『竹内実全集』を!
(於2012.10.12竹内実先生 東京追悼記念集会)
蒼蒼社代表 中村公省


〔1〕蒼蒼社とのご縁
 小社にとって先生は、名付け親であります。今を去る30年前の1982年、先生に蒼蒼社という社名を付けて下さった。出典は荘子の『荘子』で、「天ノ蒼蒼タルハ、ソノ正シキ色ナルカ」です。
処女出版は、竹内実監修『毛沢東集第2版』全10巻、『毛沢東集補巻』全10巻、合計20巻。
これは中国語文で、毛沢東選集とその初出オリジナルテキストとの異動を考証した資料集です。毛沢東をイデオロギー的権威としてではなく、 歴史的実在としてとらえ返す、いわば、神から人間に降格した「大きな男」の素顔をとらえる原資料を編集されたわけです。文革後、改革開放の流れの中で、毛沢東の再評価の機運が起こりましたが、『毛沢東集』及びその研究スタイルは毛沢東の再評価に決定的なよりどころを与えたと思います。中国で発表され追悼の辞の一つに、こうあります。
 「彼の生涯において最も影響の大きな事業は、おそらく十数年の時間を費やして20巻本の『毛沢東集』、『毛沢東集補巻』を編纂・出版したことにあり、これは日本における毛沢東研究に多大な影響を与えただけでなく、世界各国の学者が毛沢東を研究する時の常備書となりました。そのため竹内先生は世界中から名声を博するにいたりました。」(揚州大学教授周一平「竹内実先生を心から追悼し、偲ぶ」 http://www.21ccs.jp/soso/takeutisenseituito/tuitoubun_shuu.html)。
 小社は『毛沢東集』のあとも、竹内先生の著作を数々出版しておりますが、そのほかに、小社の『蒼蒼』という小冊子に随筆を連載、『蒼蒼』を廃刊にしてからは『21世紀中国総研』のホームページで、「中華点点」コラムを、つい最近まで連載執筆していただいておりました。
 先生は、名付け親であるだけでなく、小社の育ての親でもあったわけです。お陰様で、蒼蒼社は、今年、創立30周年を迎えることができました。創立以来、先生に御指導・御執筆を仰いだ定期刊行物に『中国情報ハンドブック』『中国情報源』『中国最高指導者WHO’S WHO』『中国進出企業一覧』などがあります。

〔2〕中文版『竹内実文集』全10巻の存在

 虎は死して皮を留め、人は死して名を残す。
といわれますが、
 学者は死して著作を残す。
でありましょう。

 実は、竹内先生の著作は、中国で、中国語で、《竹内实文集》全10巻がすでに編集・出版されております。出版社は中国文聯出版社。2002年から2006年まで5年かかって刊行されました。
 御存じでない方もおられましょうから、本日、ここに、その第1巻目を持参いたしました。
 この著作集の編訳者は中国人の程麻という方です。先生は、あるインタビューで以下のように、程麻さんについて述懐しておられます。

 「日本に2、3度来ているうち、わたしの著作集を出すと言い出したので、『わたしの文章など価値がないからやめなさい』と忠告したのですが、2、3年して北京日本学研究センター主任教授として北京に行ったら、友誼賓館に泊っていたわたしを訪ねてきて、『北京図書館所蔵の著作をすべて調べた。コピー代がばかにならない』というのです。徹底的に一次資料を調べる態度に胸を打たれ、せっかく一生けんめい調べておられるのに『価値がない』と水をかけるのは失礼だと反省しました。その後、交流基金などに申請して日本にきて、関西の図書館はほとんどすべて調べ、わたしの全著作リストをつくり、10巻に翻訳、編集して、出版社も見つけたのです。」(馬場公彦著『戦後日本人の中国像』793-494ページ)
 
同じインタビューで、
 「程麻さんは私の評伝も準備しています」とも、おっしゃっています。
 実は、去る9月15日、台風来襲直前に、京都で現代中国研究会の吉田富夫先生らにより「竹内実先生を偲ぶ会」が催されたのですが、その場で、近親者により以下のような事実が紹介されました。 
 9月27日、すなわち、先生が亡くなられた3日前のことですが、程麻さんが、評伝執筆に際して、「わからないことがあるから是非に」ということで、ご自宅でインタービューに応じられた。「的確に答えておられた」とのことです。
 評伝の出版が待ち遠しいですね。

 〔3〕『竹内実全集』の企画

 では、竹内実先生の、日本語の著作集は、どうでしょうか。
 先のインタビューで、竹内先生は語っておられます。
 「日本でわたしの著作集を出してあげようという話が桜美林大学教授・北東アジア総合研究所の川西重忠さんからあって、拙文を出版します。……いずれも同時代の中国を論評した拙文です。」
 これが、
 《竹内実〔中国論〕自選集》
  第1巻〈文化大革命〉 第2巻〈うごく中国〉 第3巻〈映像と文学〉
 2009年出版
であることは言うまでもありません。
 しかしながら、この著作集は、先生の、同時代の中国の歴史・政治・経済・社会・文化・文学に関して膨大な著作の、ほんの一部しか収録していません。町の書店にも岩波新書、文春文庫、朝日選書、NHKブックスなどの先生の著作が並んでおりますが、それらは《竹内実〔中国論〕自選集》には収められておりません。先生がその生涯で書かれた多くの重要な著作は、出版洪水の底に埋もれて、遺物となっております。この遺物を、なんとか発掘して、改めて書店や図書館の書架に並べ直すことはできないものか。
 幸いにも、程麻さんが精力を注がれた、全著作目録がある。程麻さんが日本語全集の編集に参画されるなら、日本語の著作テキストの収集は、そんなに困難を伴わず、できるのではないかと思われます。言い換えれば、
 『竹内実全集』
の御膳だては、整っているのです。むろん、著作権者であるご遺族、出版権を譲渡契約されている出版社など、各方面の関係者のご理解・ご了解と、ご協力が必要なことは言うまでもありませんが、大きな困難はないのではないでしょう。
しかしながら、『竹内実全集』刊行事業をだれがやるのか? ということになると、たちまち難しい問題が立ちはだかります。
 実は、「『竹内実全集』を蒼蒼社が出版するのはどうでしょうか?」
 と冥界の竹内先生にお伺いを立ててみたのですが、
 「売れないから、やめときなさい」というご返事でした。
 竹内先生は、満州の新京商業学校で、簿記、算盤、速記を学んだ実務家でもあり、ソロバン勘定のできる商人の資質を合わせもった方でした。わが蒼蒼社は第一番目に降りざるをえません。この長期的な政凍経冷の日中関係の中で、商業ベースで、『竹内実全集』刊行事業をやる出版社もない、と見なければなりません。
 そこで、裏返しして、考えてみましょう。
 ソロバン勘定をしなくていい出版社なら、できますね。
 そうした、出版社がないものか?
 ないことはない! 
 あえて、名前は出しませんが、存在しますね。
 本日、桜美林大学・北東アジア総合研究所が竹内実先生の追悼会を主宰されたというのは、深遠な意味を持っている、と私は思うのですが、いかがでしょうか。

〔4〕電子版『竹内実全集』のすゝめ

 さて、仮に、の話ですが、『竹内実全集』を編集・出版するとなったら、電子版の『竹内実全集』をおすゝめしたいと思います。
 知的生産の工場としての書斎や、知的生産の技術としての調査-研究-執筆の作風は、時代とともに変わってきます。竹内先生の基本作風は、人民日報を丹念に読んで、スクラップブックを作る、という古典的方法でした。京都大学人文科学研究所で先生のもとで現代中国班を組織された狭間直樹先生によれば、先生の作られたスクラップブックは人文研究所にいまも保管されているそうです。
 そうした資料を基に、先生は200字詰めの原稿用紙に、太字の、漬けペン万年筆で、縦書きの原稿を書かれた。前後左右の言葉を入れえたり、削除したり、加筆したり、編集者は一見してウヘーと悲鳴をあげるものが少なくありませんでした。それをパソコンで入力した後の校正、実質的には推敲がまた難儀でした。前後左右の言葉を入れえたり、削除したり、加筆したり、迷路のように入り組んだ引き出し線がオペレーターを悩ましました。この校正作業を、最低5回くりかえす。これで校了かと、思うと大きな間違いで、最後は、電話で訂正指示が数度来る。これが儀式でした
 竹内先生の、この執筆方法で、特異なのは、パソコンを使わない、あるいは使おうとしなかった、いということです。文は人なり。パソコンを使うと、文体が損なわれるという信仰が、文芸作家の中には、少なくないと聞き及びます。竹内先生もご自分を「文士」と自覚すること大であられましたから、「文は人なり」という信念に執着されたのではないでしょうか。
 ともあれ、竹内先生は生涯パソコンを使わなかった。メールにもインターネットにもアクセスしようとしなかった。紙ベースの情報世界で活動され、電子情報とは、ほとんど無縁でありました。小社のライターで、こうした方は、先生を除いて、皆無であります。
 いま、出版業が構造的不況に直面しているのは、情報媒体が、紙ベースから電子ベースに大きく移行していることと密接に関連しています。電子媒体、Eペーパーが技術的に確立しても、人々の生活習慣の変化との間には、タイムラグがありますから、商業的にはまだしばらく、本は書店に出かけて行って買うという消費者の行動パターンは続くでしょうが、じわじわ後退を余儀なくされております。50年後、情報媒体としてのペーパーとEペーパーとの比重は、どのようになりましょうか。想像をたくましくしてみてください。
 『竹内実全集』の読者は、50年後の中国研究者を想定すべきです。
 『竹内実全集』を電子版として出版する、編集技術的ノウハウ、販売経営上のノウハウは、只今、加速度的に進化を遂げている最中ですが、基本的に簡便、廉価、安全にできるレベルに達しております。ソロバン勘定をしなくていい出版社といえども、やはり先立つもの、カネですが、この方法でしたら(E-PUBといいますが)、隘路を突破することが可能であろうと思われます。是非、御検討下さい。

〔5〕驢馬の悲鳴

 最後に、一言。
 竹内実先生の膨大な著作の中から、ただ1冊を選ぶとすれば、
 『毛沢東 その詩と人生』(文藝春秋社、1965年刊行)〔武田泰淳との共著の形になっているが武田は一字一句書いていない〕
 でしょう。これは、日本の伝統的な文史哲にわたるシナ学と同時代の中国研究とを融合させた読み物で、竹内ワールドとして異議ないところと思われます。
 では、ただの1篇を選ぶとすれば、何でしょうか?
 皆様のお手元に、「驢馬の悲鳴」と題した、短い随筆をお配りしてあります。これは、2000年3月10日、東京で開催した「竹内実先生の受勲をお祝いする会」において参会者の皆様に配布するよう先生が要請された1篇であります。ここに私の一存で改めて皆様に配布します。
 悲鳴をあげる驢馬、これは竹内実先生の自画像であろうと、私には思われます。皆様にご拝読賜りますよう謹んでお願い申し上げます。合掌。

〔付1〕《竹内实文集》
《竹内实文集》(十卷本)在中国出版 http://www.gmw.cn/02blqs/2006-10/07/content_504721.htm


〔付2〕

驢馬の悲鳴

 わたしにとっての中国は、けっきょくは同時代としての中国であった。現代中国論とか国際関係論とかいうと、隙間風が吹きこんでくるようである。
 同時代の知識人としての中国の知識人に、ふたたび何度目かの冬が襲いかかろうとしているとき、わたしがふと思いうかべたのは、驢馬の優しい眼であった。わたしはようやく思いたったのであるが、驢馬の啼き声は、馬のようには勇ましくなく、悲鳴であって、天まで届け、届くまでは啼きつづけるぞというように啼く、それは人間の悲しみ、人間として悲しむことのできる人間のために、その人間に代わって啼くのであった。
 昔、武田泰淳は一兵卒として従軍していたとき、安徽省の田舎から北京の友人に宛てて詩を書いた。

 「今お前等のあこがれの北京の秋/澄みたるは北京の空だけで/お前等の眼は黄塵に濁ってゐるだろう/黄塵に濁るとは何たる幸福者ぞ/お前等心優しき驢馬よ/忘帰忘帰と啼き/文学の綱に縛られて……」

 同時代の中国はつねにうつろい去ってゆくから、人民共和国になってから北京に住んでも、それは蛇がでていったあとの穴のようなものであろう。泥濘と人力車夫と物売りと黄塵と、そしてなによりも年代と日付とそれに相応しい年齢をもちあわせていて、これらが揃って北京ははじめて北京の胸をひろげてくれる。
 じっさい、中華民国の軍閥混戦のあいまの平和のなかできく、驢馬の啼き声は悲しかった。それは悲鳴としてしか聞こえなかったが、少年であったわたしは、胸をきりさかれるような不安におびえながら、なにを悲しんでいるのか、なぜ悲しいのか、どうして休むことなく天に悲しみを訴えなければならないのか、わからなかった。
 瞳はいつもうるんでいて、整った鼻すじや口やつっぱった四肢とはべつの生き物であるかのように、話かけてきたが、解読できなかったのである。
 長いあいだ考えてきて、ようやくわかったのは、人間である悲しみを悲しむことのできる人間に代わって啼いているということであった。人間というのは、驢馬と同じ大地に生まれ育った人間のことである。驢馬は自分が聡明であることも悲しいのである。
 アスファルトの舗装の下に砂利がいっぱい敷いてあるように、現代史がまとめられるためには無数の新聞の切抜きが、貴重な紙屑として存在する。深夜、新聞を切抜くとき、驢馬の労働が徒労にみえた昔をおもいだす。
  (竹内実『中国随想 一衣帯水』、蒼蒼社刊、一九八七年四月五日刊行所収)