縄文巨大石棒の謎(第7回)

中村 公省
(東京都町田市在住)

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電子礫・蒼蒼
第87号 2018.11.10
蒼蒼 目次へ >>

イレズミは縄文人の存在証明証であった

はじめに
 前回(第6回)論考では、縄文中期の中部地方の「カッパ型」土偶の頭の上には蛇が載っている事実の論証に努めました。その途中で、私はもうひとつ重要な事実――顔面のイレズミが発しているサインに気づき、それを注5としてメモしておきました。本文ではなく注記に、まとまらない形で記しましたから、まず読まれていないと思います。そこで、今回はそれを本文に格上げします。そして、さらにイレズミが縄文人のレゾンデートル(存在理由)証であった事実を論証するための最も基礎的な原資料を縄文研究者のみなさんに生のまま提供したいと思います。

1.顔面イレズミ(ダブル・ハの字)についての仮説
 顔面のイレズミ(文身)で、ハの字を重ねたような文様は、考古学者によって「ダブル・ハの字」と呼称されています(図参照)。このイレズミは、縄文中期の土偶にかなりの頻度で見られます。形としては、3パターンあることが知られています。(1)両頬、(2)片方だけ、(3)イレズミ無し、の3パターンです。その典型例を確認しましょう。

土偶の文様呼称(『土偶研究の地平2』1988、勉誠社所収の新津健稿より)

(1)両頬に「ダブル・ハの字」があるのは、「ミス馬高」です。

 「ミス馬高」(乳房欠失)のイレズミ

 ① 頬に二本の沈線を対する(ダブル・ハの字)。②左腕に斜め線2本。③胸部・乳房の周りに半円二重線。④胸部・鳩尾辺りに半卵型線、その下に鉤・垂下線。⑥鳩尾下の中央部に3本の垂下線(左端線の下端はやや短い)。⑦左脇腹部に山の字型文様・その左下に斜短線。⑧右脇腹部にU字+I字型文様(鳥の足型)、その右下に縦斜短線と点。

 一の沢西遺跡「いっちゃん」も両頬に「ダブル・ハの字」があります。

一の沢西遺跡
「いっちゃん」のイレズミ


 ① 眼の下・頬に二本の併行・やや湾曲した沈線を対する(ダブル・ハの字)。②左腕に釘抜き型文様。 ③胸左側に斜線部が内側に湾曲した長三角形文様。

(2)片頬にだけ「ハの字」があるのは、頭上に蛇を頂いている藤内土偶です。

頭上に蛇を頂く藤内土偶のイレズミ

 ① 左眼の下・頬に二本の直線・並行した沈線を対する(ダブル・ハの字)。②右眼の下には沈線なし。
 
(3)「いっちゃん」と同じ一の沢西遺跡から出土した土偶(「にいちゃん」と仮称)は、顔にイレズミは一切認められません。

一の沢西遺跡「にいちゃん」のイレズミ

 ① 顔にイレズミは一切認められない。

 では、何故に(1)両頬、(2)片方だけ、(3)イレズミ無し、の3パターンがあるのでしょうか? 
 縄文イレズミの「画期的研究」と称されている高山純『縄文人の入墨――古代習俗を探る』(1969.9、講談社)は、以下のような珍説をうち出しています。
 「当時、土偶を製作するのにそのモデル、つまり人間をありのままに表現しなければならないというきまりがなかったので、製作者ははぶいてしまったのであろうと解釈する以外、現在の私にはうまい説明の仕方がないのである」(同上p.213)
 「わかりません」と言えないんですねー、この先生は。
 私はといえば、わからないながらも、前回の注5で以下のような仮説を提出しているのですが、いかがなものでしょうか?.
 児玉作左衛門「アイヌ生体の特徴」によれば、 「女の子が何歳になったとき〔イレズミの〕施術をうけたかということに関しては、日高、胆振、上川地方では大略七、八歳からおそくとも、十四、五歳ぐらいの間で第一回のものが行われた。このときは口辺から施術される。つぎの前腕や手のものは、十一、二歳から十五、六歳の間に始まる。十勝、釧路、北見地方では第一回の施術は前記の地方よりやや遅いようである。いずれにしても完成の時期は同じであって十七、八歳である。」(全文は、後掲の〔資料3〕➊児玉作左衛門による記録:「アイヌの文身」を参照のこと)
 この児玉作左衛門説によって類推するなら、イレズミは女性の人生の通過儀礼であって、①イレズミ無しは7~15歳未満、②片方だけは7~15歳以上、③両頬は17~18歳以上、というような年齢を想定できるでしょう。
 この類推を基にすれば、一の沢西遺跡出土土偶のイッチャン(ダブル・ハの字有)はニイチャン(ダブル・ハの字無)より年上だということになります。
 「ミス馬高」はダブル・ハの字であるから、ミスではなく、「ミセス馬高」だと訂正しなければなりません。
 そして、蛇を戴く「藤内土偶」はシングルであって、「ミス藤内」です。「〔奄美の〕アラレボは一五、六歳の娘でノロの従者をいう。井戸尻出土の女人土偶は少女の稚拙な表情をもっている」と喝破した谷川健一の洞察とピタリ照合しますね(第5回拙稿参照)。念のため、谷川健一が依拠した原典を抄録しておきます。
 「昔の呪女(ノロ)神は、よく波布〔ハブ〕を制し、アヤナギを這わすといって、アラレボ(一五、六歳)の娘らよりなる、呪女の従者たちの頭髪に波布を巻きつけたという。」(金久正『奄美に生きる日本古代文化』p.258、2011.6、南方新社)
 ところで、問題は「縄文のビーナス」です。「縄文のビーナス」の顔面にはイレズミが全く見当たりません。結婚していない、未婚です。しかしながら、成熟した豊満な肉体であり、下腹が膨らんでいて明らかに妊娠しています。これはどうしたことでしょうか?

(資料)「縄文のビーナス」(茅野市教育委員会『棚畑 八ケ岳西山麓における縄文時代中期の集落遺跡』1990より)   

 処女懐胎と考えざるを得ませんね。キリストを生んだマリアは処女懐胎であって、カトリックではマリア信仰が根強くあります。日本の説話伝承の玉依姫(たまよりひめ)も処女懐胎で賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)を生みました。ここから、「縄文のビーナス」は、柳田国男「妹の力」が言うところの巫女(ミコ)の原型である可能性が浮上します。畏れ多いこととて、誤解を招くといけませんから以下に原文を引きます。
 「此二柱(玉依彦・玉依姫)の神は人も知る如く、賀茂の神人の始祖であり、同時に又上の社の御神の、御母と御伯父である。曾ては人間の処女の心姿共に清き者の中から、特に年若く未だ嫁がざる者のみを点定して、神の尊き霊が御依りなされし時代があった。他の多くの旧社には永く此例を遵守者もあったが、此場合には必ず代々の兄の家が神職を相続して、大工のジョセフよりも一段と自然なる保護と奉仕とに任じ、又その御神の力を負うて、付近の部曲に号令することを得たのであった。」(柳田国男『妹の力』p.p.27-28、1942.8、創元社刊)
 改めて「縄文のビーナス」の顔、首、胸、腹、腕、脚、足……カラダを隅から隅まで眺めなおしてみましょう。イレズミと認知しうるような傷跡は、一つも見当たりません。臍はありますが、一般的に土偶に最も特徴的な、胸から臍に垂下する線、いわゆる正中線すらありません。無傷です。何故か? ヒトではなくカミであるからではないでしょうか。ムラビトたる女は、初潮に前後して、イレズミを入れはじめ、イレズミが完成してはじめて結婚することが叶い、子供を宿し、やがてムラビトたるものを生み育てます。しかし、カミの母たることを運命づけられた女性はイレズミを入れない。なぜなら、彼女には、織布、刺繍をはじめ家事、耕作作業といった雑事は期待されないのであって、カミと疎通し、神事を営み、カミの子を宿すことのみが祈念されていたのでしょう。
 これはイレズミとは何か? イレズミの本質的意味にかかわっています。後段に、台湾のタイヤル族にとってのイレズミの本質的意味―-イレズミはタイヤル人のレゾンデートル(存在理由)証であり、しかもタイヤル人のイレズミの本当の主人公は祖霊で、イレズミは祖霊とタイヤル人子子孫孫の約定であり、祖霊と子孫の運命共同体を象徴している―という民族学的証言を翻訳紹介してあります。このイレズミの本質的意味を参照したうえで、よーくお考えいただきたいと思います。私の仮説は、以下の通りです。
 
 ヒトはイレズミをしなくては生きられないが、聖母はイレズミを必要としない。
 
 そこで、顔面のイレズミ女を、目安として以下のように分類します。
 ①イレズミ無し…………7~15歳未満(初潮以前)
 ②片方だけ……………7~15歳以上(初潮以後)
 ③両頬…………………17~18歳以上(結婚・妊娠可能年齢)
 ④イレズミ無し・妊娠…(結婚・妊娠可能年齢、神女)
 
 さて、以上は顔面イレズミの数および有無に関してでしたが、縄文中期の土偶には顔面以外にもイレズミが見られます。
 「ミス馬高」の場合でしたら、ダブル・ハの字のほかに、以下のようなイレズミと思しき傷跡があります。②左腕に斜め線2本。③胸部・乳房の周りに半円二重線。④胸部・鳩尾辺りに半卵型線、その下に鉤・垂下線。⑥鳩尾下の中央部に3本の垂下線(左端線の下端はやや短い)。⑦左脇腹部に山の字型文様・その左下に斜短線。⑧右脇腹部にU字+I字型文様、その右下に縦斜短線と点。                 
 「いっちゃん」の場合も、腕と胸に傷跡があります。②左腕に釘抜き型文様。③胸左側に斜線部が内側に湾曲した長三角形文様。
 今一つ新たに、東京都稲城市多摩ニュータウン№471遺跡から出土した「ほほえむお化粧土偶」といわれる中期カッパ型土偶を見てみましょう。発掘所見には次のようにあります。
 「全長18㎝、最大幅7.8㎝を測る。18号住居跡から出土した胴部上半と、50m程離れたE地区遺物集中地点より出土した胴部下半とが接合して一体となる、表面には白色粘土が残存しており、本来全面に塗彩されていたものと思われる」(『東京都稲城市多摩ニュータウン№471遺跡』口絵説明より)

 「ほほえむお化粧土偶」(『東京都稲城市多摩ニュータウン№471遺跡』p.360より)
右目と右頬が欠損している

「ほほえむお化粧土偶」(『東京都稲城市多摩ニュータウン№471遺跡』口絵より)右目と右頬が再生手術されている。復元の根拠は示されていない。

 『東京都稲城市多摩ニュータウン№471遺跡』口絵写真を見ると、「お化粧土偶」の顔面にはイレズミがあります。右頬に鮮烈な二重線があり、左頬の二重線と合わせ、ダブル・ハの字になっています。
 しかし、なんだか変じゃありませんか?
 実測図と口絵写真とを比べてみてください。実測図では顔面の右3分の1ほどが欠損しています。右目も右頬もありません。
 しかし、口絵写真を見ると、右目も右頬も再生手術されています。右頬のイレズミの何と白色鮮やかなことか! そこで、多摩ニュータウンの東京都埋蔵文化財センターに、これはどうしたことか? と問い合わせたところ、得答えずなりにけり。調査を要請して数日後に改めて問い合わせると専門調査研究員曰く。「修復時の記録は残されていない。」「山梨県釈迦堂三口神平遺跡出土の土偶を参考にして修復した。」「『東京都稲城市多摩ニュータウン№471遺跡』のほかに報告書はない。」
 あきれた話じゃありませんか!  遥か彼方の他国の地だ。しかも、証拠隠滅だ。念のために『釈迦堂Ⅱ図版編 山梨県東山梨群勝沼町三口神平遺跡』(山梨県教育委員会、日本道路公団)で調べてみると、どうだ? 釈迦堂では土偶の頭部しか出土していない。三口神平土偶の顔面のイレズミを数えてみると、こうだ。
 イレズミ無し19個、ダブル・ハの字片側のみ1個、ダブル・ハの字8個、シングル・ハの字1個、破損不明3個だ。むろん、色なんかついちゃいない。

 私は、第5回論考の注1で、この問題に注意を促しています。
 「スクープ!縄文土器・土偶が「変造」されている!」(『サンデー毎日』2015年7月19日号)〔問題摘出スクープ!在野の考古学研究者が怒りの告発 http://mainichibooks.com/sundaymainichi/society/2015/07/19/post-177.html〕は見逃すわけにはいかない。この国の文化官僚の見識が問われている。」
 旧石器捏造事件は記憶に新しく、縄文の発掘物変造問題の根は深く、日本の考古学界を腐らせていると私は密かに思っています(とりあえず戸沢充測「縄文研究の理念」『増補 縄文人の時代』p.p.286-293、1995.5、新泉社参照)。しかし、ここではこれ以上の追及は棚に上げし、先を急ぎましょう。根拠不明ながら、「ほほえむお化粧土偶」はダブル・ハの字と仮定しておきます。
 鳩尾あたりには、「ミス馬高」の右脇腹部に見られたU字+I字型文様(鳥の足型)とよく似た文様があります。その鳥の足型文様から発し一直線に垂下する陰刻が臍部分に達しています(正中線と呼称されている)。臍部分の○も臍より大きな陰刻です。この胸部-腹部-臍の陰刻もイレズミである可能性大です。下腹部分の文様は俗に「対称弧刻文」【注1】といわれる文様で女陰の形象と見られており、「縄文のビーナス」の下腹部にもくっきり描かれています。これは線ではなく面ですから、イレズミではないと見なしましょう。
 この土偶で特異なのは色です。「極わずかではあるが、顔面のダブル・ハの字文と正中線の線刻の中、および対称弧刻文によって削り込まれた部分に白色の粘土質様の物質が残存している。土偶表面における塗彩の痕跡と考えられる。」(同上p.359)要するに、この土偶の顔のイレズミ及び対称弧刻文は白色塗料で塗布されていたわけです。縄文後期の土偶には赤色塗料を塗布したイレズミも知られていますから、イレズミは黒や青ばかりでなく多様な色彩があり、色彩の違いによって使い分けがされていたという要素も加味して考察する必要がありましょう。
 イレズミではないかと見られる縄文中期土偶の顔面およびカラダの文様は、とりあえず以上に留めておきます。
 例えば、第6回論考でカラー写真を掲げた、新潟県糸魚川市長者ケ原土偶は顔、腕、胸、脇、腹、脚、足に至るまでイレズミだらけと見ることができるでしょう。また、縄文中期後半の中部高地一円の土偶の御本尊と見なされる長野県富士見町坂上遺跡土偶(重要文化財)のカラダの前面から背面に至る複雑・精緻な文様(背面人体文)を、ボディペインティングと見る研究者がいますが(安孫子昭二説〔注2〕)、ボディペインティングとは言い得て妙で、私はイレズミに他ならないと了解しています。さらに縄文後期の東北・東日本発掘の土偶ともなれば、体中イレズミだらけが標準装備と言って過言でありません。
 しかし、いま、不用意に考察対象資料を拡げると、議論が錯綜し散漫になりますから、ここでは禁欲して対象を典型だけに絞らなければなりません。

注1 対称孤刻文については、小林公明「対称孤刻文の神話考古」(『諏訪学』2018.3、国書刊行会刊 所収)において、幅広く深い考察がなされている。対称孤刻文が白く塗り込められるのは何故か? 「太陰的な世界観に寄り添ってみるなら、光を失って白々とした朝方の月、風雨にさらされたしゃれこうべが思い浮かぶ。それに白は、雪に閉ざされた冬の色とも云えないか。雨露は月に属す。雪も然りである」と言う。確かに白は不気味な色、死の色の予兆を漂わせている。ダブル・ハの字が赤い漆で塗られた土偶や埴輪は数々見られ、血の赤、生気を帯びた色として受け止められ得るのと対照的である。ダブル・ハの字や正中線が白く塗り込められるのは何故か? 古代中国において「白」という字は、しゃれこうべの形であらわされる、という白川静説に着目した小林の着眼は鋭い。ズバリ類推して、「お化粧土偶」は死と密接に関連しているであろう。
注2 坂上土偶の背面人体文(安孫子昭二説)
 「背面人体文」の命名者である安孫子昭二は、以下のように言っている。
 「「背面人体文」とするのは、いわゆる「ブラ文」が施された土偶に象徴されるが、ブラ文というのではこの文様の正面観だけが強調されることになる。この土偶のモチーフの特徴は、正面から側面・背面に連続して描かれることにある。背面は、腰の部分でX字状を呈して逆ハート上に桃割れした尻が描かれていて、肩からあたかも両腕を胸下に差込んで抱きついた格好のようにも見える。素面の土偶の背中に、背後霊のような別人が刺青あるいはボディペインティングが施されたかのようである。」(安孫子昭二『縄文中期集落の景観』第4節 背面人体文土偶、p.226、2011.5、アム・プロモーション。傍線引用者)

坂上土偶
 (『唐渡宮―八ヶ岳南麓における曽利文化期の遺跡群発掘報告』1988.9、富士見町教育委員会より)


2.この世とあの世の通過儀礼としてのイレズミ
 イレズミは、アイヌ民族にあっては女性が一定年齢に達すると入れるのものでした。イレズミに着手するのは初潮に前後する頃で、それが完成するのは17、18歳、すなわち結婚する年頃です。中国雲南省怒江傈僳(リス)族の少女は12、3歳になったら顔にイレズミし、成年になったことを表示し、嫁入り前には必ずイレズミをします。台湾の先住少数民族であるタイヤル族の場合は、(あとで詳しく見ますが)イレズミは男女ともに、成年及び成年となったことを表す標識です。紋面のない者は結婚できません。イレズミを入れる資格は、男は首狩りの成功者、女は織布技能の習得者に限られています。
 いずれにおいても、イレズミは人生の通過儀礼です。
 「通過儀礼とは、出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。古くから行われているものとしては割礼や抜歯、刺青など身体的苦痛を伴うものであることが多い」(フリー百科事典『ウィキペディア』より)。
 この年齢、身分、状態、場所などの変化、移行に伴う一連の通過儀礼をはじめて構造的に体系化したのは、アルノルト・ファン・ヘネップ(1873-1957)です(綾部恒雄・綾部裕子訳『通過儀礼』1995.3、弘文堂)。『通過儀礼』では、妊娠と出産(4章)、出生と幼年期(5章)、加入礼(6章)、婚約と結婚(7章)、葬式(8章)、他の型の通過儀礼(9章)が論じられています。このヘネップの通過儀礼において、注目すべきは、この世と同時にあの世の通過儀礼が論じられていることだ、と私は思います。素人論議するより、訳者解説を引きます。
 「通過儀礼の図式は一般に直線的であるが、民族によっては、生から死へ、死から生へと終わりのない道を循環する円をなしている場合もあることを指摘している。この循環の図式が仏教の輪廻思想、そしてニーチェの「永劫回帰」の思想と深いつながりを持っていることはいうまでもなかろう。したがって通過儀礼の基本思想は、人の一生の歩みを動植物の発育の諸段階、大自然の季節のリズムや天体の運行という、パースペクティブの中で捉えている一つの壮大な試みであるとも言えるのである。」(同上p.234)
  日本における通過儀礼研究【注3】の白眉は、柳田民俗学を下敷きにした坪井洋文「日本人の生死観」(『岡正雄教授古希記念論文集 民族学から見た日本』)でありましょう。私は、通過儀礼とはヒトの誕生から死、さらにあの世からこの世への回帰の各段階に行われる儀礼を指す、と考えていて、坪井の描いた下図の「日本人の生死観(生死過程の儀礼化)」に心服しています。

 「日本人の生死観(生死過程の儀礼化)」
(坪井洋文「日本人の生死観」より)

 この円の上半分は顕界で、下半分は幽界です。
 上半分の顕界は右端の誕生をスタートにして逆時計回りで回って行きます。成人化過程を経て、頂点で結婚式に達します。ついで成人期に転じ、厄年祝いを経て還暦、古希など死への予祝を受け、終局として左端の葬式に帰着します。ここで注意を要するのは、成人化過程と成人期におけるヒトの違いです。成人化過程は未成年であり、一人前のヒト(ムラビト)ではない。「七つ、八つはカミのうち」という俗諺に従えば、成人化過程は基本的にカミのうちにあるわけです。ムラ内での帰属はイエビトでありましょう。結婚式以後の成人期のヒトがムラビトであることは言うまでもありません。
 下半分の幽界は、死霊に対して行われる儀式です。葬式に次いで初七日、四十九日、一年忌、七年忌、十三年忌など御年忌が続き、三十三回忌あるいは五十回忌で弔い上げとなります。ここまでが祖霊化過程、即ち祖霊になるための準備期間で、そのための祭祀が行われるわけです。以後は祖霊、即ち柳田国男の言うところの「御先祖様」となり、祖霊期に入ります。祖霊期の終末が注目されます。右端近くに「誕生予祝」「帯祝い」とあります。「御先祖様」が生まれかわって誕生となり、再び成人化過程に転ずるわけです。ここで、また注意を要するのは、祖霊化過程と祖霊期おけるホトケ=カミの違いです。祖霊化過程においては、ムラビトはまだホトケにはなりきれないホトケ化過程にあり、年忌供養を必要とし、これを仏教が請け負っています。祖霊期に入ると「弔いあげ」となり、ムラビトではなくなり、以後、供養を必要としないカミとなって、やがては誕生を約束されて、イエビトとなります。この祖霊期から誕生を経て結婚式までは神道が請け負っています。
 こうしてヒトは誕生―生―死―誕生の過程を循環して永世に生き続ける、と日本人には観念されていたのです。これは「日本民俗学が成果として常識的に受けとめられている生死観」に他なりません。私が、本論第1回論考から第7回論考まで一貫して追究しているのは、こうした日本人の通過儀礼の中に、縄文時代の儀礼を位置づけ、石棒、埋甕、土偶、イレズミなど精神領域にかかわる遺物・儀式が何たるかを解明しようという試みです。第1回論考は梅原猛「日本人の原『あの世』観―アイヌと沖縄」に依拠し町田市忠生遺跡の巨大石棒、第2回論考では死産児・乳幼児の住居内埋葬風習に基づいて無頭石棒を論じ、第3、4回論考ではアニミズム研究の祖であるE.B.タイラーによる祖先や親類の魂が子供の中に入るという信仰、文化人類学者B.マリノウスキーによるトロブリアンド島の「霊児」の神話、そして親鸞の還相廻向(あの世からこの世に帰ってくるという浄土論)などに依拠して、土偶を考えました。
 これまでに私が示唆した初歩的な仮説を、ここで確認しておきます。
 巨大石棒による祭儀は葬式に際して、この世からあの世に石棒を送り、あの世に届いた石棒を使って、あの世からこの世に霊=イノチを送り返す装置とするためのムラビト共同祭祀であったのではないのか。
 埋甕、無頭石棒は、ムラビト祭祀ではなくイエビト祭祀であり、死産、嬰児・幼児死亡などによって、この世への再来がかなわなかった嬰児・幼児の魂を改めて母親の胎内に戻し、再び生まれなおして来るように祈願する巫女の呪術具ではないのか。
 土偶は、ムラビト祭祀ではなくイエビト祭祀である巫女の呪術に使われる呪術具であり、土偶を使った呪術は、あの世にある祖霊の魂をこの世にヒトとして再来させる、即ちホトケ=カミをイエの女の胎内に着床させ、育むための祈りではなかったのか。

 ここで、新たにヘネップが紹介しているインターナショナルな実証例をもう一つ追加しておきましょう。
 「ギニア湾にすむトゥウィ族では赤ん坊が生まれると、家族の中の死んだ人間が持っていたといういろいろな品物を見せる。赤ん坊が選んだ品物で先祖のうちどの人の生まれ変わりかを知るのであり、またこの儀式によって赤ん坊は家族に統合されるのである。」
 日本でも、おじいちゃんの生まれ変わりとか、歌舞伎の世界での何代目とかいうのがありますよネ。ヘネップは、さらに続けています。
 「また人は生まれ変わるという信仰は、他の考え方と共存している場合が非常に多い。アイヌは出生直後の何日間か父・母・子が守るべき境界期を次のように説明する。赤ん坊に肉体を与えるのは母で、魂を与えるのは父であるが、これは一度に与えられるものではなく、肉体のほうは妊娠期間中に少しずつ、また魂のほうは、出生後父親が友達の小屋に移って過ごす六日間、次に自分の小屋に戻って過ごす六日間に徐々に与えられる。だから赤ん坊が完全で自律的な人間になるには、一二日間待たねばならない。」(同上、p.46。アイヌの事例は「アイヌの父」=宣教師バッチェラー(1854―1944)の証言に依拠している)
 
 さて、ところで、イレズミを通過儀礼図に組み込むことは、それほど難しいことではないでしょう。試みに、以下に詳しく紹介してある台湾タイヤル族におけるイレズミを坪井の通過儀礼図に当てはめてみることにます。
 
 ●顕界
タイヤル人の紋面は、成年及び成年となったことを表す標識である。
 【男子】首狩り⇒家を守り、狩猟の能力があり、一家を食わせられる
 【女子】織布技巧に熟達⇒家庭内の物事を正しく処理できる。
非処女あるいは非処男の若者は、祖霊にかかわる試験をパスできない(倫理道徳の最高の極み)
紋面を完成した者が初めて嫁娶〔嫁にやること・もらうこと〕を語ることができる。


 ●幽界
目の上の虹の図案は、子孫の目の上にある祖先を隠喩している遺訓紋である。
顔にイレズミのある人は祖霊の橋である虹を通ってその終点である祖霊の故郷に到達することができる。
祖霊とタイヤル子子孫孫の約定であり、祖霊の子孫に対する帰属認定と運命共同体を象徴している。
人の命はどこから来るか、将来死んだ後どこに帰るのか、よみがえる生命過程のなかにあって「紋面文化」は重要なカギを演じている。

 こうすると、タイヤル人においても、誕生―生―死―誕生の過程を循環して永世に生き続けるのだと観念されていることがわかります。「日本人の生死観(生死過程の儀礼化)」と、根幹の誕生―生―死―誕生の循環では、非常によく似ています。タイヤル人にあっては、イレズミは誕生―生―死―誕生の過程を通行するためのパスポート=身分証明書に他ならないのです。
 しかし、タイヤル人と日本人とでは決定に違いがあるのを見逃すわけにはいきません。
 通過儀礼は社会の上部構造(精神構造)ですが、それを支えている生産様式=経済的土台に着目してみましょう。坪井洋文「日本人の生死観」の経済的土台は、弥生時代以来の水田稲作です。「わたしが示しました日本人の生死観は、稲作を母胎として、日本の自然の中で形成されたという独自性をもつものといえます。……日本人の生死観は、現実に自然に対応して栽培する稲作の生産過程から培われ、形成された観念であります」(同上p.p.26-29)と、坪井自身が吐露しているから間違いありません。その一方で、台湾先住民社会はどうでしょうか? 
 1918年発行『台湾番族慣習研究 第三巻』は、その経済発展段階を以下のように観察しています。「経済上ようやく狩猟時代を去り、農耕時代にうつる過渡期に至るものというべく、最も進歩したる種族にして、なお農耕時代の初期にあるにすぎず」(同上p.1、仮名漢字は現代表記に改めた。以下同)
 農業は幼稚で、耕作方法は施肥しない粗放切替え畑(焼き畑)、耕作して3~4年で地力が尽きると休耕して、他に移っていくのです。作物は、平地では陸稲も見られますが、全体的には粟が主力です。従作物としてキビ、トウモロコシ、ハトムギなどのほかに、薯、芋、豆類など、副作物としては野菜、煙草、麻などが作られています。農具については以下のごとくです。
 「往時は一般に農具として、鹿角あるいは堅木の枝の鉤形をなせるものを鍬とし、鹿の肩甲骨あるいは長さ三尺ばかりの樫棒の末端を扁平に削りたるものを鋤とし、その他には樹幹を切り、火を以て凹穴を作れる臼の類を用いたるにすぎずという(また、ブヌン族等には太古は武器農具は皆石製にして粟を苅るも石器を用いたりと伝う」(同上p.p.12-13)。
 これは、どう見ても弥生じゃありません、縄文です。しかも、台湾の東北部山岳地帯ですから、長野・山梨をはじめとする中部山岳地帯の縄文集落の経済的土台とよく似た様相を呈しています。縄文中期に農耕が営まれていたことは、諏訪の非アカデミズム考古学者・藤森栄一が提唱したところです。藤森の死後、1974年夏長野県荒神山遺跡で「炭化した粟の塊」が発見され、縄文中期農耕論は実証されたに見えたのですが(『藤森栄一全集』第9巻口絵写真)、電子顕微鏡でエゴマと鑑定されました。縄文中期に農耕いまだ仮説のままですが、井戸尻考古学館グループによって、農耕手段である打製石器(鍬、除草具、石包丁など)の傍証が続けられています(「藤森栄一以後の縄文農耕論――石製農具を中心として」『井戸尻考古館編『甦る高原の縄文王国』2004.3、言叢社)〔茶色部分2018.12.2改稿〕
 以上から3つの地域・時期の上部構造(精神構造)と経済的土台の相関は、下表のようにまとめることができるでしょう。

地域・時期 上部構造(精神構造) 経済的土台
1.弥生時代以降日本 日本人の生死観 水田稲作
2.台湾タイヤル族(20世紀初) タイヤル人の生死観 粟・焼畑
3.中部山岳地帯縄文中期前半 縄文人の生死観 粟・焼畑?

 この表から第1に、「日本人の生死観(生死過程の儀礼化)」が弥生時代の水田稲作以後に、稲作を母胎として、日本の自然の中で形成されたという坪井の吐露が疑わしく思われてきます。坪井自身が「稲作社会に共通した特長というより、人間生活と自然とのかかわりにおいて、広く全人類にいえるところであります」とも言っているように、細かな違いはともかくとして根幹の誕生―生―死―誕生の循環においては、日本とか、弥生時代とかいう限定は無用でありましょう。「日本人の生死観(生死過程の儀礼化)」、その根幹は弥生時代に突如現れたものではなく、縄文の時代から延々と受けつがれてきたものである、というのが私の解釈です。縄文時代の「あの世」と「この世」観はアイヌと沖縄に見出すことができるのであり、その誕生―生―死―誕生と循環する世界観は、古神道に受け継がれ、神社神道の根幹を形成しました。仏教が輸入されて以後は、祖霊期から誕生を経て結婚式までの期間は神道が請け負い、成人期から葬式を経て年忌供養がうち続く祖霊化過程は仏教が受け持つという形で、二つの宗教がすみ分け、「日本人の生死観」が貫徹されたのです。難しいことはともかく、われわれ日本人常民の伝統的な信心は、神社に詣でるのは生に親縁のある誕生、七五三、成人式、結婚式など、お寺参りするのは死に親縁のある葬式、一周忌、三周忌、七周期などの法事と住みわけ、使い分けしているんじゃありませんか(なお、この点について『人類哲学の創造』第3章 日本人のあの世観、『梅原猛著作集17巻』所収が詳論しているので是非とも参照されたい)。
 第2には、中部山岳地帯縄文中期前半における縄文人の生死観は、タイヤル人の生死観と共通していると見なすことができるのではないでしょうか。両者は経済的土台において、粟作であること、粟を刈るのに石器(恐らく打製石器の石鎌)を用いたことが共通しており(中部山岳地帯縄文中期前半の粟農耕は仮説)、さらに上部構造(精神構造)においてはイレズミの文化が、しかと存在するからです。
 第3には、蛇の文様を配した土器の存在です。これが最も重大なことなので、史料発見の経緯に触れます。
 連載第6回論考の書き出しで、私は2匹の蛇を配した陶罐の図を示して、「発掘物なのか、おみやげ物なのか定かではありませんが、縄文中期前半の土器に造形された蛇に酷似していて、確固とした原始資料を探し出さなくてはなりません」と記したところ、さっそく長野県諏訪郡富士見町井戸尻考古学館元館長(小林公明)が、そのものズバリの写真ゼロックス・コピーを送ってくれたのです。
 パイワン族の壺。思わず、エー!! 
 詳細は定かでありませんが、出所から推して確固たる考古史料であることは間違いありません。蛇は台湾の毒蛇で、百歩蛇に違いなく、しかもオス・メスのつがいの文様です。

壺、パイワン族 高さ19×周囲39㎝
(『順益台湾原住民博物館文物図録』1999.6所収)

 そこで、私もその気になって探索したのが、以下のパイワン族ホモマク蕃の男子と古代伝来の土器の写真です。古代伝来の土器の下右端の土器の文様が上図とよく似ています。また連載第6回陶罐の図と酷似しています。状況証拠としてはベリーグッドですが、しかし、土器そのものは遠目で、ワン・オブ・ゼンムであり、はっきりしない。

パイワン族ホモマク蕃の男子と古代伝来の土器(森丑之助編著『台湾蕃族図譜』1915年8月、臨時台湾旧慣調査会刊、第47図より。男子は第53図と同一人であり総頭目であろう)。古代伝来の土器の下右端の土器の文様が上図とよく似ており、また連載第6回陶罐の図と酷似している)

 では、インターネット検索で探そう。順益台湾原住民博物館にアクセスすると、以下のようなカラー画像が見つかりました。小林元館長提供のモノクロ写真と同一物と見ていいでしょう。

順益台湾原住民博物館https://www.taipeinavi.com/miru/31/より

頭目用古陶缶。パイワン族(図像来源: 順益台湾原住民博物館、台湾文化部文化資産局 国家文化資産網https://nchdb.boch.gov.tw/ より)

 欲を出しもっと、と台湾文化部文化資産局「国家文化資産網」にアクセスすると、さらに4点の画像が見つかりましたが、当座の用としてうち1点だけを、ここに掲げます。「頭目用古陶缶。パイワン族」とあるところから推して、森丑之助編著『台湾蕃族図譜』に写っているパイワン族ホモマク蕃の古代伝来の土器と同一物と見られます。逸品です。
 
 さて一方、日本の中部山岳地帯縄文中期前半の遺跡発掘土器に蛇の文様が見られることは周知の事実ですから贅言は不要でしょう。ここでは、ただ1点だけ写真を掲げるにとどめます。頭に蛇をいただいた「いっちゃん」の旗をはためかせている山梨県埋蔵文化財センターの遺跡トピックスからの転用です。遺跡名:山梨県甲州市塩山安道寺遺跡(あんどうじいせき)時代:縄文時代中期。調査報告書に「安道寺遺跡調査報告書(概報)」(1978.3、山梨県教育委員会)があり、実測図が掲載されていますが割愛します。

山梨県甲州市塩山安道寺遺跡出土の有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器(山梨県埋蔵文化財センターHPより)。

 それにしても、よーく似ていますねー。少なくとも、台湾先住民族と縄文中期前半の中部山岳地帯とがともに蛇の文様を配した土器を作る文化を持っていたことは確実です。
 実は、土器だけじゃないのです。小林公明元館長は、さらにもう一つ、別の資料も送ってくれていたのです。 こちらは、『台湾排湾群諸族木雕標本図録』1961.11)からのゼロックス・コピーで5葉、写真は10枚掲載されています。煩雑になりますから、そのうち1葉だけを以下に転載します。ルカイ族(大南村)立柱彫刻とだけあります。

ルカイ族(大南村)立柱彫刻(『台湾排湾群諸族木雕標本図録』1961.11、南天書局より)

 立柱彫刻で注目すべきは頭です。左の男の頭上の丸に矢印は順益台湾原住民博物館の壺や頭目用古陶缶に描かれた文様と同一であり、蛇、即ち台湾の猛毒蛇の百歩蛇です。右は女と見受けられますが、蜷局をほどいていて、尾っぽがつながっていると見られますが、その上にあるものが何なのかわかりません。ともに頭上に蛇を載せた図です。これは、「百歩蛇を頭上に頂く男女祖先神の等身大の木彫板」で、「頭目の標識としてその屋敷の前面に立てられたもの」(吉野裕子『蛇 日本の蛇信仰』pp.140-141、法政大学出版会、1979.2)に他ならないでしょう。【注4】
 中部山岳地帯縄文中期前半の土偶の頭に蛇が蜷局を巻いていることは、前回第6回拙稿で見たとおりです。台湾先住民族と縄文中期前半の中部山岳地帯はともに、蛇を頭に戴く文化をもっていたのです。
 
 さて、以上から導かれる結論は単純です。中部山岳地帯縄文中期前半の土偶を研究するには、台湾先住民族の民族学的研究資料を全面的に検証し、比較研究すべきである、というに尽きます。私は、次回でその初歩的研究に着手するつもりですが、その前に、どうしても、この国の、縄文土偶のイレズミ研究状況を点検しておく必要を痛感しているのです。

注3 日本における通過儀礼研究
 柳田国男と並ぶ民俗学の巨頭であった折口信夫に依拠した研究に牧田茂『日本人の一生』(1990.2、講談社学術文庫)がある。その結論に言う「人間も……激しい生ののちには“魂のふるさと”で静かにこもっている死の期間があるが、やがて再び生まれかわってこの世界に戻ってくる。“魂のふるさと”に鎮まる神としての祖霊から魂が分かれて子が生まれ、その子が成長し、死ねばある期間を経て、神なる祖霊として“魂のふるさと”に帰ってゆく――というのが、日本人の生死観であった。だから日本人にとっては、死は完全な死滅ではなかったのである。稲が籾に包まれて春を待つように、蚕がまゆの中にこもるように、やがて再び生まれ出るために、じっとこもっている期間にすぎない――そう考えたのである。」(p.245)
 前回の土偶の頭上の蛇との関連では、吉野裕子『日本人の生死観』(1982.12、講談社現代新書)が、産屋=人から蛇へ、喪屋=人から蛇へという洞察をするとともに、結論部で「古代日本人の生死観」を詳論して曰く。「〔蛇の生理の〕なかで最も重大関心事は、その脱皮であった。脱皮は蛇にとって死活の問題で、蛇は脱皮をしなければ、生命を維持することができない。蛇の脱皮を古語で「毛脱け」(毛奴介)というが、人間にとってもこの毛脱の擬き、真似事をすることが必要とされ、ついに蛇の擬きは、宗教行事の原点になったのである。」(p.177)
  「日本人の生死観」の図解として、私がもう一つ注目しているのは、宮津準『日本の民族宗教』(1994.11、講談社学術文庫)の以下の図である(p.124)。これを今ここで論じる余裕が私にはないが、坪井洋文「日本人の生死観(生死過程の儀礼化)」の図と比較していただきたい。


生と死の儀礼の構造
注4 台湾先住民族の蛇崇拝
台湾先住民族の蛇崇拝については、伊能嘉矩「台湾土蕃の蛇につきての敬虔的観念及び之に伴生する模様の応用」(『東京人類学会雑誌』第21巻第244号、明治39年7月20日発行)が以下の図を掲げて詳しく考証している。


第6図、第7図、第8図があるが、
紙幅の都合で割愛。

 伊能嘉矩論文は、①蛇につきての敬虔的観念、②装飾上の模様に蛇の形の応用、の2パートからなり、基調は蛇トーテミズム論である。
 神話に曰く「昔し、二頭の霊蛇あり、卵を産せしが、其の卵中より人を生ぜり、是即ち我が一族の祖先なり、故に蛇を殺傷せず」。
 「かくのごとき蛇についての敬虔的観念は、ある部族間には、現実的に高まり、Tsyakvukvun部族のごときは、その形を見るをもって、一の瑞兆とし、現に同部族のごときは大酋長の家にては、その室房の奥壁を。約一間半四方ばかりに凹めて、一つの石室ようのものを構え、蛇の入り来て、蟄伏するに便し、決してこれに傷害を加うることなく、相伝えて、もし蕃社内に災殃あるか、あるいは凶作なるときは、蛇は出て来たらぬというている〔後略〕」(中村が現代表記に修正)。





3.縄文土偶のイレズミ研究の方法
 人類学の視点からイレズミにいち早く着目したのは、日本の先住民はコロボックルであると主張した坪井正五郎をはじめとする『東京人類学会雑誌』を発表の場とした人類学者たちです。「アイヌの入れ墨」(『東京人類学会雑誌』89号、90号、明治26.7、明治26.9)、「カラフトアイヌ女子の入れ墨」(同300号、明治44.3.20)、鳥居龍蔵「北千島アイヌの入墨に就いて」(同209号、明治36.8.20)が代表的論考です。彼らは花婇列島の南端の入れ墨にも注目しています。宮島幹之助「琉球人ノ入墨ト「アイヌ」ノ入墨」(同、明治26.10)、昇曙夢「奄美大島の土俗と宗教に就いて」(同第37巻4号、大正11.4)。鳥居龍蔵「人類学研究・台湾の原住民」明治43.12、明治45.1、『鳥居龍蔵全集』第5巻所収)などがあります。これらは皆、今どきの考古学者先生の足元にも及ばない高水準の研究成果を提供してくれていることを、あえて付言しておきましょう。
 戦後になって、イレズミ研究は空白になっていますが、1960年以降に、縄文中期土偶の顔面に見られる「ダブル・ハの字」をイレズミと見立てたのは江坂輝弥でしょう。最新のバージョンでは、江坂は、新潟県馬高、長野県葦原遺跡出土の土偶などをあげて、「このように、日本列島周辺には、いくつかの入墨の存在を示す例がある。土偶顔部の文様は、化粧というよりは入墨の可能性が強いように思われる」と言っています(『日本の土偶』p.224、2018.1、講談社学術文庫、原本は1990年、六興出版社)。
 その先見性を評価するのはやぶさかではありませんが、腰が引けていますネ。この日本の土偶研究の権威は、イレズミ研究の方法に関して、以下のように、のたまわっておられるのです。
 「日本列島に広く分布する縄文時代各期の遺跡からは、今日までの発掘調査で、埋葬された遺体が各地で発見されている。しかし、いずれも白骨化しており、当時の人々の皮膚などが残存するミイラ化した遺体、あるいは屍蝋風になった遺体などの発見は全く知られていない。したがって当時の人々の皮膚に入墨が施されていたかを検証でできるような遺体は皆無のため、人類学的には立証できない。」(同上p.221)
  珍妙な物言いじゃありませんか?
 縄文の考古学者として名高い設楽博己に「イレズミの起源」という考古学ガイド論文があります。その教えに従えば、昔むかし、甲野勇というエライ学者がいて、1932年に「縄文時代のイレズミはそれを施したミイラが発見されなくては証明できない」と、のたまわったということです。現在のイレズミ研究も、「甲野の批判を乗りこえているとはいえない」そうですぞ。(『縄文時代の考古学10』pp.208-209、2008.1、同成社)
 私は、第6回論考の注5で、台湾のイレズミ女を紹介しました。
 「顔面へイレズミした台湾の苗栗縣泰雅族の女性・簡玉英の死去報道がある(享年103歳、2018年1月16日死去)。「生存者は残り3名」という。……2008年11月21日には「泰雅紋面國寶110歲 吳蘭妹病逝」という報道もある(台湾大紀元訊2008.11.26)。人間国宝であった吳蘭妹については、台湾雪霸國家公園管理處によって学術資料「苗栗縣泰安鄉泰雅族紋面耆老口述歷史之研究報告」(2008.12)が残されています。
 イレズミを施したミイラごときじゃありません、イレズミを施した生きた人間が現存しているのですぞ!

 覚めよ、迷いの夢覚めよ! 

 彼女たちは台湾の人間国宝に指定されています。いわば「生ける宝石」なのです。雪霸国家公園管理処保育研究報告『苗栗縣泰安郷泰雅〔タイヤル〕族紋面耆老〔イレズミ顔老人〕口述歴史研究報告』(2008年12月)という大部の調査研究書も存在し、世界に向け公開されています。これは、精密な学術調査報告です。イレズミがタイヤル族人の、この世とあの世を貫く永劫の存在証明証であったことを、タイヤル族人に取材し、論理整合的に論証し、学術的資料として利用できるように万人に開放しているのです。この台湾少数民族の民俗風習は、縄文土偶に施されたダブル・ハの字及び体中のイレズミを解き明かす特級の民族・民俗資料である、と私は確信します。
 台湾だけじゃありません。中華人民共和国雲南省怒江傈僳(リス)族自治州貢山独龍族怒族自治県には独龍紋面女(イレズミ顔女)が現存します。中国では彼女たちはテレビの特番で取材・報道されており、彼女たちは「死んだら博物館に展示して欲しい」と言っています。
 また、中国においては7300年前の両頬へのイレズミ人頭像が発見されています(蚌阜市博物館の「陶塑紋面人頭像」)。縄文中期ざっと4500年前のことですから、それより2800年も前の遺物で、しかも、明確なハの字刺突イレズミが施されているのです。中国の考古学会でも、これは大きな謎であり、2018年末に、蚌埠で国際学術研討会を開き、国内外の大学・科学研究院の関連専門家を招待して、陶塑紋面人頭像の考古、民俗、美術、文化等の研究価値について共同討論論するそうです。日本の考古学界から、どなたか招待されておりましょうや?
 ちなみに、呉春明、王櫻「“南蛮蛇種”文化史」(『南方文物』2010.2)には、以下のようにあります。
 「華南の土着民族の最も古い蛇崇拝現象は、新石器時代以後の陶器装飾、青銅器文様と雕塑、岩絵芸術中の蛇図像に出現しており、大陸の江蘇、浙江、江西、湖南、福建、広東、広西から台湾、中南半島で発生している。だいたい漢文史籍が記載している「南蛮」、「百越」の地域であり、遥古時代の「南蛮文化」の起源を反映している。」(p.89)
  また、華南各族の蛇トーテム文化は、リー族、チワン族、トン族、タイ族、ミャオ族、ショオ族、及び台湾原住民社会に強烈に表れている、とも言っています(p.94)。
 以下で、私は、慎重を期して、私見を挟まないようにして、これら中国、台湾の資料をドサリそのまま翻訳しておくことにしたいと思います。いうまでもなく、これらは氷山の一角にすぎず、中国、台湾のほかに、熱帯圏を主にアイヌ、エスキモー、アメリカインデアンなど亜寒帯の国々にもイレズミに関する民族学的資料が山のように存在するに違いないのです。
 花婇列島南端の台湾を取り上げたからには、バランスを取って、北の少数民族であるアイヌのイレズミについても見ておきましょう。花婇列島北端は、かつては大日本帝国の統治下にあったので、樺太、千島を含め当時の調査資料がどっさり残っています。それら史料は国立民俗博物館や国会図書館などに眠っているはずですが、ここでは簡単に見られるものを、ほんちょっとだけ。【注5】
 児玉作左衛門による記録:「アイヌの文身」全文。ここには先に私が縄文土偶のダブル・ハの字を分類した基礎的調査結果が報告されています。また、アイヌ研究の大家である金田一京助によるアイヌのイレズミの謎解き「アイヌの黥」のさわりを資料として引用させてもらいます。
 アイヌ女は雄弁の証に唇に黥を、美貌の証に額に黥を、手芸の証に手に黥をするという洞察は、いかにも鋭い。アイヌの女の口の神語を宣べる巫力は、黥によってさらに霊異な咒的効果を増大し、ユーカラへと結晶したのです。ユーカラは、巫女の口から洩れ出た宣託歌(巫謡)にほかなりません(寺久保逸彦『アイヌ叙事詩 神謡・聖伝の研究』1977.2、岩波書店を参照)。
 イレズミはアイヌにあっても、民族の存在証明証そのものであったのです。
 
 閑話休題。
 江坂輝弥が「ユニークですばらしい」と絶賛している研究があります。高山純『縄文人の入墨――古代習俗を探る』です(1969.9、講談社)。なるほど、この本は入墨についての総括的労作であり、日本の南北の南島とアイヌ入墨習俗のみならず、世界的視野に立って東アジア・オセアニアの入墨習俗の至るまで幅広く研究しています。「画期的研究」だという腰巻宣伝にも嘘はなく、縄文の土偶研究に当たっての最もベーシックな研究書だと思います。
 しかしながら、縄文土偶の「ダブル・ハの字」についての結論は、それほど立派ではなく、以下のごときに止まっていることを、確認しておかねばなりません。同書からそのまま引用します。

土偶に見られる「ダブル・ハの字」文様とまったく同じ部位に文様を施し、しかも妙齢として用いられているものを、現存する民俗例に見つけることはできないといえよう。(p.211)
私〔高山純〕は、次のような根拠にもとづいて、土偶の頬の「ダブル・ハの字形」文様を妙齢の表彰と考えたい。東アジアおよびオセアニアにおいては、ほとんどの地域に女性が妙齢のしるしとして入墨を行う習俗があるか、あるいはかつてあった。とくにこの習俗は台湾から北に認められ、南島、アイヌ、エスキモーに分布し、さらにアイヌとエスキモーのあいだに居住するコリアクおよびチュクチにもその存在を示唆する痕跡がある。このように地理的な断絶がほとんどなく分布している。このように地理的断絶がなく分布しているということは、たがいに系統的親縁関係にあることを示しているものと考えてさしつかえなかろう。(p.212)
種々の面からみて、女が入れ墨をしていなかったとは絶対考えられない。そして、もし女が入れ墨をしていたとすると、女の入墨は東アジア・オセアニアではどこでも妙齢の表示として行われており、しかも日本の両端に住んでいるアイヌと南島民にもこの習俗がある以上、日本のみこの習俗がなかったとはちょっと考えがたいのである。そして、もしそうであるとするならば、その習俗は縄文時代中期までさかのぼることが、土偶の研究より推定されるのである。(p.213)
なお、土偶の中には、この「ダブル・ハの字形」文様はいうまでもなく、まったく文様をほどこさないものが多数あるが、当時の女性が妙齢のしるしとして、その頬に「ダブル・ハの字形」の文様をすることになっていたならば、妊娠を示した土偶は当然この文様をつけていなければならないことになる。この点はいかに解釈したらよいであろうか。当時、土偶を製作するのにそのモデル、つまり人間をありのままに表現しなければならないというきまりがなかったので、製作者によっては、はぶいてしまったであろうと解釈する以外、現在の私にはうまい説明の仕方がないのであるが、この説明ではなお不充分の気がする。この点は今後、問題となる点である。(p.213)

 高山純『縄文人の入墨――古代習俗を探る』以後は、縄文人のイレズミについての研究は、ほとんど進展がないように見受けられます。先にふれた設楽博己「イレズミの起源」では、設楽自身の縄文イレズミ研究は一切なされておらず、代わりに弥生のイレズミ研究を少しばかり紹介してお茶を濁しているのです。今や、考古学者・高山純が、苦闘の探求の果てにたどり着いた真摯な提言に耳を傾けるべきじゃないのかなーと、「縄文老人」はおせっかいにも、もの思うのであります。

 「考古学的研究には限界がある。つまり、考古学というものは下限の目安がつくということと、形にのこるものしかあつかうことができないということである。つまり、考古学的調査によって期待できることとしては、入墨のほどこされる場所、文様、性別、顔料、工具、それにもしかすると年齢などはわかるかもしれないが、それらの名称はもちろんのこと、入墨習俗においては重要な位置をしめている儀式、禁忌、起源伝説など形にのこらない点については、皆目知ることができないのである。
 この欠点をおぎなうことができるのが民族学なのである。民族学による研究も、その弱点をじゅうぶん承知したうえで用いるならば、かなりの成果を期待できると信じる。
 つまり、従来のように単に文様が似ているからとか、入墨のほどこされている部位が一致するとかく安易な方法ではなく、入墨習俗を構成しているいろいろな要素――を摘出して詳細に比較検討してみるならば、考古学ではどうしてもわからない部分を補充することができるのではなかろうかと思う。とくに、現在までのところ、考古学調査が入墨についてあつかうところまで進んでいない地域などでは、民族学的資料に全面的に頼らなければならないのでその果たす役割は大きいといえよう。要するに、民族学的調査はいかに考古学的研究が発達しようとも、依然として重要であるといえるのである。」(同上、p.286)


注5  サハリン・千島の先住民族についての文献は、谷川健一責任編集『北の民族誌―サハリン・千島の民族』(日本民俗文化資料集成23、1977.11、三一書房)巻末の「文献目録」がある。その一部分の、ギリヤーク、オロッコ、樺太アイヌについては、同書が原資料を若干収録しているので参照されたい。
 遺物史料については、北海道立北方民族博物館編『第4回特別展示録 サハリン先住民の精神世界 1992.7.21~8.23』がある。
 鳥居龍蔵には、「考古学民族学研究・千島アイヌ」(東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編、全集第5巻所収p.p.401-553 という大論文がある。イレズミについては、鳥居龍蔵「北千島アイヌの入墨に就いて」が見逃せない(『東京人類学会雑誌』明治36年第209号掲載。全集第7巻所収p.445-447)。


4.〔資料1〕7300年前のイレズミ像と雲南省独龍族のイレズミ女
❶中国で発見された7300年前の顔面イレズミ像
 顔面のイレズミ(文身)そのものの歴史は極めて長く、中国においては7300年前の両頬へのイレズミが知られています。中華人民共和国安徽省蚌阜市博物館の「陶塑紋面人頭像」〔土器イレズミ面人頭像〕)です。この「陶塑紋面人頭像」について、同博物館のサイト(www.ahbbmuseum.com/)のほか、最近の中国の報道記事から重要ポイントを抽出しておくことにします。別々の角度から撮影した写真も3葉転載させてもらいます。
 

◆1986年淮上区双墩遺址で、陶器、蚌器、骨器、石器文化遗物とともに出土。淮河流域の早期文明の最も重要な実物例証である。炭素14の測定結果から、新石器時代(今から約7300年前)のものと判明している。
◆頭高6.3cm,顔幅6.5cm,厚さ2.9cm。頭の後部は欠損、首以下欠損、左耳欠損。
◆土器像の造形は、眉弓が突出し、目は丸く、鼻は小づくり、口元をちょっと上げ、顔は微笑している。女性の顔の特徴で、微笑している表情をしている。頬両側に各々5個刺突円点が連なっている。額の中央に円形の同心円(太陽紋)がある。耳朶には穴が穿たれている。陶土質地中には、きらめく雲母と石英粒の微光がある。
◆この文物は、中国で最近発見された「雕題、紋面」の最も古い実証例である。安らかな神秘的微笑をたたえており、ネットプラットフォームでは愛称を募集している。
◆2018年末に、蚌埠で国際学術研討会を開く予定である。国内外の大学・科学研究院の関連専門家を招待して、陶塑紋面人頭像の考古、民俗、美術、文化等の研究価値について共同討論論する。
 
報道出所:(1)2018年08月16日16:54人民网-安徽频道、(2)2018-08-17 09:41 中安在线、(3)2018-10-04 00:16 北京晨报网、(4)2018年10月03日 17:44 新华网など。

❷雲南省独龍族のイレズミ女――「死んだら博物館に展示して欲しい」
 2015年4月22日、“2015ビューティフル中国行・フォーカス独龍江”中央メディア大型取材班が、雲南省怒江傈僳(リス)族自治州貢山独龍族怒族自治県の独龍紋面女(イレズミ顔女)を単独取材した。その記事を以下に抄訳します。





 独竜族は稀少民族であり、人口はわずか五千余、絶対多数は閉ざされた独竜江峡谷地区に住んでいる。婦女の紋面〔イレズミ顔〕は、独竜族にふさわしい奇異な習俗である。この習俗について今まで謎であって、いまや怒江独竜族紋面女の伝統は失われようとしている。
 独竜族紋面の習俗は古老の信念に淵源する。紋面は婦女に限り、「画臉」〔絵を描いた顔〕とされている。『新唐書』に「文面濮」、『詔野史』に「綉面部落」とあるところからわかるように独竜族の紋面の由来は幾久しい。
 少女は12、3歳になったら紋面をし、成年になったことを表示し、嫁入り前には必ず紋面をする。いま紋面女の最高年齢は108歳、最小年齢は50歳で、平均年齢は72歳である。紋面をした年齢は最長31歳、最少6歳で、平均紋面年齢は14歳であって、12歳前後が最も多い。
 紋面女たちについては、いろいろ言われる。見た目がいいため。死後に霊魂と間見えるため。奪われて奴隷とならないため。男女を分別するため。死後に生前の物を帯びるため。ある紋面老人は心の中でこう願っていると言った。紋面の人が死に絶えたなら、彼女達の写真を世界の最大最良の博物館に展示して欲しい、と。
 紋面様式は氏族と家庭を分かたず、基本的に同一である。独竜河谷では、男子はイレズミをしない。女子は12、3歳になると、紋面をする必要がある。イレズミをする時、少女はまず顔を洗い、地に横たわる。婦女が鍋煤をつけた竹串で少女の顔に図案を描く。小さな木の棒で茨の硬い棘を不断にたたいて、上から下へ図案に沿って面差しに刺して突きやぶる。さらに鍋煤あるいは一種の濃い草汁を用い、繰り返し刺紋を揉み、皮下に滲入させる。一週間ほどで、赤い腫れが消え、藍色の模様が顔に定着する。
 顔にイレズミするのは極めて苦痛なことである。一般的には棘で図案を掘り、西南樺製の染料で着色する。顔は血管、神経が多く、紅く腫れ上がり、劇痛が3-5日続き、紋図案は終生消えない。
 (2015年05月05日 12:51:10 中青在線)

5.〔資料2〕生きている宝石=台湾の人間国宝女性の存在証明書
人間国宝の紋面女性〔報道〕
 2018年1月16日、紋面(顔面へイレズミ)台湾の人間国宝・苗栗県泰雅(タイヤル)族の女性・簡玉英が死去しました(享年103歳)。顔面へイレズミした女性の「生存者は残り3名となりました。そこで、以下、台湾『自由時報』(2018-01-16)が、生存女性の一人である苗栗縣山地原住民縣議員・黃月娥に取材して伝えているところを、かいつまんで仮訳紹介しておきます。

 タイヤル族の伝統では、人紋面(イレズミ顔)は一種の責任、一種の栄誉を表わしている。男性紋面は一族を守る人であることを表わし、狩猟を象徴する。タイヤル族の伝統的織布は手がこんでいて、織布、編衣は家庭を守る。女性紋面はタイヤル族女性の織布能力が抜群であることを表している。昔のタイヤル人は紋面後に初めて婚嫁に及んだ。しかし、この伝統文化は日本の統治下で禁止され失われてしまった。タイヤル族紋面は、男性は主に前額及び下顎中央に縱紋を刺す。女性は前額中央に縱紋を刺す。また別に耳から両頰を経て両唇中央に至る斜紋を刺して、両唇の中央で下顎の上に至る。
 (http://news.ltn.com.tw/news/life/breakingnews/2313932)
 
雪霸国家公園管理処保育研究報告『苗栗縣泰安郷泰雅〔タイヤル〕族紋面耆老〔イレズミ顔老人〕口述歴史研究報告』(2008年12月)〔結論のみ抜粋〕
 
 台湾雪霸国家公園管理処研究報告は、日本の縄文時代のイレズミを研究するため極めて有益であると確信します。日本の縄文研究者に、この貴重な研究の所在を知ってもらうために、序文の一部と結論全文及び写真・表を仮訳・紹介します。全文(全文137ページ)がPDFで公開されていますから必ず全文を参照ください。苗栗縣泰安鄉泰雅族紋面耆老口述歷史之研究(2008年) - 雪霸國家公園https://www.spnp.gov.tw/File.aspx?lang=1&uid...。
 訳出に際してのキーワードの訳語は以下の通りです。
 「紋面」はイレズミ顔、あるいは顔に(の)イレズミの意。タイヤル(泰雅)語ではpatas あるいは patasam、英文ではfacial tatoo)。「紋胸」は胸に(の)イレズミ。イレズミ一般は中国語で紋身あるいは文身(tattooing)。鯨は刑罰としてのイレズミ。日本語では『新明解国語辞典』――「皮膚を針などで傷つけ、墨・朱などを入れて着色し、しるしや模様をかくこと(いたもの)。ほりもの。(江戸時代は前科者の目印とし、現在は香具師ややくざなどがする)表記:文身・刺青とも書く」。
 タイヤル族については、森丑之助編著『台湾蕃族志』(1917年3月、臨時台湾旧慣調査会刊)に詳しい記述報告があります(イレズミについてはpp.199-205、首狩りについてはpp.313-331を参照)。
 なお、大正期に台湾総督府内の調査機関、臨時台湾旧慣調査会から刊行された台湾原住諸民族に関する膨大な調査報告書である『台湾蕃族調査報告書』と『台湾番族慣習調査報告書』が存在します。これらは国会図書館デジタルアーカイブからダウンロードでき、縄文社会研究にとって絶好の文化人類学的資料を提供してくれています。イレズミについては、『台湾生蕃慣習研究』(第1巻)の第3章生活・第2節 身飾」・「第2 刺墨」pp346-359に詳しい報告があるので、雪霸国家公園管理処保育研究報告と比較検証してください。同上書には、抜歯、耳飾、除毛など身飾のついての調査報告もあり、縄文発掘物について研究にとって極めて示唆に富む民族(俗)資料と思われます。

【序文】
 台湾全土タイヤル族(サイドク族を含む)紋面老人は20人足らず、うち雪覇国家公園区域週辺の苗栗県泰安郷タイヤル族の紋面人間国宝はわずか7名を余すのみである。紋面老人は年々年老い、相次いで世を去ってゆく。本プロジェクトは老人たちが世を去る前に、タイヤル紋面およびその関連伝統文化を記録し、その調査結果をタイヤル文化の伝承と環境理解工作の基礎としたいと思うものである。

苗栗県泰安郷の紋面〔イレズミ顔〕老人基本資料   2008.12.20作表
  タイヤル名 漢 名 性別 出生年月日 部落 注記
1 Laway‧Payan 呉蘭妹 民国前 13.05.10 象鼻 97.11歿
2 Iwan‧Kainu 簡玉英 民国 06.10.05 大興  
3 Toyu‧.NoRau 高柯香妹 民国 08.09.25 天狗  
4 Laway‧Nogex 李玉香 民国 10.06.05 司馬限 97.5 歿
5 Yawi‧Noming 高天生 民国 10.07.01 天狗  
6 Lawa‧Piheg 柯菊蘭 民国 12.08.17 梅園  
7 Besu‧Hayung 田金次 民国 08.01.21 象鼻  
8 Ciwas‧Taru 張林菊妹 民国 10.10.06 大安  
9 Ikaw‧Pawan 葉振益 民国 06.12.05 士林 97.3 歿




呉蘭妹


簡玉英

高柯香妹

李玉香

高天生

柯菊蘭

田金次

張林菊妹(若い時の写真)

葉振益(告別式の遺影)


 【結論】

 紋面老人9人と部落の頭目・副頭目11人を訪問して、タイヤル族の重要文化であるpatas紋面文化に関して、以下の結論を得ることができた。
 
(1)タイヤル人の見方
①紋面の資格
 タイヤル人の紋面は、成年及び成年となったことを表す標識である。
 紋面のない人は、一族の人の尊敬と認知を受けることができず、さらに婚姻を語ることができない。タイヤル族の伝統社会にあっては、個人は結婚適齢年齢に達すると、紋面の階段をパスしてはじめて嫁娶〔嫁にやること・もらうこと〕を語ることができる。紋面は、男子は出草猟首〔首狩り〕【注6】の洗礼を経て、家を守り、狩猟の能力があり、一家を食わせられることを、女子は織布【注7】技巧に熟達し、家庭内の物事を正しく処理できること等を証明している。この必備要件を擁して紋面をする資格ができる。紋面を完成した者が初めて嫁娶〔嫁にやること・もらうこと〕を語ることができる。当然のことながら、紋面なき者は、理想の配偶者を得ることが難しい。
②識別の功能
 紋面は、図紋で家族の系譜を分別することができる。紋面の形式の違いで、本族内の異なる亜族、系統、群体ないし部落の違いを識別することができる。また紋面はわが一族と他族を識別する重要符号であって、出草首狩行動中に我がタイヤル人を誤殺するのを免れることができる。
③栄耀と責任の象徴
 紋面(顔のイレズミ)が象徴しているのは一種の責任である。いったん顔にイレズミをすると祖霊の遺訓に背くことはできず、部落の長老の祝福を得て、この個人が真のタイヤル族の資格を備えていると認められる。紋面はタイヤル族に言わせれば、さらに一種の尊栄、能力勇武の象徴、成熟の記号である。タイヤル族の顔のイレズミは人生で最も光栄・厳粛な大事なのである。それは男子にあっては戦場あるいは狩猟における英勇的パフォーマンスと才能を象徴している。女子の紋面は巧みな織布手芸をもっていることを象徴し、また降嫁してからの貞節忠烈を表している。
 紋胸(胸のイレズミ)、紋面(顔のイレズミ)は真正なタイヤル人の「必備の条件」、少なくとも基本条件である。また、タイヤル族社会には「より崇高なタイヤル人」がいて、タイヤル族の某種族は紋胸で武功の高下を表示しており、男女の紋胸はみなその能力の非凡なことを表示していることは言うまでもない。
 男子の紋胸は首狩りの多寡を表示していて、Tubus社(部落)では首狩り20個以上の者は胸部左右乳下に横条紋を刺す。女子は貞淑、機織技術優良で一社の模範となる者が両乳の間に一条紋を刺す。タイヤル社会の中で首狩り多数成功者および織布技術抜群の女子は、胸部上に特定の花紋の特権があり、栄誉の表徴としている。
 タイヤル族の社会にあっては、隠形、純正、神聖な階級概念が、男性の狩猟、戦功顕示および女子の家事経営、貞節、優れた織布技能を土台にしてうち建てられている。紋面と紋胸の特殊な儀式を通じて、彼らはさらに高い階層に推挙され典型的なタイヤル人となる。概念的な隠喩、紋面・紋胸の象徴を通じて、タイヤル人の最高の栄誉階層性がタイヤル人の面前に呈示されるのである。
④紋面がなくなった原因
 タイヤル族首狩り習俗と、紋面とは密接につながっている。日本が1985年台湾を植民して以後、台湾原住民居住の山地地区の産林資源が豊富にもかかわらず、原住民族が絶えず反抗し、無法に利用するのに鑑みて、日本植民者は20世紀初頭、全面的な理蕃計画を決定し、原住民の武力征討を明かにした。1913年、日本植民政府はタイヤル族の紋面禁止を明文化し、この歴史悠久の原住民の紋面文化を正式に絶滅させたのである。
 
(2)祖霊の観点
 タイヤル人紋面の本当の主人公はlyutux祖霊である。
① わが子孫には紋面がどうしても必要である
 千百年来のタイヤル族の紋面上の紋飾模様は、祖霊がタイヤル人に授けた一種重要な文化暗号コードである。部落の古老の紋面模様解釈によれば、彼らはこの紋飾図案に深い文化的意義があると考えている。タイヤル人の目の上の虹の図案は、子孫の目の上にある祖先を隠喩している遺訓(gaga) 紋である。祖霊は子々孫々をgagaに堅くとどめて忘れることがない。虹内の目は顔に刻まれた祖霊の目を象徴しており、祖霊が子孫を世話・監督・教導して間違いを犯さないようにしていることを象徴している。タイヤル人の子孫は必ず紋面をしなければならず、もし真正なタイヤル人になろうとするなら、祖霊の配慮、保護、賜福を受け、さらに法に背き、規律を乱してはならない。
② 倫理道徳の極致
 紋面前に若い男女は、紋面師の祖霊にかかわる「紋面儀式」である夢占→竹占→鳥占などの重要な試験を必ず経なければならない。三つの占卜を順次パスした後にはじめて紋面に及ぶのである。非処女あるいは非処男の若者は、パスできず、一部始終を白状しなければならず、その後の再度の「贖罪儀式」で祖霊の許しを乞うてはじめて紋面が可能になる。無理やり紋面をすれば、顔は腫れあがり、爛れ、傷つき、永遠に社会世論の制裁を受け、死亡さえする。
 このため、タイヤル人の子供は小さい時から父母の教えに従い、祖霊のgagaに背くことを恐れる。いつの日か必ず紋面に臨む前に祖霊の試練に臨むことになる。紋面文化、その基準は祖霊の基準に基づいており、この基準は人類の倫理道徳の最高の極みなのである。
③ 運命共同体の宇宙観
 タイヤル人の紋面は伝統的な宇宙観と関係している。タイヤルの紋面は永世にわたり、死後の霊魂の艱難な旅路にかかわり、タイヤル人の「死後の世界」の観念に関連している。タイヤル人の祖霊は、子孫が死んだ後、その霊魂が祖霊の懐に立ち返ることを期待している。顔にイレズミのあるタイヤル人は祖霊の橋である虹を通ってその終点である祖霊の故郷に到達することができる。タイヤル人の言うところ、紋面は命の重要な歴程であるばかりか、祖霊とタイヤル子子孫孫の約定であり、祖霊の子孫に対する帰属認定と運命共同体を象徴している。タイヤル人の宇宙観は「原点から原点への宇宙観」である。人の命はどこから来るか、将来死んだ後どこに帰るのか、よみがえる生命過程のなかにあって、タイヤル人の「紋面文化」は非常に重要なカギを演じている。人は生まれ成長し、わずか百年足らずで逝く。タイヤル人は命の原点に戻る時、必ず虹の橋、タイヤル人の言うhawngu-lyutux祖霊橋を通らねばならない。この橋がタイヤル人を祖霊の故郷に帰る役割を果たさせるかどうか。虹、この象徴的文化は、タイヤル人の一生において、きわめて重要な意義を占めている。

注6 出草猟首〔首狩り〕



「パイワン族蕃人の頭骨架」(森丑之助編著「台湾蕃族図譜 第1巻」1915.8、臨時台湾旧慣調査会館、第67図より)


 「図に示せるは新店地方なる〔タイヤル族〕Malay社の人頭架の一部分を実写したるものにしてその総数四十余個ありしとのことであります」(伊能嘉矩「台湾通信」(第七回)生蕃のHead-hunting『東京人類学会雑誌』113号、1896.6.28より)。この通信は11ページにわたって生蕃のHead-huntingの歴史と実情を詳論している。

「パイワン族ホモマク蕃の総頭目とその前庭」(森丑之助編著『台湾蕃族図譜』1915年8月、臨時台湾旧慣調査会刊、第53図より。二人の間には頭骨架がある。)

 鳥居龍蔵は「人類学研究・台湾原住民(一)序論」(1910.12)において、「パイワン族蕃人の頭骨架」と同様な写真「ボガリ部落の板岩製重ね棚」を掲げて(『鳥居龍蔵全集』第5巻p.52)、「南部台湾蕃社探検談」(1899.3)で以下のように言っている。
 「蕃社に於て最も注意を要すべきは首刈りなり。首刈りは上蕃社は現になほ行はる。首狩り下蕃社も曾てこれを行ひたるも、今ははや其の風を失ふに至れり。然れども牡丹社の如きは、時としてなおこれを行う。上蕃社も奥に入るに従ひて盛んにシナ人の首を集めるの状あり。其の酋長の家には首棚ありて、現に七十有四の首を臚列してあるを見る。上蕃社にて此の如く首を集め、五年に一回各社一大盛宴を開く時、蕃人はそれ等の首を空中高く投じ、降り来るを窺ひ、竹竿を以てこれを受くるの技あり。」(『鳥居龍蔵全集』第11巻p.419)
 台湾タイヤル族の出草の風習について理解を示した報告としては、小泉鉄『蕃郷風物記』(1932年、建設社)所収の「出草判決」がある。
 なお、鳥居は「日本周囲の民族と宗教に就いて」(1923)において意味深長な示唆をしている。「首狩りの風、これ固有の古き風にしてポリネシア、インドネシアに掛けたる一種の風俗にて、生蕃にて見るも攻手手柄を表はす一種の風俗なり。これ日本の古来敵の首を取る心理状態と比較すべし。」(『鳥居龍蔵全集』第7巻p.511)。
 高山純に至っては、以下のごとく直截に言い放っている(『縄文人の入墨』p.p.162-163、1969.9、講談社)。
 「では、日本にかつて人身供犠も――おそらく首狩りであると思うが――があったとすると、それはいつ頃までさかのぼることができるであろうか。現在までのところ、確証はないのであるが、私は縄文時代の中期にはすでにはじまっていたのではないかと考えている。なぜなら、縄文時代の人骨出土状態に首狩りの風習の存在を示唆するものがあること、および土偶は頭部や胴部だけとか、さもなければ手などの一部を欠いた状態で発見されるのが通例で、たまに発見される完形品は、石囲いの中に納められている、という点が認められるからである。」(pp.162-163)
 首狩についての包括的史料としては『台湾番族慣習研究 第三巻』p.p.330-423があり、本格的研究としては山田仁史『首狩の宗教民族学』(2015.3、筑摩書房)がある。後者は400ページを超える大著であるが、その半分以上を「第4章 台湾原住民の首狩」が占めている。「台湾原住民の首狩」について包括的に研究されていて、「勇者の<勲章>」「成人式としての首狩」「結婚の条件」「他界へのパスポート」「あの世での奴隷」「喪明けの首狩」など首狩りの社会的存在理由が分析されている。ただし、イレズミとの関連についての研究は手薄であり、首狩り能力者の可視的証明証としてのイレズミの研究がなされるべきであろう。台湾少数民族社会研究の基礎的資料の所在が押さえられていて、台湾イレズミ研究のガイドブックとしての役割十分である。なお、「序章 首狩りと日本人」には、日本にも首狩りの風習が存在したことを示唆する歴史史料がちりばめられているが、弥生縄文については有り、縄文については無しになっている。
 「縄文時代の人骨出土状態に首狩りの風習の存在を示唆するものがある」と高山が記して以後、40余年たち、縄文時代の人骨も多数発掘されている。その後、高山自身は、弥生の吉野ケ里遺跡発掘の首なし人骨に着目しているとの紹介を耳にしているが、私は読んでいない。心当たりのある研究者は、首狩りの風習の存在を示唆する縄文の人骨の所在を是非ともご教示願いたい。
 ちなみに、台湾タイヤル族の末裔である黄新輝が、人肉は「酸っぱかった」と語っているオーラルヒストリーがある(水野誠司「タイヤル族の戦後苦難の歴史とその肉声」〔菊池一隆『台湾原住民オーラルヒストリー』書評〕『東方』2018.4)。
 魯迅『狂人日記』は中国に特殊の物語ではなさそうである。
注7  織布


「タイヤル族婦女の織業」(森丑之助編著『台湾蕃族図譜』1915年8月、臨時台湾旧慣調査会刊、p.29より)。同上写真と同様の写真及び図版が、『鳥居龍蔵全集』第5巻p.25、第11巻p.289にも掲載されている。


 機織については、『台湾番族慣習研究 第壱巻』第三章生活 第二款服装 第一項総説 に以下のようにある。
 「機織 多数の蕃族には、その術存するも然も、各族の婦女が悉くその術を能くするには限らず。尚女子の特技に属す。〔中略〕古は各族多くは男子の馘首に於けるが如く、婦女にして一反の布をも織らざる者は真の婦女たる資格なきものとして之を軽蔑する風おこなはれたるを以て、婦女たるものは努力して此技に習熟するを常と〔す。中略〕現今に於いては〔中略〕北番は尚古風を存し機織を解せざる婦女は或いは面に鯨するを得ず(タイヤル族、セーダッカ族)〔後略〕」 (片仮名文を平仮名文改め、。を補充。〔 〕内は引用者の補充)(p.p.365-366)


「タイヤル族大嵙炭蕃の女子」(森丑之助編著『台湾蕃族図譜』1915年8月、臨時台湾旧慣調査会刊、第33図より)

注8  伊能嘉矩が調査した台湾の各生蕃のイレズミの種類


伊能嘉矩「台湾通信」(第九回)(『東京人類学会雑誌』115号、1896.9.8より)


 「刺墨」の種類は今日、余の知り得たる所にては総べて五種ございます。乃ち其の種類により之を分かてば下の通りです。」

刺墨の部位 刺墨の形
(1)上額及び下額に施す刺墨 ①3、4分位の短横線数個を上額と下顎との中央に刺す
②上額に王の字形の刺墨を施す
③上額、下顎の刺墨を図(一)の如く川の字型に三行に施す
④上額、下顎に目の字型に刺墨を施す(男子に多い)
(2)女子の口辺に施す刺墨 図(二)の如く、左耳から口を経て右耳に達する三曲線と曲線内の××××からなる
(3)前脛」に施す刺墨 ①図(三)の如く、円環内に6個の点を添えたものを数個刺す
②図(四)の如く、前脛の両側に横線を刺す。女子に多い
(4)前胸に施す刺墨 ①図(五)の如く、前胸両乳の上部に縦1寸~1.5寸・横3~4分の刺墨
②①と同様だが、縦線のない刺墨
③図(六)の如く、両乳を中心にして人形を刺す
(5)手甲、臂(うで)に施す刺墨 ①手甲に図(四)の如き集合横線一つの刺墨
②図(七)の如く、手甲に点線、縦横短線、及び×を並列する刺墨
図(八)の如く、肩頭より手首に至るまで長くギザギザ形の刺墨
(出所)伊能嘉矩「台湾通信」(第九回)から中村がとりまとめ作表した。


 なお、イレズミについては、『台湾生蕃慣習研究』(第1巻)の第3章生活・第2節 身飾」・「第2 刺墨」pp346-359に、もっと詳しい報告がある。そこには、抜歯、ビンロウ樹による「塗歯」、耳飾のための「穿耳」、除毛、その他の「身飾」についても調査報告されている。


6.〔資料3〕アイヌのイレズミは三つの天稟(美貌・雄弁・武勇〔手芸〕)の証

児玉作左衛門による記録:「アイヌの文身」
 「アイヌの女は昔は顔の口辺部、ときには眉額部および前腕部と手背部に文身(シェヌまたはヌエという)をもっていたが、ちかごろでは非常に少なくなった。しかし日高地方のアイヌ部落に行けば、いまでも六十歳をすぎた老婆にときどきみられるが、近い将来にはまったく姿を消してしまいうこと明らかである。昔は女として生まれたものは、みな文身をしなければならなかったものである。換言すれば、文身は女が必ずもっていなければならないもので、一つの「女としての表徴」と考えられていたのである。そのわけは、文身は女の美的要素の一つであり、また女子の成熟したしるしであり、これがなければお嫁にゆくことができないと信じられたきわめて重要なものであったからである。」(p.131)
 「女の子が何歳になったとき施術をうけたかということに関しては、日高、胆振、上川地方では大略七、八歳からおそくとも、十四、五歳ぐらいの間で第一回のものが行われた。このときは口辺から施術される。つぎの前腕や手のものは、十一、二歳から十五、六歳の間に始まる。十勝、釧路、北見地方では第一回の施術は前記の地方よりやや遅いようである。いずれにしても完成の時期は同じであって十七、八歳である。アイヌたちは経験から、シヌエはなるべく若い年齢ですれば、皮膚は柔らかくて煤もよくしみこんで美しくできあがるといっている。なお文身は結婚前に完成するのが常道であるが、稀には結婚前は未完成のままであり、結婚後にはじめて完成するという例もある(長万部のある部落)。また、施術の季節であるが、四季を通じてひまなときにするといわれる。たとえば雨が降って外の仕事ができないときにするのが普通である。それでも真夏とか真冬などはさけ、春か秋の気候のよういときにするのが多いようである。」(児玉作左衛門「アイヌ生体の特徴」、アイヌ文化保存対策協議会編『アイヌ民族誌』1970.1、第一法規出版社、p.132)
 「アイヌの文身は女子において行われるのが風習であるが、まれに男に行われることもある。これは右手または左手の拇指と示指の間に、長い三角形の文様を文身して、山に行って猟をするとき弓を射ることが上手になるようにと、呪の意味を含むということである。これは昭和十二年ごろ屈斜路コタンにいた一老人で実見することができた(この場合は左手であった)。」(同上、p.135)


十勝アイヌの文身、口辺部と手背部
(『アイヌ民族誌』p.132より2)


文身の地方差――日高西部地方(図14.。なお図13(胆振地方)、図15(十勝地方と日高東部地方)、図16(北見地方)も掲載されているが引用に際しては割愛する)

金田一京助による謎解き:「アイヌの黥」
 「アイヌの黥は大昔のことはいざ知らず、我々の見聞する時代に入ってからは、専ら女子がやるもので十三歳頃になって、先ず上唇の上にポッチリ、それから十四・五歳と段々左右へ拡げて行って、終に口角へ達し、ここで唇なりに上下の黥を結び合わして全く口を一周してしまう。これが一つの成女式であって、これと同時に、乙女はモウルというものを身に着けるのである。モウルは日本婦人の腰巻だとアイヌの女が説明するもので、皮膚へじかに着けて、肌を守る着物であり、いわば腰巻であると共に長襦袢であって、前のはだからぬように、襟からかけて裳裾まで前を左右から縫い合わせ、着る時は裾から被って、あとで、左右から、紐またはボタンで襟元を結び合わせ、絶対に肌の見えぬように着付けるものである。丁度胸元が美しく膨らんで来、からだがすっかり出来上がって、いつでも結婚が出来るという年頃に、これを着けて、同時に口辺の黥をすっかり完成させるのである。」(p.177)

 「何の為に黥をするのか。黥の起源の意味はどういうことであったか。アイヌ自身の間にもそれは今日わかっていない。それを又今日のアイヌの口から知ろうとするのは無理である。日本人の黥の起源的意味を、外人が我々に訊ねたとて、即答できる人は、我々の中にも、そうそうあるものでは無いのと同じことである。私一個の考えでは、やはり元は単なる真似や、単なる装飾ではなくして、少なくとも咒的な意味をもつものだったろうという所までは遡れると思う。子供は全く黥をしないのであって、女童が女になるころからするものであるという所に意を止めて、特に口元の黥が最も重視されることを再び思い浮かべて、アイヌに於ける夫人というものを考えて見ると、彼女たちはもとは皆巫であって神が人間に憑るのは必ず婦女に限り、婦女は神の言葉を宣べて、部落の大事を、決定的に支配したものであり、えらい婦女ほど、巫力すぐれ、巫力のすぐれた女ほど、巨酋の好配偶として資格づけられていたのである。而も、子供は(日本などでは童に憑ることなどもあったが)一切神事にあずからない。女の子が、女になると共に巫力が備わるものと考えられていたのである。こう見てくると、アイヌの女の口の神語を宣べる巫力は、黥によって更に霊異な咒的効果を増大する所以のものではなかったであろうか。
 額の黥は、それでは何か。アイヌでは、巫力のすぐれたものは、その額にあらわれているということを昔から叙事詩に歌っている。
 いとどさえ美しきうへに  いみじき巫女にてあるものとおぼしく  いみじき巫者のひたひつきをば  その鬢髪の間に  かくすとすれどしのばせて……
 此は、彼等の叙事詩の中に、すぐれた婦女の出現を叙する所でいつも云う常套語であるが、『えらい巫者のそのひたいつきが、髪の根にかくすれど、自ずとあらわれて、それとわかる』という意味である。かかる昔からの文句は、何とはなしに、我々をして、あの額の横線の黥のことなどを聯想させるものがある。即ち、唇へほどこすと同じ意味を以て、やはり巫力の咒いに額へも黥を加えたものではなかったろうか。額の黥が、産んだ子供の数をあらわすなどという俗説をアイヌ婦女子の一笑に附するのは決して理由のないことではない。
 それならば、最後の手に施す黥の意味は? 私は此は手の技の咒であると信じる。アイヌの婦女は、巨酋の良妻たる資格の今一つ重要な資格は、刺繍の手芸に秀でることである。何となれば、衣類の刺繍は身分によってやかましく、身分の低いものは、裾だけの模様、やや良いものは腰から附けて行き、巨酋だけの豊麗な刺繍を肩の上からいっぱいに着ける。巨酋の妻には、それが出来る程のものでなければなれなかったのである。
 アイヌの語に、三つの天稟の徳を併べ称して、シレトク(shir-etoku 美貌)パエトク(Pa-etok 雄弁)と共に、男子ならラメトク(Ram-etok 武勇)、女子なら即ちテケトク(tek-etok 手芸)という。女子のこの三徳のパエトクの為の唇の黥、シレトクの為の額の黥、テケトクの為の手の黥であったろうこと、ほぼ疑いがない様に思うのである。」(p.p.179-181)
 (「アイヌの黥」、1932年8月『ドルメン』1-5初出。『金田一京助全集』第12巻 p.p.177-181より) 

【追記】2018.12.2一部改稿(茶色部分)。私の勉強不足に基づく間違いを訂正した。
 
◇ ◇ ◇ ◇
 


 
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