、ここで仮に「にいちゃん」と呼んでおきましょう。
 蛇は両者ともに、背面に雄渾に立ち上がっています。「いっちゃん」と「にいちゃん」の違いは、顔では「いっちゃん」にはダブル・ハの字(イレズミ)【注5】があるが、「にいちゃん」にはイレズミがない。マイマイの巻き方では、「いっちゃん」は右巻き、「にいちゃん」は左巻きです。【注6】また、「にいちゃん」の蛇は、上下二つの傾斜した環状突起物(「ミミズク把手状の双孔」)の下部中央に貼り付いていて、傾斜した帽子状被り物の上に蛇を載せている「いっちゃん」のとは決定的に異なっています。両者の違いは那辺に基づくのか、まるでわかりませんが、共に幼い表情をしていて【注7】、山梨県立考古博物館当局が「ちゃん」付けニックネームで、子供の歓心を買っているのは注目しておくに値します。
 観察所見は以下のごとくで、当該個所をあえて全文引用します。
 「4号住居址床面直上出土。両手間(最大幅)13.6cm、現存高14.1cm。胴部以下を欠損しているが、復元高は20cmをはるかに超える超大型の土偶である。住居床面のほぽ中央に、顔面を下にして出土した。頭部は三角形状を呈し、中空につくられている。顔面は鼻と眉が隆帯で表現され、眼、口は中空部に貫通している。眼から刺青と思われる連続刺突が2条ずつ施される。肩部以下では左胸から左腕にのみ沈線による施文がみられるが、右側には全く施されていない。後部は、結髪あるいは蛇体装飾と思われる渦巻状の隆帯が頂部に延びている。また、図示できなかったが、後部中央及び両耳に3mmほどの上下の貫通孔がある。両耳の貫通孔を耳飾用とすれば、後部中央は、結髪を止めるヘアピンを意識したものと考えられる。さらに、胸部中央にはやはり上下の貫通孔があり、中空の頭部にまで及んでいる。製作上の木心である。黄褐色を呈し、胎土は精選され、磨き、焼成も良好である。顔面、胸部のところどころに赤色顔料が残存している。」(『山梨県埋蔵文化財センター調査報告第16集 一の沢西遺跡 村上遺跡 後呂遺跡、浜井遺跡』1986.3、pp.86-87、傍線は引用者)
 あえてコメントしません。この報告書が書かれたのは1986年であり、いまから32年前です。
 この間に、山梨考古学の土偶観察は進化しているのか、いないのか?


 
◇ ◇ ◇ ◇
 


 
注1  新潟の土偶の研究論文としては、以下の2点がある。
 新潟県立歴史博物館編『にいがたの土偶:発掘された新潟の歴史2011』〔2011年秋企画展示資料〕 2011年9月刊(売切、在庫無〕
 宮尾亨・寺崎裕助「新潟県の縄文中期土偶」『新潟県立歴史博物館研究紀要』第13号 2012年3月
 ここには、新潟を中心とした「カッパ型土偶」について多岐にわたる考証がある。まずは、基礎知識です。
 「縄文時代中期、新潟県の土偶にはカッパ形土偶の愛称があります。土偶の頭頂部が平坦で凹んでいて、伝説や昔話に登場する河童の皿を連想させることに由来します。1964(昭和39)年に刊行された五和泉市の大蔵遺跡第一次調査中間報告書の中で、土偶の形態を説明するために、河童の異称である「河太郎」を用いて記載したことを嚆矢とします。カッパ形土偶は、新潟県を含む北陸を中心に、関東地方西部、中部高地、東北南部という広範囲に見られます。縄文時代中期前葉から中葉(5400~4700年前)の土偶と理解されています。」(pp.6-7)
 宮尾亨学芸員からはメールのやり取りで、実に多くの教えを受けたが、本論ではその一部しか生かせていない。追って続稿で教えを生かしたいと思う。
注2  前掲『にいがたの土偶』には、カッパ形土偶の利用方法が以下のように示唆されている。
 「カッパ形土偶のサイズには、大小のバライティーがあり、手の中に納まるものから、手からはみだすものまで多様です。カッパ形土偶も多くは、片手で握りしめられますが、なかには両手で抱える必要のあるものもあります。手の中に収まるものには、指先で扱えるようなものもあります。」(p.7)
 また、前掲「新潟県の縄文時代中期土偶」では、こうも言っている。
 「土偶を動いてみえるようにするには、それを取り扱う人びとの身体が不可欠であり、実際には手で土偶を握りしめ、掌の中に秘して、あるいは見せびらかす動作を伴ったことだろう。」(p.77)
 板状の土偶を、巫女が手で握りしめ、指先で操作するというのは秀逸の着想ではないか。また、「土偶を握りしめ、掌の中に秘して、あるいは見せびらかす」というのは限りなく劇的な呪法を連想させられる。土偶が何のために、どのように使われたかを考えるにあたって、大きな可能性を開くように思われる。折口信夫『日本藝能史六講』を再読して、板状土偶と「翁の発生」との関連をよくよく考えてみなければならないと思わずにはいれない。
注3 第二冊『馬高№1(近藤編)』の真上頭上からの写真が裏焼きになっているとの事実は小林公明井戸尻考古館元館長に指摘された。
注4  第5回論考で言及した山梨県韮崎市坂井遺跡出土の土偶(江坂輝爾 『日本の土偶』 p.79より転載)は、山梨県韮崎市の私設・坂井考古館のご厚意により、2018年8月28日に実見・観察することができた(江坂輝爾 『日本の土偶』 掲載写真参照)。この土偶については、志村滝蔵『坂井』(地方書院、1965)が口絵写真を載せて、以下のように観察している。
 「口絵の土偶は、大正八年十月、第一地区の出土、頭部の完形品である。顔はおも高作り、口は、一文字彫に、目は柿の種子形にして目尻をわずか上り、鼻より眉にかけての隆起線は、土紐状をもってY字形にしてある。顔面と、後頭部は深刻として区画を作り、後頭は蛇型に作ってある。」(p.94、傍線引用者)
 側面からの写真を見ると、帽子をかぶっているかのようであるが、背面から見ると帽子ではなく、容れものであることがわかる。容れもの中には、まさしく蛇が蜷局を巻いている造形が収まっている。江坂は、これを以下のように曲解しているのだ。
 「頭髪はとぐろを巻く蛇の姿を表現しており、長野県藤内遺跡出土の土偶の頭部背面の頭髪が、とぐろを巻き首を上に向け口を開く蛇の姿をしているのと共通している。」(p.80、傍線引用者)
 江坂は、頭の上にあるのは、何が何でも頭髪でなくてはならない、という確固とした信念を貫きとおしていて、肝心なものが目に入っていない。

(資料)江坂輝爾 『日本の土偶』 p.79より転載
 山梨県韮崎市坂井遺跡出土の土偶写真
注5 ダブル・ハの字
『土偶研究の地平2』p.70より

 顔面のイレズミ(文身)で、ハの字を重ねたような文様は、考古学者によって「ダブル・ハの字」と呼称されている(図参照)。このイレズミは、縄文中期の土偶にかなりの頻度で見られ、①イレズミ無し、②片方だけ、③両頬、の3パターンがある。何故に3パターンがあるのか、についてはアイヌのイレズミに関する以下の報告が参考になろう。
 「女の子が何歳になったとき施術をうけたかということに関しては、日高、胆振、上川地方では大略七、八歳からおそくとも、十四、五歳ぐらいの間で第一回のものが行われた。このときは口辺から施術される。つぎの前腕や手のものは、十一、二歳から十五、六歳の間に始まる。十勝、釧路、北見地方では第一回の施術は前記の地方よりやや遅いようである。いずれにしても完成の時期は同じであって十七、八歳である。アイヌたちは経験から、シヌエはなるべく若い年齢ですれば、皮膚は柔らかくて煤もよくしみこんで美しくできあがるといっている。なお文身は結婚前に完成するのが常道であるが、稀には結婚前は未完成のままであり、結婚後にはじめて完成するという例もある。」(児玉作左衛門「アイヌ生体の特徴」、アイヌ文化保存対策協議会編『アイヌ民族誌』1970.1、第一法規出版社、p.132)

十勝アイヌ女の文身、口辺部と手背部
(同上『アイヌ民族誌』p.132より)

   アイヌの証言を根拠に類推すれば、イレズミは女性の人生の通過儀礼であり、①イレズミ無しは7~15歳未満、②片方だけは7~15歳以上、③両頬は17~18歳以上、というような年齢を想定できるであろう。この類推を基にすれば、一の沢西遺跡出土土偶のイッチャン(ダブル・ハの字有)はニイチャン(ダブル・ハの字無)より年上だということになる。「ミス馬高」はダブルで③「ミセス馬高」である。蛇を戴く「藤内土偶」はシングルで②「ミス藤内」である。問題は「縄文のビーナス」であって、成熟し、妊娠しているのに、イレズミ無しである。処女懐胎ということになる。日本の説話伝承の玉依姫(たまよりびめ)も処女懐胎で賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)を生んだ。「縄文のビーナス」は、柳田国男「妹の力」が言うところの巫女(ミコ)の原型である可能性が浮上する。
 頬へのイレズミ自体は、弥生時期、古墳時期の出土物にも認められる。日本でイレズミの風習がすたれたのは儒教(「身体髪膚之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝のはじめなり」)が支配思想として定着してからで、その後、わずかに花婇列島の南端・北端の「化外の地」(王化の及ばない地)、もしくは刑罰や無法の徒の世界に名残をとどめたにすぎない。
 顔面のイレズミ(文身)そのものの歴史は極めて長い。中国においては古くは7300年前の両頬へのイレズミが知られている(蚌阜市博物館の「陶塑紋面人頭像」〔土器イレズミ人頭像〕)。蚌阜市博物館のサイトによれば、下の写真の像は以下の如くである。
 「新石器時代(今から約7300年前)。1986年淮上区双墩遺址出土、頭高6.3cm,顔幅6.5cm,厚さ2.9cm。頭の後部は欠損、首以下欠損、左耳欠損。土器像の造形は、眉弓が突出し、目は丸く、鼻は小づくり、口元をちょっと上げ、顔は微笑している。頬両側に各々5個刺突円点が連なっている。額の中央に円形の同心円がある。耳朶には穴が穿たれている。この文物は、我が国で最近発見された「雕題、紋面」の最も古い実証例である。」(www.ahbbmuseum.com/)
 頭上にも何か、◎と思しきものを戴いているが、何か? 二重丸は何を表わしているのか? 裏や上部どうなっているのか?

陶塑紋面人頭像(蚌阜市博物館蔵)


 逆に新しいところでは、顔面へイレズミした台湾の苗栗縣泰雅族の女性・簡玉英の死去報道がある(享年103歳、2018年1月16日死去)。「生存者は残り3名」という。台湾『自由時報』記者が生存女性の一人である苗栗縣山地原住民縣議員・黃月娥に取材して伝えるところを、かいつまんで紹介しておく。
 泰雅族の伝統では、人紋面は一種の責任、一種の栄誉を表わしている。男性紋面は一族を守る人であることを表わし、狩猟を象徴する。泰雅族の伝統的織布は手が込んでいて、織布、編衣は家庭を守り、女性紋面は泰雅族女性の織布能力が抜群であることを表している。昔の泰雅族人は紋面後に初めて婚嫁に及んだ。しかし、この伝統文化は日本の統治下で禁止され、失われた。泰雅族紋面は、男性は主に前額及び下顎中央に縱紋を刺す。女性は前額中央に縱紋を刺す。また別に耳から両頰を経て両唇中央に至る斜紋を刺して、両唇の中央で下顎の上に至る。
(http://news.ltn.com.tw/news/life/breakingnews/2313932)

台湾タイヤル族の簡玉英(同上『自由時報』報道より)

 これ以前2008年11月21日には「泰雅紋面國寶110歲 吳蘭妹病逝」という報道もある(台湾大紀元訊2008.11.26)。人間国宝であった吳蘭妹については、台湾雪霸國家公園管理處によって学術資料「苗栗縣泰安鄉泰雅族紋面耆老口述歷史之研究報告」(2008.12)が残されている。台湾少数民族の民俗風習は、縄文土偶に施されたダブル・ハの字を解き明かす第一級民族・民俗資料である。台湾総督府や民間研究者の台湾少数民族の民俗調査報告を参照するとともに、台湾及び中国苗族の現地民俗査旅行を敢行した膨大な研究成果を残した鳥居龍蔵の業績に深く学ばなくてならない(「東京大学総合研究博物館データベース・人類史・東アジア」公開の鳥居龍蔵撮影乾板写真がある)。

台湾タイヤル族の吳蘭妹(同上台湾大紀元報道より)


 ことのついでに、イレズミと並んで、縄文時代のムラビトの人生の通過儀礼であった抜歯の写真も転載しておこう。瀬川幸吉が撮影した『台湾先住民写真誌 ツオウ篇』(2000.9、守谷商会)p61からの転載である(男性の抜歯写真3葉もあるが割愛する)写真ネームに「抜歯の状態を示す女性。ニヤウチヤ社(village)」」とある。解説は以下のとおりで、「抜歯とお歯黒」という見出しを配している。
 「抜歯(エチオビ、南ツオウ ケオリサア)。北ツオウのナマカバン社やニヤウチナ社と南ツオウのカナカナナブなどでは女性が上顎の犬歯とその横の門歯合計四本の歯を抜く。美人になるためといわれる。一方北ツオウのトフヤ社、南ツオウのガニ社では歯を抜かない。歯のことをヒシという。お歯黒(トゥグサ ガニ社) 南ツオウのガニ社は男女ともヘクソカズラの蔓の断面を歯にあててこすって黒く染めた。」
 このお歯黒(鉄漿)が、5000円札の樋口一葉「たけくらべ」に、お齒ぐろ溝(どぶ)として登場していることは万人周知のことであろう。お歯黒は上代には上流婦人の間に行われた風習であって、江戸時代に既婚婦人のしるしとて広まり、明治の世まで続いた。お歯黒が、抜歯の代替風俗で、女性の通過儀礼であることは疑問の余地がない。公家のお歯黒が何物かについて私は浅学にして知らないが、縄文時代に抜歯は男もすなる通過儀礼であったことは、発掘された人骨にありありと示されている。

抜歯の状態を示す女性(前掲『台湾先住民写真誌 ツオウ篇』p61より)

注6 小林公明「土偶のつむじ」(『長野県考古学会誌』第153号、2017.1)が面白い観察をしている。縄文中期前葉の土偶及び土器把手(とって)の人面にある頭部のマイマイの巻き方を調べ、右巻き開放型と巻き開放型とがあることを明かしているのである。「縄文のビーナス」、「坂井の土偶」、「いっちゃん」などは右巻きであり、明確に蛇を戴いている「藤内土偶」は左巻きである。頭の「つむじ」が右巻きか、左巻きかは、坊主頭のガキにとって、悧巧か、バカかを峻別する指標であり深刻な意味を持っていたが、縄文の巫女の世界で意味するところは皆目分からない。いま一つ、注目されるのは、つむじの数である。坊主頭のガキの観察で、「つむじ」が二つの子、三つの子がいたものである。中部日本の縄文中期前葉の土偶をざっと見渡してみると、頭の「つむじ」が二つというのは簡単に見つかる。三つ以上になると判断が難しくなるが、無いことはない。山梨県北杜市(旧北巨摩郡長坂町長坂上条)酒呑場遺跡で発掘された「装飾突起」の頭部には8つの蝟集するもの(蛇かミミズかムカデかゲジゲジかが蝟集しているごとくで、私は蛇ではないかと推測したい)を確認できる(同発掘報告書第125図4)。この8つの蝟集文様は、「ミス馬高」の頭上の「7匹の蛇」に類似するのではないか?
 ちなみに、雲南苗族には「蠱」という、禁断の呪術があることが知られている(村上文崇『中国最凶の呪い 蠱毒』2017.8、彩図社)。蛇、サソリ、蜘蛛など10種以上の毒虫を壺の中で餌を与えずに飼って、最後に残った毒虫を使って呪術を行う。歴代王朝が禁断とした「最凶の呪法」と言われるが、最後に残るのは蛇でしょう。

第125図 Ⅰ区の装飾突起(酒呑場遺跡(第1~3次)(遺物編―図版編)p.125)

 
注7   前回の論考で引いた谷川健一のアヤナギのイメージを、今一度引きたい。
 「ノロは巫女を意味し、アヤナギは綾蛇(アヤナギ)で、色模様のある長いもの、ハブの古称である。アラレボは一五、六歳の娘でノロの従者をいう。井戸尻出土の女人土偶は少女の稚拙な表情をもっている。」(『蛇―不死と再生の民俗』2012.1、pp11-12、冨山房インターナショナル)
 幼いのは井戸尻出土の女人土偶だけではない。出土土偶に「ちゃん」付けのニックネームを付けて、それが山梨県立考古博物館のシンボルマークとして、子供たちの歓心を引き付けているのは、幼さが万人に認められていることを意味しよう。土偶のメッカ・山梨県笛吹市一宮町にある釈迦堂考古資料館の「シャカチャン」も「イッチャン」と同工異曲である。
 さらに、「ミス馬高」が何故に、「ミセス」でなく「ミス」なのかも気にかかるところである。こうしたニックネームは今様人間のイメージに違いないが、造形そのものに幼さが漂っていることが前提になっていよう。
 顔のダブル・ハの字のイレズミは、女性の通過儀礼のひとつ、即ち少女が大人のオンナとなった証である。イレズミの有無やオッパイの大きさ、下腹の膨れ具合などと合わせて、幼さ及び成熟度に検証をかける必要がある。
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