竹内実先生を心から追悼し、偲ぶ
周 一平(揚州大学教授)


 2013年8月1日、村田忠禧教授から竹内実先生が7月30日に逝去されたとの電子メールを受け取り、私は驚くとともに、胸が痛み、数日来、心穏やかではない状態が続いております。
 私は竹内実先生に二回、お目にかかりました。第一回目は1996年9月のことで、華東師範大学人文学院が竹内先生をお招きして、中国現代史研究をテーマにした教員との座談をしていただいた時です。座談会の内容を私は「竹内実先生が語る中国現代史研究」という表題の報告を書き、『党史信息報』1996年10月16日の第4面に掲載されました。そのなかで、毛沢東研究について竹内先生は、私は毛沢東のことを一書斎人として研究しているのであり、毛沢東の研究はもっと深くなるべきである。‥‥また中国国内の中共党史研究の著作にはまだ書かれていないことがいくつかある。例えば、30年代の上海の党中央の具体的情況はまだ書かれていない、と述べました。‥‥座談会のあとで、私はさらにいくつかの問題について個人的に教えを請いました。竹内先生の第一印象は、博学、英知、謹厳、飾り気のない中国通というものでした。彼は当時、杭州大学で客員教授をされており、いろいろご苦労があったせいでしょうか、かなり瘦せておりました。二回目は2003年3月で、横浜国立大学の村田忠禧教授の招聘を受け、日本を訪問していた時、村田教授に案内されて東京から京都に行き、竹内先生のお宅を訪問しましたが、その時はかなり太られておりました。私は書き上げたばかりの『「毛沢東集」、「毛沢東集補巻」校勘略記』の原稿を差し上げ、ご批判、ご指摘をお願いしたい、と申し出たところ、彼は驚くとともに喜んでくださり、二、三十年も前に出版した書籍について、まだこのように突っ込んだ研究をしてくれる人がいるとは思いもしなかった、と言ってくださりました。われわれはおよそ二時間ばかり、愉快に語り合いました。その時に竹内先生は私に『毛沢東集』、『毛沢東集補巻』編纂の裏話をあれこれ語ってくれました。私は『「毛沢東集」、「毛沢東集補巻」校勘略記』に序文を書いてくださるようお願いしたところ、彼は喜んで快諾してくださりました。十日ほどして私は彼の序文を受け取りましたが、全部で11頁、しっかりした中国語で書かれており、筆先も力溢れていました。八十歳にもなる著名な老人が、頼まれたことにすぐに応じ、若輩の原稿に真剣に目を通してくださり、反復斟酌、修正のうえ、長文の序をかいてくださったことに私は感動いたしました。私は必ずや『「毛沢東集」、「毛沢東集補巻」校勘略記』を早く出版しなければ、と思ったのですが、現実はそのようにはなりませんでした。この時の面会が永遠のお別れとなるとは思いもしませんでした。彼が生前に『「毛沢東集」、「毛沢東集補巻」校勘略記』の刊行を目にする機会がなかったことは、実に私の落ち度と言えます。
 『「毛沢東集」、「毛沢東集補巻」校勘略記』はその後、修正を加え『日本版「毛沢東集」、「毛沢東集補巻」校勘略記』として、出版するよう積極的に連絡を取ったのですが、成果を挙げることができなかったため、竹内実先生に合わす顔がないとの思いでおりました。京都でお目にかかった時、彼は、中国の学者が日本に来てから彼の家に泊まって、一緒に切磋琢磨、共同研究をするとともに、あれこれと話し合えるような人が出てほしいと表明されていました。2007年に東洋文庫の招きで日本を訪問した時には、私は彼を訪ねていくことはせず、電話もかけることもしませんでした。合わす顔がない、という思いがあったからです。
 2013年になり、ようやく出版の話がまとまりました。しかし印刷の仕上がりに問題が発生したため、生前に竹内先生に差し上げることができなかったことは、実に遺憾の極みであり、残念でなりません。
 竹内実先生は日中友好を主張し、中国の歴史、中国文学、毛沢東にたいし深い研究をされ、いろいろと独自の見解をお持ちの方でした。彼の著作は非常に多くありますが、彼の生涯において最も影響の大きな事業は、おそらく十数年の時間を費やして20巻本の『毛沢東集』、『毛沢東集補巻』を編纂・出版したことにあり、これは日本における毛沢東研究に多大な影響を与えただけでなく、世界各国の学者が毛沢東を研究する時の常備書となりました。そのため竹内先生は世界中から名声を博するにいたりました。今やその偉大な学者の姿を目にすることはできませんが、先生の主張、その事業は必ずや後の人々によって受け継がれ、発展することでしょう。
 謹んで挽聯を一つ
 毛沢東集を編じて世界に伝え(编毛泽东集传世界)
 京都学派を振るわせ大師①となる(振京都学派成大师)

①竹内実先生は、京都学派の特徴は文献資料を重視することであり、『毛沢東集』、『毛沢東集補巻』は完全に京都学派の伝統的やり方である、と述べておられました。


京都のご自宅玄関前で(2003年3月23日)



京都のご自宅で(2003年3月23日)


以下は原文

  2013年8月1日,村田忠禧教授发电子邮件告诉我,竹内实先生7月30日仙逝,我怔住了,心痛了好一阵子,几天来总隐隐作痛。
  我与怀竹内实先生见过两次面。第一次是1996年9月,华东师范大学人文学院邀请他来与教师座谈,主题是中国现代史研究,我参加了这次座谈。座谈的内容,我曾写了一篇报道《竹内实先生谈中国现代史研究》,发表在《党史信息报》1996年10月16日4版,其中提到:谈到毛泽东研究,竹内实说:我是把毛泽东作为一个书斋里的人进行研究的,毛泽东研究还应该深入……竹内实说:中国国内的中共党史著作有些东西也没写出来。如30年代上海党中央的具体情况就没有写出来……座谈会后,我又个别向他请教了几个问题。他给我的第一感觉是:是个博学,睿智,严谨,平实的中国通。他当时是在杭州大学担任客座教授,可能比较辛苦,人显得削瘦。第二次,2003年3月,我应横滨国立大学村田忠禧教授邀请到日本访问,在村田忠禧教授陪同下从东京专程赶到京都拜访他,发觉他胖了。我把新写的《〈毛泽东集〉、〈毛泽东集补卷〉校勘略记》送给他,请他批评指正,他又惊讶又高兴,他说想不到已出版了二三十年的书,仍有人进行深入的研究。我们很愉快地谈了约二小时。竹内实先生告诉我不少《毛泽东集》、《毛泽东集补卷》编纂的内幕。我请他为《〈毛泽东集〉、〈毛泽东集补卷〉校勘略记》写序,他欣然答应。十余天后,我就收到了他为《〈毛泽东集〉、〈毛泽东集补卷〉校勘略记》写的序,共11页纸,是用道地的中文写的,笔法刚劲。一位名家,一位80岁的老人,答应办的事马上就办,认真读晚辈的稿子,反复斟酌、修改,写出长序,我很感动。心想一定要尽快出版《〈毛泽东集〉、〈毛泽东集补卷〉校勘略记》以为报答,但竟不能如愿。这一次见面,想不到竟成永诀,他生前也没有看到《〈毛泽东集〉、〈毛泽东集补卷〉校勘略记》的出版,这实在是我的过错。
  《〈毛泽东集〉、〈毛泽东集补卷〉校勘略记》后来修改成《日版〈毛泽东集〉、〈毛泽东集补卷〉校勘与研究》,积极联系出版,但一直没有结果,所以总觉无颜再见竹内实先生。在京都,他对我说:很希望中国学者到日本后住在他家里,一方面共同切磋、研究,另一方面也有可说说话的人。2007年,我应东洋文库的邀请访问日本,但我不敢去拜访他,也不敢打电话给他,就是觉得无颜再见他。
  2013年,《日版〈毛泽东集〉、〈毛泽东集补卷〉校勘与研究》终于联系出版成功,但因为印刷方面的问题,竟没有在他生前把书奉呈,实在是永远的遗憾、罪过!永远的痛!
  竹内实先生主张日中友好,对中国历史、中国文学、对毛泽东有很深的研究,有不少独到的见解。他著作等身,但他一生中最有影响的事业大概是他花十多年时间主编出版了20卷的《毛泽东集》、《毛泽东集补卷》,这不仅在日本对推动毛泽东研究影响很大,也成为世界各国学者研究毛泽东的必备书。这使他享有了世界的声誉。如今大师音容已杳,但他的主张、他的事业一定有后来者发扬光大。
  敬挽一联:
  编毛泽东集传世界
  振京都学派成大师①


①竹内实先生说,京都学派的特点是重视文献资料,编纂《毛泽东集》、《毛泽东集补卷》完全是京都学派的传统做法。