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XZの  日中メディア批評  第12号
          
.2010.02.20発行

日本の検察と中国党規律委の類似性
―メディアと一体化の超法規的機関―

 日中両国の政治体制は、日本が民主主義、中国が非民主的な一党独裁だとされている。ところが、超法規的な捜査機関が存在し、それが主要メディアと事実上一体化しているという点で両国は酷似している。その機関とは日本の検察と中国の共産党規律検査委員会である。

◆「双規」の恐怖
 「共産党の指導」が絶対視される社会主義体制の中国では、各界の有力者はほとんどが共産党員だ。このため、同党幹部はもちろん、政府高官や国有企業幹部も、不正の疑いがあれば、まず党規律委が調査する。「容疑者」は「双規」(shuanggui)の対象となる。「双規」は「二つの規定」を意味する。場所と時間を規定された上で、疑惑について説明を求められるわけだが、事実上は身柄拘束である。
 いったん「双規」の対象となれば、不正があろうがなかろうが、規律違反の処分を免れるのは難しい。党内で処分された者は、規律委の判断に沿って刑事責任も追及される。「推定無罪」ではなく、「推定有罪」なのである。
 「双規」対象者はメディアによって悪者とされ、公職を解任されて失脚する。1990年代半ば以来、陳希同・元北京市党委書記、陳良宇・元上海市党委書記(いずれも党中央政治局員)といった大物が中央規律検査委に汚職を摘発されて失脚した(大物の調査は党中央の規律委が直接担当する)。この1、2年でも、広東省や公安省(警察庁に相当)で多くの高官が摘発されている。
 「反腐敗闘争」の必要性は誰もが認めるのだが、規律委の調査手法があまりに横暴なことから、昨年3月の人民政治協商会議(政協)では、一部の委員が中央規律委常務委員(監察次官兼務)に「政府高官を連行しておいて、関係者に何も説明しないまま長期間拘束するのはおかしい」などと不満を突きつけて話題になった。規律委が他者に厳しく説明を求めながら、自分は秘密保持の必要性を理由に説明責任を積極的に果たそうとしないところは、日本の検察とよく似ている。
 一部の政協委員が言及した高官は鉄道省の何洪達・元政治部主任(次官級)。「双規」で1年以上も調べられた後、起訴され、同年11月に収賄と巨額財産出所不明の罪で懲役14年の判決を受けた。香港メディアなどでは冤罪説もあるが、本土のメディアでは「腐敗分子」の典型として断罪されている。主要メディアは党の宣伝機関か、そうでなくても党の指導下にあるので、論調はすべて同じである。

◆日本でも「推定有罪」
 日本の検察は規律委と異なり、国家機関(行政機関)だが、規律委と同様に密室の取り調べで自供を引き出す手法が重視されている上、司法機関である裁判所によるチェックが甘く、メディアの多くが迎合的なため、その実質的権力は規律委並みに大きい。
 検察が暴走し、裁判所とメディアがこれを後押しすることで、現在再審公判が行われている足利事件(1990年の女児殺害)のような冤罪が生まれる。また、福島県のダム工事をめぐり佐藤栄佐久・前知事が収賄罪に問われた控訴審の判決(昨年10月)は、佐藤の弟の会社が建設会社への土地売却で得た利益がわいろであるという検察側主張の核心を否定しながら、「土地を現金化してもらったことがわいろに当たる」という奇怪な理屈で有罪を言い渡しており、裁判所がいかに検察に気を遣っているかが分かる。
 さらに、メディア各社が「検察の捜査対象になったら悪人」「起訴されれば、クロも同然」といった雰囲気をつくる報道を競うことが検察に対する強力な支援となっている。小沢一郎民主党幹事長の関係者に対する捜査の新聞報道も、「司法を軽んじている」と小沢側の反応を非難したり、同党に「自浄作用」を求めたりしているが、検察は行政機関であって司法機関ではないし、シロクロがはっきりしない段階に「自浄」を要求するのは「推定有罪」の主張である。また、刑事責任は有か無しかなく、「灰色」はない。
 例えば、1月27日付の読売新聞によると、小沢に批判的な村越祐民衆院議員(民主党)は「政権与党の幹事長自身が(検察に)事情聴取を受けたのだから、本来なら議員辞職を求められるような話で、幹事長続投など論外だ」と述べた。法的責任はさておいて、検察の捜査対象になれば、その時点で「政治的・道義的責任」があるので、やめろという主張である。
 疑われた本人が不正を認めた場合はそうだろう。しかし、潔白を主張する場合でも、検察から疑いをかけられただけで、すぐに政治家を辞めねばならないという理屈は、検事を「水戸黄門」や「大岡越前」のような絶対的な正義の味方と見なすもので日本の現行制度とは相容れない。この理屈に従えば、検察は事情聴取により、どのような政治家でも失脚に追い込めることになってしまう。
 産経新聞に至っては、2月5日の社説で小沢が不起訴になったことについて「検察当局が小沢氏の違法行為を立証できず、『秘書の犯罪』を問うにとどまったのは極めて残念である」「権力中枢の人物の違法行為は見逃された格好になった」として、検察の捜査対象者=犯罪者という論理を堂々と展開している。同紙の主張は中国共産党の反腐敗闘争を全面的に称賛する人民日報と本質的に何ら変わりがない。

◆「反腐敗」は権力闘争
 規律委のこれまでの不正調査で特徴的なのは、対象となった大物がいずれも党内の反主流派であることだ。95年に失脚した陳希同は江沢民前国家主席(当時は現職)のライバルで、06年に打倒された陳良宇は胡錦濤国家主席や温家宝首相と対立していた。陳良宇も、08年から相次いで腐敗を摘発された広東省や公安省の高官たちも、胡錦濤体制下では反主流の江沢民派とみられている。警察出身の閣僚級幹部まで摘発した広東バッシングを指揮したのは、胡が率いる共産主義青年団(共青団)派の黄樹賢中央規律委副書記だといわれる。反腐敗闘争は権力闘争なのである。
 ただ、中国の政治制度では「共産党の指導」が絶対視されているので、同党の実権を握った勢力が規律委などを使って政敵を排除する手法は制度の想定内のことだ。この制度で重要なのは、党中央の権力者が軍隊、規律委、検察、警察など物理的強制力を持つ機関をしっかりと掌握することであり、もともと三権分立のような権力の相互チェックシステムは存在していない。
 これに対し、日本の検察は法律で規定されている法相の指揮権が事実上封じられているため、制度的に特定の政治勢力から指図されることはなく、捜査は自律的に不偏不党の立場で行うことになっている。具体的には、恣意的な捜査で政治の大方向に影響を与えないということだ。
 もちろん、政治家を起訴して政局に影響がないはずはないが、少なくとも国民が政治の方向を決める選挙への影響は最小限にする配慮が求められる。検察のような物理的強制力を持つ機関が特定の意図から政治に介入する、もしくは介入していると疑われる行動は軍隊のクーデターと同様、民主主義体制にとって致命的な打撃になるからである。その重大性は政治資金問題の比ではない。

◆検察は不偏不党か
 ところが、東京地検特捜部は昨年3月、政治資金規正法違反の疑いで小沢の秘書を逮捕し、さらに今年1月、元秘書の衆院議員らを逮捕した。昨年3月は半年以内に総選挙が行われるが、自民党主導の麻生内閣は支持率が低迷しているという状況だった。今年も夏に参院選が予定され、その結果は昨秋に発足した民主党主導政権が安定するかどうかに大きく影響するとみられている。
 このような時期に「法律の拡大解釈ではないか」「普通は帳簿の修正を届ければ済むのではないか」などと指摘される資金管理上の問題を理由に、特定の政党指導者周辺を執拗に捜査する検察の行動には、不偏不党の立場に徹して政治への介入を極力避けるという配慮があると言えるだろうか。
 しかも、検察がこれまでに田中角栄元首相(故人)ら旧田中派の大物を起訴していることから、同派出身の小沢と検察が敵対的な関係にあったことはよく知られた話だ。これでは「検察は小沢が率いる民主党の政権奪取を強制捜査で阻止しようとした」「民主党主導政権の基盤が固まる前に小沢打倒を狙っている」「参院選で民主党を敗北させ、自民党の早期政権復帰を後押ししようとしている」と疑われても仕方があるまい。「李下に冠を正さず」という言葉があるが、検事たちは李下で両手を挙げて大騒ぎし、メディアの大半はこれに拍手喝采している。
 主要紙の中では、中日新聞だけがこの問題を意識しているようだ。同紙は2月5日の社説で「検察の公正中立は絶対的でなければならず、公正さを疑われることさえあってはならない。また、強大な国家権力の行使(の重大性)からも捜査に誤りがあってはならない立場だ」「検察捜査に恣意的、政治的意図や誤りがあってはならないのはもちろんで、そうした信頼性を前提にしてメディアの報道もまた成立してきた側面を否定できない。(小沢の秘書らを逮捕、起訴した)事件を通じて『メディアと検察は一体か』との批判がかつてないほど聞かれた。報道の公正さへの問い掛けの重みも、われわれは受け止めねばならない」と書いている。
 欲を言えば、検察の無謬性に対するメディアの絶大な信頼には何の根拠があるのか、報道の公正さへの問い掛けの重みを受け止めた結果、どうするつもりなのか、知りたいところだ。この大事な問題に言及しただけ他紙よりましだが、提起した以上、説明責任があるだろう。

◆右派・タカ派を擁護
 中国の政治体制は共産党の独裁なので、同党の規律委が無謬とされているのは当然であり、前述のように、規律委がどのような意図で動いているのかは意外と分かりやすい。これに対して、三権分立を掲げる日本の政治体制で、検察という一行政機関がなぜ、これほど神聖視されているのか、検察の捜査には政治的意図があるのかないのか、あるとすれば、どのような意図なのかは理解しにくい。
 政治家が捜査対象となった大型事件としては帝人事件(34年)、昭電疑獄(48年)、造船疑獄(54年)、ロッキード事件(76年)などがある。帝人事件では海軍リベラル派の斎藤内閣、昭電疑獄では社会党を含む芦田内閣が倒れた。造船疑獄は吉田内閣の終焉につながり、反吉田の鳩山一郎や岸信介を台頭させた。ロッキード事件は親中派の田中が主要ターゲットとなった。
 こうして見ると、政界に対する大掛かりな捜査は常に(相対的な意味で)右派もしくはタカ派を利する形になっている。今回の小沢周辺に対する捜査も同様だ。検察内部には、戦前から今も続く特定の国家観があり、伝統的に固定した「期待される政治家像」や「好ましくない政治家像」が存在するのではないかという印象を与える。なお、前福島県知事の佐藤も原発問題などで政府(自民党主導政権)と対立していた。
 前記の事件のうち、帝人事件の被告は全員無罪。昭電疑獄は大半、造船疑獄でも一部の被告が無罪となった。造船疑獄で最重要捜査対象とされた佐藤栄作自由党幹事長の逮捕は、法相が指揮権を発動して阻止し、この一件は検察の悲劇として語り伝えられた。しかし、当時の法務・検察幹部たちは近年、「佐藤幹事長に対する収賄容疑の捜査はもともと無理があった」という趣旨の証言をしている(元共同通信記者・渡邉文幸著「指揮権発動」などに詳しい)。
 一方、ロッキードの田中は裁判の進行中に亡くなったが、最高裁は他の被告に対する判決の中で、贈賄側の主犯とされた米ロッキード社幹部に異例の刑事免責を確約して行った嘱託尋問調書について、証拠としての効力を否定している(佐藤前知事のケースと同様、別の理由で有罪判決自体は維持)。
 検察は強大な権力を持っている割に、実際の捜査能力は新聞各紙が持ち上げるほど高くないことが分かる。しかし、捜査にどんなミスがあっても、それが原因で崩壊した政権や進路が大きく変わった政局を元に戻すことはできない。これは「汚職捜査はそれほど難しいのだ」などという技術論では済まされない深刻な政治問題だ。自由な選挙で示される民意ではなく、特定の行政機関が政治の決定権を握る事態は、日本の政治制度では想定されていないし、あってはならないのである。

◆「わが世の春」
 だが、このような問題意識がない多くの日本メディアの小沢や民主党に対する攻撃は、中国メディアの「腐敗分子」非難よりも厳しく、一部の新聞・雑誌は小沢を独裁者、民主党を独裁政党に例えている。暴力革命で政権を奪ったり、政権掌握後に軍隊や検察、警察を恣意的に使って反対派を弾圧したりする勢力と小沢らにいかなる共通性があるのだろうか。ここまで来ると、戦前・戦中の「非国民」「アカ」糾弾と変わりがない。
 メディアのほとんどが足利事件などに関する報道で冤罪被害者に同情する素振りをしておきながら、小沢関連の報道では検察の無謬性を信じて、魔女狩りを競っているのは天下の奇観と言うしかない。このような状況が続けば、報道にあおられて「国賊・小沢」を暴力で排除しようと考える勢力が台頭する可能性もある。
 旧陸海軍や旧内務省は敗戦で解体されたが、戦後の検察は解体どころか、逆に強大化した。旧軍が国を破滅された歴史的経緯から、自衛隊に政治介入の力はなく、検察より組織は大きい警察も法的権限の面では公訴権をほぼ独占する検察に及ばない。さらに、世論に大きな影響力を持つ主要メディアから支援されているのだから、検事にとっては「わが世の春」であろう。
 筆者の知る限り、中国メディアには「反腐敗闘争は純粋に悪をたたくもので、権力闘争とは全く関係ない」などと信じる天真爛漫な記者はいない。だが、絶対的な「共産党の指導」があり、これに背けば、職を失うだけでなく、投獄される恐れまであるから、やむを得ず賛意を示すのである。
 これに対し、政治的自由を享受している日本メディアの大半は検察の勧善懲悪を心から信じ、「共産党の指導」ならぬ「検察の指導」を自ら受け入れているようだ。自主的に自由を放棄、破壊しているという意味で、その病理は中国メディアよりも深いのではなかろうか。
  (ジャーナリストXZ)
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