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     第1号 2016.1.7発行
    胡耀邦生誕100周年に際して
  加藤隆則
(ジャーナリスト、NPO日中独創メディア代表) 
 


 中国共産党が定めた2015年の「忘れてはならない四つの記念日」の一つは胡耀邦生誕100周年記念日だった。中国において歴史は過去の殻に閉じ込められているのではなく、現代に生き、将来を占う道標である。単純な追悼イベントではない。その意味を探るべく私は記念日当日の11月20日、湖南省湖南省瀏陽市中和鎮の胡耀邦故居を訪れ、北京で市民を含めたインタビューを行った。そして同月29日、東京で記念講演会を開催した。一連の行事を通じた感想を以下にまとめてみたい。
 
 胡耀邦の故郷

(1) 故郷は反腐敗運動の基地に

 
 胡耀邦(1915~1989)が生まれ育った湖南省瀏陽中和鎮は、同省の省都・長沙から南東へ約110 キロの距離にある。もう一つ鎮を越えれば共産党が初期の拠点を築いた江西省だ。長沙からは長距離バスで瀏陽市まで行き、そこから1日に4本しかないバスに乗り換える。交通は不便で、観光化が進んでいないことを物語る。長年、触れてはならない人物であったことの名残だ。毛沢東故居のある同省韶山には高速鉄道の駅が置かれており、それとは雲泥の差がある。
生誕百周年カウントダウン
 11月20日、故居に掲げられたカウントダウンの表示は「0日」になっていたが、格別のにぎわいはない。近辺の農村から来た観光バスが数台停まっていたほか、マイカーが50台ほど並んでいた。土産店にも胡耀邦グッズはほとんど見当たらず、地元特産の漬物や飴などが売られているだけだった。
 江西省から来た40代の女性に胡耀邦の印象を聞くと、「我々の主席だ」としか答えが返ってこなかった(胡耀邦は「党主席」を経験している)。長沙のタクシー運転手(37)に同じ質問をすると、「その人は知らない」とのことだった。天安門事件に至る党史の闇を背負わされた胡耀邦は、教育現場でもメディアでも避けられてきた。明らかに風化が進んでいた。
 北京の若者に胡耀邦のことを訪ねたが、最も多い答えは「よくわからない」だった。政府部門の男性は、職場でもタブー視されており「触れたくない」と答えた。保守的な家庭で育った女子学生は「志大才疏」(志は大きいが、能力は足りない)と評した。胡耀邦が地方視察を重ね、中央での重要事項を軽視したことが長老から批判されたことを指しているのだろうか。
 
 故居の入り口では赤字で「廉」と彫られた巨石が目に入った。清廉で高潔な姿勢を貫いた故人を評する一文字だ。商業化とは対極にある。利益ばかりがもてはやされる社会に向け、「今の党員に最も欠けているものが『廉』だ」と語りかけているように感じた。管理事務所で聞くと、今年に入って設置されたもので、長沙の岳麓書院に残る朱熹筆「忠孝廉節」を写し取ったとのことだった。故居を中心とした公園内には「廉」の文字をあしらったオブジェが置かれ、山肌には歴代指導者の反腐敗に関する演説を刻んだ石碑も並んでいた。
 うち習近平総書記の言葉は下段の目立つ位置にあり、2014年1月14日の中央規律検査委員会第3回全体会議で、「劇薬で病気を治すように、刑罰をもって風紀の乱れを正す決心、骨を削って毒を取り出すように、腕を切断する覚悟を持った勇気をもって、党風廉政の建設と反腐敗闘争を断固として徹底的に行う」と述べたものだった。反腐敗運動の一環として、故居が廉政教育基地として位置付けられていることが明確に表れていた。

(2)父・習仲勲の恩人として破格の扱い

 ちょうどそのとき、北京の人民大会堂で開かれた記念座談会では、習氏が記念スピーチで「胡耀邦同志は自己や家族に対し格別の厳格な要求をし、共産党員は人民のために仕事をするのであって、一家や一族のためにするのではないと話していた」と綱紀粛正の教訓を語っていた。
 記念座談会は総書記のスピーチに加え、常務委員7人全員が顔をそろえる破格の扱いだった。歴代最高クラスの指導者のみに発行が許される講演・発言集『胡耀邦文選』や『胡耀邦画集』も20日、没後26年たってようやく出版され、彼の業績をたどる記録フィルム計5集もCCTVで放映された。大幅な名誉回復である。彼の愛弟子である胡錦濤の時代にはなし得なかった。反腐敗運動を通じて権力を掌握した習氏の政治力がものを言わせたのである。
 また、習氏の父、習仲勲(1913~2002)にとって胡耀邦が恩人であり、盟友であったことも見逃すことはできない。習仲勲は建国後、副首相まで務めたが、毛沢東が主導した権力闘争に巻き込まれて16年間、地方で審査や自己批判、引き回しなどの政治的迫害を受けた。それを救って復権させ、広東省トップとして改革・開放の最先端に送り込んだのが胡耀邦だった。
 胡耀邦が辞職に追い込まれた中南海での生活会で、保守派長老を向こうに回し、ただ一人、机をたたいて「これは正常じゃない」と抗議したのが習仲勲だった。習仲勲が一週間、自宅に帰らず人民大会堂に泊まり込んで抗議したとの逸話は、今でも伝わっている。情義を重んじた人である。中国語では「講(ジャン)義(イー)気(チ)」という。
 対日関係を重視した胡耀邦が1984年9月、日本の青年3000人を招いたことはよく知られている。北京の首都体育館で行われた歓迎パーティーでは、3年後、習氏と結婚する人民解放軍歌手の彭麗媛夫人が日本の歌手、芹洋子と一緒に日本語で「四季の歌」を合唱した。その場には胡耀邦のほか習仲勲も同席していた。当時、習仲勲は党中央書記局書記として胡耀邦総書記を支えていたのだ。
 2人は、自らは政治闘争に手を染めず、開明的な姿勢を貫いた指導者として多くの党員や知識人から慕われている。習近平氏は2013年10月、習仲勲生誕100周年を盛大に祝っている。胡耀邦に対してそれ以上の扱いをしなければ、慣例の上でも、習一家のメンツの上でも、筋が通らないことになる。習近平氏は胡耀邦を厚遇して亡父の恩に報い、声望を保つ必要もあった。
 
(3)単色に塗りつぶされた記念行事
 
 だが限界もあった。記念座談会には、胡耀邦を失脚に追い込んだ鄧小平、陳雲、薄一波らの親族は参加していなかった。完全な名誉回復に向けた党内世論は一致していない。計693ページの『文選』は、建国直後、四川省北部で執政を担っていた1952年5月から、総書記の座を追われる直前の1986年10月までの講演や会見発言、手紙など計77編を収めたが、胡耀邦の遺族が採録を求めた政治体制改革に関する発言などは大半が削除された。個性が削り取られ、党史の最大公約数の枠内にすっぽり収められた。
 CCTVの映像では、第12回党大会で総書記に選出された胡耀邦を含む常務委員6人を紹介する『人民日報』(1982年9月13日)一面の記事が映し出されたが、「趙紫陽」の名前と写真が削除された。児戯に等しい歴史の改ざんだが、胡耀邦の大幅な名誉回復がただちに天安門事件で失脚した趙紫陽の復権につながるわけではない、とあえてクギをさした形だ。「史料にものを語らせる」と歴史を重んじる習氏のスタンスとは矛盾する。あえて党内抵抗勢力の存在をアピールしたと深読みすることも可能だ。
 習氏は反腐敗運動の中で、胡耀邦を「廉政」の模範とすることによって、大幅な名誉回復に道を開いた。党内の異論を抑えるためには、胡耀邦を「党の模範的な指導者」の枠内に押し込め、異論の出ない「反腐敗」を建前に復権の大義名分を取り繕うしかなかった舞台裏の事情を読み取ることができる。短期間の間で集権化を図った習氏だが、決して盤石でないことがうかがえる。習氏が綱渡りのように胡耀邦生誕100周年を記念した姿が浮かんでくる。
 関連行事も中央が統一して計画し、関連報道も新華社に限定された。習仲勲生誕100周年の際は、習近平氏を含めた家族の秘話や秘蔵写真が多数紹介され、各メディアも一定の枠内ではあるが競って独自報道を行った。胡耀邦生誕100周年は、格としては高かったが、厳しく管理され単色に塗りつぶされた記念行事だった。
 
(4)「歴史は黙っていない」
 
 「胡耀邦は『党の人』として党に乗っ取られた」。北京でこう分析する民主派知識人がいた。2015年4月15日の没後26年に際し、三男の胡徳華氏が「鄧小平は党を救い、私の父親は人を救った」と述べたとの話がインターネットで広まった。党を救った指導者が生き延び、人を救った指導者が失脚したとすれば、党と人民の利益が一致していないことを意味する。習近平政権の綱紀粛正はこの危機感に支えられている。
 胡耀邦は生前、「国家の利益が人民の利益とかけ離れてしまえば、それは抽象的なもので意味がない。考えてみればいい。人民から乖離して、どんな国家があるというのか?」(『胡耀邦思想年譜』)と述べた。胡耀邦はあくまで人民の側に立つ姿勢を貫いた。それが学生の民主化運動に対する融和的な姿勢を生み、失脚の原因を作った。
 一方、習氏は「国家がよく、民族がよくなってこそ、みんながよくなれる」と国家の利益を人民に優先させる。孔子をはじめ中華民族の偉業をすべて「中国の夢」のストーリーに組み入れ、国家=党の枠内に集約している。その結果、胡耀邦も「人民の英雄」ではなく「党の模範」として位置づけられ、その業績は党史の鋳型に押し込められ、党の正統性を強化することに利用される。「乗っ取られた」とはこのことを指す。
 『炎黄春秋』九月号の巻頭寄稿は「大悲無涙祭耀邦」だ。悲しいが涙が出ない。涙が出ないほど悲しい。痛恨の思いで書いた胡耀邦への追悼文である。筆者は天安門事件で失脚した胡啓立元政治局常務委員(宋慶齢基金主席)の元秘書、張宏遵・元『工人日報』編集長。同寄稿によると、胡耀邦が無為に過ごしていた一九八八年秋、張氏は胡啓立氏に命じられ、党の公式文書に関する修正意見を聞くため胡耀邦の自宅を訪ねた。彼にとっては最初で最後の自宅訪問だった。胡耀邦の憔悴した様子を目の当たりにした張氏はこう語り掛ける。
 「歴史は人民が書くものだ。正義は自ずと人の心の中にある。気が晴れますように。歴史は最後にはあなたに公正な評価を下してくれる!」
 胡耀邦は、「いい言葉だ。ありがとう」と答えた。そして二人は最後の会話を交わす。
 
 「ただ私は取るに足らない人間だ。評価されなくとも関係ない」
 「これはあなただけの問題じゃない。歴史は黙っていない」
 
 「人民か党か」の議論は答えの出ない永遠のテーマだ。「党に乗っ取られた」胡耀邦を再び人民の手に取り戻さない限り、解決の糸口を見つけることはできない。
 
(5)名前の彫られていない石碑
 
 故居の奥には噴水のある池を望む丘に完成したばかりの建物群が並んでいた。「胡耀邦芸術館」などの看板が掲げられていたが、内装工事の途中でオープンには至っていなかった。故居入り口の「記念広場」もガランとして何もない。「来年には胡耀邦の銅像が建てられる」と報道があった。生誕100周年を迎え、にわかに拡張工事が行われていた。
 本人の名誉回復と同時に、規模も拡張していくというわけだ。だが毛沢東故居のように過剰な商業化が進むことは故人も親族も望んでいないだろう。もっとも知名度の低い胡耀邦ではそこまでの集客力はない。ただ忘れられていくのも残念だ。山里の風景を守りながら、若者が集う宿泊施設や学習施設に生まれ変わるのが、共青団を率いた胡耀邦にふさわしいような気がする。
 胡耀邦が平の政治局員としてなすこともなく無為に晩年の2年を過ごした後、埋葬されたのは江西省九江市の共青城だった。
 青少年を指導する共産主義青年団のリーダーだった1955年、新国家建設の理想に燃える若者たちの動きに呼応し、上海の青年団98人が江西省九江市の鄱陽湖畔を開墾した。胡耀邦は開墾当時と、同地が大きな発展を遂げた総書記時代の計2回、当地を訪問し、自ら「共青城」と名付けた思い入れのある場所である。革命、戦争、政治闘争に明け暮れた生涯で、無垢な若者たちに囲まれ、おそらく最も自分がこだわりなく、自由に過ごせたよき時代だった。
 彼は生前、「死んでも(党幹部が埋葬される)八宝山には行きたくない」と遺言を残していた。党のトップに上り詰めた者が吐いた言葉は重い。
鄧小平揮毫の題字
 「実践は真理を検証する唯一の基準である」。故居の駐車場で、ひときわ大きな石に書かれていた。文化大革命後、中央党校校長だった胡耀邦が封建思想に根を持つ個人崇拝を否定し、思想の解放を求める論争を提起し際のスローガンだ。毛沢東の後継者を自任した華国鋒党主席が、「毛主席が下した決定であれば、我々はすべて断固支持し、毛主席の指示であれば、われわれはすべて終始一貫して順守しなければならない」(二つのすべて)との方針を掲げたことに対抗する理論的根拠を提供し、鄧小平の復権を助けた。鄧小平は、真理の基準論争で軍や世論を味方につけ、華国鋒から政権を奪還することに成功した。
 法を無視した階級闘争の中にあっても、極左思想が吹き荒れ冤罪が量産される中にあっても、事実を重んじ、極端な言説に抗し続けたその姿勢は、このスローガンに結実していると言ってよい。
 石に彫られた文字は鄧小平の筆に似ている。だが、この石碑だけ名前がない。完全な復権にはまだ越えなければならないハードルがあるのだろう。朱熹筆を写し取った「廉」の巨石、そして胡耀邦の業績を伝えるのに最もふさわしい言葉でありながら筆名のない石碑。好対照な情景が最も印象深く心に刻まれた故居の旅であった。
 
(6)記念講演会での”光彩”スピーチ
 
 及川淳子さん
 最後に、11月29日、東京・水道橋の日本大学経済学部で行われた胡耀邦生誕100周年記念講演会について紹介をする。概要はすでに公表した文章を文末に添えるので、それ以外の舞台裏について触れる。
 そもそもは10月12日、ある会合に日中の若者で作る「日中の未来を考える会」(本部・東京)のメンバーを呼んだ際、彼らが胡耀邦を全く知らないことに衝撃を受けたのが発端だった。私が初めて北京に留学したのが1986年で、まさに胡耀邦総書記時代だった。日中蜜月の一時期を生んだ胡耀邦の存在を、日本人が忘れるようなことがあってはならない。その場で記念講演会の開催を決め、メーンスピーカーとしてふさわしい人物として及川淳子さんの顔を思い浮かべた。だが予算はゼロ。会場選びに難渋したが、中央大学経済学部、唐成教授から紹介を受けた日大経済学部、曽根康雄教授のご厚意により、借りることができた。
 日本人の若者を対象として想定したので、できるだけ日本との縁に焦点を当てて興味を引き付けようと考え、冒頭は映像を使って胡耀邦を紹介した。
 彼と日本との縁は深い。
 胡耀邦が肝臓病を患った時、戦後、中国に留め置かれた日本人医師の稗田憲太郎に治してもらったことは、今でも遺族らが語り継いでいる。大の読書家で文化大革命期、北京で幽閉状態に置かれている間、『田中角栄伝』『日本列島改造論』にも目を通し、「日本は戦後の困難を抱えながら、科学、教育に力を注ぎ、急速な経済発展を成し遂げ、工業大国になった。日本の経験は我々が見本として学ぶべきだ」が持論だった(『胡耀邦伝』)。
 総書記時代は対日協調路線を強力に推進し、最も多くの日本人と会った中国の総書記と言ってよい。作家・山崎豊子の代表作の一つ『大地の子』が胡耀邦の強いバックアップによって生まれたこともよく知られている。胡耀邦は生前、取材協力を求めに訪れた彼女と面会した際、こう伝えた。
 「中国の都合のいいことばかり書いて貰っては困る、美しく書いて貰いたいとは思わない、中国の立ち遅れ、欠点、暗い影も、制限なしで、どんどん書いて結構、嘘を書かれることは困る」(「『大地の子』と私」)
 これだけ深い懐を開いた中国の指導者は後にも先にも胡耀邦だけである。同作品は月刊『文藝春秋』に連載されたが、胡耀邦故居の収蔵品リストには山崎豊子が贈呈した連載中の同誌1989年7月号がある。
 記念講演会では山崎豊子三回忌を記念して放映されたNHKの特集番組から、胡耀邦と会食をした際のやり取りを録音したテープなど一部を紹介した。当初、講演を予定しながら、突然の事情で参加できなかった『大地の子』連載当時の岡崎満義・元『文藝春秋』編集長からは文書でメッセージを頂いた。矢吹晋・横浜市立大名誉教授に講評をお願いしたほか、新發田豊・ 日中共同桜友誼林保存会会長からは30年に近くに及ぶ中国での桜植樹活動を紹介して頂いた。胡耀邦の記念行事を通じ日中交流の場にしたいとの気持ちからだった。
 
姜維さん
 さらにうれしかったこと、感動したことがある。日本で活動を続ける企業家の姜維さんが「(胡耀邦の長男)胡徳平から必ず参加するように」と言われと、出席してくださった上、講評まで頂いた。冒頭写真が姜さんは11月20日、北京・人民大会堂で習近平総書記が記念演説をした胡耀邦生誕100周年記念座談会や23日、湖南省の故居で行われた記念イベントにも参加し、強行軍で駆けつけたとのことだった。
 姜さんは講評で、「日中の蜜月時代は必ず来る!胡耀邦のような指導者は必ず現れる!」と力説し、我々の記念行事に対し「中国人として鞠(ジュ)躬(ゴン)してお礼を申し上げたい」と深々と頭を下げられた。日本語では「鞠躬如(きっきゅうじょ)」といって、畏まって頭を下げる表現があるが、お辞儀の習慣が一般的ではない中国人にとって鞠(ジュ)躬(ゴン)は最大級の感謝を意味する。姜さんが言葉に詰まり、目から涙があふれそうになるのを見て、会場の中には涙を誘われる人もいた。姜さんの胡耀邦を慕う深い思いがひしひしと感じられる一幕だった。
 姜さんは先日、CCTVの胡耀邦特集番組にも登場している。1983年8月30日、総書記だった胡耀邦が中南海の懐仁堂で、万里、習仲勲らの指導者とともに個人経営者ら300人と面会した際の演説が報道された。姜さんは同番組のインタビューで、胡耀邦演説の記事を読んで「みんなで泣いた」と答えている。
 演説は就業問題をテーマにしたもので、タイトルは「怎样划分光彩和不光彩(光栄であることと光栄でないことの違いは何か)」。胡耀邦は「世論の中で基準が不明確なことがある。あちこちで耳にすることがある。全民所有は光栄で、集団所有はあまり光栄ではなく、個人経営は全く光栄ではなく、結婚相手も見つからない、と。光栄であることと光栄でないこと、いったいどのような基準で分かれるのか。国家と人民の労働に有益なものはみな光栄で気概に満ちた事業だ。国家のため人民のために貢献する労働者はみな光栄だ!」と述べ、個人の自由な経済活動にお墨付きを与えた。これまで資本主義の毒として批判されてきた経済行為を、党のトップが「光栄だ!」と称賛したのだ。
 姜さんは1980年、人民解放軍を除隊し、郷里の大連に戻ったが、仕事が見つからなかった。そこでやむなく、手に覚えのあった写真技術を使い、大連動物園の入り口で個人経営の写真屋を始めた。商売は繁盛したが、「金儲け」に対する社会の目は冷たかった。馬鹿にされ、誹謗中傷を受け、営業許可書も当局に取り上げられてしまった。飛行機のチケットを買おうとして「個人経営者には売らない」と拒まれることもあった。屈辱的な扱いを受けている時、目にしたのが胡耀邦の「光彩演説」だったのだ。
 姜さんは胡耀邦の言葉に励まされて個人商店「姜維影写社」経営を続け、1984年、香港企業との合弁で、中国最初の私営企業となる「光彩実業有限公司」を設立した。「光彩」はもちろん胡耀邦の「光彩演説」から取った。今は開発投資、運輸、製薬、酒造などを行う企業集団に発展した。
 イデオロギーにとらわれない、合理的、実際的な胡耀邦の理念を如実に物語る一面を、日本で開かれた生誕100周年記念講演会の場で姜さんが自ら示してくれた。姜さんが居合わせことは、これ以上ふさわしいものがないほどの奇縁であった。決して規模は大きくなかったが、歴史的なイベントだったのではないかと思う。「昔はよかった」と懐かしむだけでは意味がない。今に、将来に価値あることとして語り継ぐべきことを語り継がなければならない。
 
 以下、私が主宰する「NPO日中独創メディア」発のニュースとして公表した胡耀邦生誕100周年記念講演会の紹介を転載する。
 
 東京都千代田区の日本大学経済学部で11月29日、日中の未来を考える会(保思兆代表)と日中独創メディア(加藤隆則代表)の共催する「胡耀邦生誕100周年記念講演会」が開かれ、学生や中国研究者ら約100人が参加した。中国では胡耀邦の誕生日にあたる20日、北京の人民大会堂で公式の胡耀邦生誕100周年記念座談会が開かれ習近平総書記がスピーチをしたが、日本での関連行事は初めて。同会には胡耀邦時代、初の私営企業家となった姜維・中国光彩事業日本促進会会長も参加し、胡耀邦が経済の改革開放に果たした功績を強調する一方、「胡耀邦が築いた日中蜜月時代は必ずやってくる!」と力強く語った。
 講演は、中国の現代知識人研究で知られる日大非常勤講師の及川淳子さんが「胡耀邦生誕100周年の今日的意義」、独立記者の加藤隆則さんが「胡耀邦と習近平の父・習仲勲」のテーマで行った。多くの若者にはなじみの薄くなった胡耀邦の足跡をたどりながら、現代中国の正しい認識や新たな日中関係の構築に向けた問題提起を行う場となった。中国と縁の深いベテランにも参加を呼びかけており、若者に知識と経験を引き継ぐ橋渡しの意味合いも持たせた。
 及川さんは、中国共産党の胡耀邦に対する公式評価が、没後から「忠実な共産主義戦士」などとするものから全く変わっていないものの、様々な形で再評価の試みが行われている一方、それも「党の輝かしい歴史」と矛盾しない限定的な内容にとどまっていることを指摘した。胡耀邦失脚の経緯、趙紫陽、天安門事件についての言及はなく、「胡耀邦の再評価が政治体制改革に繋がるわけではない」点を強調した。そのうえで、今回の記念行事が「胡耀邦の清廉なイメージを取り込み、反腐敗運動推進の求心力に援用している」ことに力点を置き、党の基準に基づく「語ってもよい胡耀邦」と「語ってはならない胡耀邦」が分離されたとの見方を示した。
 また日中関係については、胡耀邦が1983年11月29日、来日中に長崎平和祈念公園訪問して献花し、1985年には中日友好協会を通じて同公園に「乙女の像を」寄贈したことや、失脚する2か月前の1986年11月8日、北京の中日青年交流センター定礎式で、「愛国主義は、外国の人々と親しく交際し、友好的に協力する、こうした長い見通しを持った国際主義の精神と結び付けなければならない」と演説したことを紹介。胡耀邦の平和主義と国際主義を、今日でも学ぶべき精神的遺産だと訴えた。
 一方、加藤さんはまず、20日、湖南省瀏陽の胡耀邦故居を視察した報告を行い、習近平氏の反腐敗運動に呼応し、故居が「廉政教育基地」として再整備されている実態を伝えた。すでに故居敷地内には、習氏を含む歴代指導者が反腐敗の決意を述べた言葉を刻んだ巨石が並べられているという。「実践は真理を検証する唯一の基準」と彫られた、鄧小平筆と思われる石碑に名前がないことから、依然、胡耀邦の完全復権には至っていないことを指摘した。
 また、胡耀邦と習仲勲がともに農民の子として生まれ育ち、理不尽な政治的迫害を受ける中で自らは政敵を打ち倒す政治闘争から距離を置き、むしろ、冤罪者を救う事業に力を注いだこと。異なる意見を尊重し、民主的な気風を持っていたこと。これらを二人の共通点として指摘し、「中国共産党が持っている良き伝統」とした。だが、現政権にそれが引き継がれているかどうかという参加者からの質問については、「習近平は父親を非常に尊敬しており、父親が受けた迫害や個人崇拝の弊害は熟知しているはずだ」としながらも、「現在行われている言論統制などはむしろ後退している印象を持つ」と否定的な見方を示した。そのうえで、「現在は集権化を進めている過程であり、これからその権力をどのように使おうとしているのか。二期目の政策を観察する必要がある」と述べた。
 日中の未来を考える会と日中独創メディアでは今回の会を有意義だったと総括し、今後も協力して同種イベントを開いていく方針だ。
(完) 

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